崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「住めば故郷」

2014年03月31日 04時19分55秒 | エッセイ
 桜が満開。残念な雨の中仙台からのお客さんを見送り、入れ替わりに東京から下関出身の文化人類学者の山下晋司氏を迎えた。私の研究室で夏の下関全国大会の打ち合わせをした。彼は下関彦島生まれ、名門の西高校を卒業して東大へ、同大学で教授をされ、現在は帝京平成大学の教授である。彼の故郷下関にはお母さんが住んでいらっしゃる。故郷とのパイプを太く持っているという。そして彼が代表となっている総合観光学会をこの夏6月21日(土)22日(日)に下関市で「下関観光の可能性」を行うための打ち合わせをした。李良姫教授と西高校の同窓生であった倉光誠氏を紹介し、顔合わせ会になった。
 生まれ故郷を離れて行って故郷との縁を持ち、このように学会などを行うということを聞きながら新鮮な感を持った。私は故郷には両親の墓があっても故郷とは縁は遠く、ただたまに墓参りに行く程度である。世代交代になり親族とも縁がなくなり、ただ子供時代の生活史の場として記憶の故郷になってしまった。中国や韓国では都会に出て出世して、故郷に錦を飾るのが夢だった。陶淵明の「帰居来辞」に“やがてみすぼらしい我が家が見えてくると、 喜びで胸がいっぱいになり、駆け出した”(現代語訳引用)。私はその縁を切ってしまったのか、切られたのか、気がついてみると縁が遠くなっている。故郷を離れて住んでも本当に「住めば故郷」であろうか。演歌のような「他郷暮らしの寂しさ」であろうか。



生活美

2014年03月30日 03時20分46秒 | エッセイ
家内の姉は千葉から、その娘と孫たち3人は仙台から訪ねてきて泊っている。その姉の娘の夫は大学教員で福岡で学会に参加をしており、それを機に家族旅行になったようである。二人の子供は中学校と高校に入学するお祝いの旅行にもなっている。家内の姉は韓ドラが好きで始めた韓国語の勉強を数年続けており、今はドラマの大部分を聞き取れる。家内は朝から韓国料理をつくり、私は環境美化をした。冬の間室内に置いてあった鉢物の蘭などを玄関やベランダに出して応接間を広くした。満開しているブーゲンベリア、サンバチエンス、洋ランなどを飾り、お客さんを迎えた。まずベランダから関門海峡の景色がよく見えるようにしたが、残念ながら雨模様であった。お客さんを迎え大喜びのミミちゃん、二人の学生は緊張しながら自己紹介をした。
 普段でも応接間は趣味の生け花をしたり絵や皿などを飾り、生活美を楽しんでいる。展示室のようにして生活することは不便であるが、生活空間が倉庫のようになっても困る。室内に洗濯物を干したり、家具が多すぎで狭くなることはしない。展示館は見せるための美であるが、私は生活を楽しむ美である。絵などは名品、名作でなくてもよい。イミテーションでもよい。それが私の模様替えの趣味の底心である。

温泉

2014年03月29日 06時03分20秒 | エッセイ
 久しぶりに海辺にある温泉に行った。日本では温泉に憧れるようなところがあるが、私はそれほど関心が高くはない。ある人に温泉の湯と普通のお湯とはどう違うかと聞いたら驚いた`表情をしながら薬効などの長説が語られた。日本人は温泉にお湯以上のイメージをもつ文化を育ててきた。温泉文化はお湯、お風呂文化の上に立つ文化である。私が育った子供時代にはお風呂さえなかった。今韓国で多くの日本人がエステ旅行などを楽しんでいるのをみると伝統がなくとも文化生活は急造されるものであるか、と考えている。しかしその楽しみ方やイメージ作りには年月がかかるといえる。
 大衆風呂のような温泉の中に裸の父子の光景が私の視線を引いた。長身の父から落ちた種から芽ばえた子のコンビ、これが命の神秘であろう。遺伝子が続くのである。日本に留学した当初は銭湯のお湯が熱くて火傷をするかと思ったのに幼児をお湯に入れる人を見て、内心怒ったが、その子供に温泉好きの遺伝子が伝わる。遺伝子には変わらないものと変わるものがあるという。伝統も変わりにくいものと変わりやすいものがある。人を広く深く愛するものが遺伝子に含まれるように種まきの季節である。

