崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

蘭室

2012年05月31日 05時09分49秒 | エッセイ
 果樹園を営みながら会社を経営する社長から2本の蘭をいただいた。彼がある行事の時、お客さんからお祝いにもらったものである。その蘭を私に譲るという。果樹園や野菜などは多くやっていながらも蘭類は扱いが難しいという。花が満開した蘭をもらっても育てて行くには失敗した人も多いだろう。私はベッドルームの窓の外にただ半日陰の黒いビニルで屋根を作り、下に土を撒いておいて湿度を保つことができるように簡易温室のように工夫した。そこに蘭類を集めておいて名付けた「蘭室」である。それはとても粗末なものである。いつか彼にその話をした。彼がそれを覚えて私に蘭を譲ることにしたという。春や夏が遅いこの夏に蘭たちは元気よく根と花の芽を出している。そのうち美しい花と香に恵まれるだろう。
 私も蘭育てに多少自信が付いたのは最近である。それは「放っておくように大事にする」という秘訣のようなものを悟ったのである。「無関心の中の関心」を持つことである。彼が私に蘭を譲ることは、それだけが理由とは思えない。私に譲る訳があるだろう。彼が蘭を愛し、私を信頼すること。一本の鉢から人生を論ずることは大げさのようであるが、人間関係にも比喩できる気がする。早稲田大学の李成市先生の弟子が訪れて来た。久しぶりに蘭が咲いたように研究室に談笑が満ちていた。

ポルノ映画

2012年05月30日 05時01分06秒 | エッセイ
しものせき映画祭実行委員会で上映作品の選別があり、特にポルノ映画の上映をめぐって議論された。映画産業が下向けの時サバイバルの動機付けがポルノ映画だということで今一度振り返ってポルノ映画を観るのもいかがであろうかという提案があった。まず社会的なタブーを破るか、またその作品にポルノと表現の自由の葛藤などの問題意識があるか、どうかについて質問した。問題意識のないまま性的刺激を与えるような映画は高齢者には不快感を持たせ、視聴者が少なくなるだけではないかという憂いを表現した。学習院大学公開講座に「アジアの性」をテーマに提案して行って高齢者が多い聴衆が激減したことを覚えている。
 私は文学少年時代に恋愛小説を多く耽読したが、中にイギリスの小説家、D・H・ローレンスの作品の「チャタレイ夫人の恋人』(Lady Chatterley's Lover,1928年)が映画化され、ポルノか、芸術かの世界的議論を読んだことを思いだす。若い時と今かなり変わっていることは身体的な変化か、文化的な成熟なのか。愛なしに性的に動物化している現代における「性と愛」の関連性などをテーマにした社会的問題作であればそれは単なるポルノではない。上映する価値が十分であろう。ただ観客を集めるようなことは難しい。家庭映像時代に人を映画館に呼び寄せるとは簡単ではない。その難しい戦いが映画祭であるということこそ本当の問題意識かもしれない。

植樹祭

2012年05月29日 05時08分55秒 | エッセイ
 全国植樹祭が5月27日(日)山口市で天皇ご夫妻が参加して記念式典が行われた。天皇ご夫妻は山口県木のアカマツとクスノキを植樹した後に下関のグランドホテルに泊まり、安徳天皇陵や赤間神宮を参拝した。交通規制がおかれて私は迂回して帰宅した。「第63回」の植樹祭といわれるが、日本の植樹の歴史はもっと古い。それは韓国においてもそうである。私は朝鮮総督府の機関紙である『朝鮮』を読みながら驚いたことがある。日本は朝鮮を植民地化して「植民」と同時に「植樹」をしたのである。植樹祭に全国的に桜を植えた記事を読んだのである。戦後韓国では4月5日を「植木日」と定め記念日として植樹が行われている。日本の全国植樹祭も戦前の伝統を引きついでいるように韓国の「植木日」もおそらく戦前の伝統を引きついでいるのだろう。
 今度は山口市で行われ、県木のアカマツを植樹したということに私は異様な対照を感ずる。日本は植民地朝鮮に「桜」を植えて、今度日本に朝鮮の象徴的なアカマツを植えたことである。私はアカマツに目が引かれる。山口県木のアカマツは日本より朝鮮に多く、中には「朝鮮赤松」が有名である。日本ではクロマツの美しさ楽しんだり、尊重したりすると言えるほど剪定された松が一般的である。しかし朝鮮赤松は背が高く、剪定することなく、自然の美しさ、特に「老松」を尊重し、眺めるような文化がある。特に韓国の水原や東海岸地域に密林しており、私は数回見に行ったこともある。仁川空港に植樹されたのも赤松である。植民地朝鮮に「日本を象徴する桜」を、日本に「朝鮮を象徴する赤松」を植えたことは時代と歴史を圧縮したように感ずる。私の過剰反応であろう。木に国籍はないはず、今度の植樹祭は自然な美しさを愛好する時代へのメッセージとしてとらえる。(사진은 대구벽송산악회)

