崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

ベテル

2015年02月28日 06時24分35秒 | 旅行
旅の後処理は終わらない。お世話になった人、インタビューをした人へ礼状のメールや手紙を送る仕事が残っている。ミャンマー市内バスの客が窓から赤い血のようなものを吐くのを見て、その人の健康を心配したが、これがベテルを噛んで吐き出していると知って安心した。ベテルは伝統的な慣習として接待用や嗜好品として生き残っている。ホテルで朝刊新聞を読んだら政府の衛生省が癌病因となると警告したことがわかった。1997年1月にタイの北部の都市のチェンライから陸路でミャンマーへ行った時のノートを探して読むとリヤーカーで売っているベテル betelを買ってホテルで味わったことがある。この度二度ベテルの行商を見つけた。それをもう一度試食してみるために買うことにして写真を撮ることができた。彼は取り締まりを恐れる雰囲気で売っていた。ベテルとはareca nutを包む葉のことであり、ミャンマーではコーンというとガイドが教えてくれた。ホテルで家内と一緒に味わってみた。ベテルの香りがした。アジアではスパイスとしても使われていることがわかった。
 もう一つ面白かったのは女性たちの日焼け留の化粧品である。木を硯のようなもので挽いて粉にしたものを顔に塗る。日焼け止め薬効のある商品であり、早速購入した。日本ではまだ冬なのに日中35度くらいの真夏が長いので、日焼けは問題である。白美人の基準は全無になるかもしれない。「黒は美しい」という流行語のように美は多様である。本屋の店員の女性が軽くカメラの前でポーズをしてくれた。日本の眉の見えない前髪顔は国際的には通じないと思う。シンガポールでも前髪を垂らしていない美人は多い。

セクハラ

2015年02月27日 06時25分56秒 | 旅行
数日間留守であっても愛犬ミミや花などは何にも変っていない。ミミが嬉しそうに走り回る。毎度旅行中の留守は隣家の家内の友達がしてくれる。最初の時は家内が犬や鉢物の管理など注意事項をマニュアルのように書いたが今はお願いしますで済んでいる。留守中日本の政治的ニュースも別に気にならない。韓国のニュースでは姦通罪が憲法違反ということでなくなるという。性愛に関わる問題を国家が罰することはしないという世界の先進国へ進入することである。ただ国民の性倫理がそぐわないか心配ではある。私は性と政治に関心をもっておりり、文化人類学の講義ではよく取り上げるものでもある。
 日本でも似ているニュースがあった。セクハラの最高裁の判決である。専門家によるセクハラの基準を聞きながら使う言葉がなくなりそうにも感じた。私はセクハラ以上日本人の嫌な言葉は慇懃無礼ということである。言葉では礼儀正しく人を虐めることである。褒め殺しの言葉は見当がつくが、慇懃無礼には対応しきれない。それを法律で裁くことはないだろうか。規制緩和と主張しながら皮肉にも罰則を多く作っている。行き苦しい「幸福大国」になれるか、心配である。シンガポール空港で買った『本性の東西The East,The West,and Sex』には西洋人が東洋の女性とセックスしやすいが逆は難しいと論じている。それは東洋社会が西洋化、近代化の歴史が関わってくるという論調の始まりで、これから読んでいく。この度の旅行はその戦争中の慰安婦と性の問題を追求する目的であった。これからそれを深めていく。

深夜便で帰国

2015年02月26日 11時23分16秒 | 旅行
26日深夜の1時20分シンガポール発、福岡に朝8時頃に着き、帰国した。昨日は朝,ヤンゴン発でシンガポールに着き、ある日記者が住んでいた二軒の家に再度訪ねて行った。二軒共西洋人が住んでいて、一軒目は主人は留守、メードさんが自らメードだと言いながら主人の名前も正確に書けない。彼女は主人と通話したが、突然のことでお会いできなかった。私のメッセージを残すことになり、英文で自己紹介と日記に関する研究のために内部を見たいことなどを書いた。二軒目のかたは10か月から貸家としで生活しているとのことであり、体調が悪いと言いながらインタビュうに応じてくれたが家のことには関心がなさそうに語ってくれた。早速日本から正式な手紙を送り、次の機会により深くインタビューができることを祈っている。
 シンガポールでは電車とバス、タクシーも乗れるようになった時に帰ってきた。いつものように別に大きい企画をしていることではなく、現地に行って考えるようにしたが常に歩き、歩き、ハードスケージュルになってしまう。深夜の飛行機の中で足を延ばせず苦痛だった。足を伸ばせない窮屈さ強く感じた。横になる、寝るだけで感謝である。ハードな仕事と体重はどいう関係であろうか。帰国しすぐ測り、太っていた。生のマンゴジュースを数回飲んだのでその快楽の警戒であろうか。

