崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

政治家が慟哭

2014年07月10日 05時38分37秒 | 旅行
今日は台風8号の接近で全学休講である。来週は絵はがき展、2回の講演、講義などがあり、その準備のために自宅でこの時間を有効に使うつもりである。しかし一方ではそろそろ前学期が終わりに近くなって、講義で学生と話をするのが楽しいのに残念である。この大学に赴任したばかりの時は新入生の「大学基礎」の担任は辛かった。出席を取るのに、学生の名前の読み方が難しい。私の読み方が違ったら全員ワーと笑う。私は講義時間にこのような困難は初体験のように感じた。いまその学生たちは社会の一員として頑張っているであろう。今私の講義は聞く、話す、読む、書くの四つの機能を十分発揮させ、考える講義として私自身楽しく、学生からも面白いという言葉が出ている。赴任当時の辛さとは劇差がある。先週の「日本文化論」では日本人の「性と美」について日本の浮世絵と韓国の春画を比較しながら、日本文化の本質に迫った。はじめは学生はちょっと戸惑ったようである。
 あるアメリカの教育学者が言った「講義は芸術artである」という言葉は私の教育的な戒めである。それは文字どおりに芸術家にも当てはまる。創作物なども穿鑿、磨きあげるには年月と努力が必要であろう。それは政治家にも当てはまるかもしれない。駅前などで振り向きもしない群衆に演説をする人を見ると気の毒に思う。私も若い時、立候者の賛助演説をした経験がある。行きかう人々に向かって演説をしたことを思い出す。辛い空念仏のような演説を繰り返しながら生きる政治家の苦労を知るよい体験であった。ある政治家が慟哭する映像が大きく報道された。政治家の辛さだけは伝わった。彼らによい政治を願っているし、応援もしてあげたい。しかし、彼はなんだか不思議。