崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

小人数講義

2009年09月30日 05時59分33秒 | エッセイ
 大学で小人数のクラスで講義をすることも多くなった。数人の教員が合同で担当する科目の講義は朝早い時間であった。私は教室に20分前に行って準備をした。デジタルカメラ、海外用の差し込み、スチル写真カメラ、テープレコーダー、ディスケット、ライト、機内持ち込み用の鞄、ノート、コードなどを展示し、コンピューターにプロジェックターをつなげ、スクリーンに画像を写し出しながら時間いっぱい楽しく講義をした。最後まで聞き手は一人で2年生であった。一人の時にはもっと誠意を持って講義すべきだという信条からである。韓国でデモが多い時代に学生たちが講義をサボることが多かったことを思い出す。百数十人対象の講義であるがデモに出て講義をさぼり、一人の学生だけが出席した。私は彼のためにより誠意を持って講義をした。
 いま日本では小人数講義は経営の面からは難しい事情かもしれないが教育としては決して悪くない。私は少子化を肯定的に政策をとることも必要であると思う。スウェーデンやノルウェイを訪ねて安定した社会を感じたことがある。しかし大学に学生が少ないことはさびしい。大学をユニバシティuniversityというはつまりユニバース(宇宙)であるという意味から考えてもよりオプーンして留学生などもどんどん受け入れる態勢をとるべきであろう。

相撲の国際化

2009年09月29日 05時47分22秒 | エッセイ
 朝鮮半島のシルム、沖縄本島のシマは勝負が早いが、モンゴル相撲は勝負は長い時もある。韓国のシルムはサッパ(まわしのようなもの)を持って姿勢を構えてから勝負をする。勝負は早い。私は90年のナダム祝祭の現場で見たが、勝負がつかず数時間もかかったことを覚えている。モンゴルでは角力、弓、乗馬などが国技のように行われる。その文化で鍛錬されたモンゴル人たちか今日本の大相撲で大活躍している。
 日本の大相撲は元々日本固有の神事として力士が神前にてその力を捧げるものである。総理大臣賞もある。その大相撲が国際化されていて現在では二人のモンゴル出身の横綱が活躍している。日本の国際化の最先端ともいえる。それは土俵上だけのものになっては意味が低い。芸能界や国会なども国際化していくべきであろう。

敬老礼拝

2009年09月28日 00時01分48秒 | エッセイ
教会で敬老礼拝があり、私の名前は呼ばれなかった。まだ若い方である。特別賛美歌を一緒に歌った。そこに「老いることは感謝である」という歌詞があり、私の目に止まった。その意味を吟味した。歳をとって還暦や定年退職などは遺憾なことであるはずなのに「おめでとう」いい、感謝という言葉さえあるからである。聖書には仕事をしない人は食べる資格がないように書いている。仕事を失うことは社会に対して申し訳ないと思っていた。韓国では名誉退職(定年前に自ら身を引くこと)というのが流行っている。世代交代だという。
 それより敬老礼拝での長生きに感謝すべきだというもっともな理由がある。高校の同窓生の名簿から25%の級友の死亡が確認でき、正確な消息不明の人も入れると3割は亡くなったのではないかということだった。私は生き残っていることに感謝すべきである。別に贅沢はしていないが生きていることに感謝である。平凡な生活ができるだけで幸せである。感謝である。牧師は高齢者たちが人生の先輩、信仰の先輩として感謝と祝福を祈祷した。日本人の平均寿命は長い。それも感謝すべきである。
 

