崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

原田環先生から書籍受贈

2012年02月29日 05時59分51秒 | エッセイ
 九州大学韓国研究センターの松原孝俊所長の紹介で日韓文化交流基金から日韓関係の書籍など5、000冊が東亜大学東アジア文化研究所に寄贈されることになった。さらに県立広島大学の原田環先生が定年退職に伴い日韓関係の書籍を寄贈してくださるという電話があった。感謝であり、心が重く感じた。まず彼に「本当の研究はこれからですね」と励ましの言葉を述べた。彼からは「先生を見本にしたいです」という返事があった。
 彼とは長い間教育や研究を協力してきた。『植民地の朝鮮と台湾』の共同編者でもある。彼が愛用した資料を扱うことは心が重い。私は広大を定年退官したときの気持ちを思い起こした。日本研究関係の書籍を韓国の大学へ、韓国関係のものは韓国研究センターなどへ送って宗教関係と原書だけを残した。その後も研究を続けているので手放した本が必要と感ずる時がしばしばあった。研究は楽しみであり、生きてきた証であろう。

「死の宣言」

2012年02月28日 06時28分14秒 | エッセイ
今観ている韓国の連続ドラマで知らざる母子受授の肝移植の話を見ているとき、千葉居住の家内の姉の夫が膵臓の手術をしなければならないという平素より低い声での通話を聞いた。彼は数年前大きい手術をしたのに再び手術を受けるということである。私は手術などと言われると「死の宣言」(?)のように感ずるのに当本人は出勤していると聞いてびっくりしている。勇気のある強い人だと思った。考えてみると私は二十歳頃当時の大病の肺結核、盲腸手術以外は持病を持っていて注意することで一応健康を守っている。結核で死を宣言されて以来50年も過ぎたので長生きと思い、感謝である。家内に負担にならないうちに静かに死んでも構わないと思っている。しかしそれは祈りの題目ではあるが、生き方ではない。それこそ神に任せるしかない。

名刺切れ

2012年02月27日 06時23分22秒 | エッセイ
 昨日今年の「しものせき映画祭」の初実行員会がスタートした。女優木暮実千代メモリアル会との合同会で30人弱のメンバーが参加した。大分の方は知っているが数人はニューフェースであった。名刺交換なの途中で名刺がなくなってしまった。隣席の方は有名な文筆家である藤沢摩彌子氏であった。帰宅して彼女のホームページを開いて活躍ぶりを詳しく知ることができた。『アサヒビール大逆転ーどん底時代をいかにして乗り越えたのか』文春文庫PLUS、『近藤乾之助 謡う心、舞う心』集英社などがある。
 早速フェースブックで名刺を差し上げなかったことを謝りながら自分を紹介することができた。名刺は相手に自己紹介と情報を提供をする簡単な手段である。相手を信頼するということが前提になる。信頼して情報を発信するものである。

台湾の冬

2012年02月26日 05時10分16秒 | エッセイ
 台湾を訪ねてきた女性から聞いた話。女性たちが短い冬のファッションを楽しむためにミンクのコートなどが流行するという。極東ロシアのウラジオストックでは女性たちが短い夏に水着姿で夏を楽しむ為に海水浴場はもちろんのこと市街でも水着姿を見たことを思い出した。台湾とウラジオストックは気候の差があり、女性たちの美の表現が対照的である。服装と身体性の対照であろう。熱帯、亜熱帯に住む人たちは雪を、寒帯地域に住む人たちは熱帯植物とヌードをロマンチックに思う傾向がある。地球化はロマンを広げてくれる。

