崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

天然痘

2013年02月28日 05時37分38秒 | エッセイ
中澤淳先生からご自分の最近の研究「山口大学医学部の源流~防長二州における医学教育~」を送っていただいた。萩と山口を中心とした地域の医学史に関する資料整理をした文である。日本は特に戦争期には地方においても医学教育に努力したことに驚かされた。一昨日ソウルで手術を受けた張竜傑氏によると韓国のソウルの医学は世界的な水準であるが、地方とは医療の格差、ソウルと地方の格差に驚いたと言っていた。
 私が生まれ育ったところはソウルに近い農村であったが子供の時には医療は全くなかった。私の上の兄弟9人が死亡していることとそれと関連があると思う。そこでは病気に対処する方法は民間医療と民間信仰が主であった。特に伝染病は疫神によるものと思い巫俗儀礼を行っていた。先日医師の倉光氏が朝鮮総督府の資料を紹介した。1910年頃の日本統治時代に医療対策としてコレラなどの予防医療に対して済州島住民たちが病気は神様の業であり、医学的な治療による祟りが恐いと反対運動を起こした記事を読み昔を思い出した。
 私の修士論文は天然痘疫神を祭る儀礼の分析「ソノリグッと巫歌:京畿道楊州地方を中心として農耕儀礼の一考察」として病気と文化に関するものであった。当時私は池錫永氏が日本から種痘法を学んで韓国に実施したことに注目して、金斗種氏の『朝鮮医学史』を読んだ。この巫俗儀礼は民間の医療現場を表すものであり、後に重要民俗文化財に指定するようにした(私が担当文化財専門委員)。現代医学は民間医療を完全に無用化したように発展しているが、まだ漢方や信仰(祈り)が生き続いている。それは生命が科学の対象でであっても、神秘的なものであるからであろう。
 

「門山釜」

2013年02月27日 04時17分45秒 | エッセイ
 日韓合作の本を作ろうとして、縦書きにするか横書きにするかの編集が問題となり、議論になった。昨日の議論は「縦横」の衝突のようなものであった。読者の志向を知っている日韓の出版社の社長たちの議論を聞きながら「縦横の調和」は難しいと感じた。韓国は縦書きから横書きへ完全と言えるほど変わった。日本でも縦書きから横書きへ代わりつつある。しかし日本はまだ縦書きが主である。本体の基本構造の差が表れた。文章だけではない。文字を書く順序もある。縦書きでも下から上へ、あるいは横書きも右から左へという様な書き方もありうる。それはどちらが効率的かということではなく、慣れによるものである。私は若い時縦書きの文を横に持って読んで速さを自分で実験してみたことがある。
 世界にはいろいろな文字があって、また右通行、左通行があり、その国によってどちらかに決められて、慣れることが重要である。それに反すると反則や違反となる。日本は縦書きに横書きを混合している編集も多い。日韓両国でも縦書き、横書きの変遷を辿っている。韓国では横書きで統一化されているが、書店などの書棚に立てた本題は縦書きになっているのが普通であり、最小限の縦書きが残っている。横文字という英文書では書棚で立てた時には読みにくいことがある。
 下関のグリーンモールの入り口に数年前に立てた「門山釜」という門が立っている。「釜山門」を右から横書きしたものであろうか、あるいは一文字ずつの縦書きであろうか。現在の建築になぜわけのわからない書き方をしたか。おそらく縦横の争論の上、至った書き方であろう。国際化は一律に統一するものではないと反発する人も多いが、方向、左右、縦横などは統一していくのが便利であろう。縦横の編集問題は未解決のままである。

