崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

曲線「S」と直線「ー」

2019年06月30日 05時51分05秒 | エッセイ

 トランプ大統領はサプライズ発言を連発する。彼のワンマンショーが世界を惑わせ、主導する。突然金氏とDMZ で会うという。日韓で反応も異なる。特に仲介役の文大統領の存在感が相反する。
 
韓国ではDMZというが日本では38度線の地点と言う。休戦線と38度線は曲線「S」と直線「ー」と異なるので区別して使ってほしい。昨日有名なキャスターも38線と言っていた。メディアが言えばそれで決まるのだろうか。慰安婦と挺身隊も混同して定着した。「38度線」と休戦線は歴史と意味が異なる。区別して欲しい。

 広島大学から『アジア社会文化研究』20号が届いた。当時講義中、院生たちにハーバード大学の勉強ぶりを紹介しながらスタディグループを勧めたのが受け入れられ、私が2000年研究雑誌をデザインして発行した。その芽生えから20年、表紙などそのままの20号になって学会でも評価が高い。多くの教え子の活躍も嬉しい。自慢話に耐えられない人も我慢して欲しい。水羽信男先生に感謝する。

 

 





スマートフォン

2019年06月29日 05時52分05秒 | 講義

 学生がスマートフォンを講義中使ってよいかと書いたところ、多くの方からコメントがあり感謝である。昨日学生たちに挙手で意見を聞いた。ほぼ全員が使うことに賛成であった。10年ほど前にもやった方式で早速始めた。
 芥川龍之介の「ハンカチ」の一文、悲しさを抑制する、泣き方と涙の関係を文と画像で提示した。文の中に小泉八雲、柳田国男が出た。スマートフォンで検索させた。意外にスマートフォンになれていないことが分かった。
 
ネパールのスワラフ君が私のフェースブックに登録する方法をクラスメートに教えた。そしてメッセージ蘭に感想文が届くようになった。私がレスポンス、文通が始まった。日本人はなぜハンカチを持っているのかと…質問も多い。仕事が多くなったが、楽しい。大満足。


阿片三角地

2019年06月28日 05時54分34秒 | 講義

 スマートフォンが無くては生活ができない時代になりつつある。便利である。しかし講義で学生が使ってよいか、判断がつかない。しかも留学生が多いので辞書などのように許容しているが、講義に邪魔になる。昨日は私が1997年タイの阿片三角地でアヘンをめぐる現地調査をした映像を見せながら麻薬と酒・飲料文化の区別,善悪の両面性など基本的な問題について語った。しかし学生たちの講義感想はほぼスマートフォンによる書き写しばかりであり、私が語ったポイントには至っていないようである。最高の授業と思ったが失望した。授業中に学生にスマートフォンを積極的に利用させるか、禁止するか、妙案はないのだろうか。


悪政

2019年06月27日 05時34分01秒 | 日記

 日韓関係は悪い。最悪という。その中で開かれた日韓親善協会に参加して多くの挨拶、祝辞をきいた。例外なく、民間レベルでは友好であり、しかもそれが強まっていくという。昨夜の山口親善協会では先日私の講演予定を変更した総領事館や民団のメンバーが主役をし、そこに私が座っていたのである。また現場で配布された機関誌「ふれあい」には政府側の祝辞と私の寄稿文が並んで載っている。彼等は政府側、私は民間側のような対照感を持った。大きい問題点がある。民間では良いのに政府間が悪いということ。これは大きい問題である。政府に民意が反映されていないこと、そして悪政が続いているということであり、選挙で変えなければならない。


「敵産」(日本の)

2019年06月26日 05時26分25秒 | 研究業績

 今日は日韓親善協会の定期総会に招待され参加する。「親善」とは何か。元徴用工らへの判決から日韓問題はより悪くなっている。昨夜プライムニュースでは65年の日韓協約の「確認」という単語の解釈から表現足らずの一部をもって法律的に判決したことであり、協約の趣旨、本意に沿ったものではない。司法を尊重するという韓国政府の問題であることが明らかになった。
 番組では議論されず大きい問題が視聴者によって提議された。以前本欄で私も提議したことがある。当時朝鮮半島に日本人が持っていた財産権も請求できるのかということ。これについて弁護士の高氏は可能であろうと言った。ただしアメリカの「敵産」(日本の)を韓国に置いたものであるので請求するのは煩雑であろうと。しかしその可能性がある。歴史認識を超えて植民地を復元させる論理になる。このようなことは日韓で止めるべきである。終戦、未来への道へ向かう法の基本精神を無視してはいけない。


 


