崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

盲女旅芸人「高田瞽女」

2010年10月31日 05時44分38秒 | エッセイ
先日新潟県佐渡の日本映像民俗学会の時、二泊同宿した伊東喜雄氏から送られてきたDVD「瞽女さんの唄が聞こえる」(伊東喜雄監督、34分)をみた。上越地方や東北地方を回わる盲目の女性旅芸人の生活と芸の映像である。盲目の女性として按摩か、芸人か、の道から「選んでください」といわれ、そこで決まった運で三味線を携えて村々を巡り、農村の人たちに歌を届け、親しまれた人の映像である。目が見えないという障害を克服すること、つまり一般の日常生活ができることの上に芸をするというグレードアップの努力が深く読み取れる。
 韓国では伝統的に盲人の男性が経文を読みながら雑鬼を払う呪術師になっていた。私は古く60年代数人にインタビュー調査をして口承神話を発表したものがある。1920年代ドイツ人神父が朝鮮で撮った映像を最近の拙著『映像が語る植民地朝鮮』に添付しているがそれが呪術儀礼の唯一の映像であろう。今は盲人男性が按摩師や占い師、漢方医療的な仕事をする人が多くなった。
 日本では盲目の女性が巫女(イタコ)や「瞽女」になる。現代的な社会福祉のなかった時代の社会構造が分かるような気がする。瞽女の旅芸や生活の器用さを見ながら見えないことから失敗と成功の練習過程が気になる。ケンダルKendallの監督「韓国の巫女」Korean Shamansには失敗しながら成功に至る巫儀が映っている。華麗な舞台裏への関心、私は常に「裏」「闇」の文化へ関心があることに気が付く。

朝鮮赤松

2010年10月30日 05時16分40秒 | エッセイ
夏が終わりの台風が寒さと共に上陸する恐れもあるというニュースが流れている。最低気温が15度以下が続くのでベランダや玄関に置いた寒さに弱い鉢物を室内に入れた。最近展示会で購入した赤松の鉢はベランダにそのまま置いた。日本では黒松が多いが、韓国では朝鮮赤松が多い。鉢代にもならない位、安く買ったものではあるが赤松の魅力を見たい。
 ビニール袋に入れてぶら下げて会場を歩いている私に売主が走ってきた。何故か。水を頻繁にやらないようにと注意事項を言ってくださり、もし分からないことがあったら電話をくださいと名刺(山中氏)をくれた。売ったものが枯れるかと懸念したのであろう。その人は物を売るようで愛情を配るような天使にも思われた。わが夫婦は犬の子を人にあげる時、その人の人柄まで深く考えてからあげたことを思い出す。娘が結婚する時の親の気分に似ているであろう。これらの気持ちが愛情であろう。赤松の盆栽が愛情物のように立っている。この冬を青松として堂々と元気にベランダに立ってこの冬を耐えきるだろう。


韓国の大学の総長

2010年10月29日 05時36分08秒 | エッセイ
 韓国や中国からの留学生に日本の映画館に関する内容を英語と日本語で講義をした。英語に負担を感ずるようであるが、少しずつ刺激を与えようと初めに英語の文を配り大体の内容をつかんでから日本文を解釈、暗記するほど教えた。そして各自好きな映画の紹介を日本語で話すようにし、また私が映画に関する短い話をしてどのくらいキャッチしたかをチェックするなど私の教授法で楽しく進行した。私以外にも数人の教員によって日本語の授業が行われ進展が意外に早い。学生たちの意欲と教員の効果的な授業によってこのような成果を出しているといえる。
 授業のあと大邱の慶一大学校の総長一行の3人と晩餐をした。韓国でも学生の数が減る傾向であるが、正面から戦って成功したその秘訣をうかがった。6000人の学生から8800人に増やすことができたのであるが、500人を増やす意欲をもって語る総長は意欲満々であった。協定調印式(写真左は櫛田、右は鄭総長)では急きょ私が通訳をした。私が大邱に13年も住んだことから話中で知り合いの名前も出て懐かしく思った。印象的なことは行動パターンがアメリカ式で早く、競争的であることである。韓国で日本のイメージがダウンしているという。私は質高い日本を理解するように言った。バスなど交通機関を丁寧に営むこと、抗菌など衛生的な配慮、段差をなくす老人福祉など安全な生活への政策などを見てくれるようにも言った。韓国と日本との差がなくなったことにも世界が経済的差がなくなることは理想的であり、経済成長を誇るような中国も早く先進国になればと主張した。秘訣を聞きながら説教したようになった。日韓関係は本当に友好的な関係になっていると感じ、私のように二重文化の中で住むものとして感謝すべきである。

