崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「竹林はるか遠く」について

2013年07月31日 20時55分27秒 | エッセイ
今日の読書会では終戦引揚者たちのインタビューと記録に関して研究をしている倉光誠氏が川嶋擁子氏作「竹林はるか遠く」について発表した。この小説は証言集か、文学作品か、あるいは両方としても読めるか。詳しくは戦後の混乱期の記録、戦争文学(引揚)、植民地と被植民地、日韓関係、児童文学などさまざまな視野から読めるといえる。大きくはノンフィクションとフィクションの二大のジャンルから読めるということになる。今日は作品以外の背景とか歴史認識などとのことは一切排除して作品そのものに絞って考えた。したがってこの作品をきちんと読んだ倉光氏と私以外に河村氏、鍬野氏の感想から話を始めた。その小説が評価される魅力は何だろう。11歳の少女の体験談に基づく作品であり、それは母親と二人の娘が逆境を生き抜いきた体験、特に母親の子供への愛情に感動する。それがアメリカで評価され中学校の推薦図書になったのであろう。
 この著者がバッシングを受けた点にも注目した。倉光氏は引揚証言書として羅南と元山という地名と1945年7月30日と8月16日という時点を中心に背景を調べた。ノンフィクション専門作家であれば、新聞などの記録を参考にして記憶を事実に合わせ正してストリー風に操作したはずである。しかしこの小説はそれがなされずただ11歳の少女の記憶に依っており、曖昧さがある。それが「嘘」「竹林」「731部隊」などと非難攻撃されたのであろう。その一つの例として飛行機からの爆撃があったという記述に対して韓国側からは「爆撃はなかった、嘘だ」などと非難された。倉光氏は1944年統計によると在朝日本人の総人口712.583人の道別統計で咸鏡北道の日本人比率が一番高い6.6%、羅南の朝鮮軍管区に19.270人の軍人やそれに関わる日本人がおり、最多であったのでその地域が軍事戦略的に攻撃された可能性が高いこと、森田芳夫著『朝鮮終戦の記録』から「爆撃があった」事実を明らかにした。そして「ある程度の客観性をそなえた文学の形をとった体験記」と語った。
 朝鮮民族の男の性暴行については他の多くの証言集からも私は確認できるものであると言った。これがアメリカの中学生の反感により始まってその波紋が韓国の領事館やマスメディアによって日韓関係を損なうことまで至り、逆効果によりこの本が多く売れる、さらに日本では無名の作家を有名作家にすることになった。この本が非難された発端は文学作品として読む読解力があったのか否か、おそらく後者であっただろうと私は思う。情報があふれる時代の風潮であり、思考力の低下、あまりも「アバウトな読み」からのことであろう。

JALパック予約への不信

2013年07月31日 05時49分17秒 | エッセイ
 先週東京出張の時の苦労は本欄で触れたように航空券とホテルを連携して利用する便利なシステムであり、多く利用されている。私は利用することが多い。しかし大手会社のJALの予約でトラブルが起きて、大変苦労したことを調べておきたい。同僚が代わりに、科研出張のJALパック予約をして領収書もコピーしてあり、その通りに東京行きに無事に乗ることが出来た。しかしホテルの予約がなっておらず、そこには宿泊できず、大変慌ただしく困惑しての公務を履行だった。また羽田空港からの帰路がなぜか成田からになっているということで、JALパックに絶望することしかなかった。
 予約した当本人の同僚が問い合わせの電話で納得できないまま私に受話器を変えたた。私は予約して費用を払って領収書のコピーを持っているし、その使ってない分を払い戻せないかと当然の話を普通の声でした。電話の担当者の話によるとホテルなどは用意されてあるのに私が使わなかったから払い戻しは出来ないという。総合して理解すると「予約は確約ではない」ということである。つまり予約を確認していなかったので私が責任をとるべきだということである。ちなみに他社では同じように利用してもこのようなことは一度もなかった。古くは飛行機の席を予約しても確認の電話をしなければならなかったことを思い出す。最近そのシステムは無くなっていることは周知であろう。契約文には何か逃げ道を開いていることと推察される。
 私はこのことで気持ち悪くしたくないので損をすることに決めた。「予約と確約」を繰り返すことは何を意味するのか。親切のようで不親切、便利のようで不便なシステムである。確かに予定も実行ではない。一般的に「予定や予約」を変えても良いのは生活の上日常茶飯事であるからJALだけの話ではないだろう。政治的にいうとマニフェストも守らなくともよいようにして結果として民主党は政治信用を失い、政権さえ手離すことになった。約束をしてもよくキャンセルする人が多い。その理由は納得いくもの、納得いかないものさまざまである。私もキャンセルをしたことがあるが、今あまりも簡単にキャンセルする人がが多いように感じる。以前、信用のあったJALが経営が悪いということはこのように信用を失っていることからと十分納得できる。