殺人か義挙か

2009年09月27日 07時24分41秒 | エッセイ
 10月は伊藤博文が暗殺されて100周年になる。出身地の光市などで記念行事が行われていると報じられている。1905年11月の第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって大韓帝国が日本の保護国となり、伊藤博文が韓国初代統監に就任した。実質的に朝鮮が日本の植民地となったのである。伊藤は早期併合に反対していたが、韓国国民の恨みをかうことになり、韓国の安重根が1909年10月、中国のハルビン駅で伊藤を狙撃し、殺害した。安は旅順監獄で1910年2月14日に死刑となった。数年前私はハルビン駅で駅員に伊藤が殺された場所を教えてほしいと言ったが彼らは誰も知らなかったが、旅順監獄を訪ねて安が処刑された現場を撮った。
 今日本では死後100周年、韓国では安による暗殺を義挙100周年記念行事として準備している。同じ事件を日韓・韓日によって相反する意味の行事を行おうとする。両国において「殺した人と殺された人」、「殺人と被殺人」、「韓国民族的英雄と日本の偉大な指導者」の対立が浮き彫りにされている。日韓を生きる私にとって非常に複雑なことである。「殺す行為」が法律による死刑、戦争などでは絶対悪にはならない。数千人をテロで殺してもその民族側ではテロではない「聖戦」ともいわれることがある。この機会に日韓で歴史観や倫理を深く考えることができればと思っている。安は殺人者か、英雄か。伊藤は侵略者か、英雄か。

壁時計

2009年09月26日 06時33分09秒 | エッセイ
昨日の本欄についてある人から自分の息子の中学生が靴を直した話をメールで送ってきた。息子が針と糸と布を使って自分でうまく修理したので本人も家族もみな喜んだ。母親が服を直しているのを見て、裁縫の技術を習得していたようであるとのことである。息子さんは時計職人になりたいと言っているという。家族生活の原点と思う。
 最近、時計などの修理店はほぼなくなった。電子時計の一般化とか、修理技術が追い付かないことからであろうか。それよりは使い捨て文化の浪費風潮からであろう。私ごとであるが、我が小さい農村の故郷の家では戦後一番早く掛鐘時計が壁にかけられて自慢の飾りでもあった。私はその時計のねじを巻くのが仕事の一つであった。鉛筆で印をつけて壁にまっすぐにして振り子がきちんと振るようにした。私は神秘的に感じその中を下から覗いてみたが歯車の動きが若干見えるだけであった。家にだれもいない時、そっと分解してみた。もとにもどそうとしたが、ねじが外れてしまって壁に掛けたが動かなくなった。ただの飾りか、機能を失って死んだ物になってしまった。問題は両親から叱れることを待つ私の心である。大事なものを壊してしまったこと、元に戻せなかった悔しさ、そしてどう謝ろうか、自分としては中を見たかっただけなのに。しかし意外にも叱られなかった。それは幼い私にとって不思議な謎であった。しかし、今では両親の私への教育の熱心さを考えると十分理解できる。時計よりも子供の教育を大切にしたのである。

鞄修理

2009年09月25日 06時24分49秒 | エッセイ
 世界に持って歩いた愛用の鞄のとってが切れてしまった。飛行機内に携帯できるような鞄でありキャスターがついており、普段でもよく使うもので使い慣れた物なので簡単になおせると思い修理に出すつもりで持って行ったが、意外に40日間で8000円もかかるというのできっぱりやめた。私がペンチなど我が家にある道具で穴を空けてボルトを差し込み、新品のように直した。修理に出すと正式な部品を使い、立派なものになってくることは予想される。しかしその修理代であれば少し加えて新品を買いたいとなり、修理を諦めるのが普通であろう。だから捨てる物が多くなった。
 先日中国の道端で靴直しを数カ所を見た。そんなところでは簡単に直してくれる。日本では百貨店などにも修理してくれるところがあることはあるが、そのような修理文化は消えた。一昔前までは母が靴下や衣類などを修理するのが美徳のようにいわれた。私の母は一回だけはいた足袋を使い捨てるような女性は家を滅ぼすとも言った。古き修理文化は物を大事にしたものである。今浪費やゴミ処理が大きい環境問題になっているが、物を大事にする修理文化へ回復すべきではないだろうか。病気を治すのに(修理)に全力を挙げるほど物に愛着を持って直すのも楽しみの一つである。
 