朴槿恵氏大統領就任

2013年02月26日 05時35分29秒 | エッセイ
 昨日は旧暦の小正月、韓国大統領の就任式が行なわれた。その時間に大学にいてスマートフォンでも中継を見る方法を知らずラジオ周波を合わせても就任式の中継を聞くことができなかった。やっと見れたワンセグでの正午のニュースでもトップニュースは日本銀行総裁人事のことであった。FBのユーチューブで収録映像を見ることが出来た。詩の朗読を聞くような感がした。美しい言葉、英語からの外来語などが混ざった素人の演説のようであった。また選挙演説のように国民に大きい夢、豊富な約束をする、父・朴正煕元大統領に続く「第2の奇跡を起こす」と誓った。
 私は感動した。それは演説そのものにではなく、私が生きてきたクーデターから民主化の韓国史に生きてきた自分の人生を振り返って見る自分史へのセンチメントであった。最近日韓関係を悪くしてしまった李明博政権からの解放のようにも感じた。その上初の女性大統領「第2の漢江の奇跡を成し遂げます」など大きい約束には互いに信頼を積み重ねることができる(北朝鮮向け)と対内外に協力を求めることも訴えた。先日東洋経済日報のコラムに私が「第2のセマウル運動」を期待したものとオーバーラップして聞いた。


「出版社」の存在

2013年02月25日 04時38分21秒 | エッセイ
私より早く日本に移り住んでいる韓国人の牧師夫婦の話である。30年弱日本に住んでいながら今だにメールやホームページ管理などが難しく日本文でやり取りをすることが苦手であり、ほぼしないということを聞いた。その夫婦によれば日本語を作成しても文章を日本人に見てもらわなければ自信がなくて送れない、躊躇するということであり、日本語で文章を書くことが少ないと言いながら、私が日本語で毎日ブログなどを更新し、書くことに感心したというのである。それを聞いて、私は日本人の家内が文をチェックしてくれる恵まれた環境に改めて感謝の気持ちになった。
 新しく出版する『雀様が語る日本』の原稿が編集者によって、表現や内容が細かくチェックされて送られてきた。素晴らしい出版社と編集者に何と感謝すべきであろう。人によっては自分の文には一画も直されたくないと固執する人がいるらしい。それは口語を文字化、出版化の意味を否定することであろう。校正の過程は大きい意味があるからであろう。送られてきた一冊の原稿を編集者の指摘に従い、家内と一生懸命に対応してチェックをして、やっと終えた。これからは予定より大部遅れている他の原稿を書き続けようとする。本を書くということは簡単ではない。先行研究を踏まえ、このように人に多大な協力得て進むのである。最近はこのようなプロセスを経ず、自作、自費出版物などが溢れているが、やはり「出版社」の存在を改めて認識しなければならないと思うところである。明日日韓の出版社の二人の社長が私の研究室で新しい企画会議を予定している。

平井愛山 「話すのが一番良い学習法」

2013年02月24日 05時11分39秒 | エッセイ
昨日は千葉県立東金病院院長の平井愛山先生と一緒に一日過ごした。彼は医学関係の会議のために全国的に出張し、時々フェ‐ス・ブックにも報告を書かれておられる。それによると彼は昨日佐賀から下関へ、田中絹代メモリアルの理事長として来年度の映画祭や映画塾に関する会議のために来られた。私の研究室で学校側から櫛田学長、金田理事、記念館側から平井理事長、河波事務局長、権藤理事などが参加して、主に映画塾に関して東亜大学東アジア文化研究所との協力関係について話し合った。映画塾では映画観賞会ではなく、映画を持って語りあい論ずること、全国的にも特色のある塾にしたいということが議論された。会議は平井理事長のイントロとまとめによって終わった。彼は司会の名人だと感じた。
 二人で昼食をとりながら趣味なども話題になった。彼は無趣味、働くことが全てある。「話すのが一番良い学習法」だという。その話を聞いていると彼は人の話や否定的な話は一切しない。肯定的な話、それも積極的に展望し、推し進める迫力がある。中には私の持病、「自宅で死にたい」という私の希望に対して「在宅主治医」を決めておくと可能だという。いまのままでは自宅で自然死をしても家族が警察の調査を受けるようなことを避けるためである。そこから私の話は医者に対して治療や命の話ではなく、死ぬ話が中心になった。私は、韓国では病院が葬式まで経営することを話をした。彼は驚きながらすぐ見に行きたいと言った。しかしそれを否定するとも肯定するともいわない。私がヒポクラテスの言葉を引用しながら医師や病院の使命は命を生かすことであるとか、否定的に解釈しても彼は韓国の事情を批判しようともしない。さらに私は病院が死後まで関わること、つまり火葬場、葬儀場を兼ねても無理がないだろうかかと独り言のように言った。
 話はまた長く続く。彼はコンピューターを出して打っている。会議の議事録のまとめであろう。それでも対話は中断せず続いて、土曜日の研究室も日が暮れて、別れたのである。

