崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

ワンタッチで250万冊

2012年10月31日 04時56分41秒 | エッセイ

 シアトル訪問記念として書店でiPadのNOOKを買ってきた。あちらでは初期設定ができなかったが、帰国してからは使えるようになった。ワンタッチで250万冊以上の本、雑誌と新聞などが検索することができ、文学作品が英語で読めるようになった。若い時翻訳を通して多くの名作を読んだものが目の前に広がるので、私の書斎は数百万冊の所蔵になったような豊かさを感じている。まず戦争関係のノンフィクションの名作を読み始めた。また書店で購入した「シベリア育ちSiberian Education」など並行して読み猛読書で旅の疲れは回復する暇もない。

 名作とは何か。人生について深く考え、繊細に書いたものであろうか。それらを若い時どう読んだか、これから本当に精読してみたい。大げさに言うとこのiPadが死ぬまでの糧であろうとも思う。執筆中の2冊は中途半端になっている。シャーマンの歌にあの世への案内者である使者が「早く行きましょう」と迎えに来ても「まだ仕事が多く残っている」と言いたい。


時差の中で

2012年10月30日 04時09分52秒 | エッセイ

 時差ボケが残っている中、昨夜「しものせき国際映画祭」の準備会に参加した。いよいよ10日ほどを残しての準備の具体的な話が多かった。大学として一般市民に接するよい機会になり、最善を尽くすべきだと思っている。その準備において大学の学長、副学長と同僚たちが協力してくれて嬉しい。予定通りに野外上映や懇親会など意義のある映画祭になりそうである。全10回目の準備会の最終段階の話が回り順で行われ、少しぼーっとしながら聞ていたが、その中で郵便局長の話があった。事務のクォリティとホスピタリティを大切にせよという内容であった。素晴らしい深みのある内容であった。私は早速フィドバックして触れた。仕事の質も高めるべきである。それは賃金などで評価されるが、ホスピタリティこそ大きい資本であると、化粧、表情、言葉、しぐさなどがもっとも大事な資本であることを強調した。今度の映画祭の準備においてはそのホスピタリティを訓練する契機にもなると思っている。


ネオ清教徒精神

2012年10月29日 05時22分31秒 | エッセイ
昨夜遅く仁川空港経由してアメリカから8日ぶりに帰宅した。日本が明るく素晴らしい国と改めて感じた。シアトルからバンクーバーまでアメリカ西海岸の大動脈を列車に乗って往復したが、暗く、寒く、遅いなどなど日本の地方線より不便さを感じた。人種が多く言語も多く、私たちも違和感や言葉の不便はそれほど感じなかった。自然の中に豊富な食料などでアメリカは後進国の理想的なモデルかもしれない。今度の経験では西部へ開拓して行ったその清教徒精神、徹底的な実用主義のプラグマティズムの定着を強く感じた。それはそこに多くの多国籍の人々、特に韓国人や中国人が多く移住している。特に韓国人たちはキリスト教の清教徒精神と密着して移住していることが分かった。
 韓国人たちはイギリスから来た清教徒たちのようにキリスト教の教会を中心に開拓して広げているようである。教会は信仰の母胎ではあるが、情報や文化のセンターであり、ネットワークを広げ、結束させる柱である。それが現地適用化と言われる。日本人はそのように見えにくい存在である。
 先日私は教会の数名の指導者たちの前で初めて証らしい証をする機会を得た。日本の教会では信者の前にたつ機会はなかなかなく、またそれを語ることはなかった。ただカクレキリスタン(?)のような信者である。今度久しぶりに語り、途中涙ぐんでしまった。それはいつも語り手のように話したことではあるが結核末期のなか、伝道師のお祈りに感動して教会に出席するようになった、私の人生に大きな転換となったことの話しであった。聞く人が感動するかどうかに関わらず自分でその時代を考えると自然に涙がでてしまう。そのことを話す時はドラマの主人公のように私も泣きそうになる。今度は牧師や神父と信者たちの清教徒精神に私たちの清教徒精神がぶっつけあったようであった。この度の旅行では本音を持って話し合った良い機会であった。この度聖職者たち、聖公会の崔主教と安神父、監理教の姜牧師(讃美歌を歌う夫妻)、長老派の金執事などの家族とは開拓精神、清教徒精神の中での邂逅であった。