『雀様の学問と人生(참새님의 학문과 인생)』

2014年03月28日 05時16分05秒 | エッセイ
 ある大学で韓国語を教えている教員が私の韓国語の拙著『雀様の学問と人生(참새님의 학문과 인생)』(民俗苑)をテキストにしたいとの連絡を受けた。教材や読み物として評価されたことが嬉しい。その本は私の成功物語りではない。むしろ数多くの失敗談や苦労話である。特に韓国と日本での失敗と反省の話が多い。ただその事実を綴ったものではない。考え、思索したエッセイ集である。昔の有名な詩人の友人が出版社を経営した時エッセイ集を出して以来のものであった。そのタイトルを拝借して『雀様が語る日本』(新典社、2013)の出版の機会にもなった。
 いま書き下ろしが終わったばかりの原稿がある。「私が生きてきた朴正熙時代とセマウル運動」に関するものである。私の経験と思索したものに基づいて書いた。それは記憶によるものであり、記事などをモザイクしたものではない。しかしメッセージ性はあるかと思う。近現代史において日韓は歴史、政治、経済などでいかに密着していたかを客観的に把握すること、特に韓国において稲の品種改良、セマウル運動は日本起源ということを明らかにしたい。客観的という私の姿勢は冷静という「冷えた」状況だけを意味するものではない。偏頗や味方とは異なる深い愛情をもつ「暖かさ」が横たわっていることを読みとってほしいと思っている。

表情を管理する朴氏の「無表情」、安倍氏の「無顔」

2014年03月27日 06時09分40秒 | エッセイ
 昨日ある記者の転勤ということで大学近くのバイキングに行ったら、定休日、その近くのジャズクラブで昼食をとることになった。私と二人の送別会の昼食であったが、超満員であった。そこにはもう一つ送別会をするグループがあった。コミュニティクラブ東亜の韓国語クラスの講師の姜善恵氏の送別会で20数名集まっていた。彼女は4月からは東亜大学の非常勤講師になる。彼女は日韓親善協会の韓国語初級クラスも持っていて、そこでも送別会をするという。私は彼女を第3回「楽しい韓国文化論」の講師に予定している。日本では日韓関係がこのように深度を深めていき、日本では韓国文化や韓国人が好きな人が増えているが、一方ではヘートスピーチなどが起きている。
 政治的にはもっと悪い。今の政治家を見ていると戦術や要領がよいと思える時が多い。竹島、慰安婦、靖国などが問題のように言われているが、そのような問題は歴史的に国際的に常にあるものである。良い感情と誠意をもって付き合う気持ちが肝要であろう。昨日安倍総理がわざわざ冒頭で韓国語で朴大統領に挨拶をしたが、朴氏の「無表情」、安倍氏の「無顔」(韓国語では恥ずかしいの意味)であった。喧嘩の場面では良く見たことがあるが政治家同士の対話としては異様な光景であった。韓国の報道によると国民感情を気にして表情まで管理したということである。人のために表情さえ管理するという職業、先日テレビで見た自民党の山本大臣は野党時代にはうるさいくらい言葉の多い議員であったが、今は寡黙な大臣になっている。私は表情を管理する、言い訳のある政治家にならなくて、今の私で本当に良かったと思う。

陰になっていることが嬉しい

2014年03月26日 04時35分29秒 | エッセイ
昨日私の教え子の二人から本が届いた。一人は中国大連理工大学の准教授の孫蓮花、もう一人は富山在住の佐渡龍巳氏である。孫氏は私が広島大学大学院教授の時の学生であった。彼女は中国の長春の大学教員の時私の現地調査の通訳をしてくれたのが縁になって留学をすることになった。私は彼女に社会言語学的な研究を紹介しながら北朝鮮や中国の「偉大な将軍」とか「同志」「トンム(友人)」などの呼称に注目するよう勧めたことがあり、先行研究の英語の論文を一緒に読みながら指導したことがあった。それが博士論文、そして単行本として『多民族国家における言語生活研究 中国朝鮮語の呼称に着目して』 が出版されたのである。そのことは本書の後書きに触れている。
 佐渡氏は防衛大学の出身、自衛隊の軍人、イラク大使館に勤務した経歴の方である。イラクではテロの危機感を持って暮らした体験を生かしてすでに数冊の著書を書いておられ、私の現職の大学で博士号を取得。その論文を基に新書版の『心戦』として出版した。イスラム過激派や原理主義によるテロが大きく報道されながらその本質を分析した研究は少ない。外部からはテロと言われても内部では信仰、愛族、民族運動になっていることにメスを加えるように指導した。彼はテロ防止的な面から考えており、聖書、ユダヤ教やイスラム教などにも関心を注ぐようになった。二人の研究の実りとして出された2冊の著書には私の心も含まれているようで陰になっていることが嬉しい。

