崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

ボッタリジャンサ

2015年06月30日 05時37分18秒 | 旅行
家内は釜山国際市場で靴下や韓服を買ってきた。1足100円ちょっとで安いという。円安でもまだ韓国には安いものがある。韓国と比較して日本で安いものもある。その価額の差を商売としている人々がいる。いわばボッタリジャンサである。おもにオバちゃんたちが関釜フェリーを利用して商売している。関釜フェリーを利用しての国境貿易の縮小版ともいえる。陸地続きの国境であればその規模は大きく日常生活化している。ドイツに留学した弟子の部屋に泊まった時その話を聞いた。ライン河を挟んでフランスの安い家賃の部屋を借りてガソリンはドイツで入れるなど国境を意識せず生活していると聞いた。
 朝鮮戦争前まで私の父は38度線を往来しながら牛の商売をした子供時代を思い出す。しかし今韓国と北朝鮮の境界の「分界線(休戦線)」は地雷畑のもっとも危険な死線ともいえる。それは南北が敵対関係であることを意味する。日朝関係は国交がない、朝鮮半島の南北関係は敵対関係になっている。国民はそれぞれ国交がないこと、敵対関係であることに怒っていても政治家たちは外に敵を持つのは嫌ではないようである。時には戦争も試みる。人も敵を持つのが常である。私は敵の存在を含む葛藤、恨みをハン(恨)として研究している。写真はダンゴルが恨の結びを解く儀礼(珍島国立国楽2015.6.26)。

期待はずれ

2015年06月29日 05時00分05秒 | 旅行
釜山の商店街は廃れていた。土曜日なのに繁華街の店が閉っている。大型百貨店も人が少ない。マースの所為という人が多い。そして朴クネ大統領が悪いという。あるタクシーの運転さんは政治家とメディアが悪いと言う。彼は日本と比較しながら韓国のメディアが過剰報道して国民が緊縮してしまったという。4割もの客が減少したことに対して怒っていた。公務員などは仕事をせざるを得ないので出勤するが彼らを含む一般の人々もお金を使うために繁華街など人々が集まる所にはこない。観光客も来ない。人々はこの機会に家で美味しいものを作って食べているから商売人には金が回らないと語る。日本のメディアは国益のために報道せず、黙っているが韓国ではちょっとしたことにもコメントをつけて大きく報道するという話には抵抗感があった。
 空港に見送りのために慶南大学の張竜傑夫婦が来てくれて、昼食「冷麺」をご馳走になった。彼も60代、日本語科の教授として苦労話を聞いた。朴クネ氏の反日政策により全国的に日本語教育が委縮しているという。大統領の5年任期は長すぎ、独裁を防ぐために作った憲法改正だったが、今それが首を絞める輪になっている。私も最初の女性大統領の意味、そして李明博氏が悪くした日韓関係を建て直すことを期待したが、今は大きく失望している。多くの国民も期待して選んだはずである。政治に限らず日常的にも期待しては失望することが多い。弟子や知人にも期待した分失望する。信じては裏切られ、希望に失望、そして期待はずれは日常茶飯事である。*写真は釜山以内の朝鮮通信使行列銅像