「歴史認識」は無い

2015年02月25日 06時40分15秒 | 旅行
 1943年慰安所日記者の住んだヤンゴン市内を中心に歩くことにした。飛行機がかなり遅れて、到着した日は調査の下準備。二日目からミャンマーでの調査が朝から本格的に始まった。まずイギリス植民地遺産の一番といえるストランドホテルに行った。西洋人の観光客の一行が見学していた。今も西洋人に人気のある最高級ホテルになっている。ホテルが展示している地図、写真や絵をみて『ホテル史』(The Strand)を購入した。現実にイギリスの植民地遺産は市内のいたるところにあるが国民はその歴史は知らないと言う。しかも日本に占領されたことを知っている人は少ない。JTBの案内者の女性ポッポさんによれば学校では全く教えていないという。ただ古い王朝の歴史しか知らない。国立博物館への入場は空港での出入国より厳しく、スマートフォーンなど一切携帯できない。1~5階までうす暗い展示はほぼ王朝と少数民族の文化だけであって近現代はまったくない。韓国も以前李王朝から日本植民地時代を除いて現代へ繋げる歴史を教育し、後に植民地時代を含む歴史教育に変えた経緯があるが、ミャンマーではそれより極端に植民地と戦争の歴史を忘却させられている。アウンサン将軍の博物館でも日本に占領されたことは出ない。ただ将軍が読んだ本のリストに日本という国名が出ているだけである。
 一日中交通渋滞の中でミャンマーの伝統的な食事とお茶を味わってみた。昼食と夕食もミャンマーの伝統料理であった。最後の夜まで親切な国民性を感じた。しかし政府と行政が私の頭から離れることはなかった。国民は不満を言う余裕がない。政治や民主化を話題にすることはまだ遠く、贅沢な話であろう。独裁国家のメリットは治安の安全である。このシャングリラホテルの出入りも荷物やボディチェックが嫌で案内者に質問したところ、以前このホテルで爆発事件があり、荷物やボディチェックがあって当然であるということで納得した。伝統的に質素な国云々しながら観光するのではなく、この国民の立場に立って考え、感じて帰ることがこのたびの一番の収穫ではないかと思う。今日は再びシンガポールで再調査し、深夜便で帰国する。
 *写真は慰安所日記者が見て感動した仏像である。

自民族主義が障碍

2015年02月24日 07時16分37秒 | 旅行
泊まっているシャングリラホテルはヤンゴンの中心地、ホテルを出てインド人の町の横にある独立記念塔のある公園に入った。鉄条網が張り巡らされている公園の外には市庁(1925)、元最高裁判所(1908)の建物が目立つ。その他イギリス植民地遺産らしい植民地時代の建物が目立つ。午後6時の閉鎖を知らせる人が鐘を鳴らしながらホィッスルを吹き、追い出される気分で公園を出て、食堂を探しても日本のコンビ二のレベルのものさえまったく目につかない。道を横断しようにも信号はなく、あっても守られていない、異国風景としても悲しい貧困そのものである。心が痛い。
 ミャンマーはイギリス植民地から解放されてイギリス植民地を清算し、ビルマからミャンマーへ戻り、英語もほぼ通じない閉鎖的になった。統治者が外国人であれ自国民であれ、それが重要なことではないとも考えている。特に少数民族が多く国家を形成しているとそれぞれ民族代表が統治しなけれならないこということで紛争が起こりやすい。統治者が権力者や独裁者になると悲惨な状況にもなる。民主的な指導者は世論を重要視する。そしてポピュリズムにのりやすくなる。指導者が強くなると独裁者、弱くなるとリーダーシップがないといわれる。
 シンガポールとミャンマーはいろいろと対照的である。シンガポールは1960年代、反植民地主義を批判しながら英語を公用語として認め国際化を図った。空港へ向かうときタクシーの運転手との話で国内線がない国であることに気がついた。「小国」であることを生かせて国際化に成功したのであろう。ミャンマーは植民地から独立し、1962年軍事独裁国家として閉鎖的な国になった。今日はそれに迫って、博物館などを見回る。
 統治者はいずれにせよ良い人間でなければならない。倫理や常識を考慮せず危険な思想であってはいけない。統治者は支配者ではなく、行政者や経営者のガーバーナーgouverner的な人であれば何人でも、何民族、何国家の人でも良いのではないかとも考える。古くは信託統治というものの発想がそれであった。生みの親ではなくとも育ての親でも良い時代になっている。アフリカや東南アジアの多くの植民地から解放された国、ミャンマーなどでは自民族主義が障碍となっているようにも考える。