都倉亮『諦めない生き方』、

2013年02月23日 04時50分07秒 | エッセイ
 昨日新老人会(山口県支部)の集いに出席した。会員ではあっても会員になる前に講演をした時以外に初めでの参加であった。都倉亮氏の『諦めない生き方』の出版記念講演会のお知らせを見て期待して参加したが講演会の映像記録によるものであって期待外れであった。また撮り方もあまり上手な映像ではなかった。しかし講演内容が重みのあるものと思った。また会員として終始関心を持って見て感想も述べた。
 多くの闘病記の一つであり、がん闘病で生死の境を何度もさまよい、自分自身と深く向き合う中で自らの使命に目覚めたという話であり感動させる話であった。大きい病気で苦しんでから回生した人とは思えないほど若々しく、元気であった。経歴華麗な経営者であったが病気で全てを失って絶望の中から聖書の言葉を改めて理解できるようになったという。特に聖句「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6:25-34)の意味が分かるようになったという。不安とは今のことではなく、わからない明日のことを持って今を不安にしている必要はないと解釈することが出来て、「癌に感謝します」とまで言われていた。講演の後半はイエスキリストと聖書の話であった。中には仏教の悟りについても触れている。
 病気で辛い思いをされている人は多すぎる。病床は人を無力にして死に至らせることも、人を悔い改め生まれ変わらせることもある。人それぞれ病気、苦難と戦っている。ただ戦い方が異なるだけである。

ジャスミン

2013年02月22日 05時52分41秒 | エッセイ
 蘭やハイビスカスなどの枝を切って捨てず水に入れておいたら根が付き、鉢を増やしたものなどで窓際の花を置くスペースがなくなった。そうなのにまた黄色のつぼみのジャスミンの鉢物を買ってきた。日光が好きなジャスミンを買ってしまって困っている。真冬でもサンパチエンス、黄色バラ、ブーゲンビリアの花を楽しんで、ジャスミンの花に期待するのは芳香である。ジャスミンといえばジャスミン茶や香水を思うほどである。香が強いと思って買ってきたが、このジャスミンは鑑賞用であり、香は強くないということを後から知った。これから芳香の春ランが咲くころになって大きくつぼんでいる。香ないジャスミンとは何か。私にとってはそれが正解であるかもしれない。
 以前にも書いたように今私の臭覚は鈍くなって残念ながら香を感じることが出来ない。私は祖先祭祀や宗教儀礼などで線香を燃やすことについて神は香で交流する、その象徴的なもののように解釈したことがあり、気になっている。老人は嫌な匂いに敏感であると思い、高齢でも、死んでも匂いは感ずると考え、生じた文化が線香、焼紙の儀礼ではないかと書いたことがある。しかし私が早くも臭覚が鈍くなったことで密かに困っている。何が原因なのか、何かが障害になっていると思われる。
 香は老人や死者との交流だけを指すものではない。美女(花)が香水で魅力を発散する。そこに蝶が飛んでくる。善徳女王は蝶がいない花の絵を見て香がないと言ったという説話がある。私も窓際の花をただ見ているだけである。

高齢者が老後のために貯蓄?

2013年02月21日 05時49分25秒 | エッセイ
 麻生氏は時々冗談っぽい失言やウィットのある話をして面白い。中には考えるべき話がある。18日参院予算委員会で「高齢者が老後のために貯蓄?」という言葉もそれである。「イタリア人は死ぬときに貯金がなくなってよかったという考え方だ」と述べながら失言や問題にならないように予め断って「わたし(72歳)がこう言うと、多くの人々は恐らくそれをイタリアに対する差別だと言いたがるだろう」とし、自分の考え方として話を続けた。笑いを誘うこと以上に重要な死生観を語っているのでここで考えてみたい。
 この話の前提は高齢者は「老後の不安」があるということであろう。つまり、老人が家族や社会福祉に頼る信頼性が薄いことを意味する。すなわち「お金」しか頼りにならないという生き方である。麻生氏はいう。「将来が不安だから(お金を)使わないのか」と述べた。また「死ぬときに貯金が残っていることがハッピーという考え方」の日本人の国民性にまで触れた。死の時点で貯金がゼロということは、老人に消費してほしいというような考え方であろう。歳をとると行動半径も小さくなり消費も少なくなるのが常である。それより根本的な問題として、私は人の生き方に提言したい。それは消費者としてではなく、特に老人も創造や生産に働くような社会を作る政策が必要であるということである。命ある限りお金を使い尽くしてゼロ化、「残さない」ことは危険な発想である。それは個人は個人で終わることを意味するからである。つまり社会や文化が永続する発想ではない。
 「残す」考え方は社会を永続させる基礎的な考え方である。私の話は消費が生産につながるとかの小さい話ではない。死ぬまで消極的な享楽的な消費者ではなく、創造的なことを楽しみながら働いて社会に少しでも残したい老人になってほしいと思っている。政治家はその政策を考えてほしい。

