崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「伊藤博文と安重根」

2010年06月30日 06時31分07秒 | エッセイ
 東亜大学の市民フォーラムで7月10日(土)14:30~16:00に「日韓併合100年と下関」という演題で話すことになっている。今年で日韓併合100年であり、特に日本では特集プログラムや行事などが行われている。しかし下関では何も行われていない。日韓関係の友好のために植民地史を避けるということであろうか、あるいはほかに何かがあるのか、鈍感なのであろうか。私は植民地研究者としてあえてこれを取り上げざるを得ない。
 山口は初代総理大臣の伊藤博文の出身地としても県民と一緒に考えてみたいテーマでもある。私の副題を「伊藤博文と安重根」とした。映像、画像を使って紹介して、その二人の死者間の関係、日韓関係、地球上の敵対関係について触れるつもりである。100年は歴史的には決して長いものではないが、人間にとって百年は生きるのも難しい期間である。敵対関係はどのように変えるべきか、変わるべきかを正直に語りたい。それは彼らの死者の問題ではなく、われら自身の問題であろう。
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毎日新聞「支局長評論」

2010年06月29日 05時01分38秒 | エッセイ
 1年半間「毎日新聞」山口版に連載しながら親しくなった三嶋祐一郎氏の「支局長評論」が昨日の朝刊に載った。先日彼といろいろと談話をした中の去年の9月に調査に行った南アフリカの人権運動に触れたことが紹介された。以前本欄にも触れたようにネルソンマンデラ氏の黒人差別への反対運動が世界的にあまりにも強調されすぎである。実はデクラーク大統領が人種隔離政策を撤廃宣言したことを評価しなければならない。それは白人政権の敗北宣言とも民主主義、人権運動の勝利宣言とも言える。
 オランダがいち早くダイアモンドを求めて植民地としていたところを一歩遅れてイギリスが手を出し、ボアー戦争になり、そこで勝利したイギリスが支配してきた。その後複雑な人種構成をもちながら近代化に成功してきた。主にイギリス人の支配が続いて黒人弾圧が有名になったが、南アフリカは民主化の進んだアフリカの象徴的な国家になった。今ワールドカップに関心が集まっているがそのアフリカの歴史にも注目してほしいと思う。
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私の日本語

2010年06月28日 05時35分29秒 | エッセイ
 広島で暴雨の中、タクシーに乗った時、運転手が話掛けてきて懐かしく広島時代の話をした。降りる直前に「お客さんは中国から?」といわれた。私の日本語はどうなっているのだろうか。亀松氏邸宅で留学生のために茶道会があり(写真はお茶の先生の亀松節子氏)、そこに来たフランス人のクリストフ氏が完璧な日本語で話した。「他国の外人に負けた」という感がした。その後権藤氏ご夫妻が来られ、古希祝賀会の時の映像を編集したものの試写会が拙宅で行われた。私の「ご挨拶」の日本語を徹底的に検証した。間違いはないがなんとなくニュアンスが日本人ではないといわれた。日本語には方言があるが、その方言にもならない、本当に日本人になれない「韓国人」である。
 私が韓国で日本語の教師をした時代を振り返ると冷や汗がでそう。その最初の教え子の魯成煥君(蔚山大学校教授)が完璧な日本語で祝辞を述べて会場を驚かせたような雰囲気であった。今大学では留学生の日本語教育が充実しており、その留学生たちの日本語の進展が早いのが嬉しい。私は「日本文化論」を担当しており、韓国人と中国人の学生たちを通して、文化を比較するのが楽しい。
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広島大学東千田キャンパスで