「不浄の意味」

2019年06月25日 05時46分13秒 | 研究業績

 家内は病院で看護の仕事をしている。仕事の内容は現場を見ていないのでよくわからない。命を大事に扱うナイチンゲール精神云々と言われるが、多くは弱っている人のケアであり、家では私の介護と犬の看護をしているのを見て教えられることが多い。家内は犬に排泄させる。温かいお湯で体をふき、傷を消毒して上げる。私は聴診器でミミの心臓の音を聞き、撫でてあげる。排泄物も「汚い」という感が薄れている。
 不浄と浄の区別がつき難くなっていく。空気汚染が酷いのにそれを感じない人も多い。なぜであろうか。社会ではさまざまな浄化施設をもっている。そのような社会運動も多い。そこに努めている人が多いことに感謝すべきである。愛、命には浄と不浄が共存している。不浄を共有することも愛の本質であることを知らなければならない。*参考:崔吉城「不浄の意味」日本語、韓国語、英語、フランス語の論文あり


生きて欲しい

2019年06月24日 05時46分43秒 | 日記

 毎日日記のように書いている。話題が多く、何を書こうか選ぶ事柄が多いが、いざ書こうとすると何も浮かばない時もある。その時は以前分析した他人の日記を思い出す。ただ「起きて…寝た」という記録が1か月ほど続いていた。面白くなくても、それは日記を書いた人にとって平安の時であったように思われる。
 いま私たちにとっては愛犬ミミの世話に全力を尽くしていること、それがすべてである。ミミは私たちの介護に反応してくれる。教会である人にその話をしたら他人事「そんなにしなくても自然に逝くようにしてあげなさい」といわれた。死が自然現象ではあるが、愛はそうではない。一日でも長く生きて欲しい。


「東海」

2019年06月23日 05時47分26秒 | 講義

 昨日日韓関係に政府と民間の格差があるという趣旨で書いたが、知識人の格差も大きい。超一流俳優(?)のトランプ大統領に日本海を「東海」と言わせたかったが受け入れられなかったという。一般名詞と固有名詞の区分が出来ないこの論争は何時終わるのか。反論もしたくない。インド洋をどうするのか。知識か、偏見の格差に呆れた。タイの留学生がタイでは鈴虫を食べるという。その話がより面白い。

 洒落たボールペンをいただいた。ライトが付いているのは以前から知っているがその鮮明度や品格がすばらしい。「門司港出征の碑建設委員会秦穴拳壱」と書かれている。秦穴氏は狗留孫山・修禅寺出征時の祈願奉納写真を整理した方である。戦争中、平安無事を祈ったもので、注目されても良い。出征の時、死んで靖国へという戦況で無事に生き残って帰って来いというのは当時は非国民的ではあったかもしれないが、本心から平安を祈ったことであろう。


日韓親善

2019年06月22日 05時48分04秒 | 日記

  講義を終え、会場へ直行、懐かしい顔たちに会った。フェースブックや裏話などで交信、以心伝心の親しき人々にあいさつ回り、名誉総領事の山本徹氏と立ち話を長くした。彼は日韓関係に私の貢献を褒めてくれた。下関広域日韓親善協会の定期総会と懇親会に参加した。肩書、「祝辞」など格式の言葉が続いた。登壇した人は代読を含め全員日韓関係について触れ、政治的に両国間関係が悪くても、民間では親善良好であると強調、繰り返した。日韓親善のための活動、事業は何だろう。轟音音楽が始まったので退席した。


お茶文化

2019年06月21日 05時47分52秒 | 講義

 アジア言語文化論の講義の冒頭では日本に来て教壇に立って、時には日本人の学生から日本語の発音にヤジをうけたことががあると話をした。それについて留学生の多くが、日本で適応するのは難しいのではないかとの反応があった。外国人が日本の教壇に立つのは難しいとだろうと同情する文を書いた学生もいる。アジアの広いお茶文化について講義をした。まず茶文化図から朝鮮半島だけは茶文化ないということを示した。日本人学生は驚く表情であるが他の国の学生はそれほど表情が変わらない。
 韓国では日本のお茶文化に関しては韓国起源説(?)をいう人が多い。李王朝が仏教弾圧のために茶の木まで抜いたという。学生たちに自国のお茶の話を聞いてみた。仏教の国といえばタイ、ミャンマであるが仏教儀礼以外に一般的にお茶の飲むことはあまりないという。ネパールとモンゴルでは牛乳を入れて飲むがそれほど一般的ではない。お茶文化は起源も古く、今も盛んな国はもちろん中国である。

*写真ttp://blog.livedoor.jp/datamaps/archives/cat_4633...


電子ブック

2019年06月20日 05時01分55秒 | 日記

 昨日22世紀アート出版から拙著『映像が語る植民地朝鮮』が宣伝で3位を得たという祝いのメールをいただいた。その時に川村博忠先生が来室された。彼は日本絵図研究の創始者であり、7月の世界大会で発表と司会の役を担当するという。彼の最近の大著、2万円定価の本が丁度拙著出版の22世紀アート出版から出版に向けて進行中であるとのこと。一足早かった私から電子ブックの意味、紙本から電子本への変化の先端を先走ることを強調した。1935年朝鮮京城で生まれ84才。高齢者同士、未来時代へ挑戦する話で盛り上がった。昼を私がご馳走するという約束が前回も私が出したと言って譲ってくれず、ご馳走になった。「次は必ず私が」といいながら別れた。


