崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「日韓を挟んで生きる」2014・.7・15

2014年07月16日 05時17分40秒 | 旅行
昨夜下関学習センターで下関広域日韓親善協会主催30数名の前で「日韓を挟んで生きる」という演題で講演をした(写真)。その直前までは「日本文化論」の講義に家根橋教授が参加して学生たちと討論が行われ講演のリハーサルのようになり、二重に疲れてしまった。
 日韓親善の最高から最低へ、最悪にした李明博氏から日韓関係がぎくしゃくしているところから話を始めた。私のように植民地「朝鮮」で生まれ、創氏改名(山本)とされて日本に住んでいるものとしては日韓関係の改善を強く求める。私は少年時代から愛国小説が好き、陸軍士官学校の教官、50歳まで予備軍大隊長などまでした間違いなく愛国者である私に「親日だ」という人たちがいる。何故か、誰か。私自身はどう思うか。その話をした。なぜ親日的になったのだろう。
 私の恩師(任宰)の恩師は京城帝大の秋葉隆氏、二人の先生の調査地が我が故郷の楊州の仮面劇と巫女であった。私が巫俗研究者になったのはそこに接点があった。それが日本に留学するきっかけになった。韓国の「反日」思想・感情は政治家だけではなく、学校の先生や教会の牧師まで骨まで染み込んでいる中、私は日本留学、日本植民地研究、日本人の妻を持つ三要素が揃っている。日本に留学して、韓国に帰国してはじめに出会ったのが「反日感情」であった。韓国の民族主義者であるソウル大学の趙氏からはあるシンポで並んで登壇している私に日本に留学した人は韓国学の研究者の資格がないと言われた。あまりも非常識な発言に私は反論しなかった。日本学科の教員として勤めるということ自体が反日との戦うことであった。
 韓国は世界で反日感情が一番強い国である。植民地の影響というよりは、戦後の日韓関係によるものが多い。被植民地の歴史は私に重すぎる。1980年代、反日的な反政府の学生デモが多い中、私はデモの点火となる学生サークルの仮面劇サークルの指導教授として危機に立たされた。デモは仮面劇の発表会から始まるのが常であった。啓明大学露天劇場には1万人の学生・一般人が参加し、総長と私のあいさつから始まった。そのさ中内務部治安局から私にすぐに中止するように命令があった。私は断った。「責任とれ」「はい、とります」と対話、恐ろしく怖い時であった。学生たちの私への信頼と私のアイディアで無事に終わった。1980年代デモは続いた。学生たちからも「親日派」と言われ、ある時はデモ隊の学生たちの前で日本に関する説明や講演もしなければならなかった。身の危険も強く感じた。1990年日本に来たので親日が実証されたと思われたかもしれない。日本に来ても反日感情から離れることはできない。日韓・韓日を挟んで生きる人にとって辛い時が多い。しかし両方とも友人知人が多い。
 そこで私は日韓を中立的に、客観的にみようとする。しかし韓国のことを肯定的に書くと日本人からクレームがくる。日本のことを肯定的に書くと韓国人からは親日的と言われる。困っている。中立とは冷たく、無情に思われがちであるが、事実、真実などを究明するには有効である。また味方をすると、偏見とみられるが、内側からは愛情となる。両方バランスとる必要があると結んだ。