崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

中国は変わった

2012年03月31日 06時16分50秒 | エッセイ
 作日「歴史学と人類学の論壇」の第2日目、8時から午後6時まで発表と討論があった。昨日の本欄では中国は漢代からいまだに変わっていないと人の言葉を引用したが、私の着席が若干遅れること以外全員時間を守って、また二日目なのに最後まで態勢を崩さず終了することができた。中国人の真面目さを見て、「中国人は変わった」と皮膚で感じた。全部ではないかもしれないが良い灯であろう。
 午後のセクションで歴史学者の桐本東太(慶応大)と西沢治彦(武蔵大)の両氏と人類学者の伊藤亜人氏(早稲田)と崔吉城(東亜大)の二人が歴史学と人類学の関係に迫った発表と討論が行われた。歴史学と人類学の「歴史」はどのようなものであるか、その関係は…と。部分的に対決したが、西沢氏と私の結論は全く同じであった。
 総合討論では座長の末成道男氏(東洋文庫)が両学問の「歴史」とは、その関係は相互補完的であるということを討論することになった。発言者によっては脱線して演説のようなものがあって私はテーマに戻せる発言した。途中歴史学者科大衛氏(香港中文大)の人類学は危機であるという発言に私は歴史学の危機と反論、対応した。5分発表といわれて守った人は例外的であり、30分以上の人が多くて休憩時間と討論時間を当てるような進行にはなったが全体として熱心さには満足であった。
 最後の懇親会が大学の紫荊園レストランで行われ、私が乾杯音頭をとった。大いに満足し、私の留学時代からの友人の末成道男、伊藤亜人、嶋睦奥彦から誘い、その弟子の中山大学の麻国慶教授中心の主催者側、中国本土、香港、台湾、ベトナム、日本、韓国、アメリカなどからの参加者、通訳者、準備と参加の学生さんに感謝の言葉を述べた。
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言葉の壁

2012年03月30日 05時02分41秒 | エッセイ

 東アジア人類学論壇「歴史学と人類学」は最初から言葉の壁にぶつかった。アメリカ、ベトナム、韓国、日本、中国、香港など多様な国から集まった40人ほどの人類学者がそれぞれの言葉で語り通訳は中国語と日本語となっているが、言語に隣ウィスパー通訳などで発表者は5分、10分討議であった。中国の内部、台湾に関するものが多かった。私のアメリカ人のコーヘン教授への質問は通訳によって行い返ってきた答えが全く違い、どういうことだろうとなった。中には日本人の研究者の発表内容を正面から全く否定する寸劇的になったところもあった。歴史学と人類学の関係を意識して発表する人は少なかった。言語の壁は常に感ずるがこのような国際会議になるとより振幅する。
 懇親会は大型ビルのレストランで行った。隣席の人は台湾の人、英語で対話した。彼はアメリカ留学した人、少数民族の研究者であった。一気に親しくなり、彼は台湾を案内してくれるという。観光地ではないといいながら広州に詳しい日本人が漢代記念館を勧めてくれた。なぜ古い時代のものを勧めるかというと彼は中国は古代から現在まで変わっていないという。経済成長など激しく変化しているというのは何を意味するのであろうか。彼の言葉が何を意味するか私は知っている。(写真は参加者たちと懇親会
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中国広州へ

2012年03月28日 12時27分48秒 | エッセイ
 昨日福岡を夕方5時くらいに出発し、約5時間かけて、広州に着いた。アメリカニューヨークから来られたコーヘン教授と一緒に孫文が創立した中山大学・大学賓館についた。大学主催のハードスケジュールの「東アジア人類学論壇」のメンバーたちが迎えてくれた。下関はまだ風が冷たかったのにここは昼25度の、コートも上着も要らないくらい暖かい。宿泊している所でインターネットが使用方法を知らず家内に電話連絡をして書き込んでもらった。ここで可能になったらまた追加をしたい。窓も開けて寝た。日本からは羨ましい話であろう。
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幸せな悲鳴