日本に向かって出発

2012年10月27日 22時45分35秒 | エッセイ
 近くのCostcoによってみた。それは日本では業務用のスーパであろうが商品の規模は大きい。飛行機の隣席の客との縁で知った漢方医の金氏夫妻の案内でフェリーでシアトル湾を横断してバイキングで飽食さていただいた。アメリカは人種的に多様であり、競争と調和をしながら生活ができる大国、豊かな国であることを実感した。特にそれは規模の大きさなどであり、日本とは異なる。否、日本は日本として素晴らしい。それは先進とか後進とか、言葉では表現できない、測れない文化の特徴でろう。細かさや親切さはアメリカより頗るところが多い。日本は中国や韓国に追い越されない先進国であろう。
 アメリカはもう一つの大国のカナダと一つの統合的な文化圏や経済圏を持っている。北米全体の「大大国」を形成している。ヨーロッパがEUを形成しているのは本当にノーベル平和賞の受賞の意味が分かる。東アジアは中国、日本、韓国は異文化国家間の不和の国たち、群小国のように感ずる。アメリカから見て東アジアは経済的な発展よりも外交に注力して、精神的な発展が何より必要である。歴史は現在を生きる上で負の遺産にすぎないのであれば、忘れ、捨ててもよいであろう。東アジアでは歴史を見直すべきである。今日は仁川経由で帰国、心細かな文化の日本に向かって出発する。
 昨夜元聖公会の主教のWilliam Choi夫妻とは出版計画をまとめることができた。滞在中には多くの人に出会い、大変お世話になった。大学では学期中でも席を外して迷惑もかけている。お詫びと感謝の言葉をおくりたい。

研究会

2012年10月26日 23時59分21秒 | エッセイ
昨日午後4時半から2時間ほど研究会が崔主教の自宅で行われた。聖公会の安貴燮神父夫妻と監理教の姜牧師夫妻、全部で4夫婦が参加した。安神父の祈りによって開催した。コンピュウーターから映し出す機械はなく、口頭で話すことになった。第一部では私が自分の宗教との関わりからシャーマニズム研究への過程に関する話、それからシャーマニズムとキリスト教の関係について討論した。シャーマニズムの死後の世界、倫理について質問などがあり、その点でシャーマニズムからの改宗は人間の本質が変わるような改革が必要であると主張した。韓国の多くの研究者がシャーマニズムを信仰するような研究の問題点も明らかにした。
懇親会は操夫人の心のこもった料理と持ち寄りの品々による立食パーティで楽しく過ごし、第二部では崔主教が手作業のプロジェクトで古いスライドを映し出しながら教会や家族写真などをもって説明した。彼の父は聖公会の最初のオーガニスト、母は最初の教師など、信仰が代々連続していることが解った。特に姜牧師夫妻は祖父母の信仰を世襲していることが話題になった。私は信仰において祈りの意味の深さを語った。彼らが夜1時間半掛って帰宅する車に向かって無事を祈りながら手を振った。

