崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「兄弟の江」

2009年12月31日 06時27分36秒 | エッセイ
 台湾から帰宅して机の上に」(竹書房、1800円)の上下2冊の小説が目に入る。原作は李憙雨氏、編訳は朴仙容氏、そして挿絵は魏明温氏。朴仙容氏が長い年月をかけて翻訳した文に魏明温氏の挿絵が入っており、とても親しく感じて開いた。彼女の絵は拙著の表紙絵にも使わせていただいた。「兄弟の江」は私にとって「私の自分史」と重なるような気がしてしょうがない。ただ私の自分史には朝鮮戦争が加わるのだ。初頭の文から牛の仲介人、ドングリのムツ、軍事革命、花札など韓国の民俗を思い起こさせる。
 私は朝鮮戦争のどさくさにまぎれて京畿ではなく、景福(戦前の第二校)を経て、ソウル大学へ、そして陸軍士官学校の教官、文化広報部の専門委員などの道をたどる。しかし私は権力の出世の道から逸れて日本留学へ、「親日派」と言われる困り者になっていく。軍隊の中では軍隊で成功させてくださると言ってくださった将軍もいた。いま年金の不安がある日本から考えるとそちらが良かったかもしれないとも思う。しかしやり直しのできない人生をただ運命と思っている。私の人生は「兄弟の江」の「江」のように流れるものである。人生の設計のあるものではなかった。ただただ必死に生きたのである。私の人生には戦争と軍事があり、文学少年の時代がある。まるで菊と刀のような矛盾と調和のストリーを朴仙容氏に委ねて見たい気持である。 

飽食文化

2009年12月30日 06時34分32秒 | エッセイ
 台湾で三日間での晩さん会などの料理に圧倒された。特に帰り直前に桃園県蘆竹郷南興孫村の張家土鶏城での昼食の料理には量と上手さに脱帽だった。最初に出た大きい皿には鶏肉だが赤い血の付いたもので手を付ける気にはならなかったが二番目の麺以後に出た豚肉の塊は私が所持していたプラスチックのナイフで切り分けて食べた。寿司、エビ、スープ、茎など次々テーブルに運ばれた。隣のテーブルに譲ろうとしても遠慮された。料理の3分の2は残ったので包んでくれるといわれたがいっぱい食べたので後のことは考えたくはなく次のコースに進んだ。
 台湾の食事も中華文化であると思う。なぜ量が食べ過ぎになるほど多いのだろうか。日本人から考えると浪費と思われるかもしれないが、飽満文化、飽食文化の意味が大きい。食べ残るということは余裕や余白をもつ文化である。食べ物を測り、カロリーを計算して食べるような栄養管理は病院の給食や摂食主義者の健康管理にはなるが、顔には貧困像の不安が残る。豊満な表情で八の字で歩く中国人を真似した韓国人も多かった。我が故郷でも食べ残しの飽食文化はあった。飽食して余裕があり、創造的な世界へ没入すればそれ以上なし。

台湾総督府と檳榔

2009年12月29日 07時01分11秒 | エッセイ
 研究会最終日、2台のマイクロバスでエックスカーションとして日本植民地残滓物を見回った。松金公正氏の略図を使って該博な知識と要領よい車内案内、現場での上水流久彦氏の対応など完璧な調査日程であった。台湾総督府の中を一周することができた。現在の台湾の政治の中心であり、総統が執務するようになっている。韓国が破壊したのとは全く逆である。ただ植民地歴史を忘れないようにという注書の表示板がついている。
 1995年韓国政府が朝鮮総督府を壊す方に世論が傾いた時、私は名古屋の韓国人研究者の集まりでそれに反対する意見を発表したが、皆冷たい表情をしたのを見て、将来は事情が変わるぞ思った。いま韓国でも意見が変わり、日本統治期の残滓物も保存するようにと政策が変わっているという。
 日程の最終のコースは桃園神社である。鳥居から神殿まで完全に復元されたものである。韓国人が見て感ずることは何であろうか。車が走る通りには檳榔店が目に入る。昔それを知らず食べてみた危険なことを思い出した。麻薬性のある木の実であるが、噛んで唾を吐きだすのが普通である。それが赤色であり、それを見た外人が結核患者とも誤解したともいわれる。この習慣は広い。私はタイ、ミャンマ、インドネシア、台湾などで味わってみたり撮影した。皆さんに味わせたかったが時間がないということで案内者は私の希望には応じてくれなかった。しかし堀江俊一氏が桃園神社の境内に高くたっているその木を指してくれた(写真:挿入写真のトクリ椰子の右の二本の木)。