アイロンかけ

2010年10月28日 05時06分15秒 | エッセイ
 グレーソン氏が九州南部の宮崎県などを旅してわが家に戻った。彼のワイシャツにアイロンをかけてあげた。彼は驚く表情であった。彼も9歳で母を亡くして父と家事をしたので掃除や洗濯、アイロンなどは慣れている 。彼はアイロンを自分ですると言ったが私がしたのだ。私は中高の時代に姉が洋服修理店をしたので時間をみてアイロンや編みなおしなどを手伝った経験がある。一度上着を焦がしたことがあったが、預け主は許してくれた。本当に紳士服を着れる「紳士」だと思った。昨夜の私のアイロンかけは普段とは違って丁寧であった。首と肩にあたる部分をしっかりかけてから全体を順次かけるが袖と襟は最後に仕上げた。終わった物をハンガーにかけた。彼が感動したのは当然。
 彼は私のアイロンかけの腕前に潜んだ過去を探るように質問した。話は朝鮮戦争の後、苦しい生活から長い話を簡略に語った。新聞配達、家庭教師など、そして時々友人の家に転々としながら寄宿した遠い過去が私の体に残っている。否、体験として残っている。それが第一の波である。そこには色々な登場人物がいる。勉強中の私の電気を消した老女も思い出すが、友人の家に寄宿している惨めな私に「夢をもって勉学するように」励ましてくれた人に感謝する。苦労した過去は日本留学時代に繋がった。第二の波であった。しかしそれは前の苦しい経験が低力になって、耐えることができた。いつまた第三の波が来るかわからない 

藤原義江

2010年10月27日 05時29分29秒 | エッセイ
 先日下関の作家の古川薫氏の自宅を訪ねた時いただいた直木受賞作の『漂泊者のアリア』を読み終えた。その漂泊者とは下関で貿易商を営んでいたスコットランド人、リードReidと、琵琶芸者の坂田キクとの間に1898年に生まれた藤原義江である。母キクは九州各地を転々とする。義江が7歳くらいの時、現在の大分県杵築市の芸者置屋業、藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、日本国籍を得ることとなった。11歳の時、父リードとはじめて対面、以後少しは養育費を受けたこともあるが苦労の連続であった。東京に移り、暁星小学校、明治学院中等部、早稲田実業学校、京北中学など私立学校を転々とし、両親の愛情が欠落して、不良生徒とみなされた。浅草の弱小オペラ「アサヒ歌劇団」に入団。1918年には根岸歌劇団に潜り込む。音楽教育を受けておらず、読譜もままならなかったが、6歳年上の安藤文子の溺愛を得て、安藤の熱心な指導もあり歌唱力は急速に向上する。安藤は藤原の最初の戸籍上の妻である。1920年3月、父リードの学資金によってイタリア・ミラノへ声楽研鑽に旅立つ。
 この小説は藤原の伝記ともいえる。芸者の子、日英混血であるという当時日本人に「あいのこ」として侮蔑され、親子という絆も薄い中、転々と生活の場を変えて行く。作家は冷静にその後を追って書いた。藤原にとって混血は不利なことばかりではなかった。イギリスでは日英親善の象徴的存在でもあった。1923年帰国する。「我等のテナー」は各地でリサイタルを行い大成功を収める。1930年にはヴェルディ『椿姫』(指揮・山田耕作、当時では異例な原語上演だったと思われる)に初めて本格的なオペラ出演を果たす。以後軍歌「討匪行」の作曲・歌唱を行ったりもしている。前線兵士の慰安のために満州へも渡った。1964年聖路加病院で死亡、享年78歳。
 今の時代では混血はあまり問題にならないが当時の日本人は異様視し、虐め、蔑視し、差別したことが彼の人生を悲惨にした。しかし彼はそれを逆に生かせた。半生以後は父、母とも会えた。私はこの本を読んで世俗社会の価値観などには一層否定的に感じた。現在の世論や価値観も変わると思う。正義ある理想郷へはいつ到着するのだろうか。