チャイナタウン

2012年10月26日 06時15分19秒 | エッセイ
 雨の中バンクーバー市内観光4時間コースで市内を回ってきて、書店とチャイナタウンに行ってみた。ガイドは中年の白人で、ロスアンジェルスからの黒人夫婦とトロントからの高校の先生である若い女性とわが夫婦の5人のためにガイドをした。夏のシーズンの話が多かった。最初に港と商店街を通ってオリンピックのコンベンションセンターを過ぎ、スタンリーパークを回った。そこでは大きい木の話が多かった。70万の観光客が来て海水浴、キャンピング、自転車、バスなど満員の時を理想的に語る。しかしまだ10月は良いほうである。11月は雨、ミゾレ、雪な厳しい、観光施設はさびしくなるという。グランビル島には娯楽、芸術施設多く、日本式の天ぷらで昼食をとった。市内に戻るコースでチャイナタウンを通り、ルックアウトタワーに登り、市内を見下ろし一覧して、市内では一番大きい本屋の前で降ろしてもらった。2時半頃であった。本屋さんを見てから観光地図を手にして歩いてもう一度、中華街に向かった。相変わらず雨は降っていた。
 中国人は古くは金鉱の労働者として移民してきたのが始まり、その上香港返還に共産主義社会への恐怖から20万人の新移民によって盛んになった町である。多くの商店は漢方薬と食料を並べている。一軒の商店にも入らず商店街を回り、ショッピングモールのスターバックスでコーヒーを飲んでホテルに辿りついた。日本での日常生活の一年分を歩いたと思うほどひたすら歩いた。
 アメリカやカナダなどは移民を受け入れながら多文化主義を標榜しており、日本では少子化問題があっても移民は認めない。私は人口問題が深刻であれば移民を検討すべきと思っているが、この地に来て見て私の思考も再考すべきだと考えている。多文化主義とは相対主義によって異文化を受容することが主であるが、絶対的な価値観と同化主義を完全に放棄することはできないであろう。中華街を回ってカナダの文化とは違う点を感じたがそれは多文化への理解として十分であるが、清潔感が劣っていることは問題であろう。多層多文化はよいが、共通の価値観、共通のレベルを持つべきであろう。移民は一定の価値観を前提にしない限り島流しされた犯罪者や逃避所的な国になっては困る。以前日本植民地からアメリカへ亡命した人がいたがそれは移民とは違う。
 西欧社会で異文化を持つのはよいがカレンダーとしても正月やクリスマス、母の日など共通のものを増やしていくべきである。絶対主義が非難されてきたが、再考すべきであろう。それはホスト社会のためではない。異文化の中に自文化をもって生活する、つまり価値観の変化に挑戦する意味も大きいだろう。それが本当の多文化社会の長所であろう。

バンクーバーにて

2012年10月26日 06時12分28秒 | エッセイ
お詫び:現地でコンピューターの関係で遅れました。すみません。

 シアトルから早朝の列車で北上して4時間でカナダのバンクーバーに到着した。アメリカとカナダは国境のない隣国と思い込んでいたが出入国手続きをして駅の構内でインフォメーションや旅行案内を探しても見当たらない。市内のホテルに行かなと情報を得ることが難しい。外国へ行くのにホテルの予約などなしに来てしまってしで戸惑ったがしょうがない。タクシーに乗ってとりあえず高くも安くもないホテルへ連れ行ってくれるよう頼んで思いの外、気に入ったホテルを見つけてもらい、チェクインした。そしてすぐに観光開始。ブリティシュコロンビア大学人類学博物館へ向かった。今度のカナダ行きの最優先の目的である。昼前から5時ころまでゆっくり鑑賞した。アメリカン・インディアンのトーテム・ポールその中で韓国の鳥竿に似たものには特に心がひかれた。市内に戻って商店街を歩き、迷い、ホテルを探すのに歩きながらずいぶん時間をかけた。お腹がすいて目に入った中華料理店へ茶飯とマーボー豆腐を注文したが山盛りの量に圧倒されてしまった。どこでも食べ物が豊富に感ずる。それがアメリカの魅力であろう。自由と食料を求めたアメリカへの歴史はいまだに生きているといえる。ジョン・スタインベックの作家の作品に出る開拓精神を体験するようなことは今でも同様であろう。

 

