崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

クーデターによる大統領

2013年05月31日 03時41分38秒 | エッセイ
 私は10年ほど前に朴正煕大統領のセマウル運動が日本植民地時代の農村振興運動から来たものであると論文に書いたが、それがアフリカでもモデルになっているという。〝アフリカの朴正煕大統領"と呼ばれるウガンダのミューズベニ大統領が韓国を訪問して首脳会談し、彼は朴正煕氏を尊敬し、セマウル運動のような経済開発で高度成長(年平均10%)を推進している。アミン大統領をクーデターで倒し、政権を握り、27年以上の長期政権をとっている。朴氏がクーデターにより政権を握り、独裁をした。長期政権を構築するために維新憲法を作ったが、暗殺された。ベニ大統領は朴正煕氏をモデルとして成功させたと言える。クーデターで、軍事的に政権を握って政治や経済を振りまわし、経済開発を行い、独裁であっても後に良く評価されるというモデルになっている。それは本人だけのことではなく、社会的な風潮にもなっている。歴史から見ると李王朝の始祖の李成桂、朴正煕などの例である。それはアフリカなど普遍的ともいえるようになった。社会には論理はあっても倫理はうすいようである。 

「開城」李成桂一に暗殺された鄭夢周

2013年05月30日 03時31分58秒 | エッセイ
 昨日の読書会で倉光誠氏が1920年代初め頃のエッセイ「古都めぐり」で開城を紹介した。軍事クーデターにより高麗王朝を滅ぼして1392年李朝を建てた李成桂によって、漢陽(京城)、今日のソウルに遷都するまでの間、開城は高麗の都であった。李氏朝鮮の始祖である李成桂は政権を握って500余年の首都を今のソウルである漢陽へ移転し、開城は政治力を失い経済に専念して経済都市になった。開城人といえば小便も舌で味わって売買するというような「計算高い人」と言われるほどになった。
 そこが朝鮮半島の南北関係の融和の象徴的な開城工業団地になったのは歴史を引き継ぐものなのか、それとも単に分断境界線という地点の利点であろうか。今、そこから韓国人が全部撤収し、南北関係が再び緊張状態になっている。その近くには板門店があって私は2002年板門店を見物し、平壌への帰路に、開城で昼食をとって松嶽山を眺め、高麗博物館を見学したことを思い出す。その高麗の古都の開城市の歴史遺跡が世界遺産として登録されることが確実となった。2004年高句麗壁画古墳が世界遺産に登録されたのに続くものである。
 世界遺産登録の文化遺産は開城の城、満月台と南大門(写真下)、高麗の初代王の王建陵、成均館、高麗朝を擁護した儒学者である鄭夢周が李成桂一派によって暗殺された善竹橋(写真上)と表忠碑、鄭夢周が住居しながら教育した陽書院など10余項目である。昨日のエッセイでも李成桂派によって暗殺された鄭夢周をめぐる遺跡の話が多かった。私は以前もう一人の犠牲者の崔瑩将軍の恨みが民間信仰化されたことについて「大韓民国学術院論文集」に寄稿したことがある。今下関で源氏に負けた恨みの平家物語りを日常的に聞きながら暮らしている。負け、犠牲と恨みはどこにもある。

アリラン

2013年05月29日 03時59分32秒 | エッセイ
3日間の「日韓平和コンサート」が昨夜宇部公演で終了、公演毎のフィナーレではアリランの斉唱であった(写真)。日韓関係の悪い時期に日本の中でアリランが歌われ、アリランが韓国の民謡であってもユネスコの中国の無形文化遺産として登録されたということは何を意味するか。それについて「東洋経済日報」連載に寄稿した私のエッセイを以下に全文を紹介する。


 
アリランが中国の朝鮮族の民謡としてユネスコの無形文化遺産として早く登録されたことに韓国の「韓民族アリラン連合会」は抗議声明を出して、それが中国に奪われたと遺憾に思っている人が多いようである。それが韓国の民謡としても登録されたとことは本紙にも報道された通りであり、おめでたいことである。私はアリランをもって国籍云々すべきではないと思う。

