崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

マフラーのお洒落

2010年03月31日 04時50分44秒 | エッセイ
 秋から春先まで私は首にマフラーを巻いている。それは厚いものではなく女性用の薄いものである。海外などで家内へのプレゼントとして買ったものから選んで使う場合が多い。それがお洒落だといわれる。肺が弱く医師から風邪をひいたら危険だと言われ、私にとってはお洒落以前のものである。
 失くしてしまって特に残念だと思うマフラーが二つある。一つは以前広島大学院の女子学生であった絵画を描くのが好きな椋田氏からもらった、かなりカラフルなものであり、かなり長くつかったものであるが、関釜フェリーに忘れたものが戻っていない。今回の韓国旅行で失くしたのもカラフルな紫色のマフラーで暖かくて色も気に入っててお洒落だと言われたのにどこかに落として気になっている。それを知った韓国の運転手さんから探してみたが確認できなかったという電話がきた。今度はとても良い運転手さんに恵まれたことをあらためて感謝したい。
 運転手さんの徐氏は長い間大手会社の社員であったが保証人になったことからトラブルがあって辞職し、さらに始めた商売などに失敗して最後に運転手さんになったという。彼は日本に来て市内バスまで乗ってみて日本での丁寧なマナーが印象に残っていると言った。韓国の乱暴な運転には注意し、細かく気を配ってくれた。
 韓国のタクシーや自家用車のドアーの部分にゴム製の突出したものが付いているのが目に付いた。それは他の車と接触した時、傷がつかないように守るためであるという。私は家内の車で細い坂道を走る時漁船などが防衛用に横側に車のタイヤをつけているようにしてほしいと冗談を言ったことがあったが韓国では実行しているのを見て笑ってしまった。
 運転ができず、家内の車とバスで出退勤することが多かったが、最近大学の同僚が送ってくれることが多い。それをみたある若い夫人が自分が免許をとるために今、道路で練習しているのでしばらく待ってくださいといった。運転できない人が人の車に乗せてもらうのは嬉しい、感謝の心は大きい。心暖かい環境にいることに感謝している。

毎日新聞の連載を終えて

2010年03月30日 04時48分33秒 | エッセイ
 毎日新聞のリレーエッセイの1年6カ月間の連載が終った。旅行から帰って最後の掲載紙をみた。二人の知らない人から連載が終わるのがさびしいと言われた。結構読んでくれた人がいたんだな思った。その間担当者も転勤した。私は一貫して韓国の文化を紹介しながら日韓を生きることを書いた。キムチ、美女、親孝行、旧正月、ドラマなど数々扱った。同じ時期に始めた東洋経済日報の連載はまだ続く。それは主に在日韓国・朝鮮人に韓国文化を紹介しながら自分の思索を披露したものである。これらを編集してエッセイ集を出そうと思っている。
 今下関で桜が大分見頃であるのに霜注意報が出されている。花を観賞すべき時期を延ばしてくれると思うと寒さを凌げる。女性の花は処女の時期と言われているが、男の花は紅葉の秋かもしれない。私のような「老花」の者にとってはある程度寒さが欲しい。しかし風には注意すべきであろう。

調査旅行の感想

2010年03月29日 06時02分38秒 | エッセイ
 3年間の「科研」(文部科学省研究助成)費による調査旅行はこれで最後になる。韓国の長興地域の植民地調査資料に基づく私の研究が始まってすでに40年過ぎた今、招請講演を行ったことは感慨深いものであった。その間に日本と韓国に住みながら時には親日的だと非難されながらも韓国や日本を愛して研究を続けている。
 私の研究の原点地でもある長興から評価されて招請されて講演できたことは何よりも嬉しいことである。その中には奇縁ともいえる人たちがいる。そこの出身の李永松・魏明溫夫婦である。その夫婦の配慮が大きかった。この旅は韓国語で「死んでも恨みがない(죽어도 한이 없다)」といえる。3年間の科研研究の素晴らしいフィナーレになった。(写真は向かって私の左は90歳のダンゴル、右は文化院長の金氏) 
 