セヌリ党の国会議員たちと昼食

2012年05月28日 05時01分57秒 | エッセイ
昨日韓国のセヌリ党の国会議員たちと昼食をした。ソウル地方の申志鎬、鄭亮碩、朴普煥,李恩宰と韓日議員連盟の事務総長の朴正浩氏と広島総領事の辛亨根氏が同行しており、こちらは日韓親善協会連合会の石崎幸亮会長、副会長の友松氏、理事の石本氏、専務の伊藤氏らが参加した。特に申氏は私の生まれ故郷の近いところの議員であり、ほんとに親しく感じ、楽しく話を交わした。彼らは若い国家議員として去る4月の選挙に当選したばかりで、これから活躍が注目される。なぜ下関に来たかについて、彼らは朝鮮通信使に関心を持ってきたという。私は戦前朝鮮人鉱山犠牲者、在日問題などに言及した。彼らは午前中功山寺を廻ってきたがただ古い寺としか認識していなかったので、私が倒幕団の集合地、明治維新の本源地であると説明したら一気に関心を持ったようである。
 彼らは日韓関係の民間レベルでの親善はもちろん、北朝鮮との関係も積極的に肯定的な態度で臨んでいると言っておられ、私が言いたいことを先とられたような嬉しい話であった。申志鎬氏は慶応大学に6年も留学したと言い、山口県の衆議院の林芳正氏とは友人関係だといわれ、早速石崎会長が林議員に電話して、申議員と通話する場面もあった。私は林氏に講演を頼もうと思い、事務所に連絡したこともあり、申氏と一緒に下関東亜大学で講演してほしいと提案し、大いに喜んでいただいた。山口の政治家も東京へ、永田町ばかりではなく、アジアへ視線を向けることができるようになってほしい。

한국 국회의원 4인 새누리당의 신지호, 정양석, 박보환, 이은재 의원과 한일의원연맹 사무총장 박정호씨가 시모노세키를 방문하였다. 일본 정치가들도 통과지로만 여기고 잘 들리지 않는데 한국에서 온 귀중한 손님들이다. 야마구치현은 일본에서도 보수적인 곳으로 알려져 있고, 동경만을 바라보고 정치하는 사람들이 많아서 수상이 많이 생산되는 지역으로도 유명하다. 대륙으로 눈을 돌린 후쿠오카가 발전하는 것과는 대조적으로 시모노세키는 폐허의 길을 걷고 있다. 이번에 의원들이 찾은 것은 한일관계에 중요한 역사적 중요한 곳에 착지점을 설정한 것이라고 생각된다. 특히 신지호의원이 일본 유학 6년이고, 이곳 하야시마사요시 자민당의원과 친분이 두터운 것을 감안하여 한일의 가교가 굳게 다져지리라 생각한다. 나는 두 분의 합동강연회를 주선하기로 약속을 하였다.