日付 : 2013年07月17日
崔 吉城 様

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続「ヘートスピーチ」

2013年07月30日 03時07分06秒 | エッセイ
昨日韓国民団中央本部青年会の徐史晃会長が下関韓国教育院の沈香美氏の案内で私の研究室を訪ねてきた。徐氏は下関出身で慶応大学で国際政治を専門とした青年であり、韓国語も出来る。二人とも私のホームページを読んできたので自己紹介などは大分省略して話が進んだ。彼らは最近の日韓の政治的関係が良くないと心配していたが、私は以前に比べて民間レベルでの文化交流が活発であり、それほど悪くないと楽観していると述べた。しかし彼は今、日本中で起きているヘートスピーチなど人種差別のよるな問題があり、署名運動を起こしているという。私はその運動が逆効果を持たらす憂いを表明した。同和教育が差別を知らない素直な子供達に差別を教えることになったことを指摘した。また差別されても場合によっては差別の勢いの気を抜くために陽性化することも必要だといい、差別を講義で扱う映画「招かざる客」を紹介した。私は差別集団の巫人の金石出氏自らが「4代続きの巫」だと宣言したことを思い出した。
 また地理学者の川村博忠先生が訪ねて来られて、特に先生は若い時新聞記者をしておられて、山村での取材などを例にしながら周南市の村で起きた村八分とされた人の殺人と放火について話をし、日本社会の差別が未だに潜在していると語った。その日本社会に在日同胞社会が存在し、時代の変化により、同化と異化の両現象が起きて、民団も日本国籍同胞を会員として迎え入れている状況である。一般的に日本人と在日朝鮮人・韓国人、両民族の間には見えない境界、差別がある。
 差別とは知識の貧困の病的現象である。知識や教養を高めること、多民族、多文化社会へ広げ、レベルアップすることしか解決方法はない。もっとも根本的なことは川崎教会の李仁夏牧師が主張したように日本人も韓国人も日本という土地に「寄留」していることを認識すべきであろう。








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トラブルと幸運が交差

2013年07月29日 05時27分34秒 | エッセイ
 東京から帰路時、もう一つのハップニングがあった。チェクインの時、私のEチケットは成田から福岡になって出発時間も違っていて無理であるといわれた。成田へ行く時間、新幹線はどうかといろいろと考えたが、チケットを新たに購入してもここから帰ることを頼んでみた。キャンセル待ちのように待っていると一つだけ空席があって無事に帰宅できた。外国旅行でもめったにおきないトラブルが日本で続けて起きたトラべルであった。考えてみると旅行を英語でトラベルtravelというが、それはトラブルtroubleが付くものである。旅には辛いことが伴うという。
 しかし楽しい時間も長かった。朝は翻訳家の舘野氏と朝食しながら私の新著の構成と校正などについて相談した。間をぬって紀伊国屋書店の店頭に山積みの川嶋氏の「竹林はるか遠く」を見た。そして、旧い友人の映画監督の北村皆雄氏と昼食を取りながら古い映像記録の整理出版、シンポジウムと原稿依頼を受けた。結局今年中3,4回上京することになった。今度のトラべルから考えるとトラブルと幸運が交差するような予感がする。感謝し祈るしかない。(写真は北村皆雄氏)

