崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

零下20度の暖冬

2007年02月28日 06時01分36秒 | エッセイ
 サハリンの友人に電話をした。例年に比べて寒くなかった冬だといい、最低零下20度位の暖冬であったという。北朝鮮も暖冬であったであろう。サハリンで寒さと戦っている人を思い出す。ユズノサハリンスクに宣教のためにミッションスクールを作って経営してしている牧師がいる。彼は韓国のある大学の農学部出身であって、野外で白菜を栽培するために努力して成功した。そこは夏でも10度位しか上がらない地域で稲作も出来ない。もしこの調子で暖冬化すればシベリアの沿海州の広い平野が稲作の田畑になるだろう。気の早い人は別荘でも買いたくなろう。

朝鮮学校50周年記念行事

2007年02月27日 07時11分16秒 | エッセイ
 朝鮮学校50周年記念行事に参席した。市議員の松村氏、民団の役員、東洋大学の松本誠一教授などと同席した。子供たちが朝鮮語・韓国語で芸を披露する。それは民族教育として持続してきている。これは今の時代において、多言語、国際化に有用な教育として注目される。しかし、言葉を守ってきたことは高く評価されるが、その組織は外部には開かれておらず、非国際的になっていることは残念である。参加者紹介においても外部から来た人は紹介されることなく、また彼らも外の行事にはあまり参加しない孤立な態度を取っている。総連の組織には言葉の国際化と行動の非国際化が含まれている。

野球のボールと光

2007年02月26日 06時14分03秒 | エッセイ
 教会で野球が話題になって私は困った。中学生時代、クラスメートが野球が好きで私も野球を始めようと住宅街の空き地でゲームをした。その時にボールが私の眼鏡に強くぶつかってから野球とは縁がなくなった。それはボールがいつ自分に飛んでくるか分からないという緊張感がなかったということであり、私の失敗である。野球のゲームを見て感じることはボールだけではなく、幸運とか、チャンスがいつ自分に飛んで来るか分からないという教訓でもある。自分に幸運と好機が野球のボールのように飛んで来ても、人によってはそれをキャッチできずに失敗する人がおり、ある人はそれを受け取って、必用な所に投球して、チーム全体を生かすことに貢献する。信仰生活において、ボールはイエスの光に当たる。その光は人を枯らすことも成長させることも出来る。

私の趣味:模様替え

2007年02月25日 07時50分55秒 | エッセイ
 私の趣味は男らしいものは一つもない。スポーツや娯楽ゲームなどは出来ない。お酒や喫煙は苦手。しかし家の中ではいろいろと趣味とは言えないまでも、自分を生かしている。昔は熱帯魚、鳥などを飼ったこともある。料理とはいえないが、台所にたって食事の準備をするのは嫌いではない。室内の飾りやいけ花も好きである。それと関連して模様替えを頻繁にする。家内を含め、我が家を出入りする人は「あらっ!また替わったのね」という。その声はいつも私を嬉しくさせる。模様替えは基本的に家内が出勤して不在時にする。時には模様替えをしても気に入らない時は元の位置に戻す。それには家内は気がつかない。私が模様替えが好きなのは空間を効率的に利用するという名目であるが、それより根本的なことは変化が好きなのでである。時には忘れていた物が見つかることもあって大発見した気持ちにもなる。家内にとっては家具があちこちの部屋に変わるので、そのつど、さがしものに忙しくなるようである。最近、私と同じような趣味を持っている2名の主婦に会った。話し合ってみたら私と共通するところが多く楽しかった。

森進一と作詞者の問題から考える

2007年02月24日 07時21分02秒 | エッセイ
 歌手森進一と作詞者の先生とのトラブルは師弟関係だという。これは利害関係というよりつまり先生が怒ったのである。私も弟子を多くもっている教育者の一人として、時には愛情を注いで育てた人から永遠に音信がないときがあり、腹が立つときもあった。しかし彼はどこかで何かの折に私を思ってくれるはずだと信じている。つまり一方的な片思いのようなものが弟子への愛情と思うからである。しかし仲間であったものから裏切られるとなると辛くなる。
 年配者から見ると今世代の日本人の無情さには失望する。大げさに言うと戦後の日本の教育が人間教育には失敗したともいえる。つまり恩を知らず、感謝も知らない人をあまりにも多く生産したのである。