「杜門不出」の力学

2012年02月25日 05時23分22秒 | エッセイ
 2月は韓国と日本の大学の春休みである。私は寒さを凌ぐために「杜門不出」の日が多い。日本では3月まで長い春休みになっている。一般の職場とは異なり、恩恵を受けているといえる。おそらく単身赴任の教職員や学生たちは里帰りなどで解放感を満喫するだろう。中には休み期間を創意的な時間にしている人も多いだろう。
 今私のパソコンには多くの原稿が寄せられている。一つは3月に中国の中山大学で行われる「東アジアの人類学と歴史学」に参加する人たちのブログ式の投稿が毎日数件づつ配信されてくる。私は末成道男、伊藤亜人、嶋陸奥彦などの諸氏と久しぶりに会うことを楽しみにして準備中である。
 もう一つは上水流久彦氏などが中心に若手の学者たちとの共著の巻頭論文を書いている。締め切り過ぎ、急いでいるが、執筆者たちの論文が次々配信されてくる。また井上紘一氏訳の出版のための編集とゲラを頻繁に交信する。
 私の作業テーブルには花、筆入れ、薬箱、お茶、電子辞典などの上に数冊の人類学関係の英語原書が開いたままになっている情景である。お客さんが来られるときはきれいに片づけて花一つだけで美化する。
 昔の学者は「杜門不出」にて読書などで練磨し、「科挙」試験に合格「壯元及第」、出世、官僚に「登龍」して、錦を飾り帰郷、権力を振る。下関からの芥川賞受賞者がまるで「壯元及第」のようである。休みはその「登龍」に向けての潜伏期であるようにすべし。

炭焼き朝鮮人

2012年02月24日 05時30分00秒 | エッセイ
 在日教会の高齢の女の方から炭焼きに日本に来たという話を聞いて数年過ぎた。彼女はすでに亡くなっている。いつか詳しくお話を聞かなければならないと思っていたのに新しい情報が入った。昨日倉光氏から珍しい話を聞いた、彼は在日教会に出席して小学校の同窓生の先輩の女性氏に会えたのは偶然の偶然と思っていたが、昔の話で彼女の家が驚いたことに倉光氏の隣家であったという。何という奇縁、その偶然の偶然を氏は神様によるものと言っている。私は戦前朝鮮から来た人がなぜ山村に住んだか疑問を持っていた。炭焼きの話が出た。昨日の話から炭焼きの生存者に会えるように頼んである。近いうちにインタビューができればと楽しみにしている。
 歌手の李陽雨氏を思い出した。彼の歌を数回聞いたことがある。
  俺のおやじは炭焼きおやじ 
  俺はその背で夢を見た 
  山から山への流れ者 
  眠る所も窯のそば 
  俺のおやじは炭焼きおやじ
  俺はその目に影を見た
  山を切っては道開き
  雨が降っては流された

  本も読めねえ炭焼きおやじ
  悲しい手紙に微笑んだ
  俺が学校へ入った時に
  初めて流したおやじの涙
 そして李陽雨氏の「すみやきの歌」の来歴を聴きたい、聞きたい。彼は下関生まれの在日韓国人二世、父親は下関に移り鬼ケ城の中腹、豊浦町など山奥で炭焼きの仕事をした。小学校時代に炭焼きを手伝ったという。

東亜大学東アジア文化研究所News Letter No.1  2012/3/1

2012年02月23日 06時31分46秒 | エッセイ
東亜大学東アジア文化研究所
News Letter No.1  20123/1

研究所の設立にあたって
東亜を謳う東亜大学は創立発起以来、一貫して「国際的な場で学際的な研究・教育を実施し、大陸への門戸としての機能を長く果たしてきた下関に位置する教育・研究機関として、東アジアとの結びつきを意識してまいりました。
建学の理念にのっとり、東アジア圏を強く意識した研究活動の拠点を構築し、その成果を広く世界に発信するとともに、地域社会の発展に還元することを目的として東亜大学東アジア文化研究所を設立いたします。
海外交通の手段を空路に譲った現在も下関には大陸を近く感じる文化意識が継承されています。これを火種とし、東アジア研究を推進するエネルギーを大きく燃焼させたい、そして、本研究所がその一翼を担いたいと願っています。
    2011年12月10日 所長 崔吉城

