1985年8月15日靖国神社の状況が目に浮かぶ。軍服姿で現れた元軍人と大型スピーカーから反戦を叫ぶ声、私はその場に立っていた。中曽根総理が訪問すると聞いた。その中曽根氏が昨日101才で死去された。大きく報道されている。業績より人物評が多い。歴史にはどう残るか、これからであろうが、人々の心には人物像が残る。愛され、記憶されるか、忘れられるかはその人の魅力であろう。人や宗教によっては、死は無、空になることを望む。生は充実したものでありたい、死後の世界はない。しかし民間信仰などではあの世で生き続けると信じる。シャーマニズムでは近く長く残るのは怨霊である。恨みは否定的ではあるが関係を強くつなげることもある。中曽根尊位、ご冥福を祈る。
昨日の文化人類学講義や絵はがきに関する印刷担当新谷明雲教授と校正、漫画風の終戦日記の読書会などで忙しく過ごした。先週講義で見せたビデオのハーバード大学マイケル教授の東アジアにおける歴史認識の問題について学生たちコメントに注目した。「私たちの世代の先祖が犯した悪いことを意識しなければならない」という意見もあったが、「謝罪は政府、我々はこのことを正しく意識しなければならない」(中国、コウチンケン)。以下ベトナムの学生の意見は異例な感がした。「日中韓の問題はなぜ、ずーと100年間で解決できないのか。ベトナムはフランスの植民地が100年、ベトナム戦は20年間、激しさは酷かった。たが、ベトナムではその「恨み」を教育しない。私は良かったと思う。恨みを持って生きるのではない」(チャンフォクヒエン)。「日中韓の問題は無意味な争いと思う。もっと平和的に考えた方が良い」(チャンゴクアントアン)。*写真ヴェトナム、1995年
喪主、長男野口宏氏が母を「野口まき子さん」といいながら告別式の挨拶を語った。変に聞こえたが、実は叔母であり、養子縁組みをして戸籍上息子であるとも語った。昨日まき子氏の告別式が下関バプテスト教会で行われた。彼女は戦前北朝鮮で教員、引揚げてこられ、私がインタビューしてDVDを作成した方でもある。下関には弟さんが牧師であった時代から住んでおられた。私はソウル旅行も一緒に行ったことを懐かしく思い出された。家内はすうっと教友として交われを持っていた。私たち夫婦が数年間信仰生活を共にしたその教会で告別式があり、私たち夫婦は10余年ぶりに教会に出席した。何も変わりはなく落ち着いてまき子氏を送ることが出来た。葬式というよりただの旅だちの別離のようであった。心からご冥福を祈る。
懐かしいお顔と次々に合った。藤田牧師ご夫妻や山崎氏を始め90才代以下元気であった。教友との情も愛も変わりなく、目礼だけでも情が伝わった。私は大きい決心をすべきかと思った。その教会とは愛の縁が消えていない。私たち夫婦は日本の教会と在日韓国教会を往来しながら信仰生活をしているが、日本人の家内は私のために在日教会に出席して奉仕しているが、教友が多い、深い情のパイプがあるその教会へ戻るべきであると思った。どこで信仰生活をしても、私は日韓の橋渡しの役割を常に意識しながら行動することに変化はない。
東洋経済日報コラム(2019.11.22) 「私の愛犬日記」
私は握手やハーグはほとんどしない。スキンシップはあまり好きではない。しかし、唯一の例外は、愛犬ミミだった。そんな私がミミを失った。