最富国から最貧国へ

2015年02月23日 22時06分20秒 | 旅行
シンガポールから西北へ2時間半飛行してミャンマーの首都ヤンゴンに着いた。アジアの最富国から最貧国への旅である。この貧困の町をなんとなく歩き始めた。1950年代の韓国でもこのように貧困ではなかったように感じた。道は行政100%不在の国家、ホテルに出入りする度に入境する時のようにX線通過とボディチェックは耐えられない。旅人としては異国の風景として記憶すればそれで終わりであろう。しかし私は辛さと悲しさを痛感している。
 シンガポールとミャンマーはイギリスから植民地とされた悲しい歴史を持っている。ミャンマーは他国異民族の支配から解放されたのに、自民族を自ら独裁して不幸にしている。ある作家のミャンマー旅行記に貧困から幸せを感じたという皮肉なことを書いたのを読んだ。飛行機の中で読んだアウンサンスーチ氏の文を通して軍事独裁の非行を読んで心から憂いを持っている。
 市場と住宅街が常に混合しているような中心地、人道と車道の境界線を歩くようにしてホテルに戻って、窓から見えるホテルのプールで楽しんでいる風景、それは楽園であり、その外が最貧困の世界、光と闇であろうか。観光とはいかに贅沢、否残酷なことであろうかと思ってしまう。貧困を観光とするということ、いかに非倫理的あろうか。日本が楽園天国でありながら消費や浪費の大国ではなかろうか。日本ではモノを簡単に捨てるがここに来て紙一枚でも大事にすべきだと思った。
*写真は空港に迎え待っている人たち

「少なくとも今の日本人は人をころさない」

2015年02月22日 21時24分19秒 | 旅行
シンガポールでの第二日目は電車と歩きばかりで昨日の2倍は歩いた。電車に乗るたびにシルバー席reserving seatに座っていた人から席を譲っていただいた。日本の若者の居眠り光景とは全く異なっている。まず電車で居眠りする人がいない。日本は高齢化社会が心配だと思っている方が多いが、私は若者の衰弱化がもっと問題であると思う。今日の午前の半日はラッフルスプレースから上陸地の川辺を歩いた。アジア歴史博物館を観覧して、ラッフルスシティで昼食をとった。いたるところにラッフルスの名前が地名に刻まれている。彼はイギリス植民地統治者であり、このように記念されていることは何を意味するのだろうか。
 午後国立博物館で日本占領時期の特別展があり観覧した。日本軍の残酷な戦争犯罪的なものが展示されている。ノートをとりながら集中してみているレーという名前の女性に英語で質問をした。彼女は勉強をするのではなく、ただ日本に関心があり、観に来ていると言う。私はこのような日本軍の残酷さを観ることが彼女にとって日本への関心はどうなるだろうかと老婆心で聞いてみた。彼女は歴史と現実を区別していると言う。歴史は持続するものであり、どう区別するのかと言う反問に彼女曰く「少なくとも今の日本人は人を殺さない」と言う。名答であった。
 この度、シンガポール調査の最大の関心事が慰安所日記を書いた朴氏が住み込みで帳場の仕事をした家を探してみることであった。地下鉄の駅から降りて1時間ほど歩いて6人に道を訪ね、ようやくその番地の家の前に立って写真を撮ることが出来た。感動の時間であった。入り口の門の両側には竹、燈篭を乗せた柱などその時代のもののように感ずる。今日は不在のようだったが現在このお宅に住んでおられる方と今後、文通などで確認することが出来たらいいのにと希望を持ってみる。明日の早朝にはミャンマーへ向かう。