オウム真理教事件

2012年05月27日 05時21分16秒 | エッセイ
 昨夜NHKでオウム真理教事件のドキュメンタリー式ドラマを観た。私はクリスチャンとしてキリスト教への悪影響があるかと脅威も感じた。教祖が使ったいる言葉や儀式は宗教的であるからである。キリスト教の「救済」「隣人愛」そして仏教用語の「解脱」などで説法する。教祖は自ら救済主へのカリスマ創造、その神的存在を中心に若い層の信者の組織した宗教法人化の過程で信者を殺して隠蔽した。宗教的に意味づけながら殺人、化学兵器も生産し、無差別テロ事件を起こした。
 私は以前韓国で「ハレルヤ祈祷院」を調査したことがあり、オウムと酷似していると思っている。しかし前者は公開的である。私は末期患者治療の集会に家内と数回参加して撮影をしたり信者へインタビューしたりしたことがあり、研究会などでも発表した。中国でも弾圧されている「法輪功」も調査をしたことがある。それらと比較してみるとオウム真理教事件は非常に日本的であると思う。一言でいうならば集団の秘密によるものであること。一般的に日本の宗教団体は閉鎖性が強い。私は沖縄の浦添のあるキリスト教会で礼拝を希望したが断られたことを忘れることができない。おそらく世界的にも例の少ない閉鎖的現象が日本では割と普通である。日本の民主警察(?)は「個人情報保護」などの「壁」を超えて情報を得ることが難しい。得たとしても確証できる事件を待って初めて起動する。オウム集団の中で二回の殺傷事件があっても警察が知らなかったということ、国家存立が疑われる。
 「ズル賢い」宗教指導者の下に「純粋な」信者によって組織されていて、その危険性を潜在的に含んでいるのは珍しくない。ある教会のようにリーダーシップのある代表的な存在を牧師が追い出し、すべてを牧師中心に支持者の秘密グループを作り、自らカリスマを作るのはオウム真理教とそれほど差がない。
 日本人は集団性が強いという国民性の「文化とパーソナリティ」理論は否定されているようであるがオウム真理教事件をみると日本人は反省すべきかと思う。人権尊重、宗教保護などが逆行している。

研究所のホームページ http://www.choikilsung.net/eastasia

2012年05月26日 05時18分29秒 | エッセイ
 
東亜大学の東アジア文化研究所のホームページを自力でリニューアルrenewalした。大学のホームページがあるが更新することが面倒なので独立してホームページを運営することにした。数回作ってはうまくいかはいことが多々あるなど時間がかなり掛かった。昨夜もトップページを転送してみたら別のものになっていて、急いで直した。まだリンク先が設定していないし不備なところが多いが、まず読者に公開して協力していただきたい。これからはブログ以外にもフェースブック、そしてこのhttp://www.choikilsung.net/eastasia/の更新などで時間を投入しなければならない。
 コンピューターで仕事が多く、ホームページ作成のアルバイトなどもできそうな自信が湧いてきた。しかし紙の本から遠くなる傾向があることに気が付いた。講義中ホワイトボードに漢字が書けず困って、学生に書いてもらった。彼らは私が韓国出身だからと思うかもしれないが、実はそうではない。コンピュータに頼り切っているからである。漢字や紙の本から遠くなっていくのは止められない現在のこの世の傾向でもある。漢字や紙の本が無くなりインタネットの世界になるだろうか。トッフラーが数十年前に予言したとおり今コンピュータ時代になっている。次の世代は漢字や紙の本が無くなりインタネットの世界になるだろうか。次のの世代は次の世代が選択していくべきであるが、これから未来へはより短期的に予測出来のではないだろうか。
写真は草間なのアザミ

「長周新聞」(1955年)

2012年05月25日 05時11分58秒 | エッセイ
 下関には特色のある「長周新聞」(1955年)がある。長府と周南の地名からとった題名ではあるが旧日本共産党の一人であった福田正義氏が創刊したものである。以来日本共産党の出版物も多い。この新聞は創立者の福田氏と協力者であった礒永氏を崇拝する記事が年中繰り返し、掲載される。人権問題の出版物が多く、私はかなり目を通している。先週の日曜日、下関シーモールでは福田氏の10周忌記念会があって参加した(写真)。500余人が参加している。今は共産党とは縁がないとは言っても、その動員力は強く良く残っているではないか、驚いた。
私は地方新聞を尊重する意味で下関に来て以来定期購読している。政治色や編集色の濃いページを除いて文化面に注目している。本の紹介や書評、「よい映画をみる会」、文化短信などは内容が豊富、批評性の高いものでもある。一人の記者である竹下一氏と時々会って話をするが、格調高い識見の持ち主である。ここに彼による私の講演の要約を全文紹介したい。