鄭大均さんと

2013年07月27日 22時01分09秒 | エッセイ
 鄭大均さんと駅のカフェーで朝食を食べながらここ数年間の互いの話をした。彼も定年、好きなことをする自由を得たという。彼は会う度に私を分析的にいう。日本語の文章より言葉が面白いとか、半分以下の低い評価であろう。しかし私は彼の文章や言葉などは気にせず、いつも批判的なところが面白いと思っている。その彼が私に自叙伝を書いたらどうかといった。彼の言語生活からみて大げさにいうと極賛であろう。私はそれに提案した。対談で行いたいと注文、お互いに考えることにした。彼は本屋の事情にも情報が詳しい。川嶋氏の「竹林はるか遠く」は異常によく売れるという。これから出る反響を見守るという。そのあと私は本郷の東大赤門前を数回往復しながら第一書房とお茶の水書房を探して歩いて、初めて汗の水滴が落ちる体験をした。
 東洋大学の食堂で早めに昼食をとり、研究会場に着き、植野弘子先生が代表とする科研の研究「帝国日本のモノと人の移動」の研究会が延々と続いた。まず植野代表から研究目的や特徴、つまり日本化すなわち近代化の意味、台湾での女性教育など実態が見えるように語ってくれた。その後各自の研究テーマにそって発表し台湾、朝鮮、満州などと関連して理解する、あるいは比較するような、ワークショップのようであった。私は疲労も全く感じず面白い話に過剰反応、過剰発言をした。老暴であったと感じられたかもしれない。何と私の研究と関わりのある話が多くて自然にそうなってしまった。話は終わらないので懇親会に切り替えて続いた。私は先に立ったが携帯を落としてしまうなど、昨日に引き続き苦難の日であった。しかし、幸いにも八尾さんがホテルまで届けてくれた。ほんとうに感謝であった。チームワークの共同研究はメンバーたちとの理解、協力によってのみ目的達成に至るであろう。これからが楽しみである。

(写真、左から植野弘子代表、仏教大の鈴木文子、台湾の林、私、神田外語大の林史樹、元興寺文化財研究所の角南総一郎、八重山毎日新聞社の松田良孝、名城大の谷ケ城秀吉、県立広大の上水流久彦の諸氏、八尾祥平氏は写っていない) 

不幸中の幸い

2013年07月26日 20時50分43秒 | エッセイ
 JALパッケージで東京へ向かった。飛行機が遅れ、ラッシュ時間の都会で田舎の鶏のように戸惑った。予約した池袋の小さいビジネスホテルを探すのに必死であった。ようやく着いたが、鄭大均教授と待ちあわせてしている時間ギリギリに着いた。しかし彼もホテル探しに迷っているのだろうか、まだ来ていない。電話番号を知らず、まずチェクインしようとしてEチケットを見せると予約されていないということである。また空いている部屋もないという。JALパックとはなんだろう。SOSの電話を、数か所へ。突然の電話を取ってびっくりする相手の声、次々かけても、情報を得ることが出来なかった。結局歩きながら探したホテルは繁華街の高いラブホテル(?)のようで、先払いするよういわれ、さらに私に外国人証明書を要求した。不快であった。やっとホテルの部屋に入ったがズボンのベルトが故障、不快感が高調、今年度最悪の日だとつぶやいた。外国に調査に行った時より苦労した一日であった。
 夜9時頃にようやく落ち着いた。考えてみると池袋の繁華街を知るチャンスと思えた。明日の科研の研究会のための準備は二の次、私はまだ「調査中」の人間である。それでも不運の日だけではなかった。大学から駅を向かって歩く時、私の講義を受講している3年生の学生が車を止めて載せてくれた。このような学部の学生の車に載ったのは初めてであって、嬉しかった。遅く食べたラーメンも美味しかった。不幸中の幸いであった。

学生のコメント

2013年07月25日 21時18分12秒 | エッセイ
今日前期の講義の試験を残して、最終時間であり、学生たちから拍手を受けた。休講もなく、楽しく終えることができて学生たちに感謝し講義評価と感想を聞いた。科目名は「観光人類学」であり、山下編『観光文化学』をテキストにして私が調査や旅行した映像と画像をもって、考えたことを話し合うように講義し、必ずノートをさせて回収して私がコメントする対話法を取った。私ののコメントは褒めることはもちろん、注意することも含まれていて学生とのコミュニケーションにもなった。それは学生による評価であり、教育そのものでもある。今日のコメントを一学期大活躍してくれた渡辺君がまとめて読み上げて拍手と歓声が上がった。以下は学生たちのコメントである。