週休二日制

2010年10月26日 04時30分34秒 | エッセイ
朝出かける時、今日はなになにがあると出勤しても他の仕事に没頭していて会議を忘れて欠席してしまった。メールでの知らせを見過ごしてしまうことも多い。印刷物の通知とは違って見逃してしまうことが多い。否、そのせいだけではない。メモしてスケジュールを管理する力が足りないと反省している。今週も週中より週末がスケジュールが詰まっている。日本では週末に電車が混んでいると話を聞いたグレーソン牧師はイギリスでは土日は移動人口が少なく特別割で安く旅行ができるという。彼夫婦は週末割引券でイタリア旅行を楽しんだと旅行写真を見せてくれた。休みの意味が異なる。
 休みとはなにか。英語のレスト(rest休む)が労働から解放、労働しないという意味が主意であろう。休息,休憩,休養,静養,睡眠など日曜日はthe day of rest安息日である。しかし韓国語では休み(놀다)が休んでいると仕事がないことや遊ぶ(놀이)の意味を含んでいる。それはただ言葉が重なったのではない。休みの日(쉬는 날)には遊ぶ(놀이)意味が大きい。日本では遊ぶというよりは別の労働をするような傾向がある。仕事が休みの日に色々な行事が計画される。韓国語の休みには消極的な、患者のように「労働から解放」と積極的な「遊ぶ」意味が重なったが、日本では休みと労働が重なったような,つまり仕事自体を楽しむような意味を含むようである。週休二日制の意味が問われるように週末がより忙しく混んでいる。

小倉教会

2010年10月25日 05時09分12秒 | エッセイ
 久しぶりにグレーソン牧師と在日韓国教会の小倉教会の礼拝に出席した。古い建物が綺麗に撤去されて空き地になり、立派な新築の教会が駐車場を整えている。しかし信者はかなり減っている。それも役員しか残っていないような印象である。熱心な役員中心に運営する所に教会員が減少することというメッセージが大きい。諸事情により来られなかった人が多かったのだろうか。教会は自由な信仰による任意組織であり、信者を保つには必死な努力が必要である。グレイーソン牧師はイギリスで監理教、聖公会、長老派などの教派が超教派的に運営していることと「反世俗化運動」を紹介した。たとえばクリスマスに色々な人にプレゼントなどで使う商店街中心のお土産商品が盛んに交換されている部分を節約してアフリカのジンバベなどへ支援しようとする運動である。
 日本はクリスチャンの国家でもないのにクリスマスなどの雰囲気はそれ以上に盛況で年末雰囲気を高調している。世俗のクリスマスしかない国のようである。西洋のキリスト国家の世俗化現象でもなく、商店街の「お祭り」現象であろう。クリスマスのあり方も教会のクリスマスから一般化「お祭り化」へなっていっても良いだろう。クリスマスが近くなっている。12月25日が平日であるのでその前の主日に礼拝が行われる。定日ではなく、定週になっている。一般の非信者はキリスト教はオーム真理教や統一教のイメージが強く異様なオカルト的なイメージを持っている人も多い。しかし、キリスト教は決して異様なものではない。