アフリカからAir Mail

2009年09月24日 05時21分17秒 | エッセイ
8月末アフリカケープタウンからAir Mailを主治医など数人に送ったのがすでに3週間も過ぎてようやく到着したようである。香港経由か、ヨーロッパやアメリカ経由か、非常に遅く感じている。しかし時間がかかるのは当り前であろう。日本から遠いのは地図を開いてみてもわかる。インターネットなどでグロバリジェーションなどと言われており、世界が時間を共有する時代になってはいても物理的に遠いのは克服し難い。
 あちらで冬から春先へ突入する時期にいて、いま日本は秋へと少しずつ、涼しくなってきている(写真はわが家からの散歩道に咲いている野生花)。世界が時間などを共有しても季節を共有するのは難しい。日本は温帯というが沖縄は亜熱帯に属している。その延長線で赤道の熱帯雨林地域が広がっている。果物や花も年中楽しむことができるようになった。明闇の差と気温の差を共有していく。いろいろなものを共有しているが中でも最も共有して心痛いのは独裁国家、戦争をしている地域をも共有しているということである。近くても連絡し難い北朝鮮との関係が良くなるのはいつであろうか。

友愛

2009年09月23日 07時08分17秒 | エッセイ
 友愛とは教会で良く聞く言葉である。安倍前総理が「美しい日本」というキャッチフレーズを使ったが死語となった。友愛とは最初から造語にはなり難いと感じる。友愛とは鳩山由紀夫の祖父、鳩山一郎氏が終戦後戦前の統帥権問題の責任を問われて公職から追放され、不運な状態が続いた時リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著作『Totalitarian State against Man』から友愛思想に感銘して『自由と人生』(1952年)と題して自ら翻訳出版し、翌年、友愛青年同志会を結成した訳がある。由紀夫総理も友愛思想を政治活動の基本とし、友愛の名前がついた政治団体を数多く設立している。今度国連総会を機に中国の胡氏と東アジアの問題を友愛思想で解決しようと発言した。友フレンドシップは平等思想、愛は普遍的な人類愛にして政策を広げていくことを期待している。
"I want to create a horizontal society bound by human ties, not a vertically-connected society of vested interests."

シルバーウィーク

2009年09月22日 05時33分52秒 | エッセイ
秋の祝祭日が多いこの度の大型連休をシルバーウィークと称する。映画界が作った日本語の造語である。新造語が出るとその言葉が流行り、定着するか死語となる。イギリス人のエリート語や韓国のシャーマンの隠語のように造語を作って使い皆に知られて使われると新鮮さがないからまた新造語を作る現象に似ている。GWに対しSWと略す。マスコミは被差別シャーマンの隠語のような造語を作っている。
 この連休には9月21日の「敬老の日」などが入っている。その意味と実態は希釈されてしまいシルバーかゴールドの意味に変身する。もともと年中行事や祝日はそれぞれ意味があった。特に戦前は紀元節や天皇誕生日などを設定してイデオロギーを国民に吹き込む手段となっていた。私は3月26日李承晩大統領の誕生日に賛歌を歌ったことを覚えている。今でも韓国では8月15日の光復節と3.1運動の記念日は国家主導の宣伝のイメージがある。北朝鮮が4月15日に金日成誕生日を盛大に記念するのはその国が国家イデオロギーに染まっているといえる。中国が10月1日を建国60周年記念日を盛大に行事を計画しているのもそのようなものである。イデオロギーに染まるのは良いことでは決してないが日本のように祝日の意味を忘れ、ゴールドやシルバーになるのも無味乾燥な感がある。

家内へお土産

2009年09月21日 05時44分13秒 | エッセイ
旅行帰りのお土産は別になく、たまに人形や花瓶などを買ってくることがある。先日アフリカからはマサイ族の「櫛」を買ってきてトータルビュティコースの「櫛田」先生に記念に寄贈した。韓国からは海苔を買ってきて隣家などに上げることもある。この度、中国からは胡桃を沢山買ってきた。昨日韓国人の二家族で、子どもが4人、留学生が一人の9人でバイキング行った。一家族は初めてはわが家によった。みんなで胡桃を割って食べながらアフリカで撮った写真を見せた。小学生はアフリカは砂漠と貧困の国だと思っていたので意外に先進国だと言って驚いていた。
 この度私の旅行帰りには特別なお土産が入っていた。久しぶり家内への贅沢なものである。大連の免税店で目に入った黒い生地に花の模様が入ったシルクのブラウスを購入した。私にとっては高い買い物として買ってきた。家内は早速着てみた。サイズも色もぴったり。一緒に教会に出て教友たちからセンスがよいと褒められた。傍でその話を楽しむのは私であった。