孫弟子が韓国の大学へ

2007年02月23日 05時50分18秒 | エッセイ
 愛弟子の一人が3月から韓国の大学に先生として赴任することになった。彼女は広島大学大学院で博士号を取得。韓国の大学病院で一年間生体移植関係の調査を行ったこともあった。学会活動もしており、非常勤も何ヶ所も決まっていた。「韓国の大学へ行きなさい」と晴天霹靂のように電話をした時、彼女は朝寝坊の声であった。その電話が彼女の人生に大きな変化をもたらすことになった。彼女は今日韓国へ引越しをする。私は今後彼女に日本人として韓国での教育経験を踏まえて日韓の教育に大きく貢献することを期待している。また実は私にとって、彼女はいわゆる孫弟子にあたり、彼女が韓国へ教育者として行くことによって私の弟子への責任を果せたような満足感がある。

「ヨ-コ物語り」So far from the Bamboo Grove

2007年02月22日 06時37分05秒 | エッセイ
 先週韓国旅行中連日テレビでカワシマヨ-コ作「ヨ-コ物語り」(韓国版)So far from the Bamboo Groveが話題になっていた。それは終戦直後日本人が韓国人から被害を受けたという英文小説の教科書載録に対して韓国系アメリカ人たちが反撥して裁判まで起こしているというニュースである。それは従軍慰安婦問題とともに韓国人の反日運動がアメリカまで広がっていくということを意味する。私は早速英文の小説を注文して、昨日一日で全部読み終えた。久しぶりに英語の小説を楽しく読んだ。
 私は引き上げに関して韓国やサハリンなどで調査をし、また北朝鮮での引き上げの状況を知ることができたが、韓国で言う「真実に基づいた(true story)ではない」という非難の的とはかけ離れた印象を受けた。まず多くの批判や非難は作品を文学作品としてきちんと読んでいないのではないかと思われる。また「日本人が被害者だ」ということへの批判も当てにならない。戦後の状況では日本でも一時期朝鮮・韓国系の人が勝者のような行動をしたことを考えると私はむしろ戦後直後の状況を良く描いた小説として評価したい。

閣僚の私語

2007年02月21日 07時40分31秒 | エッセイ
 私は日本の大学で学生たちの私語と居眠りにはいつも失望させられて、この蘭でも何度か書いたことがある。そこには学生だけではなく教員のことでもあり私は説明の必要のない日本文化そのものだと書いた。閣僚の私語が話題なっているのをみて実に日本人の生活でありに本文である。おそらく非難している人、特にマスコミ関係者もそうであると思う。自分の意見をきちんと話すことはせず、私語は好きな民族である。日本人の集まりは隣人との私語の機会を作るに過ぎない。個人関係のセットの集まりが集団のようである。まったく他人だけの集まりはまれであり、あっても力のない群衆であろう。

愛読者と通話

2007年02月20日 07時21分51秒 | エッセイ
 この度韓国全羅道長興の旅行中、有名な小説家韓勝源氏に会った。彼は私が1960年代被差別のタンゴル(巫)を調査していた村の出身者であることを知った。私は彼の小説を分析したことがあり、文通をしたこともある方であるがこの度同地の出身者を通して会うことが出来た。われわれは古い友人のように話をした。彼の小説「塔」が角川書店からが出版されている。その談話の最中私の拙著も愛読者という女性から電話があった。その女性はシャーマンであり私の本を多く読んでおり私が作家の家によるということを聞いて光州から拙著を持って行くからサインをしてほしいというのだ。しかしここで何時間も待つ時間はないので申し訳ないといって切った。愛読者の電話がとても嬉しかった。

教会から歓迎され

2007年02月19日 07時24分47秒 | エッセイ
 わが夫婦は昨日、日本バプテスト教会に出席して数ヶ月になるが、あらためて歓迎会をしていただいた。この教会は130年ほど前にアメリカの宣教師によって建てられ、信仰組織がきちんとしており、信者一人ひとりがしっかり育ったことがはっきり感じさせられた。長い間韓国の教会に出席した者としては新鮮な気持ちで新しく再出発する気分であった。2時間近く参加者全員が冗談をまじえながらの、楽しい各自の自己紹介は笑い声が絶えなかった。私は教会で会った人とは純粋な人間関係であったと披露した。一緒に同席してくれた韓国外交官の奥様も楽しそうにしておられ、満足している表情がその場をさらに楽しく和やかなものにした。