長周新聞2012年5月23日記事(竹下一氏)
崔吉城東亜大教授講演
 「メディアと異なった視点で崔吉城が見た北朝鮮」と題して、東亜大学東アジア文化研究所第一回講演会が19日、東亜大学で行われた。同研究所所長の崔吉城教授が2001年から03年にかけて、3回にわたって北朝鮮を訪れた学術調査をもとに語り、みずから撮影したビデオ映像で紹介した。
 崔教授はマスコミを通した北朝鮮の情報が、「初公開」「発見」などセンセーションなるな事件報道、また「拉致」「核」「飢え死に」「脱北者」といった問題に狭められていることを踏まえ、「北朝鮮を客観的に理解する」うえで日常の文化、生活を紹介する必要性を感じて報告の場をもったことを明らかにした。
 崔教授は38度線の軍事停戦委員会の会議場がある板門店にソウルと平壌の側から参与調査に訪れ、両者の異なった様子を紹介した。
 板門店はソウルから「一番観光名所」となっており、日本人も多数訪れている。崔教授は「板門店辺りは、自然の景色や優れた文化遺産がないのに観光名所となっている」ことに注目。バスガイドの安内では「北朝鮮が怖い国だ。服装もジーパンやミニスカート、サングラスは危険にさらされるからいけない。カメラは絶対に出さないように」と指示され、鉄条網や「立入禁止」「STOP」など警告の表示板が林立する中を走り、「ソウルに帰るとホッとする」という観光である。
 崔教授はこれを「ホラー映画のような恐怖心をあおって、観光商品化している」と評価。北朝鮮では、板門店を南と統一するために会議をする場所として、「民族統一への熱意と素直な案内」が行われ、カメラ撮影も自由にできたことを明らかにした。
 また、北朝鮮のキリスト教会の礼拝、植民地時代を再現する場面も入れ込んだ「アリラン祝祭」のマスゲームなども紹介した。
 聴講者との質疑応答では、マスコミが飢え死者を映しだしたり、地下鉄は避難のためのトンネルだと宣伝していることに疑問を呈した。また、人々の栄養状態の悪さ、貧しさが伝えられるが、農村では「牛による農耕で、労働による痩せ方が多い」こと、「ジャガイモを食べる状況だが、それはヨーロッパも同じ」だとのべた。また、住民も自らの生活を貧困ととらえておらず、日本の生活に関心はあるが「われわれは独自のやり方でやって行く」と考えている様子も紹介した。
 最後に、「南北統一に日本はどうかかわるべきか」質問に対して、崔教授は朝鮮戦争という条件のもとで南北がすぐ歩み寄ることができない中で、日本が北朝鮮との間で敵対ではなく友好関係を築くことの重要性を強調した。
 また、「日本と北との関係がよくなれば、シベリアと直結するなど、日本との広いアジア大陸とがつながる」と日本の交易にとっても有利なことを示唆。日米関係に規定されて、北朝鮮との関係を中国に依存するのではなく、これからは日本独自で進めるべきだ。敵を外に作って日本の中をどうするかというのではなく、日本側から北へ出向かいて仲直りすべきだ」と訴えた。

日本女子バレーが韓国に惨敗

2012年05月24日 05時10分58秒 | エッセイ
 昨夜行われたロンドン五輪最終予選4試合目に日本女子バレーが韓国に惨敗した。3連勝の気勢が一つも観ることができなかった。3試合では見られなかった連係ミスが目立ち、最後まで韓国にブロックされ、攻守に応戦しても敗れ、完敗した。
 私はどのゲームを見る時も弱い側を応援するように弱い側の日本を応援していた。それは日本が弱いことを感じたからであった。サーブの失敗には応援する気持が薄れた。
 日本の惨敗の敗北感と韓国の勝利の快感を同時に感ずる気分であった。片方の味方をした時より感動は弱いが、敗北と勝利の両側を応援し、それを同時に感ずるという異様な気持ち、それも悪くなかった。まだスポーツのゲームがあまりに賭けに負けのように感じて、暴動化する国もあるが、今日本では韓国が好きな人が多く、日韓両国の勝利と敗北を同時に感ずる人も多いだろう。それが本当のスポーツ精神であろう。