満映調査を終えて

2009年09月20日 06時14分48秒 | エッセイ
 帰国前夜には中国の建国60周年記念日の10月1日、伝統の名節陰暦八月十五夜の10月3日を迎えるために活気にあふれる夜のスーパーマーケットを見た。人が溢れて商品が見難いほどで、経営者側に立って心配であった。お客が多いのは良いが管理はできないと思うがなぜ人を無制限に入れるのか心配さえあった。ホテルは大連駅の真ん前であり、戦前の電車が通るのが見えた。写真は電車が通る大連駅である。
 この度の調査では旧植民地遺跡を主に見て回ってきた。中国ではそれらの保護と教育の現場として利用していることが分かった。大和旅館などは重要文化財にもなっている。韓国が朝鮮総督府の庁舎を破壊したこととは非常に対照的であった。曽根崎氏が務めた時の思い出の電車に乗って、満映の前で降りて堂々と出勤するように満映に入る姿は逞しいほどであった。それを記録に撮ろうと竹村Pdと山本カメラマンが追っていた。気がついたら私は一人でカメラマンや製作、編集者になっていた。
 帰路にはみんな満足した効果的な調査旅行だったと感じた。竹村氏は自身を中国人風だと言ったが、そろそろ近くなる十五夜の月のようにいつも満月のような笑顔で全体を和気あいあいの雰囲気を作ってくれた。映像などを早く編集して10月3日九州映画研究会(?)で報告させていただくことにしたい。

大連で教え子たちに会い

2009年09月19日 05時16分12秒 | エッセイ
 昨日馬車でマクワ瓜を平均秤で計って売っているので買い懐かしき好物を皆で食べ切れず朝にまた食べた。長春の最後の日であり、市場と本屋などを巡った。飛行機時間に間に合うかと心配したが胡桃砕きベンチも問題なく搭乗したが飛行機の機械的なトラブルがあって1時間機内で待たされた。大連で待つ人がいるので気になった。
 大連に遅れて到着したが広島大学時代の教え子の現在大連大学助教授の呂秀一さんが迎えに来た。車二台を用意してくれたので港、日本人住居地、旧大和旅館などを写真をとりながら回ってラマダプラザ大連ホテルに着いた。孫蓮花さんが来てくれた。私は私の宝のような2人の弟子を一行に紹介するのが自慢であり、幸せである。
 大連は長春など他の都市と比べ、はるかに近代都市である。それは日本植民地の影響と関連がありそうなので、こっそり呂君に聞いてみたが否定された。彼は海岸都市であるから人が集まろうとしているのが活力になっているというのだ。とにかく現在は外国人に開放的な都市である。夜の街を歩いて韓国語の看板や表示を多く見たが日本のラーメンなどもある。国際化に得する都市であると感した。写真は大和旅館の真正面の旧横浜正金銀行。

「日本侵略中国東北史実展覧」

2009年09月18日 06時37分05秒 | エッセイ
 長春駅は建て替えられて旧の姿は見れず、旧駅舎の写真が掛けてあった。到る所に旧満州国の遺物遺跡を旧史跡として表示して展示している。駅舎の中には待合室はなく、駅前では外で待たなければならない。客や国民を大事にするような印象はない。駐車場はほぼ用意されておらず交通渋滞が多い。
 旧満州国の皇宮までに時間が大分かかった。私が2週間前までいたアフリカ・ケープタウンが如何に先進国であるかを痛感した。皇室の展示も日本の植民地時代を事実として「日本侵略中国東北史実展覧」をしている。「偽満州」とか「侵略」とかいう言葉が看板や案内書などに書いてはあるが、素晴らしい。今日が9月18日1931年のこの日に満州事変が起きたこともあって主に小学生たちの観覧があり、館内の案内者たちによって日本侵略などを教えられていた。私は特に移住に関する展示に関心があって撮影に夢中になり、一人ぽっちになって、いわば迷子になってしまい、半分以上を見れず出口を探しても分からず余計な時間も消耗した。一行には待たせてしまいご迷惑をかけ頭を下げた。
 昼は市内全景を撮るために展望台食堂を選んだが撮影禁止ということで放棄せざるえなかったので他の建物の屋上を選び食事をした。そこに満映研究者の胡氏を招き、これからの研究協力を要請したが彼は私の学者としての研究歴を疑い、否定的であった。彼は私を研究者として認め難い表情と態度で一貫していた。私はより良い研究をして、彼にも認められたいと思った。