イギリスから友人が

2010年10月24日 05時09分23秒 | エッセイ
 昨夜イギリスから友人のグレイソン氏が訪ねてきた。彼と会うのは私がアイルランド調査の時(2年前)イギリスシェフィールドの自宅へよった時以来である。彼は日本に来たのは11年ぶりという。彼はアメリカ人であり、学士はコロンビア大学、ヂューク大学で神学博士、イギリススコットランドエディンバーグ大学の人類学科で比較宗教を専攻し、博士号を取られている牧師でもある。韓国には1971年から1987年まで16年間滞在した。私が大邱の啓明大学に在職した79年からは同僚であり、同じ教会に出席した。彼は韓国から二人の養子、一匹の犬を連れてイギリスのシェフィールド大学の教授になって帰国した。そこで韓国学科長・研究所長などを務めたが、最近は副総長し、定年にて名誉教授となった。私は彼の韓国のキリスト教に関する研究を参考にし、最近編の『植民地の朝鮮と台湾』に彼の殉教に関する論文を日本語に訳して掲載している。彼の最近著は2001年のJames H. Grayson, Myths and Legends from Korea, Curzonである。
 私が広島大学在職中の1999年に彼が西条の拙宅にたずねてきて泊まりながら調査に歩き出雲や宮崎高千穂などで神話を調査研究した。家内とは11年ぶりである。当時韓国からの留学生であった李良姫が現地調査に同行し案内した。彼女は現在大阪在住であり、昨日下関に来て一緒に新下関駅にグレーソン博士を迎えに行って駅でウェルカム、遅くなったが日本料理で夕食を一緒楽しんだ。その最中在韓キリスト教、小倉教会の朱牧師から電話があって今日礼拝に出席することになった。論語に遠方から友人が訪ねてくる嬉しさが「有朋自遠方来、不亦楽乎」、まさにここにある。

古川薫氏宅訪問

2010年10月23日 06時23分21秒 | エッセイ
 毎日新聞下関三嶋支局長の案内で直木賞受賞作家の古川薫氏宅を訪問した。お互いに紙面などでは知っているが初対面であった。彼は1925年生まれ、85歳の高齢ではあるが、軽く動き、メモを取りながら楽しく談話をした。彼は140冊ほどの本を出してもまだまだ執筆の意欲が旺盛である。彼は1960年代北アフリカのカナリア諸島やスペインやフランスの旧植民地管轄の大西洋の漁場を調べに半年間の永い取材旅行をしたという。私が事前に彼の最近刊の本を読んでいたのでそれに関する質問から話が始まった。船内暴力で死亡した死体をマグロ船の冷凍室で運んでいるという当時読売新聞の記事を読んで関心を持ったが虚偽と確認したという。旧宗主国の200海里の分界線を巧みに避けながら漁場を争う現場を調査したという。彼はそこで数ヶ月間の間に韓国人の趙氏(?)と仲良くなり、協力を得たという。
 私は漁場の話を日本へ引っ張りつなげ、山口豊浦湯玉の木村一家が住まいと漁場を求め朝鮮の巨文島へ移住した話をした。以外に反応があって、話は戦後の往来と私が湯玉まで調査に来て以来縁が深い話を続けた。彼は今すぐにでも小説にかきたいような表情であり、まるで青年のように「現地に行ってみたい。一緒に行かないか」とも言われた。私は彼の作家精神と創作意欲に感動をした。私も文学少年時代に戻り「一緒に歩こう」といった。二人は十年知己の如く感じ、奥様にシャッター押してもらった(写真左から三嶋、古川)。「忙しいことが歳をとらない」という彼の言葉を聞きながら韓国の最長寿の牛が働きものであるという話と思い合わせながらその家を出た。11月13日東亜大学で講演していただくことになった。大学に戻って韓国からのお客様と昼食、川村先生と古地図の話、教会の聖歌隊の練習を励まし、北朝鮮祖国訪問から帰ってきた方と夕食などをして帰宅した時は就寝の時間の夜9時であった。