新鮮な野菜

2012年05月23日 03時46分07秒 | エッセイ
 研究室が並んでいる資料台に新鮮な野菜が無人販売のように置いてあるのを見た。ある教員が提供するとメモが書いてあった。私はその一つを洗って弁当と一緒に食べた。新鮮な野菜を食べながら思いやりの新鮮さが感じられた。その後授業があった。
 留学生が混ざった授業中、態度の悪い数人の学生に注意をしても効かない。観光の本質の一つに「面白さ」について講義したが面白くない授業になった。学生は「お客様」なのか、問われる。学生募集が難しく、学生は「学生様」になっているようである。「先生のやつ」が「学生様」を教えるのは難しい。学校では学生が主人公であると思って主張して来たのに学生を叱ることはできない。皇族などを教える先生はもっと難しいだろう。学生と教員は職業上の上下関係でである。しかし先生には愛情と実力と権威が必要である。それがなくては学級崩壊になるかもしれない。今、それぞれの経歴の手腕を発揮すべきであろう。

「麗水エキスポ」 東洋経済日報コラムの全載

2012年05月22日 04時54分58秒 | エッセイ
 朝鮮八景の一つの「閑麗水道」、韓国慶尚南道の閑山島から多島海を通って全羅南道の麗水に至る水路である。朝鮮王朝の文学者の詩人鄭松江が関東八景と詠って以来観光名所を八景というところが多い。韓国が海上国立公園に指定されているが、その伝統は古い。その麗水で海洋博が開幕された。
 戦前にも風光明媚な観光スポットの「閑麗水道」として観光化されていた。私は観光とは無縁なところから麗水と縁が深い。戦前愛知県から多くの日本人が海岸中心に移住して暮らした。この地域だけではなく朝鮮半島南部には日本人が大分多く、集団的に移住して日本人の村を作ったのである。西日本から朝鮮半島へ植民・移住し、「日本村」(広島村、岡山村など)を作った。崔吉城編の『日本植民地と文化変容』(お茶ノ水書房)は植民地時代の日本人村への研究を集成したものである。参考していただければ幸いである。日本人が移住して移住漁村を作り、朝鮮人と協力して漁業をし、木村忠太郎氏は1910年に「水産王」として表彰された。彼は山口県豊浦町から巨文島に開拓移住した人である。それらの研究が私の麗水との接点であった。
 私は日本留学前の、1968年夏韓国民俗総合調査の時に全羅南道の麗水郡巨文島を訪ね泊まったことある。当時辺鄙な離島には古い伝統文化が多く残っていると思って推薦したが、行ってみて、主催側は失望し戸惑ったことを忘れられない。その島は植民地時代に日本文化が盛んな日本人村であった。調査団員たちが当時泊まった旅館が日本時代の遊郭であったということは皮肉に感じた。
私は日本で留学を終えて帰国して日本学科の教員として日本研究として韓国の反日思想や植民地の負の遺産は大きい重荷であった。しかしそれを避けず真正面から調査研究することにした。そその時1968年訪問した巨文島を思い出した。1988年に私は学者と学生をメンバーにして巨文島調査団をつくり、調査を行った。その後麗水と巨文島を訪ねることがしばしばあった。麗水在住の郷土史家の金鶏有氏、海苔研究者の樹奐氏などに会い情報を交換している。 「麗水エキスポ」を観覧するために行く時お会いできることを楽しみにしている。
ある時、ある住民から日本語の手紙を読んでくれと言われ、読ませていただいたところ終戦の時に預けた家の代金をいくらか欲しいという内容だった。村には日本人の引き揚げの時日本まで人と荷物を船で送ってあげたという話が聞けた。日帝時代にも兄弟のように一緒に仲良く過ごしたという話は日韓両側から聞けた。私の研究は日本への引揚者に関心が移った。私はいつの間にか今その調査地に近い所の下関に住みながら引き揚げ者との連絡をとったりして、日本の山口県の引き揚げ者を訪ねることができ、研究を進めた。麗水を生まれ故郷や第二の故郷とする人たちの組織「麗水会」の年会には私は必ず参加したが会員が高齢化して残念ながら数年前解散になった。何と運命的な出会いであろう。

