崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「節電」「節約」「貯金」「借金」

2011年10月31日 06時06分33秒 | エッセイ
 我がマンションでは節電のため照明を落とす意見が出たことを思い出す。駅の付近のホテルが節電のためか、照明が暗い。経営の立場から節電は正しいかもしれないが、暗いイメージが大きな損失を招くことは考えないのだろうか。「節電」は即「節約」にはならない。無駄に使うことは避けたいが「節電」「節約」「貯金」が必ずしも幸せの道とは言えない。
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「朝鮮の妓生」を東洋経済日報に掲載(2011.10.28)

2011年10月30日 06時07分37秒 | エッセイ
「朝鮮の妓生(キーセン)」
 
崔吉城

 
 先日(2011,10,2)京都造形芸術大学の春秋社で行われた「日本文化と性」のシンポジウムにパネラーとして参加して「朝鮮の女の性と美」を発表した。今村鞆(『朝鮮風俗集』283)の分類によって妓生の芸者から蝎甫の売春へ変わっていく歴史を概観しながら女性の美と性の本質を追究した。特にパネラーの中の法政大学の田中優子教授と女性の美と芸について討論ができた。彼女は日本の浮世絵からの春画、私は金弘道と申潤福の美人図や春畵を提示しながら比較的に検討を行った。
 女性の「美」とは、女性そのものより男性が感じる視覚的な美であろう。妓生は「美人」を強調され、女性の「美」「芸」が注目された。妓生には売春は含まれていない。伝統的に妓生は外国からの使者や貴賓を歓待するために漢詩、音楽や文学など教養を持つ存在であった。黄真伊はその代表的な例であろう。妓生は美と芸だけではなく、性的魅力がであった。多くの日本人は「妓生観光」のように妓生=売春と思うのはなぜであろうか。
もちろん芸者は女性の性的な魅力を重んじたのは事実である。妓生制度が確立された李王朝時代では性的統制の厳しい時代に春画においても間接的な表現が多い。性的領域とは、伝統的な衣装では女性の肌、洗濯場で上半身ヌード、足、片足を上げる、腕を上げる時にちょっと見える肌を覗く男の視線、その対象が妓生であった。
 朝鮮時代に宮中と民間の歌舞を担当した妓生は掌楽院の教坊において学習をしたが日本植民地期になると植民地政府は公衆衛生上の理由などで朝鮮内の妓生と遊女に対し統制取り締まり、売春業を統制して監督し始めた。1913年茶洞妓生組合に転換されて最初の券番が設立された。そして妓籍を持った券番妓生となった。ソウルでは漢城券番、大東券番、漢南券番、朝鮮券番, 平壌では箕城券番などが有名であった。妓生は妓生学校で楽器と歌舞を学び、歌曲、時調、 琴、、洋琴、長鼓、立唱、坐唱、呈才,僧舞、剣舞、三味線,書画、算術、日本語、習字、絵を習って、専門芸能人として養成され、公演芸術家として観光広報モデルであり、伝統的服装や新しい流行スタイルを作り出すファッションリーダーでもあった。 
 日本人は明治から海外へ性産業としてシンガポール(写真参照)、ボルネオ(カラユキさん)、朝鮮、樺太などに進出した。それは芸者であり、売春であった。それが時代の変化とともに、特に日中戦争後の1930,40年代の戦争期には軍隊相手の遊郭などで売春業が盛んになっていく。特に売春やいわば軍隊との関係の従軍慰安婦などが社会的な問題となっている。妓生が蝎甫(カルボ)になったわけではないが、イメージとしてはそのように変わった。つまり芸を行う妓生が性を売り物とする売春業として醜業化したように思われていた。しかし妓生と売春女とは異なる。ただ女性の美(芸)は男女関係を結びつける性的魅力であり、妓生と蝎甫を区別し難くなったのであろう。それは女性によって翻弄された歴史であったのである。
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タイ洪水