2010年06月27日 05時35分24秒 | エッセイ
 6月26日中四国人類学談話会で「植民地朝鮮民族学を学説史的に読む
-朝鮮総督府調査資料を中心に」という題で発表した。私の古希記念講演を兼ねたようであった。私は最近韓国語で訳した植民地時代の朝鮮総督府が発行した村山智順の『朝鮮の巫覡』から秋葉隆がオリジナリティを無断で利用した事実を私の論文を人に無断で利用されたことを踏まえて話をした。今度は学者が研究した核心である独創性を分析したものである。それは最近、学史といえば論著をきちんと読まずに周辺的な書誌的な話でうまる傾向に助言するメッセージがある。友人であり、私を広島大学へ引っ張ってくれた嶋陸奥彦氏がコメンテーターとして秋葉隆の本を読んで調査に参考した話など対話式で秋葉の功績を語るように進行ができた。しかし秋葉が村山智順の剽窃に近いことをした話から彼の功績の話にもなった。越智、上水流、川田順造など質問から植民地の比較など総合的に把握することができて良かったと思う。
 続いて太田心平氏(国立民族学博物館)の韓国の「386世代」という、主に80年代「熾烈なデモ世代」というカテゴリーについて発表し中村八重氏(韓国外国語大学助教授)が代表質問のようなコメントがあった。私はその世代より20年も早い時期に集会が許可されなかった時代に殺されるかも知れないという覚悟でデモをした世代なのに80年代のデモはただ安易な大衆文化「蝋燭火デモ」の世代が「熾烈だ」と叫ぶ、どんでもないことで憤怒を感じた。
 懇親会は私の古希記念会になっていた。私が広大を定年するときの学部長の堀越孝雄氏が宴会場にわざわざおいでくださって挨拶をしてくださった。前同僚であった高谷氏による古希を祈念する乾杯の音頭で始まり、窪田幸子氏をはじめ懐かしい顔、佐野真理子教授の祈念メッセージの手紙など意外な歓迎振りに感動した。このように歓迎、賛美されて良いのかと、恐縮した。
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「ソウル1945」

2010年06月26日 05時10分59秒 | エッセイ
 昨日は1950年6月25日朝鮮戦争勃発の記念日である。ソウルへ向けて歩き道峰山の麓で野宿して翌日ソウルの清涼里に付き、26日の夜にまた避難の道を歩いて砲声に驚いてねぎ畑を走り、漢江の北岸で農業用の物置に寝た。27日、ヤミの渡り船を利用して漢江を渡り、江南についた。潅木の間を通りぬけて歩いた。「漢江奇蹟」はソウルを変え、今、江南は富裕層地区になっている。しかし私はこの地区とは縁がすくなく、去年一度だけホテルで泊まったことがある。しかし昔の痕跡は一つもみい出せなかった。
 朴仙容氏から送られてきた韓国テレビドラマ「ソウル1945」を見始めた。朝鮮戦争から始まる。私が見た戦争とオーバーラップして考証する気持ちになった。私の生まれ故郷が苦戦場であることは確かである。私は避難民の中にいたので直接戦場にいたのは後のことであり、ソウルでは空の飛行機をよく観察した。北朝鮮の戦闘機がS字で飛行したが、ソウルの人々が多く犠牲になることは見ていない。ドラマでは敗戦軍の韓国軍の勇敢さが浮き彫りにされることもある。戦争がドラマになりやすいことはなぜであろうか。それは「戦争と平和」のプロパガンダ的なことではなく、「面白さ」があるからである。実はその面白さに「危険性」がいっぱいあるのである。
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日本列島が熱狂

2010年06月25日 05時41分36秒 | エッセイ
 私も嬉しく、日本列島が熱狂にしている。日本のサッカーがデンマークに3-1で勝った。身長など身体的な優位のデンマークを破ったということは練習と知恵であろうと思った。しかし優勝まではまだ程遠い。数日前には北朝鮮を応援したが、惨敗であった。日韓を応援するようになった。
 私はスポーツにはそれほど関心がなかったのに中継を見ることも増えた。第一強者を追い出した相撲からは関心が離れた所為かもしれない。私が小学低学年のときに藁で丸く作ったボールで芝の上でそのボールを蹴飛ばして遊んだ時足を怪我をしてから、中高の時もすることがなかった。文弱の道を選んでからはスポーツを軽視したこともあった。スポーツがポピュラーな文化になった時代に後れた感じがした。これからは映像を通してスポーツについていこうと思っている。偏った自分の人生を反省している。
 
 
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賭博

2010年06月24日 05時14分44秒 | エッセイ
相撲界の「野球賭博」が大きく社会問題になっている。賭博、ギャンブル、博打、賭け事は偶然性の勝負に金銭や品物などを賭けることである。スポーツは一人でもできるが、相手と戦うことで勝負するゲームになって面白さが増す。ゲームは実力だけではなく偶然性と思われる要素があり、面白いのである。偶然とは実は必然である。ただ常識的に気が付き難いだけである。
 野球賭博に数億に上る掛け金が問題になっている。多額のでなければ「国民娯楽」のようなパチンコ産業のように問題になることはなかったのかもしれない。パチンコは賭博ではなく、遊び、「遊戯産業」であると言われている。遊びと賭博の区分は難しい。ただどちらがその要素が強いかが判断基準になるのであろう。「偶然性の勝負に金銭や品物などを賭ける」という定義に従うと競馬やパチンコも賭博である。遊び、賭博、ゲームの偶然性を考えるべきであろう。私の人生から考えると留学、転職などの時「人生の賭博」であったように思う。
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「啓明マフィア」