羅南女学生であった

2014年03月25日 05時09分29秒 | エッセイ
昨日は朝鮮半島からの引き揚げ者、羅南生まれ拓殖恭子氏(82歳)と会った。彼女は川嶋氏が下関で講演した時に「朝日新聞」の記事を読んで、新聞社、大学に連絡をしてくださり、家内が仲を取り持ち、川島氏と電話通話ができたことからのが縁で会うことができた。終戦時咸鏡北道羅南高等女学校2年生、川嶋氏のようには詳しく記憶していないという。川嶋氏が書いている「羅南には竹林はなかった」ので彼女の本には違和感を感じ、途中で読むのを止めたとのことである。彼女は小説を証言として読んで、記憶の差を感じるという。引きあげの話は体験してない人には理解してもらえないのでしたくないといいながら数か月間かかって束草を経由して日本に引き揚げた話をしててくださった。
 父親は静岡のお寺の息子、神田で薬局に勤めて、1923年関東大地震の直後朝鮮に渡った。薬剤師として薬局をしていた。医者であった父の兄の息子と川嶋氏の兄が親友であった。従兄の医科生が溺死した時、川嶋氏が探し歩いたとか、提灯をつけたとか、その時の話が川嶋氏との電話で話題になり、泣いてしまったという。その従兄の妹と恭子氏は親しい。その彼女と川嶋さんが親しかったという。その彼女は最近亡くなられて残念ながら川嶋氏と会うことはできなかった。川嶋氏より彼女が2歳上であって、直接は知らなくともそのように近い関係であったことを話した。羅南には軍師団司令部があって、日本人が多く住んでいた。女学校であったので標準語で教育された。家政の裁縫なども習った。生け花の科目はなかったが、花屋はあったという。花屋があったという証言は初めて聞いた。
 8月9日清津にソ連軍による艦砲射撃があって避難した。日本のお金は無効になり、軍票を使い、坊主頭になって引き揚げてきたという。ソ連軍は噂の通り囚人による軍のようで乱暴な軍人であった。釜山から日本に引き揚げても栄養失調で髪が伸びなくて、男と思われたという。「その時の話はしたくない」。福岡で看護婦の免許をとって看護婦を務め、結婚して夫の職場の下関に長く住んでいる。
 羅南での生活レベルは日本より高く、標準語を使っていたとのこと。韓国は懐かしく思い、韓国語も学んでいる。その時朝鮮の友人の松原氏はほんとうに親切にしてくれた。今どうしているのか会ってみたい。当時の同級生、同窓生がマリンホテルで300数十人が集まったこともあったとのこと。北朝鮮行きは費用が高いので韓国の束草には行ってみたい。冬のソナタ旅行として春川に行ったことがある。韓国には友達もおり、大好きだという。