「満映」を訪ねて

2009年09月17日 06時36分32秒 | エッセイ
 事前に東北映画製作所長宛に私は協力を求める願書を送ってokということで、約束通りに9時に満映の正門に着いたが。一般に公開はされておらず、資料などは新しい機関に移したので内部から誰かが迎えに来ないと入れないという。1時間ほど待っていたが退屈であり、失望感があり、責任もあり、ただ戸惑って立っていた。戦前の電車は私たちの前を頻繁に往来し、戦前の郵便ポストなどの写真を撮っていた。その時『満映―国策映画の諸相』の著者の胡昶氏(77歳)が現れた。曽根崎氏が彼から同著をもらったコピーを見せながら夫の名前を書き、互いに確認した。彼の案内で中国建国60周年記念看板の正門を抜け、旧本館に入った。
 二階に上がり甘粕理事長の事務室、彼が1945年8月20に飲毒自殺したところに入った。正門から真正面の二階にあたる所である。現在はコンピューターを4,5台置いて事務をしている。さらに進んで二階に曽根崎氏が当時事務をした事務室を探したが入ることはできなかった。その近くにはエレベーターが設置されている。主にフィルムなど機材を運搬したという。今では古い物になっており、その横にはフィルムケースを灰皿として置かれている。その横の階段を降りたら一台の車が通っていた。室内撮影所があり、看板を製作する人が2,3人いる。昔は中国の演劇などを撮影し、時々全職員が集まるところでもあり、甘粕氏が全職員に敗戦を告げたところでもあるという。四角形の建物の配置の中の庭に出た。建物に沿って松が聳えている。日本の飛行機や鉄砲などが展示されている。編集作業をしている女性の横にはフィルムケースが一杯積んである。これを見ようとしたがからっぽだという。その言葉を信用せずさらに話すと資料は新しくフィルムセンターを西安に作ったのでここにはないと言う。胡昶氏の話の続きをまた聞くことにして大スタジオの前を通って出た。康徳2年(1935)に建てた国務院(現吉林大学)なども調べた。同行者一行は疲れたが満足であったようである。写真の中央は胡氏、その右が曽根崎氏。

多難な最後は満足

2009年09月16日 04時46分33秒 | エッセイ
 満映の社員であった曽根崎明子氏が引き上げ後初めての中国再訪を兼ねての調査旅行である。一昨年も中国の長春へ行ってきたが、広島空港を利用するコースが違う。旅行の手配から案内まで広島大学時代の中国の留学生たちにお世話になることになった。広島の空港でのハンドキャリーの5キロ制限の厳しさを初め、前の二人がライターを所持していて時間がかかったが予定通りに離陸することができた。しかし離陸直前に機内食が配られた。昼食時間に合わせてくれたと思ったらすぐ離陸になり、テーブルを戻せというようであるが英語も日本語も通じない乗務員たちの仕事ぶりが異様な風景であった。乗務員の教育が足りないのか中国の旅行社のやり方なのかと思った。
 多く新築された大連市を見降ろしながら着陸した。国内線へ乗り換えまでは3時間以上待つが、両替しないと何も飲めないので両替に行った。チチハル大学日本語学科4年生たちの案内で行ったが窓口は昼休みで留守中という。1時間ほど待ってようやく担当者が現れたので訳を聞くとトイレに行っていたというので待っていた皆が唖然とした。中国のお金を持って私は大きく実った棗を買った。80個ほど入ったものは同行者で食べきれない。私が22個も食べた。私以外の人は初めて味わうようである。長春には許春蘭さんが迎えにきた。夜遅くキョウザをいっぱい食べた。多難な一日の最後は満足だった。