2010年06月23日 06時41分35秒 | エッセイ
 私が比較的長く勤めた大学は啓明大学(13年)と広島大学(9年)である。啓明時代には日本植民地研究の読書会のニックネーム「土曜ゼミ」をほぼ例外なく毎週した。はじめは一人でも、徐々に2,3人ずつ増えて教員、院生や卒業生など40人を越えるようになった。大型バスで現地調査旅行もした(写真)。そこから研究を続けたい人を日本に留学を進め紹介したりして日本全国に送り込んだ。東京、大阪、仙台などを訪ねると20人くらいの弟子たちが集まりにぎやかであった。私が日本に転出する時、中には反対と賛成の二派ができたことを思い出す。彼らが日本留学を終えて、韓国に帰国して全国的に大学などに就職して活躍している。その数は5,60人になるといわれている。日本にいた私の還暦祝いと広島大学の定年記念会を啓明大学同窓会主催で論文集や祝賀会を盛大にしてくれた。実に「啓明マフィア」の時代であった。この度は広島大学の弟子たちが主催した古希祝賀会である。
 このたび啓明大学出の1期の弟子など十数名が韓国から参加した。しかし中にはぜひ参加してほしかった人の不参加が残念である。久しぶりに会えるという期待感があったからである。祝賀会での席で秀村研二氏の祝辞の中に「啓明マフィア」が出て、このブログに真鍋祐子氏の「あの若くてかっこよかった啓明マフィア」という言葉が書かれている。「マフィア」は消えても縁はますます広がることを期待する。
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私への評価

2010年06月22日 06時16分53秒 | エッセイ
 私の古希記念論文集や祝賀会ができたのは一応の評価を受けたといえる。それはそれを作っていただいた事からもそういえる。しかし、それに反対や無関心の人も多く存在することを前提に自省を含めて反省すべきこともあろうと思う。まず母から受け継いだ信仰のシャーマニズムから日本人の秋葉隆の業績に基づく研究をはじめ、戦前・戦後の植民地研究へ広げ、それが比較文化、国際化の研究(上水流氏の論文集の序文)と要約される。
 偶然、日本に留学し、日本学へ、そして知日・親日的ともいわれ日本を韓国に紹介したりした(柳田國男の『先祖の話』訳)。日本では文部省や各種研究会などを通して調査を広げた(科研としたは青木保、諏訪春雄、伊藤亜人、佐々木宏幹、嶋陸奥彦)。同行させていただいた海外調査の様子(諏訪)と日本人学者たちの韓国調査へ協力など(末成、伊藤、嶋)と評されている。上田は後書きで「事象に対する多面的な分析、問題に対する先入観排除、学問の中立性を追い求める」と評してくれた。
 以上古希記念論文集の『交渉する東アジア』からの寸評である。今から論文を読もうとしている。巻頭論文の拙稿「大英帝国の大逆罪人となったケースメント」は私の人生を象徴するものであるので一読をお願いしたい。(写真は吉岡陽子氏撮影)
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「偶然を必然にする人」

2010年06月21日 05時41分51秒 | エッセイ
 上田崇仁・崔錫栄・上水流久彦・中村八重編『交渉する東アジア』(風響社)が2010年6月17日日付で発行された。祝賀会に間に合うか心配であったが、当日会場に午前中、無事に着いたという電話で安心した。出版の日がちょうど誕生日の日付になっており、忘れることのできない配慮にまず風響社社長の石井雅氏に感謝したい。表紙は同僚の礒永氏の当時の教科書の地図を持って私が絵葉書と組み合わせたものにまた出版社が手を加えたものであるが、自分の寄稿文以外の分はまったくはじめて目にするものであり、読むのに緊張が高まる。
 まず序文と後書き、私に関するエッセイを読む時には緊張そのものであった。中には私が覚えてないもの、私にとって普通であり、私の短所とも思えることが逆に長所として多く述べられており、懐かしく、恐縮、感謝せざるを得ない。エッセーを書いて下さった諏訪春雄、末成道男、伊藤亜人、嶋陸奥彦の諸氏と序文の上水流、後書きの上田君などとの出会い、すべてが偶然のようなものであるが、私の人生を幸せにしてくれたことを想起する。祝賀会の翌日の朝、拙宅を訪ねてきた元中部大学の同僚であった友人の井上紘一氏は「偶然を必然にする人だ」と言ってくれた。(写真は山口新聞、2010,6,20)
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無事に終わりました