「花を生かそう」

2014年03月24日 05時38分42秒 | エッセイ
 山口県内16支部の330人の「いけばな池坊展」(写真)を鑑賞した。昨日が最終日、観賞客も多かったが花は新鮮味をなくしたものもあった。「池坊」の展示としてあまりにも広い空間に多過ぎる展示であった。仏壇や掛け軸と香炉などの床の間に置かれているように想定しながら一品づつ楽しんだ。松を使った大作を除いてはサクラやボケ、ウメ、レンギョー、ヤマブキなど季節の花と葉、枝が多く使われている。花器、色、線などの調和美を鑑賞した。出品者や鑑賞者もやはり女性が主役の女性文化のようである。
 「いけばな」は優れた 日本文化である。日本の住宅には床の間という空間があり、仏壇、お茶、掛け軸、献花など複合的に調和して一般化された日本の生活文化である。それが日本人の美意識を高めていると評してよい。日本の津津浦浦まで生け花をする人口は多く、個人の趣味を越えて日本文化の実体、生活美としてと賞賛してよいだろう。
 数年前韓国花卉学会での基調講演の時のことが忘れられない。このような日本の生け花の生活事情を中心に世界の花と生活を文化人類学的に話をしたら質問を借りて批判されたのである。反日主義者に急所を突かれたのである。
 私は日常的に花のある食卓、花を生けるなど楽しさと美を生活に入れながら過ごしている。隣家の主婦がインフルエンザと聞き、花を生けて送った。今週末には家内の姉家一行が訪ねてくる。床の間はないが、テレビの横を生け花を置く場所として空けてある。昨日観賞した美しさの感動をもって「花を生かそう」と思っている。
 

アルコールアレルギー

2014年03月23日 03時59分00秒 | エッセイ
今自分史的な本を執筆している。その文を校正校閲している家内からの私の人生を評した言葉が気になる。私の弱点、痛い点であるからである。兄弟がいない子供の時から一人っ子で大切にされ、甘やかされた生活がずっと一貫しており、社会生活に不適応があったのではないかということである。6人兄弟姉妹の中で育った家内から見たらそうかも知れない。私には一人子的要因の他にも問題点は多い。その一つがアルコール・アレルギーである。酒は一滴も飲まなかった父親に見習ったのか、遺伝子が伝わっているのか酒とは縁が薄い。大学生になったばかりの時、成人になったという解放感から友人たちから強く酒を勧められるままに飲んで意識を失なって病院に担ぎ込まれ、大騒ぎになった。その後は酒抜きの社会生活をすることになるが、それが如何に難しかったか。可能な限り、酒宴などの会食には参加しないようにするのが常だった。
 この酒が飲めない社会生活は付き合いが悪い、飲酒で時間を共有することによって得られる相互理解、和解力が欠けるなど負の要因が大きい。その点を常に考えながら補充しようと努力したように今は思う。この話を韓国から来られた夫婦に話したら、彼の妻はそれは「幸いなアレルギー」であると反応をしてくれた。彼女に言わせると男の夜8時以後の酒の社交の時間は無用なものであるという。男の社交を無用と思い、私の味方をしてくれるような返事である。私のような体質は幸いなことなのに、それが悩みなんて良くわからないという。幸い日本には私のように一人で時間を過ごす人、私の子供の頃のような人は多い。いじめたり、いじめられたりする人も多い。個性を認め、調和する社会が望ましい。(写真は社交性のあるわが愛犬)
 

「春琴抄」

2014年03月22日 04時50分43秒 | エッセイ
絹代塾の月例会で映画「春琴抄」を観賞した。田中絹代が出演し、その時使われた琴と三味線も展示されていて見ることができた。私は予備知識もなく映画を鑑賞した。私の耳が聞こえにくいのと、さらに古い映画の音声、機械的な問題などで聞き取れなかった部分が多く、通例の議論ができなかった。反省の時であった。
 主人公の春琴(田中絹代)は9歳の頃に眼病により失明して音曲を学ぶようになった。春琴の身の回りの世話をしていた丁稚の佐助もまた三味線を学ぶようになり、春琴の弟子となる。春琴は佐助に激しい稽古をつける。春琴は20歳になり、三味線奏者として独立した。春琴の腕前は一流として広く知られるようになった。春琴の美貌が目当てで弟子になっていた利太郎から稽古の仕置きの仕返しで彼女の額に傷をつけられてしまう。その後、春琴は自分の顔を見せることを嫌がり、佐助を近づけようとしない。佐助は自ら両眼を針で突き、失明し、春琴に仕えた。佐助は自らも琴の師匠となり、春琴の身の回りの世話を続けた。春琴は、美しく、非常に気高い女性として常に佐助に対して高圧的に臨んでいたが最後に負傷した容姿を彼にだけは見せたくないという。
 盲目の人の音にたいするセンシティブ、ヒバリのなき声を楽しむシーンなど印象的である。私は若い時盲覡(男)に長くインタビュー調査をして巫歌の歌詞を発表したことがある。その時に盲人を普通の人という認識を持つようになった。むしろその時以来眼が見えない人は純粋な心をもっているというイメージを持った。それを逆説的にいうならば人は見ることで心が汚染されるのでないだろうか。障害者とはいっても、実は人間の標準は決まっていないはずである。障害者などの言葉は助け合うためのものにすぎない。人生の中で正常な健康と元気な時は一時的なものである。病気や老化によりまるで青春時代とは別人になっていくのが常である。人間を、自分自身を多様な視角から見るべきであろう。