真夏の国、シンガポールへ

2015年02月22日 05時51分01秒 | 旅行
 シンガポールへ、夏へ、6時間弱南へ、飛んで飛んで、歩きつかれた。1997年1月中旬に一週間の調査以来ほぼ18年ぶりに来ている。機内ではPCの電源さし込もあり作業ができて、機内食は美味しい、入境もスムース、旧正月の観光客の帰省客が一緒になり、かなりの混雑である。空港のトイレで夏のファッションに更衣し、MRT電車でブギスまで行き、そこからホテルへ、徒歩15分の距離を大いに迷いながらも歩いて着いた。ポルトガル、イギリス植民地、そして日本の占領地であって、今はアジアではもっとも先進国である。日本に来る多くの外国人が日本がきれいだという。私はシンガポールもいつもきれいな印象を持っている。何が先進国であろうか。昨日電車の切符を買い求めるとき、ホテル探し、日本占領メモリアルタワーから帰る時、方向感覚がなくなりまた迷子になってしまって、かなり遠くにあるホテルまで案内してくれた人などから感謝と幸福と先進国であることを感じた。
 さまざまな侵略、植民地の歴史を持って、太平洋戦争後イギリスの植民地に戻ってから独立し、発展してきている小さい島国は今アジアへ、特に中国、韓国のモデルとなってほしい。旧正月の中国観光客がモノをたくさん買っていくと日本では喜んでいるが、「観光」は光を観る人として日本で何かを感じて帰る人が多くいてほしい。食堂のレシートにCNYと言う項目があり、特に人が多く来る時期の特別税が賦課されている。なるほどここはまだ正月期間、町で竜踊りに出会った。先進国には旧の新年の行事がふさわしくないように感じながらも楽しく鑑賞した。夕食は夜の9時であった。植民地の偉大な遺産ともいえるラッフルスホテル、占領メモリアルなどを近くでイギリスの植民地や日本の占領地を考えた。そして歩き疲れ切った。1万歩は十分に超えたのではないだろうか。それでも夜は風が心地よい。

友情は世襲されないか

2015年02月21日 04時45分36秒 | 旅行
旧正月の挨拶「新年おめでとう」に日本では若干抵抗がある。日本や世界では広く「新年」はすでに「旧年」になっているからである。むしろ中国では「春節」という言葉が適宜な感がする。韓国でも旧正月の「新年」の意味は希釈化するようであり、海外旅行をする人などが多くなったと聞く。昔は旧正月には挨拶回り以外には出入りを控えたのに今海外旅行が盛んだという伝統の形は残りながら本質は変わりつつあるようである。
 韓国から旧正月に日本に旅行にした話に私は思わず立ち止まったような話がある。後輩の文化人類学者の秀村研二氏宅に私の旧友の故禹宗虎君の家族が訪ねてきたと言う一報である。1953年以来亡くなる直前まで私の中・高学校の友人、否私の恩人でもあり、辛い時助けてくれた友人である。彼の墓参り以来、彼の家族には会っていない。友情は世襲されないのだろうか。彼の孫の誕生にお土産を送り、東北震災の時には彼の息子から避難してきて下さいというメールが届いて以来、奥様ともご無沙汰している。秀村氏が転送してくれた写真をみて家族に申し訳なく、その友人にそっくりの息子の顔が映ったものを見て友人への思い出が復活した。彼は友人であり、各種顧問、アパート管理などさまざまなことでお世話になった。夕食を我が家で何度も一緒にもした。秀村氏が韓国調査の時友人の家に下宿することになったのがきっかけとなり、友人がいなくても私の友情を継承されている縁に感謝である。友人がわが家に到着すると、いつも靴下を脱いで部屋の片隅に投げることから昔話が始まる。今は懐かしい追憶である。

幸福度指数

2015年02月20日 05時27分51秒 | エッセイ
 ネット上、旅行先のホテルなどの情報を調べる時、既投宿客が残した意見を参考にすることがある。いわば客の満足度を参考にする。昨日の本欄で「幸福大国」について触れたがそれは2006年の「世界幸福度指数」(Satisfaction with Life Index)による世界ランキング順一位のデンマークの話であった。社会福祉により満足指数が高いと説明されている。読書会に参加した中国人民大学の金炳徹准教授によると、社会福祉はドイツなどの伝統的家族関係中心の保守的福祉、アメリカなど自由民主主義的福祉、北欧の社会的福祉があるという。特に酪農型北欧モデルが注目されている。しかし人生満足指数の10位の順位を見ていくと1 デンマーク、2 スイス、3 オーストリア、4 アイスランド、5 バハマ、6 フィンランド、7 スウェーデン、8 ブータン、9 ブルネイ、10 カナダ、そして日本 は90位になっている。自ら「楽園」といわれる北朝鮮は調査対象になっていないようである。社会福祉などではるかに先進国家であると思いたい日本の順位がこんなに低いのでこの調査の信ぴょう性は低いのではないかと思ったりする。
 ホテルなどの施設だけではなくサービスや親切さなど相対的な評価によるものだと言うことで議論になった。結局満足度というのは価値観、生き方によるものではないか。日常的に物事へ感謝の言葉を言う日本人の評価が低い、不満の多い国民性は何か。医師の倉光氏は日本の医療体制は先進型であっても患者の満足度指数は低い。日本人の否定的思考意識によるものではないかと言う。私はかなり苦労をしているが苦学の留学時期を含めても大体は満足している。そこで笑い話の自分史を語ってしまった。朝鮮戦争を体験、いくら不況の話を聞いてもその時代よりは裕福だと思うからと満足していると言いきって読書会が終わった時はすでに夜であった。
 