2010年06月20日 06時30分28秒 | エッセイ
 私の古希記念祝賀会が無事に終わりました。梅雨の中ですが幸い良い天気にも恵まれました。100人ほどのご参加有難うございました。韓国、中国、沖縄、東京、島根、大阪、京都、広島、福岡、山口から、古い縁、浅い縁、懐かしき顔に会えました。
 会が始まる前事前画像として権藤氏の現在の私の近影、近況が上映されました。東亜大学から祝辞の櫛田理事長・学長、金田教授の乾杯の音頭、教会の村岡氏の祈祷、韓国芸術総合大学の許栄一教授の韓国古典舞踊、ヴァイオリスト中村栄のアメージンググレースなどの演奏、祝辞に続いて時間30分ほど超過してしました。せっかく来ていただのでもっと話しかったし、別れがさびしく感じました。
 山口民団長、婦人会長などからすばらしい花が送られた、また記念論文集『交渉する東アジア』、著作集1巻を受け取りました。祝辞には喜寿、米寿、百寿までの話も多かったが、私はそれには期待しないことにしました。
 私は夫婦喧嘩を一度もしていない、皆さんにも勧めました。ただ家内は私の「検閲者」と昨日本欄に書いたメッセージの内容を語りました。
 上水流さんをはじめ執筆者、準備委員たちは2年間大変ご苦労様でした。感謝します。
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古希記念メッセージ「私の人生」

2010年06月19日 03時52分22秒 | エッセイ
 本日、私の古希記念祝賀会に参加する弟子、先輩、友人、教友、同学、親族などに感謝します。またこられない方々からの暖かいお気持ちをいただいており感謝です。ここに立って「私の人生」を振り返ってみると「人生論」「生き方」があったように思うこともありますが、実は挫折と克服、失望と希望、失敗と成功などを繰り返しながら必死に生きてきたように思います。今はまさに「今死んでも悔いのない人生」だったと思います。私の人生には明暗があります。
 菅原幸子と結婚して半世紀、伴侶との幸せな家庭に成功させました。家内は常に私の「検閲者」です。気の短い私の、特に日本での生活には日本語の先生であり、話を聞いてくれる良い聞き手です。議論が多く、夫婦喧嘩は一度もなかったのです(幸子紹介)。
 まったく教育を受けていない母は人を愛する方法を教えてくれました。私を女性っぽく作りました。料理や趣味などがそうです。また美味しいものを手に入れると神様と人を考えるようにさせてくれました。私は母の信仰であるシャーマニズムを身に着け、研究しました。人の「恩」を大事にすることも探求しました。今日の6月19日の日付で民俗苑から出版された著作集1号は「恩」「孝」「愛」を分析したものです。(民俗苑の社長、会長)
 10歳ごろの朝鮮戦争は物質と人間関係や人の心を壊しました。伝統的な静かな農村のわが村が米軍キャンプによって売春婦があふれる状況でした。家族を失った人が復讐のために人を殺す場面を何度も目撃しました。しかし少年の私は戦争は怖く、また面白いものでもありました。私の人生の闇の暗い歴史、戦争と虐殺、性暴行などは研究にも生かしました。『樺太朝鮮人の悲劇』も書きました(第一書房社長)。
 母の向学心によって学者(両班)を作ろうとしてソウルへ転校、中高(戦前の第二校)、ソウル大学への入学、そして結核末期で5年間の闘病生活は私を絶望させました。母の信仰からキリスト教へ変身しました。絶望から希望を持ってクリスチャンとして生きることになりました。(村岡芳子)
 軍事クーデターによって韓国社会が混乱しているとき陸軍士官学校の教官になり、さらに文化広報部専門委員として、また、大学の非常勤などをして、全国民俗調査などで意気揚々となり、失敗と成功が頻繁に繰り返しながらもう一回チャレンジしたく、日本に留学しました。日本語を一つも知らず、経済力もなく、無力な存在になりました。しかし韓国社会の近代化に関心が高くなり、マックスヴェーバーの本に熱中しました。
 韓国に帰国して日本の近代化をモデルにして、文化人類学の客観的な方法論で日本のことを教え、論説などを書いて親日派といわれました。数年前には韓国のテレビで「新親日派」とも言われました。しかし民俗苑から出た植民地関係の2冊の本が大韓民国学術院の「優秀図書」に選定されました。
 今ジュゴトハニオプッタ(죽어도 한이 없다)つまり死んでも悔いがないハッピエンディングだと良いと思います。
 有難うございました。
 