痛み

2013年02月20日 05時54分22秒 | エッセイ
 胆石で苦痛を訴える弟子がいる。彼はFBに痛みを訴えている。以前彼は心臓病で危篤な時があった。後に回復して健康生活する彼をみて常に感謝している。その彼が今日ソウルで手術を受ける。以前の病歴との関係が心配である。彼は50代、まだ回復力は旺盛であろうと信じている。無事を祈る。
 痛みは「苦」「痛」「辛」など不幸な感覚である。痛みは彼だけのもの、私だけのものであろうか。誰も代わってあげることのできない、本人が戦うべきものである。彼の周りの家族などは見守るのが辛いだろう。しかし誰しも痛みを体験していて共感し、それを恐れている。すべての生き物に共有するものである。病気の中には痛みの感じないものがある。病には痛みも知らず重症化して死に至るものもある。その予防のために定期健康診断などを設けている。
 痛みは生きている象徴である。痛みからの回復は幸福の基本であるという。痛みを知らず衰えていく老い。苦痛から死を迎え、完全解脱するのが仏教の教えである。

成熟した国会審議

2013年02月19日 04時22分19秒 | エッセイ
 昨日参議院予算審議の国会中継を視聴した。与党であって野党となった民衆党の小川敏夫、櫻井充、植松恵美子議員などの質問は政策を討議する内容であり、その中継をみて日本の国会が成熟したと感じた。民主党が与党であった時、自民党議員たちはヤジを飛ばして、うるさかった時が多かったのとは対照的であった。そのうるさいある議員は閣僚になって討議は静かになった。学会の議論のようになった。その分面白くないと言われるかもしれない。以前社民党・辻元清美衆院議員が「総理、総理、総理!逃げないで答えてください!」と発言して政治生命が問われた時のような面白さはなくなっていた。野獣的非難をする人が有名人となり、政権を握る政治的構造は良くない。今度だけではなく国会議論が静かに政策論争になり、国民はそれを静かに見守って政権を任せる政治先進国になることを期待する。新しく出す私のエッセイ集には以前の国会議論の様子を非難する文を多く含めたが修正すべきかと思うほどである。

ドイツ映画監督のレニ・リーフェシュタール

2013年02月17日 22時23分55秒 | エッセイ
 田中絹代塾でドイツの女性映画監督レニ・リーフェシュタールのドキュメンタリー映画2篇「原色の海」(2002年作)「アフリカへの思い」(2000年作)を鑑賞した。一つは彼女の最終期の100歳ころにカメラを持って海に潜って撮った美しさの極みの最近作であり、もう一つは1973年アフリカスーダンのヌバ族を再訪する自分が出演する映画である。102歳の命を燃やし尽くして映画製作に人生を捧げた彼女に惚れてしまった。女性監督が撮ったヌード族へ内戦の戦場の村を訪ねて怖さ知らず、カメラを持って前進する中、危険にさらされて撤退時にヘリコプター 機墜落で全員負傷を受けた。彼女はまた挑戦しようとしていた。女性監督が撮った男性のヌード、海の魚の美しさの素晴らしさ、それをはるかに超越した命の捧げ方のメッセージは大きい。
 ナチスの依頼を受けてニュルンベルク党大会の記録映画を撮った。1936年第11回ベルリン大会の記録映画「民族の祭典」を撮り、喝采を受けたが、ナチス・ドイツの崩壊とともに、ドキュメンタリーの最高峰と讃えられたこの作品はファシズムのプロパガンダ映画と貶められ、ナチ協力者としていわれなき中傷や誹謗を受けた。約4年間にわたり獄中で辛酸をなめつくした末、最終的に無罪の判決がいいわたされた。政治と芸術の狭間で数奇な運命をたどった女性である。これらの作品を鑑賞するとそれらの誹謗や中傷は如何に世俗的な無駄なことであるかが浮かんでくる感がした。つまり世俗的な誹謗が、自ら自身の行動を縛りつけ尊い命の能力を自放自棄するにすぎない。個人情報保護とか人の視線を気にする暇もなく高度な芸術や技を求めていくエネルギーを彼女の人生から学ぶべきである。
 昨日の観賞会は我が夫婦を含め観客は5人、寂しい、、もったいない、小さい地方都市、グルーバルは無理だろうか。早速鑑賞した2本を注文した。学生に見せたい。人生教育をしたい。
 