2012年03月28日 05時54分23秒 | エッセイ
 大学の研究所から鵜澤和宏副学長と私、山口県日韓親善協会連合会の役人の石本弘之常任理事、友松幸弘副会長、伊藤巧専務で夕食会が行われた。昨年連合会の創立50周年記念行事には私が名誉顧問で準備から大会まで関与して以来の役員たちとの集まりであった。両側の設立目的に共通点があり共同で活動をすることにした。連合会の傘下には10の友好団体があり、その連合会が後援団体になってくれることは研究所にとって大きく勇気づけられる。まず東アジア文化研究所と当連合会との合同で日韓親善をテーマにして、私がトップバッターの講師として講演会を開くことなどを話した。また合同で韓国文化教室などの運営、交流活動も行うなどの内容が検討された。
 私はそれが始まることに関心があり、そしてそれらが長く続くようにしておきたい気持ちである。それは長やメンバーが代わってもやっていけることを考えて聞いていた。その時、私の心を読んだように席中最年輩の石本氏が「これからの命が長くないから」とささやいた。以心伝心。
 私は今日中国広州の中山大学へ、人類学の国際会議に参加して、月が代って4月2日に帰国、ハードなスケジュール、新学期の忙しさを感じながら、幸せな悲鳴である。(写真:私の隣は石本、後列の向かって左から鵜澤、友松、伊藤)
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従軍慰安婦

2012年03月27日 05時44分27秒 | エッセイ
 
日本軍に従軍慰安婦にされたという李容洙(83)が慰安婦問題を解決するために4月に行われる韓国国会議員選挙に出馬した。李さんは15歳で日本軍の慰安婦として台湾に連行され、国会議員として日本政府の謝罪と賠償を求めることを目指すという。それについて昨日国会審議中に野田総理は日本軍に従軍慰安婦をおかれたことの証拠はないと明言した。吉田清治は当時軍人として軍が組織的に女性を拉致した担当者であったという著書で主張した。しかしそれは韓国側の調査によって捏造と否定されている。にもかかわらずいまだに韓国、北朝鮮、中国などではテキストのように使っている人が多い。
 この問題は研究者によってもタブーとされていて、証言とメディアによって扇動されているようである。戦争の傷、特に人権問題は大きく長引く。その問題に触れることは社会運動家によって非難されるので研究はなかなか進まない。性暴行などがつきもののような戦争史がある。
 私は朝鮮戦争中の国連軍と韓国軍による性暴行と売春を知って、問題意識として追究して論じたことがあり、非難された。タブー視されている問題を避けて、研究はせず、ただ社会運動家とマスメディアに任せることは危険であろう。今、私は戦前のプロパガンダ映画を見ながら現在でさほども変わっていないことを感じ、それは普遍的な現象であると痛感している。
 
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秋芳洞

2012年03月26日 06時19分42秒 | エッセイ
 2500キロ余り離れている網走から家内の兄が来られた。山口美祢市にある秋芳洞へ案内することになった。秋吉台の地下100mの南麓に開口する大鍾乳洞である。私は10年ほど前に観覧したので今度は感動しないと思っていた。2度行くことにはつきあいの意味しか持たなかった。ただ洞窟の大きさと洞窟を通り抜けた時に目の前に広がる平原の石山を観た壮観に感動したのは体に残っている。新しくライトアップしたのでうす暗い道は歩きやすく、照明された自然の石灰岩の芸術(?)か、造物主の作品というか、美しく神秘的であった。黄金柱などの名付けや説明は要らない。洞窟に関する知識は全く持たなくてよい。報道されたものの確認や証明写真的な観光ではなく、実体験的に感動するのがよい。高原に立った。春先の「暴風の崖」に立っていた。出てからいつ出来上がったか、いつ発見されたか、シコクヨコエビやコウモリなどが6種15,000頭のコウモリが生息していることを知った。義兄は私より若干年輩であるが、子供のように嬉しそうに軽く歩きカメラのシャッターを押した。しかし一枚も撮れなかった。それも後期高齢者の体での実体験で良かった。
(写真の右は菅原昭、と私の家内の兄弟)












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諏訪大社で古式神前結婚式

2012年03月25日 06時36分42秒 | エッセイ
 昨日諏訪大社で古式の神前結婚式に参加した。3月末でも残雪があり、その上雨が激しく降っている中での式であった。諏訪湖畔のホテルから美しい景観が霞んでいた。大社の前の通りから新郎新婦の後ろに親族中心の20人帆の行列で進行した。大社の控室で新婚さんの両側の参加者紹介と記念撮影、私は後列に立つことになったが足台が高くて怖かった。傘をさして行列で式場に入った。開放された空間で板の間で正座して式が行なわれた。初めての古式結婚式であるので珍しかったが、神中心なので商業的な客への接待態度は粗末、寒さのなかに笙、横笛、縦笛、太鼓の演奏がなされ、祓い、献杯、三三九度、誓い、厳かな挙式は終わった。
近い親族両側の昼食会、我が夫婦は家内の兄弟のテーブル、それぞれ親しい人が座っている。新婦の両親、新郎新婦が酒を勧めながら廻り、立ち放しのように話を交わした。同じ空間での食事会でありながら参加者互いにも何も知らない状況が続いた。沈黙でただ食べる人見た。しかしカラオケが始まり雰囲気が一気に変わった。自己紹介しながら歌う。88歳の老女の歌が迫力あった。次々の登壇に拍手と笑い声、時間は流れた。新下関駅に深夜11時半、長野寒さから逃げ来たと下車したら突風で飛ばされるようであった。格調高い結婚式にお祝いの祝賀客でありながらも民俗調査も兼ねた初体験の神前結婚式であった。
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長野へ