アリランは韓民族の代表的な民謡である。この歌は単純で、歌詞は「アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を越えて行く 私を捨てて行かれる方は 一里も行けずに足が痛む」であり、地方によって歌詞とメロディが訛ったり変異したりしている。「アリラン」とは掛け声のようなものであり、気分がいいときに自然に鼻や口から、漏れて出るメロディの小節の掛け声か感嘆詞のようなものであろう。民謡には「アー」「アリ」「アリアリ」「スリスリ」などが多い。「アリラン峠」とは特定の地名ではない。峠とは何だろう。村と村の境界を指すものであろう。特定なる地名とは思わない。昔話に出る地名の様なものであり、それは注目すべきではない。その峠を越えって去っていく恋人の姿を見て涙汲んで立っていることを想像してもよい、その別離の歌である。

私の故郷にも峠があり、そこに村神の長(ちゃん)栍(すん)がたっている。それを超えると異郷のような村と繋がる。伝統的には小さい村が小宇宙であり、全世界のようになっていた。その共同体は外のものとは異なっていても伝統文化は同様である。われわれはその峠を何気なく越えて広がっている。アリランの歌は何処でも無限に聞ける。南北が分断されて国家が異なって、国歌が異なってもアリランは一つである。アリランは「民族の歌」として歌われている。

民謡には作詞者や作曲者たるものがいない。しないのではなく知らない。芸術界では個人の個性や創造の作品が高く評価されていわば名前をもつようになり、「有名」となる。しかし歴史や伝統の中には個人の有名さをはるかに超えた多くの民芸、民画、民謡などがある。それらは個人を越えたもの、否個人が集団や社会に埋没され超然となったものである。

アリランは韓民族に唄い継がれ、普遍性をもっている。19世紀中国の東北地方へ、そして沿海州へ、サハリンへ、そして中央アジアへ、戦後アメリカなどへ移民や動員などで故国を離れながらもアリランを唄い続けた。世界に散らばっている流浪民や移民によって広がり、さらに他民族にも愛唄されるようになった。今は電波とネット上からグローバル化されている。

アイルランドやスコットランドの民謡も世界的に広く愛唱されている。その民謡から讃美歌に普及したが、後にアメリカから日本の教科書の唱歌へ、それが韓国へ愛国歌のように歌われ、韓国固有な民謡のように思われがちにもなっている。アリランには国籍はない。皆が唄ってほしい。

「原爆は神の懲罰」再考

2013年05月28日 04時21分04秒 | エッセイ
 昨日のブログとFBに「原爆は神の懲罰」についてお二人のコメントが寄せられており、もう一度私の見解を述べさせていただきたい。堀光伸氏は「原爆は神の懲罰」などと戯言を言っていると「キリスト教神学でも良いし、宋明生理学でも良いし、仏教でも良いが、如何なる「神学的根拠」により、そのような論理を組み立て得るのか、ぜひ問い糺したいものである。」(FB)と言っている。 
 また匿名の方は以下のように書いている。

  
 
 米国には、原爆投下によって戦争が早期に終結したとの見解があるので、原爆投下のおかげで、朝鮮半島に光復が訪れたと考える人がいることは、理にかなったことです。それを「原爆は神の懲罰」と新聞に書いてしまったら、下品な表現ではありますが。靖国神社遊就館を見学したことありますか。支那事変の展示室には「天に代りて不義を討つ」の歌が流れていることがあります。日本の閣僚は、そういう施設をもつ神社に、こぞって参拝しているのだから、韓国でも、「原爆は神の懲罰」と書いた記者に、大統領が勲章を贈ったとしても、それほど目くじら立てることはないと思います。「原爆は神の懲罰」の記事のために、在日韓国人の中には、仕事や生活が、多少、しにくくなる人があるかも知れません。しかし、米国の新聞に、原爆投下のおかげで戦争が早期に終結したとの見解が示されても、在日米国人が仕事や生活に不利益が生じることは無いでしょう。この違いが問題なのであって、「原爆は神の懲罰」記者が、安全地帯においての発言であることを批判するのは、ちょっと違うのではないかと感じます。そんなにおかしいですか。


 上のお二人の意見は一般的に原爆に対する相反する二つの意見といえる。生命倫理から考えてみる必要があろう。まず神罰や、刑罰によって殺されるべきではない「無辜な市民」を殺した原爆投下が正当性を持つかという問題である。次の問題は「戦争が早期に終結」して多くの命を救ったのではないかという考え方である。言いかえれば無辜な市民を犠牲にして命を救ったのが正当化されるのかという問いかけである。もしこれが正しいのであればあらゆる戦争やテロが神のプレゼントになりうる。核は国民を守る宝物になるかもしれない。「無辜な市民を犠牲にしてはいけない」という基本人権を犯すことで、如何なる「神学的根拠」によっても原爆は神の懲罰にはならないと思う。