 黒田勝弘「韓国セマウル運動の源流は」2013.2.16

2013年02月17日 06時44分00秒 | エッセイ
 昨日東亜大学の国際交流学科で行ったコリアンフェーアで韓国語と韓国料理など韓国文化を紹介するイベントに意外に多くの人が集まって、私はお客様の接待で忙しい中、広島の友人からの電話で、産経新聞に私の研究が引用されたと聞いた。早速読んだ。以下全文を紹介する。
 その論文は国立歴史民俗博物館の『国立歴史民俗博物館研究報告』第70集(1997)「セマウル運動と農村振興運動」に掲載、韓国語では『史學論叢 : 竹堂 李熙授華甲紀念論文集』(죽당 이현희교수 화갑기념논총 간행위원회 東方圖書 , 1997)にそして私の単行本の日本語の『親日と反日の文化人類学』、韓国語『危険な韓日関係』に収録したものである。

 朴槿恵(パク・クネ)・次期大統領が選挙キャンペーンで使った呼びかけに「チャルサラボセ!」というのがあり、これが結構、中高年層に受けて当選の一助になった。「豊かになろう」という意味で、彼女の父・朴正煕(チョンヒ)大統領時代の1970年代に挙国的に進められた「セマウル(新しい村)運動」をはじめ、経済開発と近代化の国造りの合言葉になった。同じタイトルの歌もあり当時、国中でその歌が流れていた。
 とくに農村振興運動だった“セマウル運動の歌”ともいわれ、このかけ声で韓国の農村は見違えるほど明るく豊かになった。セマウル運動は、それまで疲弊していた農村を、農業外収入や農閑期作業などで所得を増やし、農民にヤル気を出させることで一変させた。生活環境改善事業で住宅、道路、上下水道も一気によくなった。この運動でコメの自給も実現した。のちに「都市セマウル」や「工場セマウル」にも拡大した。
 セマウル運動は「自助・自立・協同」の標語でスタートし後に「勤勉」も加わった。朴政権の最大功績といわれ、後年、東南アジアをはじめ各国でも関心を持たれ“輸出”された。中国でも関心が高く研究対象になった。
 ところが、このセマウル運動の源流は日本だったということはあまり知られていない。日本統治時代の30年代、朝鮮総督府が進めた農村振興運動が
それだった。そして朴正煕が大邱師範学校を卒業し、軍人を目指す前にしばらく先生をしていた慶尚北道の聞慶国民学校は、その農村振興運動の人材育成のための指定校だった。「朴正煕先生」はその人材教育にあたり地域の農場でも指導にあたった。
 農業振興運動の標語はセマウル運動のそれと全く同じで、当時の時代背景から「儀礼簡素化」や「忠孝愛国」もあった。朴正煕は後年、大統領になった際、これを思い出したというわけだ。「セマウル運動は日本がモデル」という話は日本の研究者からも聞いていたが最近、日本在住の文化人類学者、崔吉城(チェ・キルソン)・広島大名誉教授(下関の東亜大学・東アジア文化研究所所長)がその詳細を韓国情報紙「東洋経済日報」(2月8日号)に書いている。
 崔教授は筆者の知人なので“無断紹介”を許していただけると思うが、彼はこの“朴正煕伝説”(?)を当時の聞慶国民学校の教え子たちにインタビューして確認したという。
 崔教授は日本に渡る前、韓国の陸軍士官学校の教官をしたことがあり、そのときに耳にしたエピソードも紹介している。士官学校の食堂で働いていた
おばあさんは朴正煕が師団長時代によく通ったうどん屋の人で、朴正煕が後に士官学校に招いたのだという。
 父・朴正煕は日本風のうどんが好きだったとそのおばあさんは語っていたというが、娘の朴槿恵・次期大統領の好みはどうなんだろう、と気になる。
 彼女は先ごろ手にしていた大型のハンドバッグが海外ブランド物じゃないか、との疑惑説に発展した。国産の中小メーカーの物ということで落ち着いたが、父のように「日本風うどん」が好みなどと言おうものならたちまち大騒ぎだろう。