「公衆トイレか」

2009年12月28日 06時18分50秒 | エッセイ
 大学ゲストハウスに泊っている。10人弱が朝食をとるために大学周辺の食堂が並んでいるところを歩いた。しかし日曜日の朝はほぼ開かず散歩がてら歩いてキリスト教の教会をみた。教会は少ない。教会の前の道路を挟んで向かい側に赤色の小さい建物があって、私は「公衆トイレか」と同行の東洋大学の植野弘子氏に話をかけた。韓国では観光地などでは立派な伝統的様式でトイレを立てているからそのように思っただけである。
 一行は不思議に思い近づいてみた。住民が祀る祠である。大変な失言をしてしままった。皆が爆笑した。植野氏から「神様に謝れ、祟るぞ」という冗談が飛んだ。私は昔、数回来たことがあるのに台湾での経験が如何に粗末であったかを反省した。ライスバーガーは美味しかった。
 第2日目の研究会は10時から始め、昼時間は上水流、上田、魯、山田、中村、崔などが集まって、来年6月私の古希記念の日程などを打ち合わせた。午後の総合討論では言葉、オーラルヒストリーなどが議論された。証言の資料価値の問題ではあるがいかに問題点があるにしてもわれわれは言葉で生活する。発表会議もそれによって成り立っていることを言い忘れたことが心に残った。私は発言が多ったと思うが自分ではまだ不十分だと思っている。言うまでもなく他の参加者たちはもっと発言できず残念だと思っているのではないかと推測する。
 懇親会などでは大成果を出したなど、和気藹々研究者同士の交流がよくできたという声が多かった。この研究会には韓国から魯成煥、李良姫が初登場し、発表した。
 東京外大の三尾氏を代表とする台湾植民地研究会、淡江大学の日本語学科の教員と学生、富田氏、そして私が代表とする朝鮮植民地研究会のみなさん、台湾側の参加者の黄氏など多くの参加者に感謝したい。

「台湾紹介」(41分)映像上映

2009年12月27日 06時13分30秒 | エッセイ
1930年代制作と思われる映像「台湾紹介(仮)」(41分)を大型スクリーンで上映した。植野弘子、笠原政治の両氏とともに鼎談の形式をとりながらフロアーからコメントをいただいた。市内の祭りの場面、樟脳、製材などに関して様々な意見が出て時間を大幅に超過した。またこの映像にはプロパガンダ性がないことで良い映像とも評価された。この映像のコピーを希望する人も多く、特に南天書店の魏徳文社長からは商品化までの話があった。それは出処に相談すべきだということで、協力することは約束した。
 私は昨日長野で開かれる映像民俗学会で講演をする予定であったが、ここでの発表と映像民俗学の大会の日程がダブってしまって残念ではあったが台湾で映像を見せて反響が良くて安心はしたが、映像民俗学会のメンバーたちにはお詫び申し上げたい。  懇親会の終わりころになって魏社長が意外な情報を話した。台湾産の樟脳の生産過程、ガラス看板のフィルムの原料、花火などの煙のない燃焼力による爆弾製造、強心剤の薬などの歴史などについての話で驚いた。これから台湾の研究者と共同研究でこの映像を分析していきたい。また今日と明日も続く研究会を楽しみにしている。