華麗な全羅道の送別

2015年06月28日 05時03分33秒 | 旅行
昨日早朝南道国楽院を発った。院長尹二根氏、宋サンヒョク氏、姜信杓夫妻に見送られ金賢淑氏が珍島高速バスターミナルまで送ってくれた。そこに朴柱彦氏がわざわざ来てくださっており恐縮、感謝の別れ、8時25分発釜山行きのバスに乗った。そのバスは重要な町々を廻り、観光や現地調査のように道路標示版と景色を車窓から見ながら楽しんでいた。3時間過ぎ全羅道の最後の都市の順天駐車場で運転手さんの許可を得て一部の乗客とともに私もトイレに行った。急いでバス昇降口に戻ったがバスがない。びっくりして釜山行きのバスを探した。バスが移動していたのである。とにかく無事に座席に戻った。しかし一人の客は戻ってこず、運転さんは数分待っていたがそのまま出発した。家内は言葉も知らない外国人の旅行者であればどんなに困るか運転さんの配慮のなさ、不親切だとささやいた。その時運転さんが電話を取った。おそらくその客のことであろう。次のサービス・エリアで15分休憩、出発の時あらたに青年が乗った。おそらくその客も自分がはじめに乗ったのとは別の我々が乗っているバスに乗って目的地に行くようである。こんなことは多々あるようである。多くの客のために遅れる客は待たない。時間を合わせるために待つことは難しい。しかし運転さんは昇降口の変更についてはあらかじめ客に知らるべきであり、迷わないような配慮が必要である。目的地の釜山駐車場で降りて歩いているとき、今度はその運転さんが家内が座席に置き忘れた物をもって走ってきてくれた。今までの運転さんの行動に疑問を持っていたが一変に変わり、ハッピエンディングであった。
 地下鉄に乗って高い階段を重い鞄を持って上って乗換えなどのために歩いた。華麗な全羅道の送別とはま逆、慶尚ではただの放浪者であった。釜山にきたらロッテ百貨店に寄るのが常であるが昨日もそうであった。特に地下の食品マートは楽しい。韓国の食文化、多くの好物を見て回った。最近行ったシンガポールの高島屋の地下食品コナーと同様であることに気がづいた。食品コナーにつながるオープン食堂で美味しい食事を期待しながらサンゲ湯を注文した。なんと出てきたものはインスタントのものであった。大いに失望した。ロッテマート、その信頼されている百貨店なのに信じ難い最低のものであった。どっと疲れを感じた。

「老人の横暴を許してね・・・」

2015年06月27日 04時26分53秒 | 旅行

私の基調講演は1968年の写真から始まった。全国民俗綜合調査団員として参加した私が撮ったものである。中には今は故人となった文化人類学の会長梁在淵先生、私の先輩友人であった元ソウル大学教授の李光奎氏などの姿を韓国で初めて公開した。必要な人には高く売りたいと冗談を言って会場は一気に和やかなわらいの場になった。講演が終了後に李氏の息子李庸植氏からはどんなに高くても買いたいと言う話があった。今回の講演内容は主に私の哭きと歌との関係の説に基づいて酒井正子氏が比較した日本人の説を紹介しながら韓国巫俗音楽の特徴を「乱場」的だと主張した。60年代にムーダン調査に一緒に行った李輔亨氏の質疑があり、討議した。50年ほど前に戻って対話をするようであった。
 次の二つのセクッションの発表には質問とコメントを行い、姜信杓氏も加わり、発言が多く、私が「老人の横暴を許してほしい・・・」と言って爆笑。それについて司会者は「貴重な大きいプレゼントの発言」だと言いながら発言の機会を多くしてくれた。会場に入るたびに体温を測り、手の消毒は徹底的に行われた。しかしこの南道国楽院では自然環境がよく、安全である。梅雨に入り肌寒いくらいであるが、宿所の室内はオンドル暖房で懐かしくて嬉しい。FBやメールや電話などで多くの方々が心配してくださっていることに感謝である。お蔭様で無事に役目を終えることができ、また遠方からわざわざ会いに来てくださった方々も含み懐かしいたくさんの方々に会えて幸せな時間であった。ただ交通が不便、今日釜山までの帰り道が遠い。

「誇りと恥」の葛藤

2015年06月26日 05時14分10秒 | 旅行
昨日は群山近代歴史博物館の開館時間に合わせ9時に入館、6.25記念日、式典の準備が始まっていた。11時からは今は高齢者となった戦士たちが参列して式が始まった。私も参列しようかと思いながら展示を見た。植民地時代に日本が金堤平野から米を「収奪」したという侵略史がテーマである。都市の中心地に日帝建築遺産を展示していることは珍しい。米作で豊かな穀倉地帯の誇りと日帝時恥ずかしめられた収奪歴史の「誇りと恥」の葛藤の展示である。否、展示が可能なのは収奪史を標榜しながら穀倉文化の誇りの展示でもあろう。近代美術館で一枚の写真には驚いた。呉氏という朝鮮人捕虜であった人のシンガポールチャンギー刑務所で日本人、朝鮮人が絞首刑される場面などを描いたものである。これから出る本には紹介したい。これだけでもここに来た甲斐があった。
 そこから雨の中、長時間バスに乗り、珍島に着いて、さらに20キロを走って南島国楽院で関係者に迎えられた。昔私が現地調査をしたムーダンたちに会った。嬉しく懐かしい再会であった。当時とは全く逆に社会的地位が人間文化財の「先生」となっていた。百人ほどの観客の前でシッキンクッが夜9時半まで行われた。かなりメディアに注目されながらも伝統を保っていながらより洗練されていると感じた。本当に楽しかった。昔初めて私が「結び解き」儀礼の意味を分析したのに今は一般化されている。ここにも来た甲斐があった。今日は私の基調講演から研究会が始まる。