私の論文は韓国の学会評価されており、参考までに韓国語のものも記しておく。
 
 오유석(성공회대 연구교수)「국민동원체제와 농촌새마을운동」2) 박정희와 유사한 역사적 경험: ‘조선농촌진흥운동’
 
 박정희는 바로 이러한 조선농촌진흥운동이 시작된 1931년 구미보통학교를 졸업하고 대구 사범학교에 입학, 1937년 문경공립보통학교 교사로 3년간 근무했다. 이 문경공립보통학교는 경상북도 농도훈련소 가운데 ‘문경갱생농원’ 과 ‘신북갱생농원’의 경영주체의 지정학교였다. 즉 총독부는 농촌진흥운동을 지도하는데 있어 학교의 직원을 총동원하였는데 박정희가 부임한 문경보통학교가 농촌진흥운동의 지정학교였던 것이다. 박정희는 농촌진흥운동이 한창 전개되고 있을 때 그 학교에 부임했고 갱생원에서의 지도경험을 갖고 있었다.(최길성, 1115-6) 이러한 체험이 박정희가 농촌새마을운동을 구상하고 전개하는데 있어 일정정도 영향을 미쳤을 가능성이 있다. 더구나 당신 농촌진흥운동의 조직적 전개방식이 총독부관료기구를 이용하였고(총독부-도지사-도, 군, 동,리 체제로 명령하달) 주요 사업 중 하나가 각 부락에 ‘중견인물’육성이었다는 점을 미루어 볼 때 1970년대 초반 새마을운동이 시작될 당시 박정희뿐 아니라 행정관료 및 농촌부락단위에는 많은 농촌진흥운동의 유경험자들이 많았다고 할 수 있다. 이러한 점에서 새마을운동이 농촌진흥운동이라는 역사적 경험을 토대로 시작되고 전개되었을 가능성이 높다고 할 수 있다.


国際東アジア研究センターのシンポジウム

2013年02月16日 05時20分40秒 | エッセイ
​昨日リーガロイヤルホテル小倉で行われた釜山市の傘下釜山発展研究院と公益財団法人国際東アジア研究センターのが共同主催のシンポジウム「北九州・釜山都市圏の連携と経済成長」に出席した。元センター長の山下彰一先生の紹介でセンターの所長である谷村秀彦氏をはじめ講師の方々、研究員の方々と交わりができた。私の席のお隣りに座っている方に私は下関から来た者だと声をかけた。彼は私の名前と海辺に住んでいるサイという方ではないですかと言われびっくりした。彼は数年前に出した拙本『下関を生きる』を読んだという。山口新老人会長の林三雄氏も後ろに座っておられたが、挨拶しかできなかった。
 基調講演は釜山大学の名誉教授の林正徳氏、演題は『国境を越えた都市連携と地域発展』であり、先進国の諸都市において人口減少と高齢化現象に伴って大都市が縮小化しながら連携して発展すること、そして東アジアにおける釜山と北九州の連携、韓日海峡圏は国境を越えた経済圏あるいはメガシティ地域(MCR)を形成していくことが望ましいと主張した。続いての報告として金栗聖氏の物流センターを作り物流の連携方策を提示した。また日本側から今井健一氏の北九州市におけるグリーン成長の鍵を握る環境・エネルギー技術と関連産業の連携、そして他のアジア他都市への技術移転を提言した。
 下関にある超高級食堂の春帆樓の小倉分店での懇親会はメンバーだけのものだったが懇親会にもお招きいただいてふぐ料理で夕食会は私が通訳しなければと思った時英語がメイン語になり、その必要性はなかった。基調講演者の林氏と私が韓国語で楽しく話すのを横から聞いた山下先生は初対面の人なのに十年来の友人に見えると冗談のように一言。いつ実現できるのだろうか、夢のように多くの約束をして、夢を持った青年のように握手をし、手を振って別れて遅く帰宅した。