発起人:穴見幹男・有福孝岳・石崎幸亮・石本弘之・金田晋・川村博忠・韓賢澤・ 木村健二・櫛田宏治・佐々木正一・野村忠司・林孝介・古川薫・松原孝一

創立記念講演会・シンポジウム
日時:2011年12月10日(土)2時
場所:東亜大学13号館102教室
基調講演:朝鮮通信使にみる日韓文化
仲尾宏(京都造形芸術大学客員教授による基調講演が行われ、朝鮮通信使に関する研究知見が解説された。文禄・慶長の役(壬辰倭乱)によって日本へ拉致された民間朝鮮人を祖国へ連れ帰ることを目的として始まった朝鮮通信使は17世紀以降12回に及んだ。通信使の役割は朝鮮国王の回答国書を江戸幕府へ届ける外交業務にくわえ、贈答品の交換、役人と学者たちの交流を含む誠実な文化交流であった。
シンポジウム
朝鮮通信使行列図にみる文化表象
古城春樹(長府博物館長)は「朝鮮通信使登城行列図」(長府博物館所蔵)から朝鮮人のたばこや酒が好きなことなど観察したことなど絵解き、解読した。
尹芝惠(西南学院大学准教授)は・「絵画にみる江戸庶民と朝鮮通信使」で北斎は朝鮮人を異国風に日本人と弁別化したと述べた。
平野綿子(蘭島文化振興財団学芸員)は「朝鮮通信使の展示と観光」で史実に基づきながらも地域性を表すと言った。
魯成煥(蔚山大学校教授)は地域の原資料から地域民の意識を深めるべきとコメントした。

研究会報告
第一回研究会
東洋大学・アジア文化研究所の共催で行った。
2011年8月27日(土) 13:30~17:00
会場:下関市・東亜大学13号館7階 
崔吉城:「日韓境域研究の回顧と展望――引き上げと証言」
<報告> 
松本誠一(東洋大学):「日韓境域研究の時代区分と『跨境人』のタイプについて」
木村健二(下関市立大学):「日朝間の人の移動をめぐる諸論点ー最近の日本移民学会の研究成果より」
礒永和貴(東亜大学):「日本人の植民地へ移動」
李良姫(東亜大学):「日韓境域における観光移動-過去と現在」
井出弘毅(東洋大学):「巨済島キリスト教会」
<総合討論>
宮下良子(東洋大学・アジア文化研究所 客員研究員)

第二回研究会
 国立民族学博物館の関雄二教授を代表とする科研プロジェクトチームの一人として参加した本学の鵜澤和宏教授がこの夏ペルーで調査した映像を使いながら発表をした。調査現地にたどり着くまでの道のりは険しく、遠い。そこを調査地にしたのは東京大学の泉晴一教授が1950年代調査を始めて以降続けて調査研究をしているという。そのご永い間調査成果が蓄積されている。鵜澤教授はその最先端の研究成果を発表した。動物の骨や人骨などから食生活を中心に発表され、中でも人間の肉を食べたということに質問が集中した。一般食であったが、儀礼食であったか。社会体制や宗教との関連などから幅広く検討されるべきであろう。学際的な研究テーマでもある。
 

活動報告
<図書寄贈>
木村勘太郎文庫郷土資料約3、000冊、倉光誠氏を通して寄贈された。
日韓文交流基金から約5、000冊
山本孝夫氏から『柳宗悦選集』(全10巻)他寄贈
<開所式へ支援>
関科学技術振興記念財団から100,000円、祝義:石崎幸亮氏、石本弘之氏、郭賢国氏それぞれ1万円、信用組合広島商銀(缶ビール1箱)など
<メディア報道>
「毎日新聞」シンポジウムなどを主催するほか海外との学術交流し、情報の発信、公開講座などによる地域貢献を目指す。2012.1.7三嶋祐一郎
「朝日新聞」(2012.1.30「国を超えて生きなさい」昨年できた東亜大(下関市)の東アジア文化研究所の初代所長になった。「学問は一代ではダメ。続かないといけない。いろいろな研究者を育てていきたい」と目標を語る(白井伸洋))
「読売新聞」2011.12.11韓国、中国などの東アジア文化を中心に、人文・社会科学を含む分野を研究対象にし、研究成果を発表する。
「山口新聞」(2011.12.14、2012.2.6「月曜インタビュー」)
 
発行人崔吉城
ホームパージhttp://www.geocities.jp/dgpyc081/〒751-8503山口県下関市一の宮学園町2-1東亜大学2号館7階
http://www.toua-u.ac.jp/index.htm 代表電話:083-256-1111

悪評を書く人

2012年02月22日 06時13分58秒 | エッセイ
今朝のブログはgooのメンテナンスで遅くなった。その代わりにフェースブックに知人の文化人類学者太田心平氏の記事にコメントを書いたのでそれをここに紹介する。彼の投稿文は次のようである。

 私が某大学で担当していた「文化人類学」という講義の感想が、某情報提供サイトに出ていた。今にも増して未熟な内容だったにも関わらず、好評が多くて驚いた。でも、もっと驚いたのは、たった一つの悪評が意味すること。「わけがわからない。興味のない人には無理です。先生は若くておもしろいけど・・​・レポートも苦戦。その上、出席不足で落とされてしまいました。」