海南で

2010年03月28日 15時50分45秒 | エッセイ
 海南では詩人尹善道の古宅を訪問して、また儒教の実学派の丁茶山の「茶山艸堂」(書堂)をたずねた。私は尹氏の代表的な詩「漁夫四時詞」を朗読した。

파랑셩(波浪聲)을 염(厭)티 마라 딘훤( 暄)을 막는또다

 波の音が高くなっても良い。世俗の声が聞こえないから。

 皆に以下に意味深い素晴らしい詩であるかと紹介した。
 尹氏は島流されたが詩人、また丁氏は学問を大成功した。二人とも島流れた状況のなかで、立派な人はどこにいても、いかに悪条件においても創造的な業績を残した。私は色々と考えて励まされた。
 大興寺の入り口には数十年前にみた木神竿のチャンスンの鬼姿がそのまま立っているが、そのチャンスンの頭の部分が腐り、老人化したようであるので印象的である。私もそのチャンスンのように歳をとっていること、友人でもなったように感じた。
 釜山まで長く車にのり、釜山についた時は歩いていてもふわふわ揺れるようであった。教え子など4人が迎えてくれた。御馳走になった食堂ではキムチを4回もお変わりするほど美味しく夕食をいただいた。
 

長興学堂で講演

2010年03月27日 07時40分07秒 | エッセイ
第351回の「長興学堂」の朝7時からの朝餐会で講演をした。長興地域の最高リーダーたちの文化行動の集会である。私が初めて長興に来て調査したのは1968年に遡る。当時私は陸軍士官学校の教官をしていて民俗調査に参加した。それを振り返ってみながらこの地域を調査した話から始めた。1930年朝鮮総督府が警察の報告を通して得た情報に基づいて調査が始まった。被差別集団への調査の始まりと言える。こうしてはじまめた調査による私の研究から世襲巫と降神巫の起源説の基礎となったのである。
 私は高齢な女性ムーダンが寒い冬でも外で一晩中、一人で神話を語り、巫歌を歌い、喉が嗄れ、破れてパンソリの芸術が生まれることを調査経験から知った。差別される彼らを調査した時を思いだし、今は故人となった人を思い出し、一瞬泣きそうになったが抑えることができた。
その調査報告が東亜日報に大きく報道されて当時そこ出身のパンソリ名唱という鄭氏に怒られて隠れたこともあった。しかし時代は激変した。被差別の中から人間国宝ともいわれる人が出た。私は一個の研究者として社会通念を変えるに力を注いてきた。知識人が社会変化を待たず、変えようとして努力してきたことを訴えながら、彼らにも社会を変えていくように願った。
 長興文化院長金基洪氏、郡庁の梁基洙氏、魏明温氏の案内で昔の調査地を回った。3人のダンゴルの中に母と息子が亡くなり、90歳の嫁がまだ巫業を維持している。都庁という村には私が調査した巫女もなくなり組織もなくなったのを確認した。李朝時代の有名な儒学者の魏伯珪氏の村を訪ね資料館と支石墓などを見て歩き朝鮮半島の南西部の全羅南道海南のホテルで一行12人が夕食をしながら交流会を行った。充実した旅中である。

パンソリ発祥地で

2010年03月26日 17時12分23秒 | エッセイ
ここは韓国長興の山荘である。この旅の韓国旅行は大学教員などによる6カップルである。実は数年前から私の古い調査地であるここの知識人から講演をしてもらえないだろうかという話を実現させたことなる。釜山空港から貸切バスで西への道は季節外れのような雨と寒さであった。
 宝城郡長の職員の案内でパンソリ発祥地記念館で女名唱李氏のバンソリ春香歌のスッテモリを歌い、鼓手張氏の伴奏で本場の最高の公演であった。そこは鄭応、鄭権鎮の墓を見て回った。昔1960年代調査の時パンソリが被差別巫人集団のダンゴルレから起源したという私の話が新聞に報道されたことに怒った当人を思うと申し訳ないことと時代の激変に驚く。
 また画伯魏明溫氏の案内で懐かしき有名作家韓勝源氏、元交通省の長官の孫守益氏など20数名の歓迎パティに招かれて国際交流会が行われ、韓氏の自宅では彼の奥さんが直接作った緑茶でもてなしを受け彼の詩の朗読会が終わり、この山荘に来ている。森林の中の施設であるが、まだ外は暗く何も見えない。ソウル以北地方に大雪注意報の中7時からはこちらの指導者たちに講演を行う。私中心の旅のようで同行者たちには申し訳ない。 