台湾に来て

2009年12月26日 10時50分50秒 | エッセイ
 久しぶりに台湾に来ている。大学会館に泊まりインターネットのつながりが難しく、今日のブログが遅れたことを大変申し訳ないと思っている。
 80年代には比較的に頻繁に来たが本当に久しぶりである。淡水川が流れる淡江大学にいるが外国という違和感が感じられない。ここは淡江大学の発音がTamkangであり、また名刺のいくつかの名前は韓国語の発音と同様であり、また漢字の略字をほぼ使わず韓国の漢字とも同様であり、旧正月も同様であり、違和感はもちろんなく、親しさも感ずる。
 90年ほど前日本植民地時代のゴルフ場が今にも伝統をもっているという。昨日日本人とこちらの役所との協力で日本時代の公民館を修理、復元して開幕式をここで行わったという。この大学には日本語学科の学生が1、600人くらい、一回400人くらいが卒業するという。台湾は大陸の中国、日本に比べて小さい国と思われるがこの規模で大国のイメージが出た。日本への関心も高い。
 今日の植民地研究会は去年釜山のシンポに次ぐ第2回のものになる。私は開会挨拶で北はサハリン、韓国、そして台湾への経過、さらに来年はパラオで開かれることを期待すると述べるつもりである。

教育ママ

2009年12月25日 05時29分54秒 | エッセイ
 ソウルで3年間日本語を教えた経験のある人で現在東亜大学に勤務している松井尚子氏から初めてその経験談を聞いた。彼女は私の数十年前からの知り合いの東大教授の真鍋祐子氏の高校の同級生でもあるということで親しく感じた。真鍋氏は学生時代から文通、そして私のシャーマニズム研究に関心を持ち、韓国研究者であり、韓国で調査、私が勤めた啓明大学で日本語を教える先生、そして私の『恨の人類学』を日本語訳にしてくれた、感謝すべき人である。松井氏は韓国名門女子高校の京畿女高の母親たちに日本語を教えたという。その高校の地域は学区の関係で土地価が高く、教育熱心な教育ママが多いという。もちろん日本にもすごい教育ママがいるときいている。
 韓国では子供は教育ママの作品だと言うほどであり、また学歴主義社会である。その話を聞いて帰宅してテレビをつけたら鳩山首相の母が子へ(首相へ)の資金援助が問題になった記者会見が報じられた。日本的な教育ママの話である。親から見ると子供に対する気持ちは普遍的愛情であるはずであるがそれが子供に大きくマイナスになり、負担になっている。日韓の教育ママは教育の質を歪めているような状況にきている。この際教育の本質を改める反省が必要であろう。

クリスマスイヴ

2009年12月24日 06時43分23秒 | エッセイ
今日はクリスマスイヴである。それは明日のクリスマスの前夜祭にあたり、25日のクリスマスのイエスの誕生を迎える行事である。しかし日本のキリスト教会は20日の日曜日にイエスが生まれた日とされている前にすでに生誕記念礼拝が行われた。教会では4週間前からアドベントとしてクリスマスまでろうそくを加えて点火する。それも先週(教会では今週とも呼ぶ)にロウソク点火も終わり礼拝を済ませた。今晩のイヴは「後行事」になる。
 しかし世間ではクリスマスムードが徐々に高まり、明日が絶頂になる。外国のニュースをみてもそれが普通である。日本のキリスト教会はそれとかけ離れている。多くの教会カレンダーでは明日は「平日」である。このようなキリスト教のやり方では伝道などが進むとは思えないし、それとは程遠い。日本のキリスト教会の行事のお粗末さは宗教指導者にあるといえる。このような閉鎖的なやり方では信者が少ないのはあたりまえな話である。ティリヒという宗教学者は宗教批判は内部の人でしかできないという。私は批判というより、反省に近い。
 下関市竹崎町のシーモール下関2階には、高さ10メートルの「オーロラツリー」が客の目を引いている。我が教会の隣の鍵屋の「110番」には発光の飾りがクリスマスを祝っている。グランドホテルには大型ネオン(LED?)が飾っている(写真は筆者撮影)。我が教会には飾りがない。韓国の夜間列車の窓からは数多く教会の十字架の光が見える。日本では教会は商店とは違うという意味で控えているかもしれない。しかし、私には積極性のない怠慢としか思えない。世の中に光としてイエスを迎えようと叫びたい。