「幸福大国」「砂上楼閣」

2015年02月19日 04時56分26秒 | 旅行
デンマークからショッキングなテロニュースが出ている。諷刺画が引き金になりテロが起き,世界が不安になっている。幸福大国がまるで「砂上の楼閣」のようになっている。複数のメディアがデンマークを「幸福大国」Happist Countryと言っている。「幸福大国」という国が一気に「不幸大国」のように不安が広がっている。幸福とはなにか。青い鳥の話を聞くようである。北欧のスカンジナビアの国々では社会福祉制度の政策により出産、医療、年金などで国民が幸福を感じているという。アジアではシンガポールが幸福な国家のモデルと思われている。
 「イスラム国」へ憎しみが高まっている。テロの国際化が先進しているようである。そしてキリスト教とイスラム、リビアではキリスト教徒が殺された。不和から一気に奈落へ落ちる。誰がいつ不幸な主人公になるか分からない。諷刺画などで他の宗教を侮辱してはいけない。日韓でいうならば竹島、慰安婦問題などに両国が互いにあまり熱すぎないように願いたい。それが不幸の種になるかも知れないと心配している。

佳いお正月…새해 복 많이 받으세요!

2015年02月18日 05時19分25秒 | エッセイ
 宇部在住の韓国人の教え子から旧正月祝いの電話とお土産の話のすぐ後に韓国在住の日本人から「佳いお正月をお迎えください。새해복 많이 받으세요!」という挨拶に感動している。日韓の庶民生活のまったく異なる民俗がこの旧正月である。もう一つ大きいお土産は堀まどか氏の拙著へのコメントである。関西学院大の山路、ソウル漢陽大の平井、東亜大の鵜沢の諸先生のコメントにも感謝である。私的メールであり公開は控えるが堀まどか氏の書評は3月に「宇部日報」に掲載されるようである。その際公開することとして大いに期待している。ここでは若干メールの一部を紹介することを了承していただきたい。

 「性とナショナルアイデンティティー」というタイトルのほうが良い、と第一に思ったのでした。しかし、本当に面白い本です。この本の後半になると、大邱でくらしていてリアリティを強く感じるためか、茶房(タバン)文化などや貞操観念の歴史など、可笑して笑ってしまうようなところも、何か所もありました。わたしは、先生の純粋で素直で、きちんと自分の考えをおっしゃる姿勢が、全編を貫いていて、それは先生のもっている「少年」っぽさとも、繋がっていて…とても良い文学作品のように思いました。「少年らしさ」やピュアな情熱や関心をうしなっていく、オトナの狡猾さがみえてしまう人間が、大多数ですが、とりわけ、韓国では、軍隊経験を経て、生気や純粋さや正義感が屈折してしまうように見えますが…崔先生は、美しい少年性を維持している稀少な方なんだろうか、というのが…個人的な思いです。

 本の題は本自体の結論ではなく、本を手にするまでの導きにすぎないのであろう。


復讐 テロ 戦争

2015年02月17日 05時23分35秒 | 旅行
 「東洋経済日報」の連載の寄稿文(2015.2.13)である。

 今日本人人質殺害事件でイスラム過激派のテロによる不安が広がっている。地図を開いてみるとシリアなどイエスとバウロがキリスト教を宣教した所と、ユダヤ教とイスラムの宗教のメッカともいえる地域である。これらの宗教は皆平和を愛する信仰である。しかしエルサレムの占拠のために時々トラブルが起こる。9.11ニューヨークのテロ以来、世界が恐怖を感じていたがまだ日本は安全だと思っていたのに今度の日本人人質の殺害で不安と恐れが強くなっている。日本からは遠い対岸の火であったが、今は日本人の不安のグローバリゼーションになっている。