韓国で二回ずつ食事

2007年02月18日 06時09分34秒 | エッセイ
 韓国釜山で昼食に好物の元山面屋でビビン冷麺を食べた。とても美味しかった。その食堂を出ても日本では味わえない美味しさに未練があったのでもう一度、他の食堂で冷麺を食べた。昼食を二回食べてホテルに戻ったら、弟子と、その家族が訪ねてきていた。夕食にホテルの近くの食堂で美味しい焼肉を食べた。その後大邱から大学の教員の二人の弟子とある学科長が訪ねてきたので、またその食堂に案内し、一緒に食べた。結局この日は、昼食と夕食を二回ずつ食べたことになった。久ぶりに韓国で美味しいものを沢山食べて太ったと思ったが体重はそうでもなかった。その分長く歩いたことを思い出した。食事と運動のバランスのとれた(?)健康な旅行であった。

韓国行き船上から救急車に乗り

2007年02月17日 06時35分42秒 | エッセイ
 大学生9人と共に韓国へ行く船上で朝の5時前の出来事であった。一人の女子学生が持病で倒れて負傷した。船上には対応できる医療方法はなく、大変困った。しかし船長をはじめ韓国の海務部の関係者と相談してすぐ救急車をよび停泊中の船から釜山のミッション系のメリノル病院へサイレンを鳴らしながら暗い朝の通りを走った。私は初めて救急車を乗った。救急室には医者が2人、看護師が3~4人いて緊急対応してくれた。そこにはそれほど緊急な人とは思えない患者が4~5人いた。私は通訳者や保護者の役を勤めた。CTやレントゲンなどの検査結果、帰宅OKがでたので急いで院内での手続きをして船に戻った時は下船準備が整った客が並んでいた。ホテルに着いたときは私の昔の学生であった現在国立大学の助教授の日本語科の申宗大氏が優秀な学生11名をつれてきて待っていた。学生交流が始まるようにして私は自分の弟子の申氏と霊山大学の李良姫氏と楽しい時間を持った。このように韓国旅行は始まった。

留守番

2007年02月16日 09時41分55秒 | エッセイ
今までの留守番には秘かな楽しみがあった。夫のいない日に愛犬のミミとちょっぴり高い牛肉を買って来て、二人きりで焼きたての肉をふうふう言いながら「おいしいね、おいしいね」といいながら食べさせる時、ミミがいかにも熱そうに、そして美味しそうに、しっぽまで振って食べるしぐさがかわいらしくて、そして幸せだった。また二人でいつもより長い時間散歩したり、お風呂に入ったりで時間がすぐにすぎてしまい、夫が少し長い出張でも寂しさを感じる暇もなかったのに、ミミが天国へ逝って一人での留守番に慣れてない自分とミミの存在の大きかったことをいまさらながら感じさせらされた時間だった。

2007年02月15日 06時58分03秒 | エッセイ
我が家のベランダから関門海峡を通過する大きな外国船やパトロール船や釣船など色々な船が多く見える。一目に百艘位の日もある。大波の日、静かに凪いだ日、雨の日、霧の日・・・その日、その日で船の表情が異なる。見る私の気持ちも異なる。これらの船の船員はどんな人なのだろう。どこから来て、どこへ行くのだろうか。目的地がハッキリしていることはいい。人生にもキチンと目標をもって、まっすぐにすすめたらどんなにいいだろう。釣船などを見ていると、かなり離れた所を大きな船が通過したその余波で大揺れしてハラハラさせられる。私たちの人生にもそんなことが多くある。常にここを通過する船と私たちとの関わりのある方々の人生の無事を祈っている。

電話

2007年02月14日 07時53分33秒 | エッセイ
今朝夫から国際電話があった。旅先からでもその日の夜には必ず電話をくれるのに昨日は待ってもこなかったので嬉しくて電話に出ると『電話をかけてよ・・・』それだけで終わり。???急いでこちらから電話をかけた。旅先での出来事を話したかったようである。今夫が持っている携帯電話は韓国内でのみ使用できるものなので日本からかけたほうが良いと解った。これからは待つのではなく、こちらからかけようと思わされた朝だった。