湖南平野

2015年06月25日 05時35分32秒 | 旅行
マースで心配の中の旅行は出発の飛行機が連絡関係で40分遅れ、金海空港からの光州行きに間に合わず、市外バスターミナルに行って乗った。慶尚道から全羅道へ、斜線方向に光州まで車窓からネムノ木などを見ながら4時間、そこで乗り換えて2時間、市外バスターミナルに下りた。戦前日本人によって栄えた都市を歩いてみる。停留場には観光案内所もなく、壁に貼ってある地図を立ち読み、店の人に聞いても答えは不親切、そのまま鞄を引っ張りながら家内と二人で歩く。繁華街を聞いても知らないといわれ、タクシーが多く走っていく方向へただただ歩いた。日本式の家はたった一軒見ただけ、愛犬センター、家具店などを過ぎてタクシーに乗ってホテルに向かった。なんと大きい大都会の繁華街を走るではないか。
 ここが湖南平野の穀倉地帯、そして新しく復興する群山である。ソウルで定年してからタクシードライバーになったと言う運転さんは今栄えるこの都市を紹介してくれた。明日の調査を楽しみにしながら海岸沿いに建っている立派な5つ星のホテルに着いた。「いらっしゃいませ」の迎えのあいさつもないホテル、ベルボイもなく無表情の3人の受け付けさんたちにかっがりした。都会と田舎と言うことではない、人材の差か、教育の差を切実に感じた。どう見てもホテルの外見と職員の案山子のような存在は何だか似合わない風景である。
 

遊び心

2015年06月24日 04時17分21秒 | 旅行
 日程を錯覚して一日早く韓国に行くことになったので現地調査にも時間をかけることできる。マースが収束されず高齢者が死んでいる中、強行軍になりそうである。死を覚悟するというより、無関心で新しい旅行カバンに以前調査した資料を入れた。久しぶりにワイシャツにアイロンがけもした。朝鮮戦争後姉がクリーニング店を営んでおり、手伝っていたので慣れたことである。姉は洋裁、裁縫などが身についており、85歳の今もブラウスなどは自分で作っているが、私はアイロンかけだけは家内にも褒められる、その程度である。私はそのころの辛かった経験や思い出も記憶しているが、姉は苦労したことは一切口にしない。姉は辛い過去より父の牛販売業を手伝って紙幣を数えたことや豊かに幸せであったことを自慢風に語る。おそらく私が幼い時や少年の時の手伝いは仕事としてはなく、遊び心で楽しんでいた部分もあるように思う。
 戦争の記憶もそうであろう。拙著『韓国の米軍慰安婦はなぜ生まれたか』を出して半年になった。広大時代の教え子の山田寛人君が書評に近い読書感を2回も書いてくれて嬉しい。彼は本の内容から「反日と反共」の二つの柱を持って私の真意、特に楽しくよんだと「先生が隣に座って私に語り掛けてくださっているような感じがして、物語に引き込まれていくようでした。考え方の押し付けではなく、読者が考えさせられる話題が多く、とても刺激的でした」と言ってくれた。その楽しく読まれるということがポイントである。県立広島大学名誉教授の原田環氏はステイ、ロングに読まれると言って下さったことに期待する。

文化遺産の保護や破壊、復元

2015年06月23日 04時55分45秒 | 旅行
 昨日、日韓国交正常化50周年の日に韓国が日本の世界文化遺産の登録に協力するという報道があった。日韓を越えて文化遺産の保護や破壊、復元などの基本的な姿勢を持ってほしい。周知のようにローマの遺跡などは基本的には復元せずそのままの原状保存、展示している。私はパラオで戦争のとき使われた武器や鉄砲を見るために山に登らなければならなかった。アメリカの政策によって基本的には現地で保存展示しているからである。
韓国は朝鮮総督府庁舎(写真)を破壊した。また大型墓(天馬塚)を復元、光化門は作り直された。遺蹟、歴史ドラマを見ながら常に作り直した歴史に直面している。日本の原爆ドームを見る韓国人は醜いドームを壊して新しく復元したくなるのではないだろうか。この日韓の見識の差をどう説明すべきだろうか。
 政策の説明には「歴史認識」という上手い「理屈」がある。ある意味でその理屈は、朴クネ大統領の高度な政策かも知れない。反日的な世論を意識しながら親日的、あるいは本当の「独立的な姿勢」で日本と付き合おうとする政策ではないかとも私は思ったりする。多くの法律には例外条項を持つ場合がある。死者儀礼の靖国参拝を非難しながら軍事強化の中国の脅威に対処するのは当然であるが、今、自民党は憲法の拡大解釈で「違憲論」が横行している。私の朝鮮戦争体験からは、もし戦争が勃発したら軍法を一日で作り、そして路上の青年をも連行(?)して戦線に連れていくようになると思う。戦争が起こったら違憲論は出ない。