大聖堂にて

2012年10月23日 22時34分28秒 | エッセイ
 シアトルは雨期に入っている。昨日一日中冷たい雨が降った。この秋から来年春までは雨
が続くという。シアトルの雨が人にストレスを抱えるようにしてしまうといわれ、韓国の歌手が歌った歌詞を思い出す。その歌を聴いたときは日本で「長崎は雨だった」のようにたまたま雨に降られたようなことと似ていると思ったが日本の梅雨より長く続くということ知った。そんな意味でこの時期はここは観光地としては相応しくないようである。市内では観光客らしい人とは一人も会っていない。
 崔主教の案内で聖公会の勇壮な大聖堂に入って、天頂が高く、カトリックの聖堂のように見えるがイコンなどがないのでプロテスタントであることを実感した。死者のために祈る造花で飾ったコナーがあった。ミサの時56年間歌い続けFM放送されたCDを聞いて記念に買った。主教の崔哲熙氏は日本統治下の天皇制国家と大東亜戦争、李承晩大統領と朝鮮戦争、後にアメリカとオーストラリアと日本での留学と牧会、国籍は日本、韓国、アメリカに代わり経験豊かな人である。私より年輩であっても時代を共有しており、話が合って食卓は小ゼミのようになった。
今日明日カナダバンクーバー旅行再度ここに戻って研究会をすることになっている。彼は霊的体験を数多く経験し、シャーマニズムの巫病を認めており、キリスト教とシャーマニズムを、そして仏教や道教などの混合主義を三位一体論的に解釈していることを発表すると思われる。私は植民地時代の映像を見せながら執筆中の「映像から見る日本帝国」を発表するつもりである。著名な司教、牧師などが参加してコメントとディスカッションが行われると期待している。82歳の彼の話と生活を聞いてみて修道士のように見え、彼の人生がいかに信仰的に生きてきたかが伝わってくる。


シアトル発信1日

2012年10月22日 23時09分15秒 | エッセイ

シアトル行き、9時間の飛行時間では狭い空間での不便さを極めた。しかし人と親密な関係の時間であった。隣の席にすわった女性とはかなりプライバシーな話ができたのは良い時間であった。彼女は韓国系の60代の女性、シアトルに住んで20数年、シアトルの冬は雨が多いが、それほど寒くない、夏は暑くないところ。最初の対話は互いに相手に関心が高まり、情報探索の一般の話のアメリカに住み何年とか、相手の情報を探す話が始まって数分内に電話番号も交換し、彼女がわが夫婦へ観光情報などを提供してくれた。韓国語の『雀様の学問と人生』にサインして差し上げた。
私は長時間、座って仕事をするのは慣れているはずなのにそのまま座って眠るのは不便、脚を伸ばすことができないような時間、長く座っていることがいかに難しいか、実感できた。坐葬より伸葬が一般的であることが納得できる時間でもあった。
大韓航空の機内食は牛肉とキノコビビンパの定食、お粥などすべてが美味しい。ご飯だけは日本米に劣っている。このようなサービスで日本航空が負けるのは決まっているように感じた。以前は日本のサービスが良く親切だという高い評判を得たが今は経営不良で悪くなったという。これは経営方式が改善されないまま国際的な競争時代を迎えていることを意味する。乗務員は親切、税関申告書を確認して書き込んでくれる。
韓国人が10万人も住んでいるシアトル、民族的に内向的に生活し、アメリカ社会へ溶け込んでいない。彼女はクリスチャン、信徒数1、000人くらいの監理教会へ出席している。海外生活には教会はネットワークの柱、韓国人はどこへ行っても教会を通して人間関係を広げる。夫が10年間大学で猛勉強の後ろ押し、そして資格を得たご主人は現在盛業しているという。しかし年を取りながら故国、親族などへの絆を求めるようになりつつあるという。
 アメリカへ歓迎Welcome to America、長く時間を掛けて出たときは30年ぶりの再会の喜びと歓迎を受けて高速道路を走る。狭い空間から解放されて広く広い大地の一角の自然の中の家庭に温かく迎えられた。窓からウサギ、リスが森の主人公のように現れた。主人は韓国忠清北道の陰城で1930年生まれ、聖公会の聖職者の父に続いて神学を専攻し、アメリカのセイント・ルイス大学と日本の立教大学に留学し、釜山教区の司教・主教を歴任して定年引退後アメリカへ移住した韓国系アメリカ人、奥さんは元薬剤師日本人女性の加賀美さんである。崔主教はわれらが日本から韓国へ帰国したころの相談役の方でもあって、信仰的に導いてくださった。彼は神学を広く研究し、シャーマニズムと合わせて研究しており、特に最近膨大な原稿を書いた。その出版に関する話で初夜を過した。
 秋とは言われても日本の真冬、厚い下着、チョッキ、ジャンバーまで来ても寒い。重ねた布団の中にはアンかを入れて、早く布団に入っても時差のせいかなかなか眠れない。家は森の中にあってまだ他の人とは一人とも会っていない。外国では言葉とか心配はいらない。言語もない自然の世界、無我の自然へ放り出されたようである。「帰りたい、故郷へ」と広い自然から狭い所へ帰りたい。狭いところで不和とか反目をぶっつけあうのも人間への愛情からのものであろう。

