私を敵対視、嫌っていると思われる人に電話を掛けた。彼が実際そう思っているかどうかはわからない。ただ最近の彼の行動から感じていた。にもかかわらず電話をした。なるほど反応の声が最初は不安気である。私が抗議でもするかと思ったのかもしれない。私は何も変わらず以前と同様通話を続けた。電話を切ってから私は大変な勇気ある寛容なことを成し遂げた気分になった。彼は私を無視したようであるが、私は気にせず仲直りを一方的に求めた格好になったのである。人は誰でも誰かを「けしからん、嫌な奴」と思う人がいるはずである。私はその時自ら声をかける方が良いと思っている。私も若い時はそれができなかったが最近できるようになった。私の間違いを謝り、相手の間違いに寛容と和解を示すようになった。自慢ではない。加齢によって、経験によって老人になることは肯定的な特性もあるように思うのである。
昨日は別の人にも電話をした。この春大学を定年退職した彼と連絡不通になったからであった。その大学に電話して問い合わせると個人情報保護だといい、メールアドレスや電話番号などは教えてくれない。幸い大学が彼に連絡してくれて彼から連絡があったから良かったが、重要な講師依頼の件でも相手から連絡がなければ通信ができない。日本は個人情報過保護で人間関係を広げるのは難しい。わが家の固定電話はほぼ使われていない。しかし宣伝広告用の迷惑電話が時々かかってくる。選挙運動の電話もあった。いわば迷惑電話が主な感がある。日本人は厳しい個人情報保護により孤独になりがちである。迷惑電話ではなく、和解電話、職場から離れても安否確認のためにも電話は使われるようになるべきでだと思う。*写真は今朝の曇った関門大橋
昨日は別の人にも電話をした。この春大学を定年退職した彼と連絡不通になったからであった。その大学に電話して問い合わせると個人情報保護だといい、メールアドレスや電話番号などは教えてくれない。幸い大学が彼に連絡してくれて彼から連絡があったから良かったが、重要な講師依頼の件でも相手から連絡がなければ通信ができない。日本は個人情報過保護で人間関係を広げるのは難しい。わが家の固定電話はほぼ使われていない。しかし宣伝広告用の迷惑電話が時々かかってくる。選挙運動の電話もあった。いわば迷惑電話が主な感がある。日本人は厳しい個人情報保護により孤独になりがちである。迷惑電話ではなく、和解電話、職場から離れても安否確認のためにも電話は使われるようになるべきでだと思う。*写真は今朝の曇った関門大橋