 キム・ドゥヨン:ほかの講義ではほとんどの先生が一方的に話すだけですが、崔先生は対話式の講義を行ってくださったのでとてもわかりやすかったです。
 コウ・ギョウケツ:先生が韓国人学生に対して韓国語で話す時は違和感を感じた。
 イ・カンハン:先生が諸外国へ行って実際に撮影したものを見ると、私自身もその国へ行ってみたくなりました。
そして毎時間行う授業の感想を書くことによって、自ら考え、モノを書くスキルの向上につながったと思います。
 ソン・ギョウトウ:毎回先生がせっかく準備してくださっているパワーポイントですが、量が多くひとつの講義の中で全てを見ることができません。そこで、スライドの量を減らし簡潔に記述することによって先生の苦労も減り、私たち自身の授業効率アップにもつながると思います。
 熊田知央:日頃テレビでは美化された情報しか流れてなく、それだけの情報しか得ることができないが、崔先生の授業ではよりリアルな特に映画「汚れた日本人」を見ることができ自分自身の知識の幅が広がった。
 尾島悠太:実際に世界を旅した視点での授業だったのですごくためになりました。(ぜひ自分も何か新しいことにチャレンジしたい)
 タイ・チンホウ:先生が多くの国を訪れて撮った写真や映像をもっと多くみたいです。
 チェ・ユリ:ブログとFACEBOOKを見て、先生の若く生きる方法を学ぶことができました。
 ノ・ヨンジュ:先生の授業ではテーマがあり、それに関した事例や知識を細かく教えてくださること、さらには授業の感想を書くことでそのテーマについてより深く考えることができました。
 ヤン・ハイム:ほかの先生の授業はただ単に専門的な知識を教えるスタイルですが、先生の授業では専門的な知識はもちろんのこと、先生自身の体験談や経験をもとにその知識についてより深く教えてくださるので、ほかの授業に比べ多くのことを身に付けることができました。
 渡邊雅之:先生の実体験をもとに構成されている授業なのでよりリアルで、嘘ではない本当の知識を得ることができました。「ペーパーチェイス」を見てから自分自身の授業への取組み方や、先生方の授業方法について深く考える機会が増えました。対話式の授業を行うことにより本当に生徒がその知識を自分のものとしているか(いかに身につけているか)をはかることができ、さらにはコミュニケーション能力の向上、ディベート力の向上にもつながる本当に素晴らしい方法だと思います。今後このような授業がほかの科目でも増えることを願っています。
(文責:渡邊雅之)

「生まれる順番はあっても死ぬ順番はない」

2013年07月25日 05時19分22秒 | エッセイ
 7月19日に病没された第一書房社長村口一雄氏を偲んでいる。私が下関に住むようになり、たまに上京する時は時間を作って会って来た。去年、訪ねた時は在宅用の酸素吸収チューブをを鼻に付けて仕事中であったが、それでも元気よく長く話をしてくれた。そんなわたしたちの会話は歴史古い背景をもつものである。40年ほど前、私が留学し、私の指導教授であった野口武徳先生とシャーマニズム専門の佐々木宏幹先生と村口社長は三羽烏のように深夜まで飲みながら語り合っていた。そんなところに酒は飲めない、しかも日本語も知らず同席した辛さを第一に思い出す。私が留学を終えて韓国に帰国して大邱の啓明大に勤務している時、社長はわざわざ訪ねてきてくださった。私の最初の単著である『韓国巫俗の研究』を日本語で出版したいという大変光栄な話を持ってきて下さったのである。当時、成城大学に博士論文としてこの論著を深めて提出するつもりだったので他著『韓国の巫俗と祭り』をお願いしたことは心残りである。その後三冊も出していただき縁は深くなっていった。それだけではなく多くの著者を紹介し、たくさんの方々の出版も多い。
 先週奥様から訃報の電話をいただいた。さっそくFBに訃報を知らせた。弔電を送った。東洋大学の松本誠一先生から「村口一雄さんの告別式に参列しました。弔電披露の折に、崔先生からの弔電全文が読み上げられました。葬儀委員長は古書店、泰雲堂社長です。町屋斎場に向けての出棺を見送り、大学に移動しました。植野さんも一緒でした。」「村口夫妻から崔先生のお話しを伺うことがありました。韓国研究の出版に前向きで、御理解のある方でした。」という悲しく、そしてそんなお言葉を残してくださったことは嬉しい。また松本氏は考古学者、斎藤忠さんが7月21日、104歳で亡くなったという訃報を伝えてくれた。御冥福を祈る。「生まれる順番はあっても死ぬ順番はない」。