パステル展

2010年03月25日 05時20分27秒 | エッセイ
 先日東冷の社長の石本弘之氏が自作のパステル絵の画帳を見せてくれたので驚いた。彼が絵を描くとは思えなかったからであった。彼の自宅を訪ねて行ったことがある。まるで画廊のように綺麗にしている。その画帳から富士山の絵が気にいったといったら彼はそれを額に入れてくれるという。
 昨日昼食を御馳走なった。彼は親孝行で何かと私に質問した。執筆中の文章から「孝は愛である」と答えた。彼はなんと素晴らし言葉だろうといった。食後シーモールで藤井元康・由香夫婦のパステル展示会を見た。奥さんなどに名刺を出したら毎日新聞のリレーエッセイで名前を知っているという。実は石本氏がこの教室でレッスンを受けているという。私もパステルで愛犬を描いて掛けているが、こんなに大型の絵でこんなにやさしく表現していることに感動した。石本氏はほんとうに彼の富士山の絵をプレゼントしてくれた。実ににすばらしい。心和む作品である。彼とは感動を交わす友人である。

ギフトを選ぶ心

2010年03月24日 05時16分01秒 | エッセイ
 ギフトを選ぶ心とはなにか。駅にはその地域の名物があって、お土産専門の店もあり、便利といえば便利である。しかしそれを選ぶのは簡単ではなく、苦心の末選ぶ場合もある。昨日家内と一緒にお土産を選ぶのに時間をかけた。それはただの買い物ではないことが分かった。
 まず「相手」の分析から始まる。相手の好み、趣味、知識、親疎関係、社会的地位、などなど、日常品でもなく、若干贅沢なものが良いと思い、またこちらの予算なども考える。選ぶまで相手のことを考える。相手と自我の関係史の点検ともいえる。お土産の大小はともかく、愛情や敬意、友情のすべてでもある。本や掲載文などを寄贈する時はその人が読書が好きか、読書力があるか否かまでテストするような気持ちになる。
 お土産は一方的な愛情に基づくものでなければならない。お返しを期待すると賄賂になるかもしれない。しかし喜んでもらいたい心はある。場合によって喜ぶことを期待することもある。先日論文指導をした中学校の教員からは感謝の言葉もなく、残念に思っている。そのような人は珍しくはないかもしれないが、その「先生」に愛情のある教育を期待するのは無理であろう。日本にはギフトの文化がある。それは大事にすべきであろう。

文学セミナ

2010年03月23日 05時37分36秒 | エッセイ
 昨日李憙雨原作、朴仙容氏編訳の「兄弟の江」を語るセミナが北九州韓国キリスト教会館KCCで行われた。私はイントロで大学時代に文学評論を専攻するために国文学へ入った原郷に戻ったように文学の評論の時間になればと言った。朴仙容氏は在日としてソウルに留学中「日韓を生きる」人としてこのドラマを見て感動したことが翻訳の動機になったという。その後日本の出版社に勤めながら翻訳を勧めるようになった。時代が変わって韓流ブームになり出版が進行し、まるで彼の最近の人生そのものと言える話、それを手伝った大久保裕文氏の作品構造の分析、岩武光宏氏の書評などが行われた。家族の価値観の異なり、葛藤の中でも家族の絆が守られて行く家族史、韓国史そのものであろうと。
 二部では教会の庭でバーベキューパティとともに交流会があり、皆で話し合う楽しい時間であった。在日教会の主催でもあり、自然に在日、差別など社会運動的な話に変わっていった。朝鮮学校の話も出て緊張した瞬間もあった。私は戦うだけではなく日本に住む以上日本人とも仲良く暮らせる「愛」を力説した。一角では私の自叙伝の出版の話もした。