家内がミミを抱っこして散歩中出会った方から愛犬用のベビーカーをプレゼントでいただいた。買おうと思い、店を探し歩いていた中だったのでビックリ。彼女は必要な人がいたら上げたい思っていたと話しておられた。
日曜日、下関マラソンの日、家内がミミを抱っこして一緒に海辺の広場公園まで散歩に出た。マラソンのスタート、家内はミミの手を持って一緒に手を振り応援した。途中で一番仲良しだったワンちゃんのモコちゃんとモコのママに出会い、一緒に写真を撮った。
帰宅してミミはいつものように私の座る机の傍に横たわった。呼吸がいつになく弱く感じた。家内は礼拝と会議、私はミミの最期を感じて教会にも行かずミミを見守っていた。
私はミミに話しかけながら、なでなで。手を離すとまたやってというジェスチャー、私はずーっとなでていた。夕食時はいつものようにミミを挟んで座り、食欲のないミミに大好きなアイスを口元にやっても、水をやっても受け入れなかった。呼吸も腹式呼吸から少しずつ弱くなり家内と一緒に話しかけながら、なでなでしている時、息が止った。私もそのような死に方をしたい。
静かに、息を引き取った。目も開いたまま安らかな表情だった。家内がキレイにエンジェルケアーをしてあげて私のベッドの傍でいつものように一夜を過ごした。翌日は悲しい別れ。私のそばで一晩を過ごしたミミの胸にお花を抱かせた。ミミをよく知っている近所の方々の弔問、弔花も届いた。
永眠したのは日曜日、次の日は振替休日だった。12時に動物霊園へ、女性スタッフが丁寧にミミを抱えて歩き、我々は後について火葬台へ、焼香して黙祷する。ミミは優しい顔で眠っていた。いつも好んで食べたおやつと白いバラと菊の花に囲まれて穏やかに眠っていた。家内が最後のスイッチを入れた。しばらくして火葬終了の電話があった。それでもミミの死が実感できず、なぜか涙だけ。日本のペット霊園文化には感謝である。
ミミが嫌がる掃除機は避けてほとんど使わなかったが、使おうと思い、掃除機を出したがミミが好んで食べたおやつの食べ残した小さい破片が目に入り止めた。腫瘍の重さが自身ほど重くても頑張って引きずりながらオシッコシートまで行って排泄していた。オシッコがなく、家内が心配したが、オシッコが出て、家内が喜んでシート替え、お湯でふいてあげたのもその日。
ミミが残した大きいメッセージがある。愛され方、死に方である。多くの弔問、電話、メール、FB、ブログなどの投稿により勇気づけられている。感謝である。愛され、幸せなミミを見て、ミミになりたいと言った人も多かったが、ミミより私たちが幸せだった。何よりもミミによって私自身、やさしい情深い人に変えられたこと感謝。今はただ茫然としている。
社会の変動については理論的には分かり難い。経験的に考えたほうが良いかもしれない。自由な香港が不自由な状況へ逆行する現象、そしてまた民主化運動が起きている。韓国の民主化と似ている。植民地から解放され、長い政権に反対したソウル大学など知識層の青年が中心にデモを起こし流血し、政権が倒れた。その治安維持ができていない時、そこまで黙示していた市民、小学生までデモを起こし、社会は大混乱、結局クーデター、独裁者を求めたような結果になった。その後また、長い間民主化運動が続いて今の自由な民主国家を成し遂げた。これが私が体験した韓国の民主化の過程である。香港も選挙で勝利してデモは続き、強圧で安定するのだろうか。心配である。"no matter what happens, Hong Kong is a part of China".