「原爆は神の懲罰」

2013年05月27日 04時18分59秒 | エッセイ
 昨日梅光大学のスタージェスホールで行われた日韓平和コンサートの最初の挨拶にたった。話の中で一瞬日本語の「辛い」ということばと韓国語の「つらりん」쓰리다と混同したが何とかまとめることができた。私の話のポイントは二つ。一つは政治的な関係とは全く異なった民間レベルでの日韓の交流時間の意味についてである。その背景には「原爆は神の懲罰」というようなことばがある。そこでは触れる時間がなかったが、その言葉は終戦直後韓国の牧師が語り、また最近の大震災について世界最大の韓国キリスト教会の牧師の趙容基氏によって語られ、その度非難を浴びせられたが、この度中央日報の掲載「原爆は神の懲罰」で怒りの声が噴出している。その筆者は堂々とインタビューで自信を持って語っている。それは正しい識見なのかと問いかけたい。まず韓国という国家を背負って安全地帯においての発言ではないか。私は彼に言いたい。韓国の古典の『三国史記』の「雷は天罰」という古い識見をお持ちの方なのか。もしキリスト教からの御言葉であれば罰や罪はもっと自分向けの良心のことであろう。
 そのくらいの歴史認識と比べれば、昨日の日韓平和コンサートはレベル高いものであった。日韓の交流時間、韓国から4人の牧師と5人の中高生、山口県外からもアーテストたちが登壇して楽しい時間を過ごした。200名以上の人が参加して3時間の日韓の歌・音楽・語りそして最後にアリランで閉めた。彼らは朝からリハーサルを行っていた。私は照明や音響などにコメントをしてから3人の韓国の牧師をお連れして下関韓国教会へ行き、礼拝後に本番に参加した。事務局長の鍬野氏をはじめ実行委員の勝原氏、田辺氏、山下氏、河崎氏らの進行で素晴らしい公演ができて感謝している。今日は防府、明日は宇部で公演が行われる。(写真上から会場、毎日新聞、山口新聞)
 

内務班生活

2013年05月26日 05時28分32秒 | エッセイ
 韓国の蔚山大学校の日本語日本学科の学生たちが本学で2週間の学習を終えて、萩と島根へ向けて出発するのを見送った。一学期日本での学習が続く。彼らは我が教職員や学生たちに良い印象を残した。私の授業にも彼らの良い感想文が残っている。送ってあげるつもりである。大学関係施設に泊まったが、先日そちらから団体客としては最高の客であったとよいコメントをいただいた。ごみは分別して捨てるのはもちろん、空き缶などもきちんと洗って捨てるのは日本人のお客さんもあまりしないことだと、管理者が感動したと語ってくれた。彼らを見送った本学の日本人学生は蔚山は韓国のどの辺か調べたといった。これから友だちになりそうである。交流を期待する。(写真20130508_083315.jpg)
 このような蔚山大学生の例は韓国人全体を表すものではない。その学科で日本語とともに日本文化を教え、日本でスムースに体験できるように教育した先生たちのご苦労が感じる。20人の中には兵役を終えた5人の男子学生が混ざっている。軍隊の「内務班」生活を経験したのであろう。旧日本軍の遺産とも言われる内務班は体罰や人権を犯す病巣ともいわれるが、団体生活の基礎訓練にもなるので肯定的にも評価されている。特にその訓練の激しい海兵隊出身の就職が良いという。今度の学生たちは全員軍隊の教育の影響ではないが、集中教育の成果と思える。彼らが社会生活を意識していることを私は強く感じた。日本の明治、韓国のセマウル運動の指導者たちは社会を変えようとする意識が強かった。それは近代化の力であった。私はこの度、そのパーワーを感じた。