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「ワカメ」と「乳」のコンビ

2010年06月18日 06時04分06秒 | エッセイ
 留学生の日本語クラスに顔を出した瞬間誕生日を祝う「Happy Birthday to You」の歌が斉唱されて驚き、嬉しかった。昨日が私の誕生日であった。朝食は家内が韓国風の誕生日を祝うワカメスープを作ってくれた。日本でもワカメをよく食べているがその食事文化は同じではない。同僚の鵜沢氏によると門司のメカリ神社がワカメを神に奉げることや弥生遺跡にワカメがあったことが確認されているという。しかし食べ方が大きく異なるのは韓国ではお産との関連が強く産神にワカメ・スープを供え、お産と産児の健康を祈る。
 韓国の恩師から祝辞をいただき、また内蒙古大学のオンドロナ氏からモンゴルの伝統服が送られてきたので着て鏡に映してみた(写真)。彼女が留学中大病で親代わりで命を扱うような状況、募金運動などをしたことが一緒に思い出された。10余時間の長時間の手術によって元気になって、今は大学で教鞭をとっている。その後は一度も会っていない。彼女が送った箱には服以外にモンゴルの乳製品も入っている。「ワカメ」と「乳」のコンビがピッタリ誕生日を飾った。
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「所要のために」

2010年06月17日 04時58分24秒 | エッセイ
 いろいろな集まりに欠席者が「所要のために」という理由をあげる。その報告を聞くたびに大変失礼な言葉と思うことがある。なぜならば集まった人は何もすることがない暇な人ばかりということになりかねないからである。私事ではあるが、お祝いに来てくれる人は決して暇ですることがないから来てくれるのではない。それこそ万障を除去して時間と費用を掛けて参加してくれることを知っているから恐縮であり、感謝である。より多くの方は縁と恩を大事にしてくれる。その一人一人の心を読み取り感謝している。しかし、予約をしている都合上、行事を目前にして、所用のためにという理由でのキャンセルの仕方などは気になる。また、片思いかもしれないがきっと来てくれると思っている人の不参加も残念である。私自身がそのような集まりに参加できなかったことを思い出して反省している。
 この度の行事を前に人生そのものへの反省と感謝を深く考える契機になっていることも心から感謝である。
어떤 모임에서 자타가 흔히 하는 말로 바빠서 참가하지 못했다는 이유를 든다. 그런데 그 말을 생각하여 보면 아주 실례라는 것을 알게 된다. 그러면 모인 사람들은 한가하고 할일이 없는 사람들이라는 말인가. 나는 나의 행사에 왕림해 주는 사람 한 사람 씩에 고마움을 가진다. 시간과 돈을 들여 참가하여 주기 때문이다. 인연과 은혜를 서로 생각하는 시간이 된다. 그러나 꼭 참가하여야 할 사람이 참가하지 않는 것이나 더구나 무책임하게 취소하여 진행에 지장을 주는 사람을 생각하면 매우 유감스럽다. 짝사랑의 허무함을 느끼게 된다.
의외로 잊혀진 듯한 사람들의 만남, 늘 정다운 사람들의 만남 때문에 서운함을 지우고도 남는다. 내가 남의 일에 서운함을 준 적도 많을 것이다. 반성하는 계기를 삼고자 한다.
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カポネンコの『瑞穂の悲劇』

2010年06月16日 06時00分36秒 | エッセイ
 徐氏の手書き訳文の草稿をタイピングしている。今忙しいことが、また急ぐべきことが多いのになぜこれを優先しているか、自問する。それは忙しくなると何か一つに集中しないと不安になることもあるからである。もう一つは終戦時の瑞穂事件に対しての私の強い拘りである。
 サハリンのユズノサハリンスクで発行されたもののカポネンコの『瑞穂の悲劇』を読みながら拙著『樺太朝鮮人の悲劇』(第一書房)で十分考察できていなかったことへの補充と再吟美して深く考えてみたいからである。著者はソ連側の死体発掘、尋問調査、裁判からの資料が多く、日本人に対する丁寧な態度、朝鮮の歴史への関心など広く知ることができる。ただ事件の事実に忠実に書かれているので広く背景については触れられていない。まだ半分ほどしか打っていない。
 私の意図は戦争や大地震などにより無秩序の状況、「無重力」の状況で生の人間の姿、その破綻のプロセスを考えることである。その「非人間」の「人間化」はどうすれば可能であろうか。大きい問題に直面するのである。
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