沖縄復帰40周年

2012年05月21日 04時30分20秒 | エッセイ
沖縄が復帰して40周年だという。私が日本留学に来てから40年になるということにもなる。私と沖縄との出会いはそのころからであった。韓国の全羅道の島々をフィールドとしていた私にとって日本、さらに沖縄の調査はは良いフィールドを広げることだと思っていた。長澤先生を団長とする沖縄調査団に内田るりこ先生のグループに入れてもらって鹿児島から定期船で出発した。台風に会い、与論島などに停泊、調査途中帰宅してしまった。後に成城大学の野口武徳先生のグループと一緒に宮古島に数回調査したが野口先生の病気、そして亡くなられて調査は続かなかった。後には法政大学の外間守善先生とテレビ出演や学会、講演会などに呼ばれることがあり、沖縄を訪ねる機会が多くなった。沖縄復帰10周年、20周年記念行事には講演や研究会に参加した。中村哲先生の親筆「学は人なり」は我が家の壁に掛っている(写真)。京都の上田正昭先生の主催のアジアの比較研究会にも参加した。渡辺欣雄先生の科研代表の風水研究会が石垣島で行われた時にも参加した。最近はビジュアルフォクロアの北村皆雄氏の事務局、牛島巌先生が代表としている日本映像民俗学の全国大会に参加した。その会議の途中、沖縄のパネラーの先生が市民大会へ参加のために会議が中断となることもあって、異例なことと思った。
 沖縄往来ととも親しくなり多くの友人、知人が自然に生じた。中には10周年記念講演を一緒にしたノルウェイ・オスローのレックン氏、数年前家内と一緒に訪ねて行ったことは懐かしい、友情の旅であった。また10周年の時飛行場まで迎えてくれた東江康治先生とは沖縄を訪ねる時毎お会いしたが、彼は後に名桜大学を設立に力を入れ理事長、学長などを歴任された。その大学には私の学部時代の学生であった文化人類学者の李鎮栄君、許点淑さんが勤めている。先日李君とは中国広州で研究会に参加した時に会った。彼も老熟して電車に乗った時中国の学生が私より彼に席を譲ってしまって笑いの種になった。私の沖縄の往来は多くの恩、愛情、絆を持たせてくれた。

<禁断の国家>

2012年05月20日 04時49分56秒 | エッセイ
 昨日東亜大学東アジア文化研究所の講演会は学長・理事長の櫛田宏治先生から心の込もったご挨拶に勇気付けられて演壇に立った。比較的に若年齢層の男性が多く、100人ほどの方が集まった。広島、福岡など遠距離からも来られた方も多かった。研究所の会員になって下さった人も多かった。参加して下さった方、一人ひとりに私は大事な「お客様」と思い感謝したい。民団系人の不参加が目立ち、朝鮮総連の校長先生も参加した。去年北朝鮮親族訪問団に同行するように入国を申請したが出発直前に「不許可」、断わられたことは本欄にも書いたことがある。まだ私には「禁止された国家、フォービデンカントリー(forbidden country)」である。
 昨日は2000年代初め三回行って、比較的に自由に歩き15時間ほどの映像、現場映像から編集していないものを流し、紹介しながら質問を受けて答えた。特に日本はどうすべきかという質問に、私は日本がより積極的に朝鮮半島の平和のために努力してほしいと言った。現在日本は北朝鮮を敵対しているだけのようになっているが朝鮮半島の南北関係を適度な距離を持ちながら中国のように均衡ある外交をすべきと主張した。
 講演会の後に櫛田学長、金田晉理事など10人ほどの知人、友人が研究室で談話した。司会、受け付などにも感謝したい。 