『アジアの人類学』

2013年05月25日 05時49分59秒 | エッセイ
 昨日は東亜看護学院の事務所や施設を見せていただき、事務局長のご自宅の庭の花見をした。山道12キロを走って山中の竹林の洋屋は花園そのものである。そこから帰宅、俗世に戻ると残影が理想郷のように映って来る。
 私は最近エッセイを書きながら読む態勢が大きく変わったことを自覚している。そのエッセイでは資料を集め比較するか検討することはしない。主に思考と感性について書く。読む時も人の考えを中心に読み取る。ネット上のモザイク式の文章、あるいは以前の文献を並べる様な叢書的なものには関心が薄い。フィールドワークにて書かれた本をここに紹介する。
 先日いただいた『アジアの人類学』(片岡樹・シンジルト・山田仁史編)を読む。筆者らのフィールドワークで見て書いたものに心がひかれる。「焼畑」「牧畜」「狩猟採集・漁撈」「モノ」「親族・ネットワーク」「ヨーロッパの中のアジア」などが書かれている。初めから目を通して、角南総一郎氏の「モノから見たアジア文化」に目が留った。角南氏とは民族学博物館での研究会で長く議論したこともある。彼の博識と思考に再会する気持ちであった。「フィールドワークに出かけてこうした違いを視覚的に認識することはすでに物質文化研究の入り口に立っていることを意味するものである」。モノを見て考える視線である。私は考える。植民地の以前と以後の文化の異動と、今のグローバリジェションによるものの差は何だろう。これから4年間東洋大学の植野弘子氏の科研で議論を広げたい。



「映画『陸軍』『真空地帯』を語る」(「長周新聞」5月22日)

2013年05月24日 05時43分14秒 | エッセイ
 「長周新聞」(5月22日)の記事を全載する。

「映画『陸軍』『真空地帯』を語る」と題して、東亜大学東アジア文化研究所・崔吉城所長(東亜大学教授)と作家・古川薫氏の対談が、一八日、下関市の東亜大学で聞かれた。主催は田中絹代メモリアル協会。はじめに昭和一九(一九四四)年に公開された、木下恵介監督の『陸軍』が上映された。この映画は戦意高揚を目的として陸軍省の依頼でつくったものだが、小倉で質屋を営む高本家とその周辺の人人を描くなかで、戦地に息子を出征させる親の葛藤が描かれている。
 息子が所属する連隊の行進に母親がどこまでも追いすがっていくラストシーンが情報局の怒りを買い、木下恵介は次作の制作を止められた経緯かおる。
 上映後、崔教授は「この映画は軍部のプロパガンダ映画と見るむきがあるが、息子を見送る母親が″うれしい″といいつつ悲しみの涙を流す心情を描いた名作だと思う。どう評価するか」と投げかけた。
 古川氏は、自身も兵隊を志願した一九歳のとき、この映画を見たと明かしつつ、「死に赴く若者としては、母親が泣くということはもっとも辛いことで、こういう映画はつくってもらいたくなかったというのが当時の気持ちだった」とのべた。そして「この映画は軍部の応援でつくられたが、そのなかに木下恵介の非常に慎重なたくらみがあったのではないか。″神風が吹くから日本は勝つ〃というのを滑稽な姿と見せる場面、息子が戦地に行くことを免れたことを母親が“良かったじゃないの”という場面、最後の息子の出征を見送る母親の葛藤を描いた場面など、全編で軍部と逆のことをいっている。この映画を見て軍部が烈火のごとく怒った。それは一般庶民が共感したからだ」とのべた。
 それを受けて崔氏は「戦前、軍国主義に乗せられていたのに、戦後になったとたん平和主義者であるような行動を取る者がいる。そういう安易な平和運動家が多いと思う。韓国でも戦前、日本の指導者に忠実にプロパガンダ映画をつくった者が、戦後になってすぐに反日映画をつくったりしている。それは自分が芸術家として権力者側から認められるためだ。だから表面的な見方ではその映画の価値はわからない。作家が戦争に対してどういう態度をとるのかという根本的な問題だ」と指摘した。
 古川氏は「戦後になって『真空地帯』という映画ができ、それは戦前の映画よりももっとリアルに軍隊の非道さを描いた。しかしそれは、作家自身が安全地帯にいて″こんなことがあったんですよ″といった作品ともいえる。ロシア革命があった当時、その影響で日本でも傾向映画というのがはやったが、多くは時流に乗ろうとした商品だった。そうではなくて、戦時下でもっと真剣に抵抗する作品をつくった作家があった。治安維持法かおり、当時戦争に反対することは命がけだったが、日本人がなにもしなかったとはいえない」とのべた。
 崔氏は「映画の制作に携わる作家や俳優がどういう生き方をするか、また見る者がそこからなにを受け取るかという問題ではないか。そして、それは過去のことではない。今マスコミが盛んに流すものにプロパガンダ性はないのか。マスコミがことさら選んでクロー
ズアップする話題を見ると、国と国との政治的対立にもっていこうとするものがある。市民がそれをきちんと認識しないと、マスコミに流されれば、口で″平和″といっていてもそれは無力だ」とのべた。
 会場からの質疑応答のあと、崔氏は「すぐれた文学や映画は人が生きていく糧になるものだ。今現在でもマスコミのプロパガンダだといえるものはたくさんあるが、それに流されず、正しい情報を得ていかないといけないし、それができる生き方を確立しないといけない。そのために市民のネットワークを広げ、仲良く生きていける社会をつくっていきたい」としめくくった。