「ユン様」

2015年06月22日 04時25分39秒 | 旅行
今4時台のラジオ深夜便で金素雲の孫のシンガーソングライター澤知恵氏がピアノを弾きながら「私の心は…ラララ」を歌いながら語っている。昨日韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外相が日本の外相と会談して「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録に韓国が協力すると発表した。私はヨン様以来の「ユン様」として歓迎する。最悪な日韓関係が最善に変わるような気持ちで嬉しい。植民地から解放された韓国は日本とは国交を持たずに、20年間韓国では日本は存在していない時に朴大統領が国民の世論を押し切って日本と国交正常化を結び、韓国の経済成長を成し遂げ、「漢江の奇跡」をおこして以来50年、今の冷え込んだ日韓関係が温まるのではないだろうか。去年ソウルで会った黒田勝弘氏が予言したとおりに朴クネ大統領が父の朴正熙氏の日韓国交化精神を尊重するだろう。適格な予言であった。
 昨日は父の日、大連から留学中の林楽青氏の招待で昼食を門司港レトロの中華料理アカシアでいただいた。そのレストランは門司観光一番地のレトロの真ん中にある。予約された席に案内されて林氏の友人何軍氏夫婦と挨拶を交わした。日中友好の時間であった。何氏夫婦は北九州州に留学してそのまま日本に定着し経営するようになったという。以前は留学して帰国してからは指導者になるルートであったが何氏(写真中央)も私も日本に留学し、日本に住むようになっている事実、これは大きい流れの変化と言える。今多くいる留学生のモデルになるかも知れない。
 
 

苦役論

2015年06月21日 04時55分11秒 | 旅行
 私の「日本文化論」の受講生15人の中に唯一の日本人学生の竹田君がいる。彼は「日本人」として発言することが多く、日本をしっかり代弁するようなことが多々あり、日本人としてアイデンティティが強くなるのではないかと思わされる。もし自国が戦争になったらどうするかの話題に中国や韓国、モンゴルの学生は敵と戦うという意見に対して竹田君だけは逃げたいと言って笑われた。私は彼の話を聞いて、先日国会審議で憲法下で「徴兵制は苦役」という発言を聞いて韓国での自分の軍歴を考えた。私は韓国で普通教育を人並みに受けた者として50歳まで徴兵制の義務を果たした。陸軍士官学校の生徒たちに国民憲章などをもって愛国心を講義したこともである。私は長い間苦役だったのか。恩給はあったのか。自民党の石破議員が「意に反した奴隷的な苦役」の「苦役」ではないと発言しても今は「苦役論」が優勢のようである。
 韓国の憲法には兵役は国家への義務である(헌법제39조① 모든 정상인 남성은 법률이 정하는 바에 의하여 국방의 의무를 진다)。国民自ら作った法律によれば従うべきという律法精神である。「悪法でも守るべき」という従順な国民がいるから独裁者が現れると言える。戦前日本の国家総動員法などによる動員を「強制連行」といった在日研究者朴氏の言葉を丸呑み一般化している。徴兵、動員などは昔も今も間違いなく「苦役」である。当時愛国的な軍人であった私も職業軍人として引き止められたが断ったのである。朝鮮半島の南北で「苦役論」が論議することはできるだろうか、それは民主主義のバロメーターである。兵役は国家への「聖なる義務」とジハードの国である。「苦役論」は法律の以前、あるいはそれをはるかに超えた平和論である。*写真は韓国の国立墓地「顕忠院」