「鬼に金棒」

2010年03月22日 05時17分16秒 | エッセイ
 李恢成氏から新潮文庫の『流域へ』が届いた。早速電話をした。元気で連載小説を書いているという。温かくなったら一緒に旅行でもしようという話になり、彼は私と一緒にいると「鬼に金棒」だというので私はそんな日本語を聞くのが初めてであったので、彼に説明してもらった。また日本語の壁にぶつかった。彼は自分のことを「流れ」人生だといっていた。私は「転々」人生かな。
 その直後ソウルの出版社から817ページのゲラが届いた。『父母への愛と祖先崇拝』という私の著作集1巻目になるものである。嬉しい。しかし、仕事の加重も感ずる。この本では親孝行と祖先崇拝の本質を探った。それらの社会的倫理や宗教祭祀などに潜在している愛を探し出し、再構成への方法や表現様式を提言するものである。
 本日は大韓小倉教会・KNCCで「兄弟の江」という小説をもって人生を語る時間になると思う。ノベライザーの朴仙容氏、建築家(民俗学)の大久保氏と原作の翻訳過程、ドラマのシーンなどを見せながら人生を語り合う時間になればよいと思っている。

映画シンポジウム

2010年03月21日 06時06分02秒 | エッセイ
 朝卒業式のリハーサルで博士号受与者たちと写真撮影、そして福岡の九大芸術工学大学院で行われた今井正監督の1945年の監督作品『愛と誓ひ』のパネラーとして参加した。映画上映前に裴氏が「プロパガンダ性に疑問」を投じており、金ジョンウォン氏が「プロパガンダ映画だ」という相反する意見が出たのでシンポジウムで私から問題点を提議しても議論できず終わった。帰路の新幹線で有名な地理学者の川村博忠先生と偶然に会って同席して嬉しかった。そしてある晩餐会に参加するために急いでタクシーに乗った。一日に4回もタクシーを乗ったのは初めであった。
 
 映画会へのある出席者からのの感想文を以下に紹介する。

 「朝鮮人特攻隊―「日本人」として死んだ英霊たち―」の著者や、韓国映画史評論家、九大、広大、大分県立芸術文化短大、近畿大などの大学で教鞭をとっておられる先生方、こんな錚々たるメンバーによる上映&シンポジウムに本日立ち会うことができました。今井正監督の1945年の監督作品『愛と誓ひ』の催しです。
 今井正関係の本など調べますと当時1945年頃朝鮮半島に行って映画づくりをしていた事実が書いてあります。ただ彼自身それについての積極的なコメントはあまりやっていない。現物は現在国立フィルムセンターにも保管されている。しかしなかなか観賞することの困難な映画でもあるようです。現に春声@このたび、ラッキーにもNET情報で、この催し情報をゲット出来、立会えましたけど-。コツコツと調べ物をする研究家の人たち、広く交流をはかって学究的な会合を形成する、そんな人たちが提供してくれた時と場所。事実をおさえる大切さを思います。
 まずなによりも戦時という極限状況の中にあって”映画”というものを作った映画監督がいたということ。過去の幻といってよいような作品が目前に現前してきてそれが如何に出来ているのかを自分なりに目で確かめ得たこと。素晴らしい方々のお話を聴けたこと、こんな複合現象に2010年3月めぐり合えた幸せを感じました。今井正、不滅の映画監督、監督に愛を! そして多くの方に感謝!!春声@拝

博士号

2010年03月20日 05時23分00秒 | エッセイ
 このたび博士の学位を取得することになった人が遠くから二人挨拶に来られた。一人は韓国芸術綜合大学教授の許栄一氏、もう一人は富山からの佐渡龍己氏である。二人とも博士を取るまでは指導の期間が大分掛った。許氏は博士学位を志して18年かかったと言っていた。夫の海外勤務の時アメリカや日本に在中期間で博士号のために基礎を作り磨きあげたのである。私が自ら握手をして「許博士」と呼んだ。
 佐渡氏はすでにテロに関する著書などで知られているようにイラク、イスラエル、スリランカなどの外交官としての経験の豊かな人であり、それを踏まえて研究を勧めて始まったことである。彼はイスラム過激派の原点になるコーランやハーディスなどからテロイズムを分析した。私は内部からの視点とテロの背景思想を探るように指導をした。彼は涙汲んで感謝を表した。二人共に大いに頑張った。
 もう一人の矢崎氏は「一遍聖絵」の分析したもので本ブログでも紹介したことがある。「聖人」とは何かという中身を探った苦労作である。私の講義を受講したので討議したことも多く、彼女が教諭をしながら良い研究をしたことに賛辞を送る。
 博士号はただの免許書ではない。「学問する学者」として「信頼」を表するものである。彼らが研究を続けながら質の高い教育をすることを期待する。そして博士号取得を心からお祝いする。