 私は本欄でも以前数回書いたが、私は長い間教壇に立っており、そのようなことは多い。講演などをしたら礼状と一緒にアンケート文を同封して送れてくれる。無名の文で好評が多いが中には悪評が入っている場合もある。二つ最悪なものが忘れられない。拙著『韓国民俗への招待』(風響社)の序文にも書いたことがあるが「朝鮮人帰れ」であり、もう一つは「この人を貴大学に採用しないで」なとであった。言葉を忍ながら書くには放題なのか。実は文字に残すことが大変であろう。
 そのような人はネガティブな人、成績の悪い人、失敗がちな人が多いことが経験的に分かる。上の文中にも「レポートも苦戦。その上、出席不足で落とされてしまいました。」というのがそれである。しかし教育者はそのような学生に知識だけを教えようとせず、そのネガティブな態度を肯定的に変えようとするのが使命であろう。

 

ドラマで日本語

2012年02月21日 06時07分18秒 | エッセイ
 最近韓流ドラマ以外に日本のドラマを楽しんでいる。「平清盛」「運命の人」「相棒」などである。字幕を付けて日本語に耳を傾けながら視聴する。字幕を読むにはまだ字幕が消えるのが早く感じるのでまだ日本語が十分ではないが日本語の聞きとり練習を兼ねている。私の日本語が熟練されない理由を反省的に考えてみる。その一番の欠点は日本に住んでいたら日本語は「自然にできるようになる」と信じた誤解である。英語には本を読み、ニュースなどでリスニングなどに努力しながらも日本語にはそのような努力を一切しなかった。言葉の熟練には言語環境と共に学習の両方が必要であることを遅すぎた今になって納得したのである。
 日本語の勉強をしよう、それはドラマや映画を観ることである。山崎豊子氏原作の「運命の人」を楽しんでいる。私が日本に留学した1972年沖縄返還をめぐる政治的スキャンダルが主題である。「平清盛」は字幕なしでは言葉自体が問題である。日本人で字幕なしで正確に聞きとって理解する人は少ないと思う。多くの人はむずかしいけれども「楽しもう」を前提にして観ようとしているのであろうと思ったりする。日本語は十分ではないが、知っていることをより深めるのは楽しい。

「温暖化の話は遠く飛ばされた」

2012年02月20日 07時25分40秒 | エッセイ
 ベランダの温度計が昨日朝この冬二回目の零下になっていた(写真は窓から見た降雪の中の関門橋)。この冬の寒さは日本だけではなくヨーロッパまで広がっている。暖冬であればマスメディアが温暖化に関して多く記載するのに黙っている。家を出るとき「温暖化の話は遠く飛ばされた」と話したばかりなのに会った人から「温暖化はどうなっているのだろうか」といわれて全く同感の人がいることを知った。寒さも暑さも生物にとって困惑である。曼荼羅には地獄図が描かれている。チベットなどではこの世で悪行をした人が寒い氷上に裸で出されている画像を見た。日本などのものには火山地獄が一般的である。日本では暑さと寒さが交代する。また雪と雨が交代する。地球上には洪水の多いところ、いまアフリカの中西部の砂漠は干ばつで大変なニュースを聞いている。日本は四季と雪や雨も豊富であるが、地震も多い。温暖化が地球の異変を起こすといわれるが、光と熱が無くなることはさらに絶望的であろう。

「回復」

2012年02月19日 06時07分25秒 | エッセイ
天皇の冠動脈バイパス手術が無事終了したという記者会見があった(写真は産経新聞)。ベストの医療陳でベストの手術であったことは納得し嬉しく思っている。これからはただ「回復が順調なら」という言葉を信じて回復を待つしかない。ある医療解説者は「回復」は患者本人の健康状況や前向きの態度によることだといった。つまり医術に最善を尽くしてからは人の生命力による回復を待つ、祈る心に通じる言葉のように受け取られる。最先端の医学の医者が「回復」は生命力の神秘さに頼らざるを得ないというように聞こえる。
 何でもプライベートと煩いこの国で天皇の手術については詳しいのが気になった。もし病名が知られたくないものであればどうするつもりだったのだろうか。このように人の病状を詳しく公開する前例を作ったらプライベートは侵害されるだろうと思う。戦前には「現人神」とされた天皇が人間宣言、病気になられたり人間的であることは良いが、プライベートの侵害はならないように配慮すべきだと思う。