日程の錯覚

2015年06月20日 05時37分15秒 | 旅行
韓国行きの日程を錯覚していたことが今わかった。来週の日程調整が難しく、若干中身を変更することにしようとしている。より充実なる調査ができるように調整をしようとする。なぜ錯覚したのか自分で今考えても分からないと悩んでいると家内から年の所為だと言われた。加齢によって忘却することはあっても、錯覚もするのかとびっくり。物忘れにはメモすればある程度対策になると思うが、錯覚は生活の正確性の欠如であろう。否、錯覚も忘却の始まりだと言われ、認めざるを得ない。家内は看護や介護のプロであるのでそう思うことにした。結果的には予約先などキャンセルや変更など多くの人に迷惑をかけることになってしまい、心苦しい。
 最近著の読者たちから子供の時をことをよく覚えていると褒め言葉をいただいているがこれからは勘違いや錯覚などをしないように極力注意すべきであろう。先日会った韓国の出版社社長と2冊の本を新しく書くことを約束した。一つはわが家のムーダンをめぐる話、もう一つは親日と反日に関するものである。記憶を辿り行く作業でありながら忘却と錯覚への戦いになるかと思う。それはネット文化によって廃れていく紙文化を守り続けるためにも、創意、評価、識見の発想作業になればと覚悟している。忘却や錯覚への新しい挑戦になるであろう。
*写真は諏訪春雄、河村湊の両先生と韓国全羅道の巫俗調査

「迎春花」

2015年06月19日 05時09分22秒 | 旅行
 韓国全羅北道のインターネットゲーム関係の数ヶ所の高校から校長や学父兄たち,20人弱が来校した。その歓迎式に続いて鵜沢副学長と並んで座って、今の日韓関係の悪さにも関わらず民間レベルでの交流と留学について話し合いの時間を持った。鵜沢氏は大学の専門学校化のような現象について、医術や学術中心から高齢化に応じ、社会福祉やサービスへ改革という説明があった。私の耳にも斬新であった。今の日韓関係の悪さにも関わらず民間レベルでの交流と留学について話し合いの時間を持った。私は留学生受け入れの態勢とその間の経験を生かして効果的な教育ができると主に教育を強調した。韓国側から質問発言も多く、最初の試みとしては意味があると思い、次からも別の教員たちにも続けてほしいと思った。結局一緒に昼食をとりながら長く時間を共にし、マースの問題とは関係なくよい交流となった。
 読書会では林さんが満洲映画「迎春花」(ジャスミンの花)について博士論文の一部を発表した。満洲映画には従来分析もせず「国策映画」論が理論として横行しているが彼はそれとはまったく異なって映画画像分析の大胆な試みであった。剣道、ゴルフ、スケート、ホッケー、碁、生け花など日本と満洲との文化交流など細かく知ることができた。読書会メンバーたちからも高評であった。ただ画像分析の傾向を私は指摘した。画像分析ではない映像の「動画」として「動き」「連続性」の分析もしてみることを注文した。これから良い研究が続くと思う。朴仙容氏はトマトキムチと素麺の組み合わせのサンプルをもってきて参加し、皆で試食した。

長生きは一番難しい競争

2015年06月18日 04時01分30秒 | 旅行
昨日は私の誕生日、120人以上のFBの友達、メール、電話、手紙、お土産など全世界からお祝いをいただいて驚き、恐縮、感謝の気持ちでいっぱいである。同時に確実に後期高齢者になっている年齢を意識する。ソウルから来た姉は親族の中では2番目の高齢者になったという。11人兄弟の中、姉と私だけが生き残って長生きをしていると笑い話のように語る。姉の話から忘れかけていた多くのことを思い出した。姉は私が子供の時の好物であった桑の実を持ってきた。母は桑の木の新鮮な葉を切って蚕にあげて、夜それを食べる音がうるさかった話を私がおぼえているが姉はおぼえていないと言う。姉は父の商売、裕福に暮らした幼い時代を多くおぼえている。同じ姉弟であっても記憶の量、中身が年齢、性別などで大きく差があることを実感した。
 加齢がなんと競争のように感ずる。まわりに友人が多くなっていることにも気が付く。今まで色々競争をしてきたが長生きは一番難しく、重要なことである。しかし、愛する友人を亡くしたことは悲しいが、他人が亡くなっても悲しみやさびしさはさほど感じることなく気の毒に思うだけで,年をとることはある意味では残酷なことではないのか。
珍島での講演会の主催者から電話が来てマースに関わらず実行委員会からは変更なし、実行すると言うことである。私の健康も心配してくれた。私はマースは気にしないからと言っても予防対策や交通に工夫すると言ってくれた。「珍島は清浄な島」という言葉に頷き、行くことを決行すると言い切った。