肩を叩いて囁くような交際

2013年02月15日 05時28分25秒 | エッセイ
 オリンピックの伝統的な種目のレスリングが除外されたというニュースが日本スポーツ界に衝撃を与えている。その理由は人気がなくなり、ただメダル争奪の種目のようであるからだという。そもそもオリンピックは世界的親善交流のために行われるものであり、実際大きく機能しているが、一方ではメダル争奪戦のように、過熱し、不和喧嘩などの場にもなったことも少なくない。選手がメダルをかじったり過剰な歓迎式典を行ったりスポーツナショナリズムの傾向が強くなっていく憂いがある。ゲームの「戦う」要因の検討も行っているようである。その点私は理事会の検討を評価したい。しかしその議論もオリンピック精神に沿って会議もオプーンにした方がよかったと思う。日本のレスリングが韓国のテコンドーに負けたと偏狭に思い、憤慨する日本人も多い。韓国が国を挙げてロビー活動をしたとか「韓国マネーが動いたのではないか」などと、噂されている。しかしその国際性を考えてみる必要がある。私は世界のいろいろな国でテコンドー道場があり、レスリングとは比較ならないほど世界的に普及していることを知っている。それも評価されたのではないだろうか。
レスリングが外された噂に日本の委員のロビー活動が足りなかったという話に大いに私は賛同する。この点に限らず日本人の国際性を問う重大な問題でもあると思うからである。ロビーといえば日本人は「不正な接待」だと思いがちであるが、主にロビーにて人との対話や交際することをさす。日本人はこのような場では礼儀や形式を守り堅くなっているか、参加せず部屋に戻って会議などの準備をするのが常である。付き合いの下手な日本人、日本文化を再考すべきである。文化とはただ伝統として持ち続けるだけのものではないだろう。家庭や学校教育で世界のいろいろな民族と付き合う方法も教えるべきである。小さい集まりでも自己表現を教えるところから始めた方がよい。文化も常に創造すべきである。握手、肩を叩いて囁くような交際方法も教えるべきである。

「歸去來兮辭」

2013年02月14日 04時28分28秒 | エッセイ
 新旧の長い「正月」の期間に往来した安否の挨拶の中にイギリスと韓国からの電話で印象的な言葉があった。韓国では定年退職の前に「名誉退職」というものがあって、早めに定年して新しいことを始める話がある。帰郷して田園生活か、趣味として農業をする人もいる。その農園に来てみないかという誘いもあった。農村から都会へ出た人が老後に帰郷するサイクルである。
 中国の田園詩人の陶淵明の「帰去来辞」を思い出す。彼は41歳のとき自分の理想とする生き方に合わず辞職をして帰郷した。「歸去來兮辭の」序文には運よく着いた官吏の職を捨てて、二度と職に仕えることを欲せず、残された生涯を田園で過ごそうと決心したと書いている。当時職を辞めての帰郷が後代にロマンチックに思われ詠われるようになった。
 韓国には帰郷者が多い。彼らは長い間の職を捨てて土に戻るという「歸去來人」であろう。彼らの人生観には世俗の汚れから逃れようとする思想がある。権力、名誉、知識などを空しいことと否定し、自然に戻るという意識がある。私の母は口癖のように農業はどんな人がしても良いので出世して「両班になれ」といった。私はまだ職業として教育に関する仕事をもっている。母の誤った教育観に影響されているのかもしれない。この春に家内も定年退職をすることになったことに韓国の甥からその労苦に感謝しながら彼は60過ぎ、今から新しい事業を始めるとメールを送ってきた。失敗の多かった彼はこれから成功するだろうと期待するところである。(写真は杭州西湖の西側すぐ近くに位置する毛沢東の迎賓館だったホテルが遠く見える)