映像の調査ノート

2013年05月23日 04時53分40秒 | エッセイ
 私の現地調査ノートは大学ノートなどで筆記と写真を貼ってあるものである。そのノート量は多い。60年代からの日記、80年代からの調査ノートは今はごみの様なものである。しかし私の個人史や研究史であるが数年前から映像ノートに変えた。特に10年ほど前からはブログが日記のようであり、最近はフェースブックにも公開している。それは日記のようなものではあるが意見や主張を公開するものであり、全く私的なものではない。いつの間にか紙のノートよりビデオカメラに収録し、ノートに代わったのが特徴である。したがって私の映像はあくまでも調査ノート式のものであり、テレビのように公開することを前提にしてはいない。日付や場所などはもちろん生き生きしている映像を見ながら調査報告書を書くのは楽しい。ただカメラやレコーダーとテープなどが古く、最近の機械には対応しないものもあって切り替え収録しているが、時間の経過により画像が悪くなったものも多い。
 私は最近講義に自分で撮った映像を上映することがある。映画監督・映像会社であるビジュアルフォークロアの北村皆雄氏は私の映像を編集して国立民族博物館やある大学の日本文化研究所の展示会などで放映している。ドキュメンタリー映画とは違った日常的なものを撮った資料映像ではあるが、時間が過ぎて歴史物語り性が感じられるようになっている。数日前、直木賞受賞作家の古川薫氏と対談したのを映像作家の権藤博志氏が録画してユーチューブに公開すると言うので期待したい。私の映像ノートも公開したい。そしてただの映像が歴史をもち、一般に共有されることを楽しみにしている。私は老いても先端技術に乗り遅れないように今日も頑張っている。

「独島は韓国の地」

2013年05月22日 04時06分48秒 | エッセイ
韓国の「世界日報」は日本の歴史学者の久保井规夫、田伊彦、坂本悠一、一户彰晃の諸氏が釜山で記者会見を開き竹島(独岛)は韓国領土である、江戸幕府が独島を朝鮮の領土と表記した地図「日本舆地路程全图」を公開したと報じている。日本人がわざわざ韓国に行って記者会見をしたという異様な風景として報じられている。それ自体の当否はさて置き、私は韓国人が他国でそのような行動をとったらおそらく国民的バッシングを受けるだろうと思う。アメリカであれば、日本ではどうなのだろうか。
 アンダーソン氏によるとナショナリズムは国家によって創られた「想像の共同体」であるという。もちろん故郷を懐かしく思うような自然なノスタルジアのような純粋な感情もある。それは大切なものである。今中国や韓国との関係で一番難しいのはナショナリズムの程度の問題である。このニュースを伝えている「世界日報」のような新聞のナショナリズムはどうなっているのだろうか。少なくとも学者や知識人がナショナリズムを克服しなければほんとうの世界化は実現できない。