高齢者の自殺

2014年03月21日 04時22分27秒 | エッセイ
今日は午前には卒業式と午後は絹代塾に参加する。田中絹代氏の墓参りには参加できず残念である。卒業式には私が7年間指導した杉原トヨ子氏に博士号が授与される。私の全教歴の中で一番長く年月を掛けて完成に至ったケースである。彼女にはおめでとうと賛辞を贈りたい。昨日彼女から来たメールで終わってみると7年間は長くは感じないと言ってくれた。私より寛容の心を持っていると感じた。
 彼女は編入学当時大学教員として在宅看護関係を教えていた。その内容を聞いて私は老人の自殺をテーマにすることを勧めた。しかし私の前任校の国立大学大学院とは体制の違い、指導教員の体制も異なって、彼女の中間発表、予備審査など、さらに副査の交代などで困難な状況が続き彼女は2回、私は1回の進行を放棄宣言したが、研究科長は大学院は研究と同時に教育も重要であるということで、暖かい激励により完成に至ったのである。感謝である。
 私は『恨の人類学』で韓国の自殺について書いた。それは自殺は不慮な死であり、その死者の怨魂は家族と政治家に祟る信仰にもなっていることを分析したものである。彼女の論文では怨霊信仰には深く踏み込んではおらず、現在日本での高齢者の自殺率が高いことの不自然なことから日本人の死生観について分析している。研究対象の高齢者は年少時に学び修得した自尊感情が根底にあり、核家族化、老親扶養規範の衰退、介護保険の制度化の矛盾などと遭遇したといえる。高齢者個々の死生観は家族関係と大きく関与しているという。私の論文と比較する意味も大きい。さらに高齢化現象が予想される日本以外の国々において国際的に比較する上で参考になるだろう。
 

翻訳作業は人生、そのもの

2014年03月20日 05時45分18秒 | エッセイ
毎週行っている読書会で目下読んでいるのは「慰安所帳場の日記」である。日記を書いた人は韓国人であり、日本語と韓国語の混合文であるので日本語訳が難しい。一〇里、二〇里は基本的に翻訳が間違いやすい。シンガポールの市内で「二〇里」と書かれたところでは日本語で表記したのか韓国語なのか戸惑う。日本語では1里が4キロで20里は80キロになるり、シンガポールをはるかに越える距離である。韓国語では10里が4キロであるので20里は8キロであり、この文脈では8キロが正解である。
 もっとも訳しにくい言葉は「놀다(遊ぶ)」である。帳場の日記を書いた人はほぼ日常的に「慰安所(遊郭)で遊ぶ」という言葉を多い書き残している。この言葉をそのまま日本語に訳すると変になる。韓国語のその語の意味は広い。韓国語では「노는 날(休日) 「노는 사람(職がない人)」は日本語とは文脈上異なることが多い。原文を忠実に訳した直訳は間違いやすい。意訳しなければならないというのが私の持論である。人の言葉を聞く時もそうである。韓国では老人が怒り、叱ることが多いが、後日それが愛情と分かるのが常である。逆に日本人の誉め言葉は怖い。「誉め殺し」という言葉があるくらいである。翻訳作業は人生、そのものである。