天長節と太陽節

2009年12月23日 06時20分31秒 | エッセイ
 今日、12月23日は日本の国民の祝日の一つで、平成天皇の76歳の誕生日である。戦前には「天長節」と呼ばれていた。4月15日は北朝鮮の金日成元主席の誕生日の「太陽節」(写真)である。戦後韓国は李承晩大統領の誕生日の3月26日を祝い、私は我が大統領を賛美する歌を歌ったことを覚えている。
 釈迦の誕生日は4月8日、イエスキリスト誕生日12月25日など聖人の誕生日を祝うことに因んで国家的な祝日となったようである。誕生日を祝うことは東西を問わず一般的と言える。日本や韓国でも還暦と古希祝いなどが行われている。しかし政治的な意味で国家を挙げて祝うことは独裁国家の象徴とも思われる。金日成の誕生日、金正日の誕生日を祝うというニュースを聞いた人はそれを感ずると思うが、12月23日にそのようなニュアンスを持つ人は少ない。ただの公休日と思う人が主であり、その聖日の意味が脱色してゴールデンウィークなどに関心が注がれていく現状である。祝日の基本は労働と休みの精神から成り立っているからである。

古いファクス時代

2009年12月22日 05時27分41秒 | エッセイ
 韓国のある人へ書類をファクスで送ることになったが本人がファクスを使っていないので困った。彼にとってファクス時代は過ぎたのである。私の研究室からも固定電話やファクスが使えないので通信手段を考えている。書類を撮影やコピーして添付して電子メールで送ることにした。
 また年賀状を書くために名刺を見ると住所、固定電話、ファクス、携帯電話、電子メール、ホームページなどの情報を得ることができる。その情報は大体年齢順に若い人へいくに従って多くの情報を得ることができる。固定電話とファクスの時代の人は高齢の方が多い。人によっては携帯を持たず、原稿用紙に万年筆で書くという人もいる。情報化時代に乗らないという自分のアイデンティティとしている人もいる。あるいはその情報化時代に乗り遅れて事務が非能率的になり早く退職せざるを得ない人もいる。情報化による世代差が大きく、多いのが現代である。トフラーが数十年前にヒューチヤー・ショックとして予言したとおりである。

お見舞い

2009年12月21日 05時25分06秒 | エッセイ
 クリスマス祝賀パーティから抜け出て、40キロ以上離れている病院に入院している友人を見舞いに出た。あるスパーに道を尋ねたら3か所のスパーを右折するように教えてくれた。彼の頭の中にはかなり遠方までどこにスーパーがあるのかインプットされているようである。。病院に辿り付くまではかなり時間がかかったが、彼の案内は正確であった。
 なぜこんなに遠い病院に入院したか患者の彼は経路を語った。1年間ほど現代的な新築の病院に通い、病因を見つけられず転々として病院を探しまわってようやく良い医者のいる病院に辿りついたという。心やさしい彼は医者を信頼し、病院を信頼して診断の間違った治療を受け続ける中で病状は酷くなったという。私は話を聞きながら医療の世界の病巣を見るような感じがした。美味しい食堂を選ぶように病院も選ばないといけないという。私の近くには超現代的な医療センターが新しくたって市民が喜んだが良い医者が揃っていないならただの古物に過ぎない。均質の医療が行われることを希望する。彼を元気づけるために行って彼から元気づけられ、慰められて帰宅した。
 

日本のクリスマス

2009年12月20日 05時34分00秒 | エッセイ
 今日は2009年12月20日の日曜日であり、日本ではキリスト教会でクリスマス礼拝をする。クリスマスの5日も事前の礼拝である。クリスマスはイエス・キリストの誕生日を祝うキリスト教文化の祝祭であり、その日はカレンダー的に正確ではなく、東方正教会では1月6日になっている。しかし世界的に広くは西方ローマ式により日本のクリスマスも12月25日になっている。さらにその日も守れず5日も事前に礼拝をする。事前と事後かは事前の方がよいという伝統がある。
 今度の25日が平日であるという認識であろう。クリスチャンにとって12月25日は平日ではなく聖日であるはずであるが、キリスト教自ら平日と認めることになる。主日(日曜日)でないと教会に人が集まりにくいから日曜日に礼拝すると理解できる。つまり平日か主日かの選択肢から主日を優先したのであろう。復活祭、感謝節は最初から主日になっている。誕生日が必ずしも主日に決まるわけではない。日本のクリスマス礼拝は世界的な祝日とはかけ離れたことである。日本のキリスト教の信者たちの便宜主義によるものであろう。平日でもキリストが生まれた日であるからその日が聖日であるという信念がないことを意味する。日本キリスト教みずから聖日を否定した歴史である。このような消極的なキリスト教徒の態度により数百年の殉教などの伝道の歴史をもちながらも少人数の教会員状況に留まっていることが理解できる。