飯島参与の訪朝

2013年05月21日 04時45分47秒 | エッセイ
飯島参与が訪朝し、最高人民会議常任委員会の金永南委員長と談話したことを北朝鮮のメディアが毎日報じた。朝鮮外務省の宋日昊日朝国交正常化交渉担当大使をはじめとする関係者らが同席した。これに先立ち朝鮮労働党中央委員会の金永日書記とも談話した。17日午後、訪朝日程を終えた一行を、朝鮮外務省の関係者らが空港で見送った(朝鮮新報)。日本でも連日騒ぎ、報道されている。ワイド討論番組では口を揃えて語っている。政府側は「圧力と対話」「ノーコメント」に対してマスメディアでは拉致問題が大きく取り上げられている。「圧力と対話」という喧嘩腰立場では対話はもとより成立しない。
 それを観て聴いて気になることが二つある。一つは平壌市内は綺麗だが裏通りは汚いという話である。韓国の田氏が東京の裏通りの汚いものを中心に話題にして書いた『日本はない』(일본은 없다)を思い出す。二つ目は拉致問題である。レギュラーのなかにし礼氏が「一時帰国者」の問題を出した時数人が「犯罪者と加害者へ戻せない」と封じ込めてしまう場面であった。対馬の仏像の話題を思い出した。
 世界的に多文化社会に向かっている。それはただ雑多な人種・民族の社会を意味するのではない。多様な意見がある社会を目指すべきである。民放の同じ意見の口揃えの議論よりむしろ野党のヤジのある国会、NHKの日曜討論の方がよい。仲間が並び、同じ意見を口を揃えていう民放には食傷、飽きれてしまうが、それでも見ているのは一抹の情報を得るためである。

沖縄の独立

2013年05月20日 05時06分26秒 | エッセイ
 韓国のMBCテレビなどが「沖縄独立」という報道をした。それは中国が「琉球王国が中国の属国であった」との報道と関連するものだろう。国家によって異なった報道を見たり聞いたりするとほんとうにマスメディアは戦時中の戦争高揚のプロパガンダとちっとも変わっていないと思う。私は1972年に日本に留学し、翌年から沖縄へ数回調査旅行をして、本土復帰後の住民たちの意見を多く聞いた。当時は「経済的にはアメリカ、文化的には日本がいい」と言う人が多かった。日本の中では沖縄は中国文化の影響が強く、韓国と似てる。沖縄の人が本土や政府への不満を米国びいきに話すことは今も少なからずあるだろう。当時ある知事の反復帰論が話題になった。中国のように国内地域の問題を多く抱えている国が沖縄の「属国」説や独立などを意図的に報道するのはなぜだろう。その扇動的な報道姿勢の影響はは将来自国へ戻ってこないとは言えない。
 世界には植民地にそのまま残ることを投票で決めた地域もあり、さまざまである。いま私がそれらについて政策云々というのではない。もっと根本的なことを考えたい。国民と国家は運命的な永遠不変な関係ではない。個人は「国民」だけで存在するわけではない。個人は「自然人」でありながら世界市民になりうる時代である。理想的には国家と個人は総合的な社会福祉的関係であると思う。しかしまだ19-20世紀の植民地、領土拡張の大国主義の幻想をもって領土紛争、そこに愛国心を利用してナショナリズムを刺激して政権を維持しようとする愚かな政治家が世界中に存在する。以前紹介したように、ある病院長の話に「病院を大きくはしない、患者さんに十分満足してもらえるように規模は今のままで中身を充実させたい」という話は今の国家イデオロギーにしても良い。また北方領土のロシア人から聞いた話に「日本になって生活が便利になればそれでよい」という言葉も印象的である。世俗的な話でありながら大きいメッセージが含まれていると思った。

下関での文化活動の限界

2013年05月19日 05時20分46秒 | エッセイ
 昨日(2013年5月18日)2時から田中「絹代塾」の「映画上映と対談」で、まず木下恵介監督、田中絹代主演の「陸軍」(1944年作、87分)を上映して、私が用意した停止画面で日本的なものを指摘してから古川薫先生と対談をした。プロパガンダ映画として捨てられたような映画を今更観る意味は何処にあるのか議論した。古川氏の本が韓国、中国、台湾で翻訳され、「アジア人」と宣言したことから戦前の植民地と占領地の広い世界と今の国際化グローバル化時代はどう違うかという質問から始まった。彼は時代が変わったと前提にして「真空地帯」を戦前作ったらそれはほんとうに素晴らしいだろう。戦前戦争の時戦争を賛美したか、黙っていた国民の大部分が戦後になって反戦・平和主義者になっていること、そして「真空地帯」や「玄海灘は知っている」を作るようになった。私はそのような戦後の反戦主義者の多くはプロパガンダ性の者であろうという趣旨で語った。プロパガンダはどの時代でもあり、今現在続いていて、戦前戦後問わず普遍的な現象であると言える。文字では表現できない泣く表情、人間愛の表出を正しく評価すべきかがほんとうに問われるべきであろう。(写真へ今朝19日の「毎日新聞」平川昌範;「山口新聞」藤井直也)
 下関市文化振興財団の理事長中野氏、毎日新聞支局長の西氏、記者の平川氏、長周新聞の森脇氏、山口新聞の藤井氏等々40人ほど参加した。しかし問題があった。ある人は「なぜ大学生は参加しないか」と言われ、「大学とは何だろう」と私の顔が赤くなるほど恥ずかしかった。学生はただ一人、教員も一人以外全く参加しなかった。私が発表者でもあり、多少遠慮して広報に力を注がなかったことを反省している。地域社会からグローバル化へいろいろと主張したがこの地域での文化活動の限界を感じている。地域抜きにグローバル化へしかない、それはネットによるものであろう。この対談を映像記録して保存するという。またユーチューブで公開するともいう。古川先生は今年米寿、続けて私と対談することを約束した。