仁川空港で

2012年10月21日 15時31分02秒 | エッセイ
ここ仁川空港でシアトル行きトランジットのために6時間以上待っている。化粧品、アクセサリー、免税店、レストランなどが複数に置かれているが、品目としてはそれほど多様ではない。韓国文化コナーでは演奏会も見ても時間は余る。数回歩き回り元に戻る。其の時拾い物をした。搭乗券であり大切なものを落とした人を考えてインフォーメーションセンターに申告して、間もないうちにある40代の女性が走ってきて韓国語で私に空港へ行く道はどこですか言われた。ここが空港の中だといいながらどこに行くのか、たどたどしい韓国語の彼女のチケットを見せてもらい方向を指してあげたが、彼女は別の通路を走って行く。家内がおいかけて彼女を連れ戻し正しく教えてあげた。歩き、走り運動もできたがまだ時間がある。くじなどはめったに当選することがないが、今日は偶然に道を聞かれ、物を拾うなど本当に運が良いのかもしれない。空港調査するような一暇である。仁川空港でインターネット無料サービスで書きました。感謝します。

年をとることは意味がある

2012年10月21日 05時11分08秒 | エッセイ
大学祭で小川裕司氏の写真展、環境と国際化に関するシンポジウムが行われた。私は準備から終わりまで終始参加した。山下彰一、三戸惠一郎の二人の講師の基調講演に続いて李良姫、家根橋伸子の両氏がパネラー、人類学者の鵜澤和宏氏の司会で進行された。山下氏は広島大学大学院国際協力研究科が国際的な人材教育をした例を持って語り、三戸氏は震災などの国際的な支援、李氏は下関の観光化、家根橋は国際的な交流の現場い置いて日本語の役割などに関する話をした。山下彰一氏は元広島大学の同僚であり、彼が私より2年先に定年して、北九州の国際東アジア研究センター所長をされた、華麗な研究業績と経歴を持っている方であり、本当に久しぶりに嬉しい再会であった。彼は私に変わっていないと言ってくれたが、互いに年を感じたようである。彼の後を踏むように私も広島大学を定年して下関の東亜大学に来ている。
 現役の時にカリスマさえ感じられた人であったが、いまは自然な交際ができるように感じた。これからもっと大事な人間関係になるであろうと思う。人は若い時にも人情は持っているはずであるが、それが見えにくかったり、年をとることによって良く表れるようである。今日はアメリカ在住の友人に会うために今から出発する。三〇年間会えず文通をしていたが久しぶりに会うことになる。彼は宗教者の主教であり、私より大分年輩であり、人間的にも聖人になっているのではないだろうか。年をとることは意味があると思えるこのごろである。

「禁足令」

2012年10月20日 05時23分59秒 | エッセイ
 沖縄で女性に対する米兵強姦逮捕で在日米軍の全兵士に夜間外出禁止令が出た。これは初めてのことだという。私は韓国で良く耳にした言葉である。私の生まれ故郷の東豆川の米軍キャンプでは売春婦が多く性暴行事件よりは性暴行殺人事件が起きたので社会問題になったことを記憶している。その度に「禁足令」いわれる外出禁止令が発令された。住民たちはほぼ米軍を相手にして経済が成り立っていた当時はたった一日の「禁足」でも経済的には大きな打撃だった。朝鮮戦争の時から長い間、米軍との生活は密着している。
 日本での米軍との歴史は戦争、敗戦、占領時代から現在に至る。韓国より関係が深かったと思われる。しかし住民たちと米軍との関係は深くないようである。沖縄住民たちは島を挙げて米軍反対、反米、反政府のデモが多く、ニュースでみるデモは海外へはまるで独立運動のように映るかもしれない。今、日本は中国、韓国との悪い関係、北朝鮮とは敵対関係、そして反米関係、四面楚歌孤立している。国際化のキャッチフレーズより市民の国際感覚が先である。