なぜか体が重く感じている。歩き過ぎだったか。「楽しい韓国文化論」のメンバーたちと食べ歩き、釜山国際市場モッコリという「食べる」通りでは食べるだけの風景、余暇も美の空間もゼロの美味しさだけに集中する群衆の風景を見た。その食文化、文化空間のない食堂街で私たちも韓国式のブルコギを食べた。
昨朝、まだ暗い時刻の金浦飛行場への運転さんの成氏は国際結婚、日本人の妻(看護師)が下関出身であり往来する話、日本が大好き、日韓関係の悪化でも夫婦や家族関係には全く影響されない。飛行機の隣席には黒人美女、韓国で英語教師、夫は米海軍、プライベートな話も多く交わした。私は文化人類学者だと言うと、彼女は勉強したことがあるという。話中には黒人差別の強いアメリカ、警察が怖い、韓国が好き。日本人はおとなしく、韓国人は表現が活発だという。私は来年鎮海の桜の花cherry blossomを見に行く予定を言うと彼女は鎮海に住んでいるので、また会えるかもと言った。
韓国のテレビではジーソミヤについて日本を非難している。帰宅して夜7時のNHKニュースはローマ法王の広島訪問の生中継が長かった。法王の被曝へのメッセージの中に「兵器を作りながら平和と愛か」が耳に残った。私が最新著『帝国日本の植民地を歩く』で力説した部分と、一致した。それは同じクリスチャンのメッセージかも知れない。ジーソミヤ分析を視聴し、日韓関係はあまり良くならないような気がした。
今年度の「楽しい韓国文化論」の韓国旅行、午前は加藤清正の建築といわれる蔚山の西生浦倭城と長生浦洞鯨博物館を観覧した。クジラ博物館は資料不足、国民の関心が薄いのか貧弱な展示である。韓国の高齢者たちが観光に来て外のベンチに座っている数人と話を交わした。韓国では今はクジラは一切獲らないと反応があった。昼食は長盛香という食堂で食べた新らしく開発されたアワビ定食は美味しかった。午後はバングデ岩刻絵を見学した。行く道は遠く、険しく、山奥にあった。1971年に発見した7000年前のものであり私が関わった遺跡ではなかった。シャーマンによるクジラの祭りという解説を聞いた。観光目的地までの道も釜山市内の道も知らない運転手のホテル探しにはびっくり、笑ってしまった。
多くの人と対話をした。日韓関係を直接、話題にしたり質問したりするのは控えた。タクシー運転さんは日本人客が減っているという。その言葉に頷くと彼は文大統領に不満が爆発。彼は下関で3年間運転する仕事をしたことがあるという。観光客としてきた人と話をした時、飛行機に韓国人の客が少ないと言っただけでまた文大統領への批判、朴正熙氏への称賛が出た。私は言葉を発せず表情で反応していた。その状況をみた我がグループの人は私が偶然友人に出会って話していたと思ったと言った。私が文大統領の国民との対話に肯定的に感想を書いたことには圧倒的に文氏を非難するコメントが返ってきた。ジーソミヤに肯定的であっても文政権は難しいのではないかと思ってしまう。
以前、近く感じて歩いた道を街並みを楽しみながら歩いた。しかし、大通を渡ることができなくてバイパスを捜して、そして地下道を降りて上がろうとしたら、60余段ほどの階段が数回、楽しみは消え去り、疲れて階段の途中で登れず休んでいたところ、ある高齢の男性が私の荷物を持ち運んでくれた。商店街の歩行者用の道は斜めになっており、歩きにくい。このように歩き難い道路は発展国では初めて歩いた。ようやく到着したホテルは同名だが、目的のホテルではなかった。また歩くことになった。
8月に来た時は<(日本に)再び負けません>という大型看板を見たことを思い出した。韓国が発展することと、日本を追い越すこととは、別次元である。日本も立ち止まっているわけではない。走る相手を追い越すことは容易ではない。昨日私は路地の事情を身に感じながら福祉社会へ道はまだ遠いことを実感した。よく見えない隅々まで日本に勝ってほしい。夕方のニュースで、韓国がジーソミヤを破棄しないと報道された。日本では歓迎しながらも、韓国の<一人相撲だ>という記事も見られる。慶南大学の張竜傑教授が来られて、長い会話、今までの40余年間のことが話題になった。韓国社会の変化と私のの周囲の人脈、学問と人生について話し合った。
예전에 가깝게 느껴졌던 걸었던 길을 걸었다. 대로를 건널 수 없어서 우회로를 찾아서, 그리고 지하도를 내려가 올라가려 하자 60여개의 계단, 중간에 멈춰 섰다. 어떤 노인이 내 짐을 올려 주었다. 골목길은 상점가, 비스듬히 되어 걷기 불편하다. 이렇게 행보인을 고려하지 않은 도로, 발전국에서 처음 걷는 것이었다. 찾아간 호텔은 동명, 목적 호텔이 아니었다. 또 걸었다.