2011年10月29日 05時11分34秒 | エッセイ
 タイのバンコクで大洪水が続いている。タイ観光の一番といわれるバンコク郊外の水上マーケットを思い出す。まるでバンコク市内がそのように見受けられる。私は北側のアユタヤからチャオプラヤ川を船で戻ったことや市内の運河を運航する川辺の家を訪ねた時の人々の明るい表情を思い出す。それらの川の一部が氾濫し、王宮に近い都心部の川の両岸で浸水が起きていると報じられている。大洪水にも関わらず住民の表情は明るい。
 恒例のようにバングラデシュの洪水のニュースは聞こえない。この地域は雨量が多く、水田農業が発展した。しかし雨量の過多は災難になる。聖書などには洪水を警戒し、それによって生まれ変わる力を啓示する。低地の広い国として国家政策を改める契機にしてほしい。人間はまだ弱い。自然に敬虔な態度をとるべきである。
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紙辞書は無用

2011年10月28日 05時20分09秒 | エッセイ
 朝鮮通信使が持ってきた品目の中の「黍皮」に関する問い合わせがあった。よく使うハングル辞書を探しても出ない。インタネットグーグルを通して辿り着くことができた。それは飛びリスの皮であるという。高級な防寒衣類を作るのに使われた。王朝時代には一般人には使用禁止し、王室で安産と男の子が授かるように祈る時に使われたというようなより詳しい内容が解った。今まで愛用した辞書の無用を感じた。言語辞書、百科事典類が書架のスペースを占めていることに突然無用と感じた。
 知識や情報は活字印刷の紙辞書に頼る時代は過ぎた。多くの紙辞書類を捨てることに決めた。私は知識や情報について伝える講義を止めたと本欄で度々書いた。本を書くことも、知識や情報を以て考えるために書くという大きい変化を常に考えている。それをもって分析しながら考えるのが楽しい。昨日の講義ではアメリカ人学者の日本における日雇い労働者に関する調査研究のビデオを見せながら平均寿命より20年も短いことについて議論した。58歳の男性が「車はガソリンで動く、俺は酒で動く。グッド飲んで死にました」。学生たちに人生観を考えるように刺激した。しかし居眠りをする学生もいた。多くの親は子供に「お前が好きなようにせよ」という。本当の幸せはどうなのであろうか、親子で議論してほしい。
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古い録音テープ

2011年10月27日 05時47分13秒 | エッセイ
 以前韓国国立国楽院に古い録音テープを寄贈した。そこからCD化したコピーが送られてきたが、時間がとれず、すぐに聞いて確認することなく時間が流れた。それは私が韓国でシャーマニズム研究のために現地調査した時のものであるから永久保存するという。整理のために全部確認した。ソウル、全羅南道、韓国東海岸地域のクッの現場で録音したものが多いが中には不要なインタビューも混ざっていて、申し訳ないと思っている。また私にとって非常に大事な、そして思ってもみなかった珍しいものが含まれていた。それは1977年8月6日馬山中央教会での我が夫婦の結婚式の録音である。金建容牧師の主礼、尹泰林先生の祝辞を家内と聞くことができた。今は二人ともあの世にいらっしゃる。34年前のことに感激した。その御言葉と祝辞のように幸せに暮らしていることに感謝した。
 このような全くプライベートなものが国立機関に保存されることになった。私も多くの人の結婚式を主礼(司式)し、祝辞を述べた。彼らも録音か映像や画像で保存しているはずである。彼らはそれをどのように記憶しているのだろうか。私の日程に合わせて結婚式の日を変更した女子学生、野外結婚式も忘れられない。私が40代の初め頃に主礼をした人が今は大学教授になっている。一日に4件の主礼をしたこともある。日本では結婚式の最初の挨拶で「ご結婚有難うございます」と言ってしまって大爆笑が出たこともある。結婚式はそれぞれプライベートなことではあるが、人生の重要なモーメントである。結婚式は愛情の社会化であり、重要な社会行事とも言える。 
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円高