『杏林の坂道』

2010年10月22日 05時56分51秒 | エッセイ
 同僚のお父様の山本孝夫氏作『杏林の坂道』の12回分を読みはじめ、目を離せず一気に読み終えた。その時訪ねてきた長周新聞の竹下氏に一読を薦めて貸してあげたので読んだ記憶に沿ってここに記す。
 妻を亡くして息子の芳一がいるところに31歳の山本家の幸が初婚で緒方惟芳と結婚し、4人の子供を産んだ。その緒方惟芳と芳一の父子は萩において医師として努めている。芳一は亡き母のいとこの娘と結婚して4カ月後徴兵され流横島の戦場で奉公するようになった。そこから家族へ書き送っていた多くの手紙が載っている。芳一兄さんが異母兄弟へ送った手紙「親孝行を頼みます」という内容には涙しく感動した。
 私は芳一より一世代後になるが、似ている経験が多く、共感するところが多い。私は朝鮮戦争直後の中・高時代から運動場で軍事パレードのような列兵式、査列など教練担当によってやらされた。大学時代では軍事クーデタによる独裁政権の下で卒業後、幹部候補生として訓練を受けて陸軍中尉、大尉になっていた。そこに常に強調されたのが忠と孝であった。その時私も芳一のように忠孝精神の青年であった。芳一の忠孝精神は時代のイデオロギーに染まったものとは感じない、純粋な愛と感ずる。それが人に共鳴し、感動を与える。戦争は結果的に貴重な命を多く犠牲にし、愛を悟らせたことになる。
 



社会化

2010年10月21日 05時47分42秒 | エッセイ
校内を歩く時、挨拶を交わすことが多くなった。中には自分を知っているかという学生もいる。その時は「沖縄から来ているでしょう」というと大体当たる。昨日地元作家古川薫氏の作品を探しに図書館に行ったら覚えのある学生が走ってきて挨拶をして自分を覚えているかという。「沖縄ね」といったら大当たり。彼は1年の時私に韓国語を習った。面白い学生、今は4年生の大城君である。
 本学には沖縄から来た学生が多いが、人懐っこさや挨拶、ユーモアなどが本島の学生とは違う傾向がある。むしろ韓国の学生たちと性格的に近いような気がする。以前、本欄で日本の教育では社会化に力が欠けているようなことを書いたがそれは教育というより文化であろう。私も子供の時代には内向的であって挨拶がいやだったが遅く社会化された(?)ようである。それは私が文化人類学の現地調査から学んだことであると思う。よその国の大学ではグループディスカション、娯楽などを通して社会化を積極的に教育のプログラムに取り入れているが、日本では多くの教室では居眠りする学生をほっといて講義する教員も多い。日本では教育プログラムを数多く改革したが、教員の授業の改革がもっと行われ「社会化」が進むようになればよいと思う。

忘れ物

2010年10月20日 03時40分26秒 | エッセイ
 バスで帰宅した。携帯電話を使用しようとしてないのに気づいた。バスに乗る直前に使ったのでバスの中で落としたのであろう。しかし乗りかえて乗ったのでどのバスかは確定できない。バス会社に電話したら走行中であるということで確認できない。情報を失ったらどうしようと不安が強くなってくる。古くから眼鏡は体の一部のように忘れることはないが、補聴器は時々忘れることがある。機械であっても体の一部のようになった。携帯は数年の内に体の一部のようなものに近くなっている。年をとるにつれて義歯、杖、あるいはペースメーカーなど、さらに酸素マスクなどをつけることもあるだろう。
 しかし携帯は眼鏡や補聴器のように体の一部にくっつけるようなものではない。ある人は首に掛けており、ある人は上着の飾りポケットに入れたりなどさまざまである。私はズボンの左側ポケットに入れている。座り方によりすべり落ちれたのであろう。自分の行動パターンを逆行して経路を辿り想像する。不安は深まる。一方正直な安定している日本社会を信頼する。今まで数多くの忘れ物が戻ったことを思い出す。新幹線の中に骨董品を、飛行機の中に眼鏡を忘れたが戻ったことを思い出す。中には印鑑のように戻ってこなかったものもある。
 電話で携帯が保管されていることを知り、7時ころ暗い石原車庫の事務室に着いた。親切な人から受け取った時は本当に嬉しかった。携帯は宝物のように感じた。感謝、感謝、である。また日本社会に住むことを幸いと思った。