8월에 왔을 때는 <다시는 지지 않습니다>라는 대형 간판을 본 것을 떠 올렸다. 한국이 발전하는 것이 일본을 뛰어넘는다는 것은 다른 차원이다. 일본이라고 그냥 서 있는 것만은 아니다. 달리는 상대를 앞서기는 쉽지 않다. 어제 나는 골목길의 사정을 몸으로 느끼면서 복지 사회의 시설이 아직 엉망이라는 것을 실감했다. 잘 보이지 않은 구석구석에서 일본을 이겨주기 바란다. 저녁 뉴스에 한국이 지소미아를 파기하지 않는다고 발표하였다. 일본에서는 환영하면서도 한국의 <홀로 씨름>이라고 비야냥하는 기사도 보인다. 경남대학교의 장용걸교수가 와서 긴 대화, 40여년의 일들이 점철되었다. 개인적이면서도 한국 사회의 변화가 거론된 셈이다.
読書会で二人(倉光、古本)が慰安婦問題、徴用工問題、竹島問題などついて数人の執筆者によるもの、李栄薫編『反日種族主義 日韓危機の根源』について話題を提供した。日韓関係の中で、韓国でのベストセラーが日本でもベストセラーとして登場した。「反日」の本が「日韓」両国でほぼ同時にベストセラーになっている。ソウル大学の安ビョンジク先生、李先生、金洛年先生らは植民地時代の経済政策などを研究し、国史ナショナリストの慎ヨンハ氏らと論争してきた業績がある。数年前李先生の話を研究メンバーと一緒に長く伺ったこともある。
まず序文から読み始めた。本書では韓国の大勢を占めてきた歴史認識に大きな嘘があったことを明らかにしている。「嘘の歴史」を読む。嘘は韓国文化の一種であることは経験的には知っている私としては、李氏の嘘歴史に賛同した。韓国ドラマでも嘘の対話は一般的であり、それが嘘とは意識されていない。鈍感である。私は韓国の教壇に立ってカンニングを全滅させようと厳しい先生となった若い時代を振り返って見た。私は反日や親日と闘う姿勢ではない。ただ研究成果の一環として『慰安婦の真実』を書いた。
昨日韓国の文大統領の討論をテレビで見て、その感想をハングルと日本語で書いたがハングルのものには激しい反対意見が多かった。日本語のものには主に私が注目したスピーチ論的な話法教育に関する良い意見があった。日本では文法中心であるが韓国では話法も重要視しているという意味で書いたものに
山下靖典氏は 大人数を相手に想定外の質問が出るかもしれない対話集会を開くというのは大統領自身に相当自信がないとできないと思います。日本でこれと似たような企画を仮にしたら、人選、事前の質問割り振り、時間割作成、想定問答作成ーーなど担当の役人は大変です。
白水 繁彦氏は日本のコミュニケーション文化の最重要課題のひとつですね。さすが比較文化の専門家らしい視点ですね。政治家に限らず、日本人全体の底上げが必要かと思います。この問題は、じつは日本人の英語力が世界でも低いほうだという問題とも通底するという意味で、今回の崔教授のご指摘は日本文化、とりわけコミュニケーション文化の核心的部分に光を当てられたのではないかと思います。
ハングルと日本語の相反する反響が面白く、感謝である。
『知りたくなる韓国』で金香男氏は早期留学で英語に熱心な韓国の教育状況を書いている。今後の韓国の教育は、どうなるのだろう。
어제밤 MBC에서 열린 '국민이 묻는다'를 보았다. 나는 영상이지만 문재인씨를 처음 만난 기분이다. 친일 반일을 떠나서 그와 만난 느낌이다. 준비없는 생방송, 오히려 그것이 자연스러웠다. 국민과 직접 좌담하는 모습이 좋았다. 질문과 답의 내용보다는 사고하면서 대응하는 이야기의 진행 과정 스피치 문화에 관심이 갔다. 일본과 비교가 되기도 했다. 일본의 대화 문화와는 아주 대조적이다. 미리 <우치아와세>라는 사전준비를 철저하게 해서 질문과 답을 미리 준비하여, 그것도 암기 또는 글을 낭독하는 식으로 진행되는 질의와는 아주 대조적이다. 일반적으로 일본인의 토의에서는 사회자의 역할이 약하다. 진행 순서를 지킬 뿐 도중에 끼어 들지 않기 때문에 한 사람의 발언이 길어서 회의를 망치는 것이 보통이다.