「私の言葉は懐かしい1世の日本語」

2014年03月19日 04時09分58秒 | エッセイ
毎月の定期受診時、池田先生は理研の小保方氏の問題に触れ、マスコミの過剰報道を自制、しばらく見守ってほしいという話をされた。まさにそのとおりである。診察室を出たところには柳鐘美氏が夫の浅野氏が慶応大学へ転勤することによって下関を離れることになり、別れの挨拶に来られ、お土産とお餞別を交換した。彼女は「楽しい韓国文化論」の講師もして下さり、家族ぐるみの交流があったのに寂しくなった。転入出がある時期である。朝日新聞の大隈崇記者も転出する。記者らは転勤が多い職種から、その場、その場で人間関係を新しく作っていく。彼らはその人間関係をつなげて持つようになればその広さとパーワーはどんなに強みになるだろうか。転入出は人間関係を地域的に拡大することと考えてほしい。
 午後わが夫婦は久しぶりに隣の大都会の小倉でショッピングをした。それも精々駅ビルと繋がっている百貨店であったが、家内は本当に「田舎の鶏が市場の真ん中に立った」(韓国の諺)感じで嬉しそうに叫んだ。私は大型書店があることに100万人口の威力を十分に感じた。30分前には講演の会場に着いた。持って行った新著『雀様が語る日本』10冊が即売、売れ切れ完売。出席者21名、家内と韓国からの銀行マン2人を除いて完全に在日同胞の前で5時から私の講演が始まった。差別されてきた在日への理解が足りないということについて、私の被差別集団のシャーマン研究から差別されると思う人たちが実は人を差別する例を上げながら、私も日本で差別されたこと、いじめられたことを例にして語った。しかし差別は無知、無教養の人たちの普遍的な現象であると理解を求めた。
 私の人生にとって母親の存在が如何に大きいか、母の絶対的な愛情と妻の愛情の違い。リンゴを半分に割って半分づつ平等に食べる妻は他人であること、夫婦愛、夫婦喧嘩なしの話、そして山のふもとの田舎から憧れのソウルへ、さらに東京へ移り替えながら世界へ広く調査に出かけた話をした。
 質問は全員にマイクが回った。まず私の日本語は彼ら2,3世からは1世の日本語、つまり外国語として習っていない日本語、彼らにとっては親や祖父の話を聞くように懐かしいとのこと。私の多様な経歴から朝鮮戦争、陸軍士官学校、シャーマニズム研究、韓国男性の謝らないことなどの質問をまとめてから全員が輪になってファイテングをし、記念写真を撮ってからは速足で帰宅、就寝時間が過ぎていた。同胞だけの集まりで語った日本文化論であったが、それは普遍的な私の持論であった。

ステーションホテル小倉で講演

2014年03月18日 04時24分31秒 | エッセイ
昨日はアフリカ・ニジェールで20年以上医療奉仕をしてきた宣教師の吉岡陽子氏が訪ねてこられ談話をした。GHQ占領の時ここ下関の小串に駐屯した国連軍として務めたニュージーランド人Deve Holmes氏のことが話題になった。彼はもしかしたら以前話題にした日中戦争時の写真を残している小山さんのアルバムから写真を抜き取っていった将校ではなかっただろうか思ってしまった。彼女によれば彼はつい最近亡くなられたと言う。彼女は私の最新著『雀様が語る日本』を一行づつきちんと読んだという(写真は山本達夫氏)。
 本日ステーションホテル小倉常磐の間で講演をする。サンキュウクラブ主催でその最新著を持って語ることになっている。そのクラブは総連と民団の両方の在日朝鮮・韓国人の団体であり、平均年齢60才位で団体として12年の歴史、第4回目の講演会であるという。慶尚北道道民会の代表の黄正吉氏の紹介で知ることになった。拙著が縁でもう一つ下関市から講演依頼が来ている。感謝である。ただ本を語る雑談のようにならないようにしなければならない。
 