2012年03月24日 06時51分31秒 | エッセイ
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長野への旅は長い鉄道旅行でとにかく長かった。下関から名古屋へ、塩尻へ、上諏訪のホテル浜の湯で夕食をとった。家内の弟の息子の結婚式に来ている。家内の5人兄弟が揃って食事会で10年ぶり、20年ぶりに会った。互いに変身したように歳をとってしまった。義理の両親の葬式以来、初めて私が参加した集合である。北海道網走居住の家内の兄が一番高r体で船乗り、夫婦のはなし、パチンコのはなし、墓作りのはなし、地震の話で自分史が長く、家族史が語られた。中には満州からの引き揚げの話があった。
義理の父は鞍山の昭和鉄工社に勤めた。そのわけは先祖代々の醤油業を受け続かず反抗して満州へ行ったということ。終戦と同時に引き揚げ、秋田へ戻って農業に従事したはなし。家族史の中には病気の人や亡くなった人の不幸な話は出なかった。互いの思いやりのようである。私は聞きながら定年退職してから人は人生観を確立するのではないかと感じた。釈迦のように悟ってあみだぶつへの旅路のように
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地方から世界へ

2012年03月23日 06時17分30秒 | エッセイ
 最近下関出身作家の田中氏、甲子園出場の早鞆高の話題が地方のメディア一色の感じがする。大都会であれば行事やイベントは数多くあり、話題にもならないものが地方では繰り返して報道されている。これは地方がいかに単純な社会であるかを物語るのである。地方では地方にしか意味がないものがあり、地方においても中央に、さらに世界に通じる行事、イベントが行われることもある。ある地方新聞は自社のことや特定人物を年中同じ記事と広告まで繰り返して書く。狭い地方において地方性を超越すること、広い中央において地方活性化はなされていないようである。地方と中央があうのは普遍的な価値観を共有すること、それこそ世界化の原動力であろう。閉鎖的な自己主張は北朝鮮の「主体思想」と同じように感じる。
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医者の死の予告(?)は死刑宣告とはどう違うか。

2012年03月22日 06時31分32秒 | エッセイ
 近い親族が医師から難しい診断結果を言われた。医師の死の予告(?)は死刑宣告とはどう違うのだろうか。ここには生命倫理が深くかかわっている。「死刑」は生命倫理的に問題が大きい。私はシベリアの残存流刑施設を見ながら刑について長く『サハリン:流刑と棄民』(民俗苑)で論じたが、ここでは要点を紹介する。
 人間誰でも迎える死を「刑」にすることはいけないと思う。犯罪人に「刑」を与えることは当然であろう。しかし死を「極刑」とすると人間の死も自然なものではなく、極刑になりうるからである。曼荼羅などには人は死んでから極楽か地獄へ行くことが描かれている。「刑」は地獄において行われるものである。たとえば舌を抜かれる、寒い氷の上に裸で放置される、火に焼かれるなどの刑罰が行われる。つまり死と刑は分離されている。これが人間の自然な感情であり、倫理である。古くは笞刑、強制労働などの刑があったが、人権思想によって矯正(?)へと改善されてきた。しかし死刑は「死の尊厳」を侮辱する制度になっている。アントン・チェホプが考えたように死刑制度は直すべきである。
 
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卒業式

2012年03月21日 06時05分35秒 | エッセイ
 私には風邪が危ないと主治医から注意されているのに風邪をひいてしまった。それでも卒業式に参加した。遅刻する卒業生が多いのは一般的であるという。予行練習までするような厳粛性はなくなりつつあるが式自体はまだ昔のままである。告辞、祝辞、答辞などが行われるが特に医療学部栄養学科の女子学生の答辞が目立った。学生生活を振り返って見ながら恩恵を述べる。その内容、読む声、イントネーションなども良かった。先生方がモデルにしても良いと思った。
 新しい時代には真面目一色にならない。その価値基準も変化している。受賞者が「生意気発言」で人気を集める時代になっている。なかには伝統を守りながら知恵を発揮させる人もいる。つまり多様な日本人が生まれるのではないかと期待する。
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「国民総動員」の「祝砲」