「内部宣伝」

2012年05月19日 05時09分17秒 | エッセイ
 東アジア文化研究所の第一回の講演会を所長の私がトップバッターとして行うことになった。「毎日新聞」に昨日の朝刊に記事として、案内はその他にも報道された。研究所のことではあるが講師が自分自身であるということで案内宣伝は少なめにした。送って負担になるかも知れないと思い遠慮したり数回送っても反応のない人には送らず「自己宣伝だ」と思いがちな人にもお知らせはしないことにしたり厳格に選別し(?)、自分なりになにか審査委員にでもなったような感じであった。
 しかし異例なこともあった。全学教職員会で司会者から私の講演会の知らせがあった。以前にはなかったことである。大学改革を進行中の時期に本当の「改革」の証のように感じられ、また照れくさくもあり、嬉しくもあった。今までフォーラムなどを数多く行っても外部からは良く集まっていただけたが、校内の方々は無関心な人が多かったことから変わりつつあるのかと思う。
 宣伝というと外部へというイメージがあるが、実はもっと肝心なことは「内部宣伝」を怠ってはいけない。近い人に信頼されるようにならなければならない。昨夜私は家内に映像を見せながらリハーサルを行った。さらに重要なことは私自身の準備である。北朝鮮で撮った10時間以上の映像と写真の中から特別な場面だけを選んで編集することはせずにそのままを見せることにした。

「その痛みを私に…」

2012年05月18日 05時24分21秒 | エッセイ
 肋骨2本の骨折の家内と一緒に私の持病の診察を池田先生に受けるために行った。肺の機能をミステリーのように説明してくれた。家内は理解できても私は不十分であったが、後で家内から聞くことにして納得したよう頷いた。体内の一酸化炭素が多く含まれた空気は完全に排出されず、その上外から酸素の多く含んだ空気が入ると体内の残った空気が背部の上部に残っている。肺の上部になる。そこに酸素を嫌う結核菌がつきやすいので肺結核は肺の上部に多いという。私の肺の上部がその菌にやられて石灰化されている。先生はコウモリは肺の位地の上下が逆であり、下位に結核が多いという研究を紹介してくれた。私は古い病巣がまた活躍しているというだけが神秘的だと思った。
 がまん強い家内が痛みがある表情をみながら母を思い出す。私は小学校の時り左手の中指の先が炎症して田舎では軟膏もなく、オオムギの粉に醤油で混ぜたものを塗って、痛く夜眠れない時に母は「その痛みを私に…」と祈っていた。それぞれの母が偉大な人物とは言えなくとも子供にとってはこのような痛みをも共有したから「母は偉大な存在」なのである。

「大人が差別を教える」

2012年05月17日 05時18分56秒 | エッセイ
 毎日新聞の三嶋支局長が4月の人事で新しく赴任した二人の記者と共に私の研究室に訪ねて来られた。三嶋氏は5年目だという。毎週「支局長評論」などの記事を書き、取材、読者との人間関係などで現地住民と友好関係を深めている。人類学者である鵜澤副学長も同席して新任の二人が歴史とジャーナリズムの研究分野の方であり、話が盛り上がった。その話中に私が「バカチョンカメラ」で撮ったという言葉を使って大笑いになった。訳を聞くと私が韓国人で被差別対象であるのに自らこの言葉を使ったからだという。私は全くそんな意味をもつことは知らず、誰でも簡単に撮れるカメラと思い「バカチョンカメラ」といったがそれが差別用語であることを初めて知った。これで日本語が下手だと納得した。否、それより差別を意識しないことを意味するだろう。説明されてから「差別用語」を習得したことになる。それは子供の差別意識をもたない、純粋な心に「大人が差別を教える」過程と似ているのではないかと思った。私の言葉は子供のレベルであろうか。彼らと別れた直後ある会に参加して話題を少し深めるために意見を出したら反対意見が返って来た。ディスカーションとは意見を同意的にやや賛成しながら集めていく過程であることを知らない「話術スピーチ論」は私の日本語レベルと変わりがなかった。