別れる

2010年03月19日 06時22分01秒 | エッセイ
長く勤めた同僚の一人が転職になり、別れの昼食会を私の研究室で行った。このような別れの経験の多い私にとっては感ずるところが多い。当者にとっては別れることより夢をもって新しいところでの適応を始めようとする覚悟であろう。まるでジョン・スタインベックの小説のフロンティア精神で貧乏な人たちがただ夢をもって西へ西へ、移動する場面を思い出す。
 「別れる」ことは古い者と縁を切ることであるが、それだけのことではない。別れることは「残す」意味が大きい。韓国のことわざで「虎は死んで皮を残す。人は死んで名前を残す(호랑이는 죽어서 가죽을 남기고, 사람은 죽어서 이름을 남긴다」という。母が私に残したのは「愛」である。それは広く多くの人に影響するものではないが、私には強く影響している。ただ広く通じるものである。
 別れることで人は評価されたり、人間関係も改善されることも多い。人によって離婚しても愛する人もいる。離別が人間関係を広げ、結びの連鎖にもなりうる。それが愛のネットワークであり、モームの小説「ヒューマンバンディジ(人間の絆)」の絆である。
 私は時々別れのパーティでイエスの最後の晩餐会の気持ちを持つ。かれは最後の晩餐会の意味を我々に見せてくれた。思うこと、考えることが多いこのごろである。

TVなしの日

2010年03月18日 05時43分56秒 | エッセイ
 朝から夕方までテレビにスウィッチを入れなかった。なんと聖なる日のように感じ、また孤独感や思考する日のようにも感じた。大げさに言うと世俗から聖なる日になったような感じである。現代の生活でテレビを付けないことは異様な感があるように、目が覚めたらすぐテレビにスウィッチを入れるのが習慣になっている方が多いだろう。それは大部分まともに観るとよりは付けっぱなし、音と画像で慰められているのかもしれない。
 夕方テレビをつけたら相撲の中継があった。以前であれば見るのが普通であったが一番強く、上手い人を土俵から追い出して行われている相撲は観たくなく、チャンネルを回した。韓国には目が見えない人たちの中では片方だけでも見える人が大将だという諺がある。偉い政治家、優秀な選手に卑怯な大義名分を使わずに、政策的に、あるいはスポーツで勝ってほしい。

アートフォーラム

2010年03月17日 06時46分08秒 | エッセイ
 我が家の近くには下関の観光名所も多いが、新しく画廊ができたと言うので嬉しくなった。しかもそれも無料で入場できると聞いて場所を知っておきたいと思っていたが、昨日東亜大学の川野裕一郎氏の「遊戯のかたち」うみとやまの光景 ― 海峡からという個展があり、見に行った。同行してくれたのは櫛田・鵜沢両教授であった。アートフォーラム「千」みもすそ川は展示室やコーヒーも飲める応接間を兼ねる空間があり、ゆっくり絵を鑑賞しながらのくつろぎの場所として愛用しても良いと思った。
 洋画家の川野裕一郎氏は大学では一度だけ顔を合わせたことがる。彼の作品はほぼ原色によって色と色が形をもって戦い、調和するような感が強く伝わってくる。韓国で行われたアジア国際美術展覧会にも出品したという。私の趣味の生け花もここに出品できるチャンスを狙ってみたい。我が家の近いところに素晴らしい画廊があることを自負する。我が家の愛用のレストランとして「敦煌」、画廊としてアートフォーラムを積極的に利用させていただきたい。