「日本人はマジメだ」

2012年02月18日 05時04分33秒 | エッセイ
「日本文化論」の講義は楽しく短く感じて終わった。最後の時間では外国人から「日本人はマジメだ」と言われている真面目さに触れた。真面目さは別に努力するとか、創意的な精神構造ではなく、むしろ失敗やマラソンなどで遅れながら最後まで走るような生活の態度を指す。真面目はただの怠者、失敗した人を指すのではない。頭が切れる人が溢れる現代社会に真面目な人が好まれるのは当然であろう。それほど注目されず同じ場所で数年間路傍演説をした「まじめさ」で総理大臣になった野田氏は典型的な真面目な人であろう。しかし「真面目さ」には度が過ぎると窮屈、従順さなど否定的にみられることが多い。立身出世のために見せかけの忠誠などのような偽りの真面目さの毒である。それは競争で勝つ方ではなく、負ける方であろう。しかしそれは偉大な力を持っている。素直な人柄そのままの真面目な人は美しい。岩下君はレポートで崔先生が「日本が世界で勝てるのは真面目さだけだね」と言った言葉を聞いて、真面目に考え直すいい機会になったと述べた。

孤独な群衆

2012年02月17日 06時01分07秒 | エッセイ
 消費文化の一つが節約であろう。私は家内のショッピングについてスーパーなどを回ることが多い。個人の嗜好とはいっても日韓の食文化の特徴が表れることに気がついた。米、豆腐などは共通、異なることは家内は魚、乳製品を好み、私は肉と揚げ物を選ぶ。家内が豊富に買うのに対して私は少量にする傾向がある。私は食品については節約精神が常にある。しかし家内は節電にうるさい。
 人によっては贅沢やお洒落などの視点からも節約部分が異なるだろう。サハリンのロシア家庭にホームスティした時の食事は質素でありながら街ゆく人々の洒落た服装にアンバランスを感じた。より本質的な節約は時間であろう。ラッシュアーワで急いで動く人波のなかに行くところもなく、デイヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』のように人生の空しさを感ずる人もいる。時間をどう消費するか、節約するかが生き方そのものであろう。

恩師と通話

2012年02月16日 05時58分36秒 | エッセイ
 ソウルの恩師の李杜鉉先生と電話で話をした。90歳近い高齢であってもはっきりとした通話ができて嬉しかった。丁度出版社社長が新しく出版した先生の本が出来上がったので先生のお宅にお届けに行き、先生自身が手にされて嬉しさで興奮して叫んぶような声であった。喜びをそのように大声で言うのを初めで聞いた。数年前先生の全集出版会を立ち上げてから最初の出版物であり、私も微力ながら協力できたので嬉しかった。原稿を出版社に渡してからは早く出るように「遺稿になるのは嫌だ」と何回も催促したのである。私は時々「遺稿は嫌だ」という言葉に引っかかる。先生はお母様の信仰を引きづいだクリスチャンでありキリスト教の「永生」の霊魂観をもっておられるであろう。「死ぬまで働きなさい」という信仰であろうか。私は本欄で時々「残すために」という言葉を記した。実はその言葉も難しい言葉である。

下関韓国教育院金起萬院長に表敬訪問

2012年02月15日 06時18分54秒 | エッセイ
 下関韓国教育院を訪問して金起萬新院長に会った。日韓親善協会の常務理事石本弘之氏、慶尚南道派遣公務員の郭賢國氏を誘い同行した。私が下関に来て李永松氏、徐聖淑氏そして彼は3代目になる。5か所で韓国語担当の講師と文化活動をするのは負担が重すぎると思うが頑張ってほしい。彼はすでに私のエッセイ集を読んでいて予備知識を持っていたが私は彼に対して韓国の何処出身であるかなど、探索の初会話であった。観光地として有名な済州島出身で、我が故郷の隣町の徳亭で高校の教員、後に水原で校長をして、ここ下関韓国教育院院長として赴任したという。共通の話題は豊富に持っている方である。私たちは協力しあうことを約束した。赴任したばかりの彼が異国での生活が大変だとは思われるが、楽しいことでもあると先輩として励ました。私も数多くの場所に移り変わりながら生きて来た。私の人生遍歴には損と得があったはずである。それは移動する人類史のような運命的なものと受けとめている。(写真は左が金、右が徐、山口新聞2,6)