新幹線

2010年10月19日 05時31分21秒 | エッセイ
下関と佐渡の往復は新幹線と高速船であった。長くいすに座って考える時間が長かった。通路側に座っていると外の景色を見ることなく、ぼうーっとする時間になりそうである。窓際席では景色を見ながら建物の中の人間とはどんな人だろうか、山の向こうにはどんな町があるのだろうかと考えたが、通路席では、仕事を考える。書くべきことを考えメモしたり、ノートパソコンを出して文章を書き始めた。思いつくまま漢字変換のないハングルでメモするのが良い。新幹線には電源とインタネット(東京ー大阪)ができる設備が整っていることを知った。
 佐渡の立派な観光ホテルにはインタネットのランケーブルが入っていないことを思い出し、日本でも鄙都の差が激しい。東京から下関へ下るにつれて満席から空席が多くなる。都会には人だけ多いのではない。情報が多く、そして視野も広い。しかし地方では逆に自然と人間の調和、より深く、より高い創造的な生活が可能であることを感ずる。私は都会の人が口癖のようにいう「忙しい」という印象からはじっくり本を読み、深く考えることのない否定的な印象を受ける。連続性だけでは芸術にならない。休止符、ポーズpauseが必要である。地方、田舎の人よ、ポーズの力を発揮させよ。

和気藹々の集い

2010年10月18日 04時51分45秒 | エッセイ
 東京で2泊、佐渡で2泊の日本国内ではかなり長く遠い旅行中である。今度は1930年代の民俗映像作家の宮本馨太郎記念財団と佐渡教育委員会の協賛で行った。5年前には下関の東亜大学で行え、住民200人ほどが参加した。第2日の会は会員の作品発表であり、北村監督の祭り、80歳間宮監督の仏像作り、長島氏の蒸気機関車の組み立て、NHKの神部氏のバードの山形旅行が放映された。バードは1894年以来数回朝鮮を旅行して旅行記『朝鮮と隣人』を残した人である。私は北朝鮮で私が撮って、権藤氏が編集した映像を見せながら弁士のように解説した。参加者は徐々に消えて少なくなり、最後には使われたテーブルと椅子などを片付けて、玄関で記念写真を撮った。私が本格的に参加するようになったのは10年弱ではあるが、創立メンバーたちとは縁の深い。故宮田登、故野口武徳の両氏とは格別な関係であった。
 島へ渡りの高速船に船酔い止めに服薬を2個で調子が悪かったので帰りには1個を飲んでよかった。この次は薬の臭いだけでも大丈夫かかと。以前韓国の観光ガイドさんから聞いた話がある。おばあさんたちの船の旅に案内するとき耳の下部に酔い止め薬の接着スーティカーをつけるようになった。あるおばあさんは用意してくれたそれが見つからず新しく買った下着にすいて商品マークのスーティカーをつけても船酔いはしなかったと言う。船酔いは気分に左右されるという笑い話のような実話である。私もそれに近くなっていくのでは。
 会長の牛島先生、宮本財団の宮本先生、主催大学の原田先生、事務局の北村氏をはじめ皆様、ご苦労さでした。記念写真は私のホームページのフォトからダウンロードしてください。
 

インターネットが繋がらない

2010年10月17日 06時07分04秒 | エッセイ
 はじめて携帯で書く。今佐渡に来ているが私の宿にはランケーブルがないという。遠くに来たと改めて実感する。ここは両津港の東宝ホテルであり、日本映像民俗学の学会に参加して泊まったホテルである。窓から見える湖では蛎を養殖している。佐渡や新潟に関する古い映像が上映されてそれをめぐって議論した。戦争中の運動会、「満州を守れ」などをもって戦争と海苔についての話題が出た。本日は私が撮った映像をみせることになっている。
 最初から最後まで座ってコメントした。東京行きの電車に駆け足で乗ったので別れの挨拶もできず座席に着いたら伊藤氏が来られて一緒に話しながらあっと言う間に上野に着いた。彼のタクシーに便乗して宿所について、このブログに付け加える。NHKの神部氏がイザベラバード氏の旅行記にそって撮った映像を見たが、そこには山の宿の人がただで泊めてあげたという話を聞いて、昔は日本人も気前の良い時があったと思い、現在の日本人の計算高さを皮肉したばかりなのに伊藤氏が私を宿所に送ってくれたので彼の心の豊かさを感じた。