2012年03月20日 07時05分37秒 | エッセイ
北朝鮮は4月15日の故金日成主席生誕100周年記念の「祝砲」のように北朝鮮が「人工衛星」打ち上げ予告をしており騒ぎになっている。米韓軍事合同訓練に対しても攻撃すると脅迫した。また過去には頻繁に「血の海」「火の海」にするなどの脅迫があった。そのたびに韓国はまさかと思いながらも戦前の「国民総動員」式で緊張した。私はその経験をした。その多くは北朝鮮の国民への総動員を呼び掛ける言葉であり、それを韓国軍事政権が「敵対感」を政治に利用したものである。私は目下日本の植民地朝鮮で朝鮮総督府が製作した映像を分析している。宣伝映画で国民総動員する映像が多い。現在の韓国や北朝鮮でも戦前の国民総動員のようなものが多いことを感ずる。特に北朝鮮では国民を緊張させ国民総動員するのが日帝植民地時代の戦時体制そっくりである。戦前と戦後はつながっていることが目に見えると言える。
 
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「面影のない人」

2012年03月19日 06時27分37秒 | エッセイ
私とほぼ同時にホームページをはじめた薬剤師の大上氏の消息がなく、メールを送っても返答がない。まだ若い人であるが、不吉な感じがした。ある読者が彼のお葬式に関する短文を載せたのを見つけた。彼は去年の秋に癌で昇天したという。熱心に書いたブログも閉鎖になった。その寂しさが胸に残っているのに私が留学生時代に親しく付き合った人、今は90近い方の消息が入った。会ってきた人の話では老いてすっかり変わって面影が無いという。彼は外国人のために日本語学校をいくつも作って最近まで精力的に活躍しておられ、妻や子供をアメリカに住ませており、いわば成功した人であるが、今は一人暮らし。先日通話した時は今は家族に頼らず教会の牧師に世話になっているという。高齢者が頼りになるのは自分の業績、金、子孫などではあるが、それらに失望する人も多いだろう。一人暮らしが即、孤独とは言えないが、こんな状態で死亡すると世間では「孤独死」と名付けることが一般的である。千年生きると言われる鶴も孤独死し、鷲などに喰われるというように、高齢化はこのような自然なことを多く示唆する。
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「サワコの朝」「やらせる」

2012年03月18日 06時40分07秒 | エッセイ
 朝のテレビインタビュー番組「サワコの朝」で劇作家・俳優の三谷幸喜氏が出演した。三谷氏(劇作家)が佐和子氏(俳優)に演技を演出する場面があって、面白かった。自分が執筆した劇作品を演出し、上演されるまでの過程を短く見せてくれた。劇作家が俳優に「やらせる」場面を演じたのである。彼はまず俳優を探す。才能や特徴を細かく観察してから選び、「やらせる」というのだ。脚本が小説とは違う点がはっきりした。
 人を「やらせる」のは劇作家に限らない。相手を無視して無理にやらせると奴隷化することになりうる。しかしその人を十分理解し敬愛して「やらせる」ことは素晴らしい。国民が政治家を選ぶ時もそうすべきであろう。また上位者になった人は本人自らすべてをやろうとせず、人にやらせること。新年度の人事異動が発表されるのを見て、長になった人は人に協力を求めて「やらせる」ことをうまくしてくほしいと願う。皆が劇作家と俳優のように「やらせる」、「やる」の気持ちを持ってほしいと思う。
 今私は戦前の映画脚本を読んでいる。監督の演出と俳優の演技、中でも脚本を完全に消化して創作するような俳優に注目している。俳優になる心は普通の人間関係においても大事なものであろう。
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文明批評家になりたかった

2012年03月17日 06時12分28秒 | エッセイ
 文明評論家の吉本隆明氏が死去したというニュースを聞いて思い出す。彼の関心は私と共有するところが多いからである。私は中・高時代に文学少年であったことは以前に触れたが、大学時代では文学・文明評論家を目指した。それは自分の能力の文学少年の限界であり、文学創作の作家より読む評論家への転換であった。大学1年生の時から「ソウル大学新聞」に「西部戦線には異状なし」「チャタリー夫人の恋人」などの評論を掲載した。文学から文明へ広げるためにT.S.エリオットの長詩『荒地』(The Waste Land、1922年)を愛読、心理学や民族学へも関心を広げていった。病気で中断されたが、人生を深める転機でもあった。
 知識人が社会へ発信するという立場でありながら社会運動はしなかった。当時韓国では社会運動とは刑務所の経歴をもつことであるが、私にはそれがない。その代わりに著述で社会参与をしたかった。しかしその声は小さすぎであった。後に植民地研究をすることになった。大派の反日感情への批評は力不足であった。今度寄稿した「日本民族学者の植民地意識」にはその批評を試みた。文明評論家になりたかった夢を実現していこうと思う次第である。
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