 先週の東洋経済日報の連載エッセーの全文を以下紹介する。

        「沖縄石垣島」
 先日、久しぶりに沖縄石垣島現地調査に行ってきた。福岡空港から1時間40分、さらに那覇から40分南へ、日本の南境の尖閣に近い所まで行った。本島より10度高い17度、気持良い南風に迎えられた。中部大学在職中、20年ほど前にもここで研究会をしたことがあるのに風景や博物館の中も全く記憶していない。私の記憶はどうなっているのだろう。朝鮮戦争などを鮮明に記憶しながら20余年前のことが記憶に残っておらず不思議である。印象的なものがなく記憶されていないのか、脳が記憶を消去したのだろうか。
 東洋大学の植野弘子教授が代表とする科研の「帝国日本のモノと人の移動に関する文化人類学的研究」という大きいタイトルの中での私の調査目的は戦前戦後の植民地文化に関心を持っての参加だった。準備委員たちが共同調査のために事前準備した細かい日程に合わせて車を走らせ、歩き、撮影、録音などで忙しい毎日であった。
 石垣島博物館では中国の儒教文化の影響が著しく、その点韓国と似ている。ここの女性たちは物を頭に載せて運ぶ展示物に視線がとまった。結婚式、洗骨・葬式などが陳列されたのを見ながら韓国の儒教式葬式と似ていると感じた。しかし目立つのは死体を運ぶ棺が四角であること、座葬であることである。死体を墓に入れて数年してから取り出して洗って再葬するのは韓国の草墳と同じ文化圏である。私は1965年に韓国全羅北道蝟島で草墳を観察して南方文化論を主張したことがある。1974年に沖縄宮古島で洗骨の現場を調査して写真を撮って残してある。
 コースによって車を乗り替えながらジグザグに走った。まず100年の歴史をもつ玉那覇酒造所へ行った。タイ米を洗い、蒸し、一晩ねかせて4台のコンベアーで横のタンクに入れて手で黒酵素を混ぜ、モロミが黒くなったらタンクに日づけをして17日間発酵させる。そして蒸流する釜に入れ 蒸留されて出てくる70度(平均45度)のアルコールを手作業で瓶詰め、商品化する。
 サトウキビ畑とパイナップル畑のある道を車窓から眺めながら日本のプランテーション、戦前の政策を考えた。ある人は占領時代の「琉球政府」と現在の「日本政府」とを比べて語った。日本への復帰については民主主義になるかどうか疑問をもったことなど、日本政府に否定的な態度をとった。琉球政府時代には官吏として教員や一般人が採用されていて民意を直接聞いて政策に反映されていた。飛行場の反対運動に米軍は世論を聞いてくれた。彼が勤務中に4年間貯めた有給休暇80日間を守ってくれて許可を得た。しかし今は島民の意見を米軍に言っても日本政府に話せと言うだけで聞いてくれない。今の日本政府は戦前の官僚制がそのまま残っており、規制ばかりを気にして、中央からの指示に従って仕事をするので上手くいかないと強く言った。沖縄では独立を考える人がかなり増えているという。
 私は1970年代復帰直後に沖縄で聞いた意見と似ていて当時を思い出した。



嫁生活

2014年03月17日 04時51分18秒 | エッセイ
 ソウルから来られて日本に住み8年になる朴氏夫妻と娘の3人を誘って下関市園芸センターで花を見て、帰路にわが家でお茶の時間を持った。朴氏はソウルの名門大学を出てアメリカ系化学工業会社に長く務め現在下関で工場長を務めている。娘さんは韓国で英語を専門とする国際高校を卒業して3年間フランス・パリに留学し、ホテル経営学を専攻、現在韓国で英語の教師をしているという。両親を訪ねてきていた。朴氏らとは下関韓国教会で会うことができたが、互いによく知らなかった。昨日は互いに探索の質問がいきかった。私は朴工場長に日本で適応しにくい点を訪ねた。その一つの例はクリスチャンである彼にとっては年初めの安全を祈る神社参拝の恒例の行事であった。彼は参拝参加を拒否し参加しなかったという。社内で大きく問題になった。英語ができるということなどで日本語もあまりできない工場長に社員の反発が大きかったという。そこで社員たちの中でグローバル化が話題になった。私は工場長が日本の習慣を理解して解決したかと思ったが実は逆であった。日本人の社員たちがグローバル化時代にこのような外国人工場長を受け入れることで和平になったという話である。工場長の強いリーダーシップを感じ、面白かった。
 その強い夫を前にして奥さんの話はさらに面白かった。なぜ自分が働いて買った家の所有権を夫の名義にしたのか。韓国の男は軍隊での3年間の苦労話を良くするが韓国の女性は結婚したら永遠に苦痛な嫁として暮らさなければならない。男は家事もせず、妻は外で働きながらも家では姑に服従、夫の家族に服従、家の中では罪人の如く生活しなければならない。嫁生活をシジップサリといい、彼女は「シ」から始まるシグンチ(ホウレンソウ)、シレギー(大根の葉っぱ)などは食べないと辛さを夫の前で語った。もっとも残念なことは3人の娘しかおらず、息子を産めなかったことで息子の嫁に返すことができないことであるといった(笑)。