酷暑

2013年07月24日 05時05分45秒 | エッセイ
 昨日35度以上の酷暑が続いている中,韓国からの80余名の学生たちの研修終了式に顔を出したとたん、突然指名され壇上で韓国語で挨拶、留学を勧める話をして、10余人の職員たちと出て行くバスに手を振った。この暑さでも我がマンションはロケーションがよく、まだ冷房はいらない。がこの暑さではただ何もせずボーと過ごすことはできても本を読むことなどは能率的ではない。数年前インドネシアの熱帯地方で1カ月ほど暮したことを思い出す。そこでは住民たちが暑さを凌ぐことが出来ても積極的な意欲を出せないことを観察した。1996年12月26日の私の現地調査ノートに韓国から移住した女性ガイドの言葉「資源が豊富、人は優しい、気候は適応できる」と記している。(写真は私の調査ノート)
 私は母が「頭は熱くなると悪くなる」と常につぶやいていたことを思い出す。温暖化や熱帯地域が広がるにつれて、緩んでのんびりする傾向が広がっていくかもしれない。我等は学習熱、研究熱など「…熱」という言葉を多く使っている。それは知識の熱であり、思考力の熱ではない。むしろ暑さでは思考力は低下する。地球規模から考えると競争熱は温帯地域でのことであろう。この夏の酷暑は熱帯地域での住民の気持ちを理解する体験ともいえる。思考力の低下に注意すべきである。

勝利宣言

2013年07月23日 05時31分58秒 | エッセイ
 数年前に私が持っているビデオカメラの中の新品に近いカメラを友人に差し上げた。しかし彼から数年後になって使えないということで戻された。訳を聞くと彼は機械に詳しい人と同行してきて、故障で修理費がカメラ価格を超えそうだと詳しく説明をしてくれた。私は人にあげるものはいいものをという信条を持っているのに使えない故障した物を人にあげてしまったのかと、心痛くして持ち帰った。しかしそのカメラは何の故障もなく完全な商品であった。スイッチを押したら正常に作動するので安心した。使いこなせなくて返品になったようである。彼に早速そのことを言ったら再度くれないかと言う。またあげることはしなかった。人に物を上げる時には気をつけるべきことを知った。鉢物や土産を授受する時も注意すべきであろう。
 数年前佐渡島で開かれた時「日本映像民俗学会」で私が昔から映像に関心を持ってきたという話をしている時に日本ドキュメンタリープロジューサーの市岡氏からフィルムをいただいた話をした時、質問があったが答えられず、私が嘘をついたように思われたのではないかと気になっていた。数日前1972年の手帳からその記録を確認し、嬉しかった。その質問に今更答える必要もないが、自分自身が嘘をついたのではなかったことに勝利宣言したいほど嬉しかった。選挙で勝利宣言している喜びの映像画像を見ながら見えない多くの敗北者を考えている。
 写真は赤間神宮前に咲いた夏の花のサンデーゴである。