トータルビューティ学科の国際化

2009年12月19日 06時42分06秒 | エッセイ
 全国の大学で唯一のトータルビューティ学科が東亜大学にある。その学科の提言や創立には教員たちの理解や賛同を十分得られたものではない。中には公に非難する人もいた。それは校外においても同様であり、学科存立の危機とも思われた。しかし韓国からは非常に注目されていた。韓国では大学に美容や皮膚管理に関する学科が多く、学会も多い。その一つの学会の全国大会も本学で行われた。日本でも知られながら韓国から留学生もあり、定員超過までなっている。
 創立者の先見の目といえる。昨日韓国の昌信大学の美容芸術学科と東亜大学トータルビューティ学科と姉妹提携の調印式が行われた。私は先見の目に賛辞を贈りたいと思った。しかし「先見」は必ずしも当たるとはいえない。私は日韓関係が良くなることを考え、実現させようとして発言して「親日」とも言われた。誤解と非難にはほんとうに耐えがたいものであった。しかし今それは昔のこととして過ぎた。ひそかに喜ぶ。私の先見はまだ多く残っている。それが実現される社会を夢見てそれが実現されることを願って、書きながら生き続けたい。写真は昌信大学の一行が拙宅を訪問したものである。

初雪

2009年12月18日 05時06分00秒 | エッセイ
 下関地域にも雪マークがあったが、時々雪がちらっと降ったりみぞれが降ったりしている。みぞれは韓国語ではジンヌンカビ(진눈개비)といい、雪と雨が混じった状態で悪天候だと言われる。しかし、白雪にはロマンス感をもっている。雪のマークのように雪だるま(雪人形눈사람)を作ったり雪合戦(눈싸움)など嬉しさを表現する遊びもある。
 日本人には川端康成の「雪国」の冒頭にトンネル超えて雪国へ入るイメージが一般的かもしれない。私は数回暴雪の時に家内の故郷の秋田へ入り、歩いたことが印象である。日本人の雪国イメージに「冬のソナタ」がオーバーラップして「韓流」になったようである。今クリスマスが近くホワイトクリスマスを期待する人も多い。今朝の外はまだ暗く、暴風の音が酷い。遠くからお客さんが来る予定なので心配である。地球温暖化が盛んに言われるさ中、寒さを悪く思ってはいけないのかもしれない。
 私は雪には複雑な思い出がある。黒澤明のデルス・ウザラの映画の場面のようなサハリンでの冬の旅行の時であった。零下30数度以下の寒さと風雪の中の一人旅は恐ろしかった。もしエンジンが止まったら1時間ほどで死ぬという状況に対備して登山用のバーナを心頼りにした旅であった。対向車の稀なスノーパルト(アースパルトに比喩して私が造語した)上道路掲示板も見えないところにロシア人運転手にすべてをまかせた旅であった。いま緑のある日本での冬はまだましであり、みぞれの日にも感謝すべきだと思っている。
 

飲酒文化

2009年12月17日 05時32分58秒 | エッセイ
 年末年始に飲酒の機会が多いが私はそれとは関係が少ない。別に禁酒主義でもないが若い時に友人たちの強制暴酒によって死にそうになった体験があり、飲酒には否定的になった。飲酒文化とは飲むことによって親密さを高め、ストレスなどを発散させる機能をするといえる。しかし私はそれに適応できず後悔する時もないとはいえない。
 私はそのような飲酒文化には否定的な見方をしている。韓国では飲酒を伴う酒宴やパーティをほぼ避けていた。その分、職場でも疎外感を持つことも多かった。それを補うためのように研究に力を注いてきた。一方酒宴とは人の悪口の集まりのようなものだという偏見を作ったようである。日本に移り住むようになってそのような人の悪口の飲酒文化(?)からは解放されたと思ったが、日本でも同様であり、それは飲酒文化が持つ普遍性とも思うようになった。日本では飲酒文化が芸者(?)文化など芸術的な伝統があり、それがむしろ楽しい文化ではなかったのかとも思う。飲酒が盛んなこのころに私の飲酒文化に対しての認識を改めるチャンスにしたい。