競争の一番は長生き

2019年06月19日 05時55分40秒 | 日記

 一昨日インタビューで韓国の教育についてコメントを求められた。戦後アメリカ式教育を振り返って話した。能力主義、実用主義が強調されたことを体験的に知っている。能力主義を強調し過ぎ、伝統的な科挙制の精神に乗って激しく強く、競争主義になり、大きい力になり近代化を早めたことは認めるが競争、出世、成功と栄光を満喫する人もいるが、反面、競争で失敗して悲しむ人が圧倒的に多い。つまり華麗な成功物語りが多い反面負けて悲しむ人が圧倒的に多くなった。競争の一番は長生き、健やかな長生きこそ多くの競争の中で一番難しい競争である。誕生日を祝ってくださった方々に感謝する。

*写真は「東洋経済日報」コラム寄稿文、2019. 6.14


インタビューに応じる

2019年06月18日 06時14分01秒 | エッセイ
 昨日は小生の誕生日。ソウルから姉とその息子きてくれた。お祝いも届いた。花(中村)、電話(張)、メール、SNSなど多くの方々からいただいて嬉しい。感謝である。年をとることに敏感になった。それは身体的であり、社会的である。先日下里というベストセラー作家が80才で文壇に登壇、これから作家活動を始めるという言葉を思い出して勇気づけられた。昨日同僚からのお祝いのことばで「これからもお仕事を末永く続けられますことをお祈りしております。もっとも、先生ご自身は仕事とはお考えにならず、すべて楽しみのための行為と思っていらっしゃるのではないか・・・そのような先生の姿を身近に拝見出来ることを、恵まれた事と思い、私も学びを生活の楽しみのひとつとしていけるよう努めたい」というメールが届いた。
 昨日ソウルから国際的に活躍している映像美術家鄭在淵氏が来られ、東アジア文化研究所でインタビューした。彼女は韓国総合芸術学校出身、イギリス留学などの経歴のある芸術家、私は多くのメッセージをおくった気がする。私は物事を見る時に自分の人格と照らし合わせて思考することから芸術は始まると語った。世俗、政治、特に日韓関係などにとらわれず真理に迫って挑戦的に取り組んで創作できることを祈る。
 
 

「たった一人だけの私の味方」

2019年06月17日 06時37分25秒 | エッセイ

 韓国のKBS終末ドラマ「たった一人だけの私の味方」が昨夜最終回だった。父娘関係を基に認知症、親孝行、恋愛、殺人犯、謝罪、和解などが総網羅したドラマ、俳優たちの演技力によって魅了された。毎回視聴者の予想が外れ、進み、待たされるような気分になり、人気を保って続いていた。作品と演技の上手さは高い。華麗な生活の中の悲しい問題。韓国は1960年代以降大学で映画演劇学科が多く作られ、研究されてきた。脚本から演技、キャスティングなども水準を高めてきた。日本の世襲制的人間関係による芸能界とは異なる。しかし昨夜の最終編のハッピーエンディング。急いで3組の夫婦が出産、謝罪、和解の李王朝時代の勧善憎悪の劇のようであった。メディアと社会へのメッセージであり、芸術の劇ではない。




「ちゃぶ台返し」の解散権

2019年06月16日 06時19分08秒 | エッセイ

 韓ドラによく出る場面の中には怒ったり、ショックを受けた時、気絶、怒って顔に水を掛をけるなどの場面がよく出る。また、怒った人がちゃぶ台返しをするシーンも良く出る。韓国で育った私はそれが嫌であるが理解しようとする。昨夜テレビで「ちゃぶ台返し」の試合の映像を見てびっくり、唖然とした。母は「それはサンノム(卑賎民)の悪行」だと蔑視していた。その「ちゃぶ台返し」が日本にもあるのか。それについては非常に反感を持っている。怒って食卓を引っくり返すものを、ちゃぶ台の上に置かれたものがどれだけ遠くに飛ぶかというゲームに変えて楽しむ試合として紹介されていた。珍しさであれば何でも報道するメディア、価値判断はあるのか。さらに首相に「ちゃぶ台返し」の解散権ということばには呆れる。
 한국 드라마에서나 자주 보는 장면, 화가 나서 기절하고, 얼굴에 물을 끼얹는 행위 등이 보기 싫. 한국에서 자란 나는 싫어하면서도 이해하려고 하지만 아주 보기 싫다. 어젯밤 일본 TV에서 "밥상 뒤집기" 경기영상을 보고 일본에도 있구나 놀랐다. 나의 어머니나에게  <쌍놈들이나 하는 나쁜짓>이라고 가르쳤다. 그런데 일본에서 "밥상 뒤집기'가 있고, 경기 시합도 있다는데 놀랐다. 나는 매우 반감을 가지고 있다. 화가 나서 식탁을 뒤집기가 일상 생활이 아니고 정치적인 것이라는 점에서는 더 더욱 말을 잃었다.