「命の水」

2013年07月22日 04時48分49秒 | エッセイ
 昨日はいろいろな行事が重なった。大学には韓国から高校生たち80人が到着したが、その時間に教会の牧師の誕生日祝いの食卓飾りの生け花をしていた(写真)。午後からは福岡県の水巻での新築祝い、在日大韓基督教会折尾教会の献堂式に参加した。130人以上の参加者で予想以上であったと言う。又福岡からの訃報もあったが参加せず遅く帰った。福岡県北九州市折尾の教会であったが新しく水巻に建築したが名前はそのままにしている。折尾教会の「折尾」は地名であるが、「折尾教会」は歴史を持つ教会名であるからそのままにしている。このような例は多い。地名が歴史を持つのである。
 金明均牧師の説教は水が湧いて、流れている。その水を飲んで人が生きる「命の水」という単純明快なメッセージ、良かった。大学の教員たちにも聞かせてあげたいスピーチであった。大学では互いに授業参観が行われているが、いろいろなイベントなどにも参加して参考にすべきであろう。大学や研究所などでも講演会、研究会などを多く行ってもあまり関心をみせない。授業の内容を深く考えてプレゼンテーションをよりよくするためにも多く参加してほしい。聞くべき人は学生や市民だけではない。
  昨日行事と行事の間をぬって、参議院選挙の投票にも行った。結果は自民党圧勝である。景気回復への効果と期待の表れであろう。国民は選挙によって国を変えるということを知っている。自民党から民主党へ、また民主党から自民党へ変えた。それは中国の共産党のような「一党独裁」への逆戻りではない。また国民が日本を変えることを意味する。日本を世界から愛され、注目される国にしてほしいという願いがある。


東洋経済日報5000号発行を祝う

2013年07月21日 04時39分53秒 | エッセイ
東洋経済日報は1946年創立以来韓日両国間の友好親善,在日韓国人社会の生活・文化の向上などに大きく貢献していることに賛辞と感謝を申し上げ、心から拍手を送りたい。私と東洋経済日報との縁はかなり古い。1972年12月に日本留学した直後の1973年1月1日(月曜日)新年号の17面の半分に「失われゆく伝統:韓国楊州の牛戯祭」に私の32歳の顔写真とともに掲載されているスクラップブックを見ながら懐かしく思っている(写真)。その外にも寄稿したことがあると思うが、現在は数年間続けて随筆を連載させていただいており喜びを共にしたい。東洋経済日報紙が5000号発行をするに至ったことを知って実に偉大なことだと思う。そしてその歴史と労苦を想い慰めと、やり遂げたことを今一度お祝いしたい。10年ほど前には広島で姜仁秀氏の老人福祉施設のオープンにングのお祝い時、朴恵美社長と金時文編集長にお会いした時を嬉しく思い出す。
  東洋経済日報は在日社会の情報紙を基礎に韓日の掛け橋の経済専門紙として、さらに国際化時代に相応しく質を深めていくことを期待したい。先入観や偏見がなく客観的な報道と論評などで信頼と評価を受けながら発展しくのを常に感じており、愛読者の一人としてもさらなる発展をお祈りしている。


「日本の話し」

2013年07月20日 05時13分45秒 | エッセイ
先日絹代塾で対談した作家古川薫氏と東亜大学長の櫛田氏、芸術学部長の川野氏と夕食をしながらシンポジウムの基調講演などについて2時間半放談した。古川氏は米寿の年にもかかわらず新しく新鮮なアイディア豊富な話を出していた。櫛田氏が山口県から総理大臣を多く出したことは教育が良いことではないかと言うことに総理は出ても地域発展には結びつかない。「それは良いこと」と軽く触れた。私はそれに意味の重みを感じフォローした。彼は伊藤博文の実話を紹介した。伊藤が郷里に錦を飾るために下関の春帆楼に留まった時、地元の産業の経営者などが大勢集まってこれから政治的な支援を期待している表情の方々に向かって彼曰く「私は郷里の総理ではなく、日本の総理だ」と言って多くの人を失望させたと言う。古くから「錦衣環郷」という出世して実家や先祖の墓のある故郷に錦を飾りたい理想に対して、伊藤は近代的意識改革をしようとする意思がはっきりした話として私は聞いた。
 私は港街として下関についての文学や映画などに意見を求めた。彼は若い時、取材のためにアフリカまで旅をして数多くの港町の話をし一気に盛り上がった。私は彼の文学者としての港町に関する話を市民と共にお聞きしたいということを述べた。下関の発展の論説より作家として港町の風景と人の関わりに私は新鮮な衝撃を受けた。高齢者に過去の話や長寿秘訣を聞くような世間のありきたりの話とは異なる文学少年的な話が面白かったからである。その話をもってパネラーたちが港、海、海峡、国際化などへと展開していけば有意義であろう。下関の話しでなく、「日本の話し」そして国際化の話になるだろう。