英語ミス

2012年10月19日 05時04分47秒 | エッセイ
アメリカシアトル行きの出発の日が迫っている中、空港まで迎えに来る人からショッキングなメールが届いた。彼は私たち夫婦がレンターカーで彼のご自宅を探していくと思い、自宅で待つという内容である。私は運転免許はなく、家内はよその国で運転することを考えていないので国際免許の準備はしていないので大変困ったメールである。びっくりして私が送った英語のメールを確認したところ、そこに原因があった。それは私がグーグルの地図で彼の家の位置を確認したという余計なことを書いたことが誤解を招く要因となったのである。
 彼は韓国聖公会の韓国系アメリカ人の元主教Bishopであり、彼のコンピューターの関係上、英語で連絡を取っていた。奥さんは日本人である。しかし韓国語や日本語ではない英語でメールのやりとりをして誤解を招いたことは実に恥ずかしい。常に原書を読みながら英語が不十分であることを感じているが、短い文章なのに誤解を招く文章になってしまったことは恥ずかしい。日本で日本語を全く知らずに来て苦労したことで世界どこへ行っても言葉を知らなくとも不便は感じても不安感はそれほどないのが自慢話だったが今度は失敗であった。それも韓国人同士のコミュニケーションで誤解が生じたのが可笑しい。このような失敗も国際化の現象の一つであろう。

『<いのち>は死なない』

2012年10月18日 04時48分26秒 | エッセイ
 小倉紀蔵氏から最近著の哲学エッセイ『<いのち>は死なない』が送られてきた。「人は、死んでも消え去らない。そのことを、私たちは経験的に知っているのではないだろうか?」 「〈いのち〉は日々あたらしい」など金言が綴られている。詩的、哲学的ということで難しくと思われるより、本当は「いのちは消え去ってはいない」ということを理解するのが難しい。近代的な科学精神によればいのちは死によって「亡くなる、つまり「無くなる」ことである。人は死んでも生き続けるという思想、信念がある。それは死を否定するか、超越するのかであり、永遠のいのちへの信仰である。キリスト教は復活、とこしえのいのちを信じる。仏教では輪廻思想がそうであろう。
 私はクリスチャンの研究者としてこの永久のいのち信仰を受け入れることが難しい。年齢を加えながら「死に至る病」、悩みを日常的に考えるプロセスで少しずつ死んでも「いのちは死なない」に接近するようになるのだろうか。死が無であるならば人間だれでも悲惨な終末を迎えるだろう。本書はこの難しい思考のプロセスを詠っている。

作ったドラマの話と私の現実のドラマ(?)

2012年10月17日 05時04分34秒 | エッセイ
昨日一日私の自叙伝的な本のためのインタビューがジャーナリストの南氏によって行われた。録音、ビデオカメラ、ノートなどを用意して準備万全、私の脱線するような話を正路へ、先に飛んだ話が戻されたりした。私が重要だとは思わないところから問題意識をもって再質問してくれた。田舎からソウルへ、ソウル大学で任宰先生から文化人類学、李杜鉉先生から民俗学を学び、そして京城帝大の秋葉隆先生が我が故郷の揚州調査をしたことを知り、秋葉先生の弟子の泉靖一先生、そして中根千枝先生へ、日本留学まで順調な成功の道のりであったが、日本語を全く知らず無銭の苦学で、ドン底へ落ちる話を自然と話をしたら南氏は劇的な状況に驚き、感嘆の連続であった。彼はまるでドラマ作家のように想像しながら質問が続いた。時計は5時を過た。
 途中で終わらせなければならなかった。本当のドラマを見るために帰宅することにした。彼は駅で私を見送って電車が出発するまで帽子を抜いで最敬礼の別れの挨拶をしてくれた。劇中の主人公が分かれていくように。帰宅して韓国のKBS連続ドラマをみた。二人の娘を抱えている母親の秘密が暴露して困るシーンが映った。作ったドラマの話と私の現実のドラマ(?)が対照的にオーバーラップした。私の運命、それは運と戦ったような人生であった。