集客活動

2013年05月18日 05時29分10秒 | エッセイ
 今日は田中絹代顕彰の「絹代塾」の市民講座で映画「陸軍」を見てから古川薫氏と私が対談する。今年度講座のオープニングであり、研究所共催でもあり、市民の関心や参加が気になるが、それより気になるのは対談の内容である。私は戦前のことを戦後の今、正しく問えるのかをポイントにしたい。古川先生は戦前と戦後を生きてきておられる作家、知識人であるのでその本質に迫って議論したい。参加者の方々のご意見も合わせて議論出来ればと願っている。
 昨日は次の行事「福島の子供のための日韓コンサート」(5月26日)を広報するために記者クラブで説明会を行った。私は昔、韓国文化公報部で記者たちに情報を提供したことを思い出した。宣伝と言うよりは情報を共有するということであり、その心はそれ以来変わっていない。しかし実行委員長の立場からの集客活動のようにも感じた。市民との交流やネットワークを広げたいと思うが、参加できないというメールや電話などもあり、通知を受けて負担を感ずる人もいるようである。また次回のコンサートのために集客(?)の中心人物が廻る所があるために今日は欠席するという人もいて落胆した。互いに参加し協力する心を持つべきであろう。私は主催者の立場にある人はもちろん市民、記者、研究者など各種の会や行事に参加する方々はただの「集」gatheringとは思わないで、「関係」relationshipで生きると思ってほしい。

ディズニー式の授業

2013年05月17日 05時28分20秒 | エッセイ
 昨日の観光人類学の講義に蔚山大学校の日本語学科の学生20余名が2回目の受講をした。前回とは全く違って自然や文化遺産を見る観光ではない、観光施設を作ることをテーマにした。ウォルトディズニーが1950年代カリフォルニアに作って以来、フロリダ、東京、パリ、香港、上海にディズニーランドが作られ、今だに人気を持っているその秘訣に関することをテーマにした。まず東京ディズニーランドの30周年パレードの映像を流したら学生たちから歓声が上がった。その面白さと楽しさを学生たちに質問した。普段見れない世界(渡辺君)を体験できる(沈さん)という答えが返って来た。その話をもって講義は本論に入って、文化遺産や自然を一方的受身的に見るということからアニメーションキャラクターの夢の世界に入って一緒に歩き、踊り、写真を撮る体験が面白いということが分かるようになった。人気の秘訣に迫った。多様なアトラクション、キャラクターの魅力、テーマ空間、ユニークな設計など教科書に戻って説明した。その後、蔚山大から日本語の挨拶、東亜大からの交流を続けるという挨拶、感想文を書かせて授業はあっという間に終わった。ディズニー式の授業であった。 次の日本宗教史の講義では「あなたにとって踏み絵は?」という重苦しい話題になった。
 学生たちの感想文には文化財や文化遺産は復元や変更はしない方がよいという意見が多かった。しかし韓国では昌慶宮などで日本色を消す作業をするというニュースが流れている。このままでいくと韓国の文化財や遺跡などはほぼ偽物、復元の「新品文化財」になってしまうのではないか、非常に重い憂いを持っている。古いものを新品化するより、夢の想像施設をつくったほうがよい。世界的に、特に韓国の文化財復元政策は立て直すべきである。