偉人創り

2013年07月19日 04時24分56秒 | エッセイ
観光人類学という講義で毛沢東、金日成、朴正煕の生家が観光化されていることを比較した。毛氏は「人傑地霊」と風水的に生誕地の神秘性が語られている。記念館以外にも祖廟、拝礼所、銅像、別荘、図書館、公園、食堂(「毛家飯店」)など総合的に整っている。中国人にとって偉大な人物であり、生誕地は国民的学習地や巡礼拝礼所とされている。中国からの留学生たちは嬉しい表情を見せた。
 北朝鮮の金氏の生誕地である萬鏡台は先祖の墓と藁葺家だけでシンプルであるが、国民にあるいは日本人や韓国人にも親しまれている。朴氏の生家はそれらほど観光化されていない。展示も業績中心としているように感じた。ただ銅像は過剰に大きく作ったように感じた。私は毛氏のものは未だ見ていないが、金氏、朴氏の生家を見物して偉い英雄作りを見た感がする。つまり偉い人物創りの一つとして「生家」を記念することに注目したい。歴史古い英雄伝的な礎が生家であるからである。
 日本の中にもこのような生家を記念するところが多い。さらに多くは子孫が先祖を顕彰しようとするものである。そこを訪ねると先祖を尊敬する子孫の心、親切さが強く感じられる。しかしもっと英雄とされている公的施設になっているところでは事務的であり、誠意が感じられないのが普通である。また展示などを見ても、弱点や短所を見せず長所や良いところだけを強調し、あるいは過剰にしたり、創り話でも許されそうに思った。複雑な人生が単純化されていることがわかる。上に挙げた3人は人権弾圧などで多くの人を犠牲にした人でもある。しかしそれは英雄創りには要らない。偉人英雄化は簡単であろう。
 イエスは珍しい英雄である。十字架に掛けられて死ぬことなどが含まれて英雄化されているからである。異例な偉人であろう。ここに重要なメッセージがある。欠点や辛い人生も共有することが決して英雄になるに不要なものではないということである。人を愛する始まりは、親は子供、夫婦はお互いの弱点を知って愛する。人の欠点を共有し、愛することを教訓とすべきであろう。イエスの英雄化は愛するメカニズムを示しているといえる。

韓国大法院判決

2013年07月18日 05時22分43秒 | エッセイ
 下関市役所の元職員の某氏は戦前の蔚山の土地所有文書をもって裁判を準備しているが、実現せず過ごしている。彼は父親が純粋に自分の力で缶詰め工場を作り広い土地と財産を儲けて成功したのに終戦で引き揚げ、全てを置いて引き上げてきた。彼は私に缶詰めのトレードマークなどをみせてくれたことがある。最近彼は蔚山に行ってみたら自分の所有であった土地がバス停留ターミナルなどになっていたとのことである。彼は繰り返して言う。「植民地とは関係なく個人の努力で儲けた財産を取り戻せる」と。そのような人は韓国人にも多い。
 戦前日本企業にいわば強制徴用された人たちが損害賠償を求めたことに、韓国大法院の判決で 韓国では個人に対する賠償の道が開かれた。日本でもこのような裁判は多く行われたが1965年の日韓請求権協定に基づいて棄却された。しかし今度の韓国側の判決は大きい混乱を予想させる。なぜなら遡って個人の被害を認めるなら戦前朝鮮半島に住んだ日本人の個人の所有権なども認めざるを得なくなる。大混乱の判決である。もちろん植民地・戦争の被害を前提にした判決とは理解しても、被害に対する賠償への趣は感じるが正しい判決とはいい難い。裁判者たちの法律中心の立法主義による裁判と言わざるを得ない。