어제는 나의 생일, 세계 각처에서 백수십명으로부터 축하 멧시지 전화 메일 선물 편지 등을 보내주어서 너무나 감격스럽습니다. 이제 완전히 일본에서 후기 고령자가 된 것입니다. 여태까지 많은 경쟁을 하면서 살아 온 것 같은 데, 가장 어려운 경쟁이 오래 사는 것 같습니다. 주변의 많은 사람들을 잃은 것입니다. 그런데 그저 숨을 쉬고 오래 사는 것도 장한 일이지만 무언가 일을 하면서 사는 것이 더 어려운 것 같습니다.
다음 주에는 진도 국악원 주최 음악대회에 기조강연을 가게 됩니다. 그런데 많은 사람들이 메르스 유행병이 심한 한국 여행을 자제하는 것이 좋을 것이라는 염려의 말이 있습니다. 감사하지만 나는 주최자측에서 강행한다는 말에 찬성하였습니다. <진도는 아직 청정한 섬>이라는 말을 믿기로 했습니다. <죽지 않으면 살기로>로 가기로 했습니다. 염려하여 주신 분들 감사합니다.

「家族とは何か」

2015年06月17日 04時44分24秒 | 旅行
韓国のマースがなかなか収束されず不安が高まっている。全国に広がり、19人の死亡者と発表されている。7月初め開催の韓国巫俗学会の中止のメールが届いた。来週の珍島国楽大会はどうなるのかわからない。その中で昨日ソウルの姉が関釜フェリーで来た。乗客が少なく、下船に時間はかからなかった。姉は八〇代の半ば、マースなどに鈍感というか懸念しない。セウォル号やマースなどで朴クネ大統領の人気が下落したのではないかと聞くと高齢者たちには年金が上がって評判がよいという。
 私はある新聞記者の取材を受けた。日韓国交正常化50年を期して私の見解が求められた。彼はまず国交正常化の前と後の状況についての質問をした。それは今までまとまった見解として斬新な質問であった。私の経験からまず「以前」について「日本は私の中には存在しなかった時代だ」と答えた。朝鮮戦争、学生革命、クーデターなどで日本を意識する暇がなかった。1965年以降日本人や日本文化が入り、反日感情を通して韓国のアイデンティティが高まっていった。日韓関係はいつもギクシャクしていた関係史を振り返る時間であった。
 わが家では藤川夫妻と中国人、韓国人の夕食会があった。藤川氏の奥さんは元看護師、それもハンセン氏病患者を看護した貴重な体験談を聞くことができた。以前その病は感染すると隔離されて結局患者同士の介護の生活で外の世界を全く知らず電車が走ることさえ知らなかった人もいたとのことである。彼女は「家族とは何か」。大きい問題をボンと出した。夫婦や子供による家族ではなく、患者同士が一緒に生涯を暮らすことからの問題点は大きく、重要であった。姉と1970年に撮った映像の母の死霊祭を見ながらわが家の巫俗信仰について談話した時は就寝の時間が過ぎていた。

解脱

2015年06月16日 05時09分24秒 | 旅行
ソウルからの二人のお客さんとの鼎談のような話の中で耳に残った話がある。ある名門大学出の人が「名門」を最大に利用して出世したとAが言った。Bが言う。彼はその職を定年して周りの人が離れて行き、孤独になっていると。私がいう。肩書きに生きた人はそこから解放され難く不幸になると。二人が黙々と頷く。しかしそれはその人に限らず人生の普通のプロセスである。「君の名は」に出演した美女名優が言っていた。若さが過ぎてからは「廃棄処分」と感じたという。
 昔から世俗的な富貴栄華にとらわれず自然の中で無心に生きる仙人のような生活が好まれた。それが本当の解放された人であろう。仏教では解脱という。仏教だけではなく、巫俗信仰にも解脱儀礼が多い。私は早くからそのような生き方をしてきたつもりである。しかし人は私の人生をどう見ているだろうか。ちょっと気になる。それが解脱していないことを意味する。私はまだまだ解放されていないと反省する。古い手紙のなかから司馬遼太郎氏からのハガキが目にとまった。彼は解脱者であった(写真)。