 テロと防衛の戦略的な話をするつもりではない。法律や倫理の話ではなく、もっと根本的なことに触れたい。テロという言葉は耳慣れていない人も少なくないが、テロ行為は古くから人類史上起きてきたものである。広義では多くの暴力をテロと言えるかもしれない。日本も韓国もテロを容認してきた近い歴史がある。いわば太平洋戦争の時その戦争を日本は「聖戦」といい、若い人を戦争に動員し犠牲にしたのである。軍人であった私をはじめ、今でも多くの軍人は戦争を愛国行為と思っていて決してテロとは思っていない。それが前提にならなければ軍は存立しない。多くの被植民地国民は植民者を暗殺して英雄になったのは現実である。このような現象は世界各処にあったものであり、今もある。

 史劇映画やドラマなどでは憤慨し復讐が行われている。愛と憎、加害と被害、嫉妬と復讐などの話が要因となっていて、皮肉にもそれを見て楽しむ私たちはテロを楽しむことになっている。テロ向けの防衛戦争も起きている。テロと戦争も暴力であるが、テロを戦争で戦うことは難しい。テロは戦線がなく、無辜な人を相手にしている。

 なぜ戦争やテロが起こるのか。わがマンションの関門海峡の対岸に住んでいる直樹賞作家の佐木隆三氏宅を二度目に訪ねた時、私は『恨の人類学』の著者であると自己紹介かねて彼の主テーマである「復讐」に迫って突っ込んだ質問をした。私は彼に会うために事前に彼の小説『復讐するは我にあり』を読んでいた。実在の連続殺人事件の行橋市内に住む前科4犯の凶悪犯罪人・死刑執行された人がモデルとなった。私は彼が犯罪人をテーマにして150冊ほどの小説を書くその問題意識と読者を引きつける文章の秘訣について質問した。

 復讐は復讐を繰り返す。彼は言った。聖書に「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。復讐は私のすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」を引用しながら話をした。犯罪と復讐を書き続けながら復讐をしないように言うのは矛盾とも感ずる。もう一つの聖句がある。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5章38-39)という言葉は何を意味するか真剣に考えるべきである。

田辺よし子

2015年02月16日 05時30分22秒 | 旅行
 教会で長い説教を聞いてからまた下関に住んでからお知り合いになった市議員の田辺よし子氏のお話を聞いた。数人の政治家が登壇した。皆スピーチが上手い。一般の日本人にはない積極的な印象があった。また信念を以て訴える力がある。それが議員になる重要な素質であろう。私が多く移り住んだ中で一番住みやすい下関にはこのように努力してくれている人がいらっしゃることに感謝である。
 環境や年金などの公約が紹介された。地域生活に密着した話から少子高齢化へ、国策につながって広がった。しかし今、国策である地方創生の話はなかった。また下関という地域性から韓国、中国など東アジアとの国際化に広がった。一方話は下関から山口県、そして政府への方向となっていった。。少子高齢化への予測と対策を聞きながらも環境のよい老人天国はどうだろうと想像した。数時間、聞くだけの消極的な時間ではあったが想像豊かな時間でもあった。
 

光陰

2015年02月15日 05時37分15秒 | 旅行
 最近私は同年輩の訃報などを聞いて自分の余命や元気も少なくなっているのではないかと思い、朱子の詩「少年易老學難成,一寸光陰不可輕」を思い、執筆に夢中になっている。玄関のチャイームが鳴り、忘れられず毎年この日にバレンターインチョコが届いて嬉しい。また韓国へ帰国するお客をさんを歓送するために港へ、彼は書店から拙著を4冊ほど買って行かれた。感謝の一日であった。しかしこの世の中には人を愛するよりは憎しみが強いのではないだろうか。人を非難たり、怒りと憤怒にはよく盛り上がる群衆心理がある。戦争やテロがそれである。一昨日発行された東洋経済日報に「復讐、テロ、戦争」を寄稿した。
 この闇の中では光に感謝しなければならない。昨夜下関シーモールで光と闇の芸術が披露された。シーモールの建物の外壁に大型スクリーンに映像が映った。その立体映像ショーを大勢の市民の中に立って7分間楽しんだ。光りの映像を見ながら光が闇の中に立っているわれわれの中心であるのではないかと悟った。しかも光の力にはかなわない。光の迫力に魅了された。私はアメリカでこのようなショーを観て感動したことを覚え「しものせき映画祭」の主催の時に何度も外壁映像を実現させようとしたが、天気、騒音などの問題点で実現できなかった。今度同僚の久澤謙二郎准教授が実現したことはとても嬉しい。