한국의 스피치 형식은 새로운 교육에 의한 것이다. 나는 체험적으로 잘 안다. 60년대 미국에서 돌아온 나의 은사가 사범대에서 스피치론을 강의하였고, 동아방송 전영우 아나운서 등 스피치론 연구가 서울대학교에 과목으로 퍼진 것을 잘 알고 있다. 자기 소개 피알 등의 말이 입에 오르고 작은 모임에서도 자기 소개 등을 통해서 보급되었다. 한편 북한은 반성회 등을 통해서 국민이 말하는 교육을 실시하였다. 교회생활은 이러한 연습장이기도 하였다. 일본인들은 한국인이 국제적으로 발언력이 강하다고 부러워하면서도 비난하기도 하다. 그러나 일본의 정치가들은 스피치의 위력을 알고 있다. 글과 달라서 말은 사람에게 감동을 준다. 대통령은 "우리가 원하는 나라를 만들 수 있다는 확실한 믿음과 희망"이라고 목사처럼 설교처럼 맺었다. 각본 없는 생방송 산만한 진행·중구난방 질문이라는 비난도있다. 그래도 좋은 시간이었다.
久しぶりに遺伝子の話、XY(女)など記号の多い話を聞いた。ノーベル賞にも近づきそうな佐々木功典先生のガンに関する講義を聞いた。学生たちの質問もあり、充実した講義時間だった。ネットなどでよく聞いた話も多く、分かり易かった。がんの対策がいろいろ説明されて、死ぬことは数字で表されるだけであった。それは生命を尊重する医師、医学ではそうであろう。人類の最高の幸福は普遍的な長生き、それが場合によっては不幸な現象を引き起こすこともある。そこから社会福祉の問題も考えなければならない。学生たちは主に煙草に関心が高かった。癌の脅威は皆が感じているが、遺伝子と生活習慣の環境関係が語られた。遺伝子と生活習慣との関係の病と言われた。講義を通してアカデミックな雰囲気から帰宅し、テレビでは「桜」、ジーソミヤ、香港などの騒動、世俗に戻った気分であった。まず桜騒動はやめて欲しい。
モンゴルでは苗字がない。スリランカの名前は長い(ウィゾエラッタプレティケピコミハソサニマドウッカ)。漢字圏でも異なっている。漢字があり日本語が覚えやすい。中国の漢字より日本の漢字が難しい。韓国人として漢字が難しい。ベトナム語で結婚はケッホン。外来文化や外来語により表現が豊かになる。日本語の「~的」が中国へ逆輸入するので驚いた。漢字の表意文字を表音表記することは日本と似てる。中国でも日本語、大連方言に日本語を取り入れている。植民地の影響は名前「00子」でも残っている。姓名、ベトナムはグェン(阮)が4割、韓国は金が3割、韓国でも目上の人の名前を呼ぶのは失礼。