2011年10月26日 05時28分06秒 | エッセイ
円高が続いて日韓では相反する現象が起きている。海外旅行にとって最も気になる情報が為替の動きである。日本からは韓国など海外旅行が安く出来るが、韓国では逆である。私としては韓国からの留学生たちが心配になる。先日韓国の留学生と円高について話をした。私はその現象をもって卒業して日本で就職して稼ぐための今高い投資だと思ってくれるように話をした。
 多くの韓国人は英語教育のために全世界に子供を送っているので学費の送金に悲鳴をあげていると報じられている。もっとも敏感な影響は観光である。先日韓国からの帰りの飛行機には日本人客が圧倒的に多かった。その変動を楽しむ人も多い。釜山などには日本の年金生活者が多く住んでいるという話を聞いた。戦前戦後一貫して日本の方が給料などが高かったので日本での収入で韓国で住むことは楽であろう。以前には日本人が韓国で住むことは反日思想で楽ではなかったが、最近特に釜山などには日本人向けの商店も多く便利になったからである。勤労者は日本へ、消費は韓国でのパターンが生じつつあるのである。物価がが高いことがただの為替の価値にすぎないものになってはいけない。円高は物や生活、社会文化、人の生き方の質の高さにならなければならない。
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「最後の作業」

2011年10月25日 05時04分30秒 | エッセイ
 
 友人の権藤氏がカンボジアのポルポトの墓を訪ね撮影するというので彼の奥さんと私は彼の健康を心配している。昨日研究室に訪ねてきたので舌癌で長い抗癌闘病生活を知っている私からカンボジア旅行計画の中止をアドバイスした。しかし彼は「最後の作業」としてやってみたいと言った。彼は以前KRYテレビ局に勤めながら作った作品の続きを作ろうとしている。その「最後」という言葉に私はそれ以上、中止を勧めることを止めた。同席した河波氏は彼の心を察知しているので彼が行くことがむしろ活力になるという。「最後」には作業の完成と寿命を意識した意味が含まれている。その言葉に彼の奥さんと私も黙っているしかなかった。彼はわれら、周りの言葉に感謝して幸せを感じている表情をした。
 韓国から来られた崔鐘星氏が小型容器一杯の水キムチを持ってきた。冬の間食べる大根と菜を入れて作ったものであり、全く唐辛子を入れないものである。釜山に行った時私が何回もお代わりするのを覚えておみやげに持ってきたのである。彼も私の健康を気にしてくれる。このように私の健康などに神経使う周りの方々の支えに感謝と幸せを感じている。私も「最後の作業」をしている気持である。
 
 
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プロパガンダかメロドラマか

2011年10月24日 05時23分47秒 | エッセイ
 
田中絹代塾で今井正と崔仁圭監督「愛と誓い」(1945年5月作)を持って講演、上映した。この映画を以て3回目であり、講演というより講義のようになった。まず発掘の経緯、時代背景(内鮮一体)、作者の意図、見どころの画像について説明してから74分の映画を鑑賞した。そして質疑や討論をし、平井愛山理事長の締め括りで終わった。この映画はプロパガンダ的ではあるが、内鮮結婚、現在の用語では日韓の国際結婚、共同制作の作品として日本文化と朝鮮文化がバランスよく混合していると評価した。韓国の民謡、踊り、カササギの鳴き声まで入れ韓国の風物が生かされていいる。善し悪し問わずこのような歴史が伝統として続いている。この映画の監督の崔氏と英子役の金信哉は戦後親日派とされ、困惑した日々を過ごすことになった。
 討議では植民地時代の宣伝映画とは言えどもプロパガンダか、メロドラマか、などが議論された。宣伝映画だと捨てるには惜しい。当時の実状を見渡しながら評価したり批判することが文化を正しく見る態度であろう。多くのアメリカハリウッドの戦争映画などもプロパガンダ性を持っているのではないかという疑問も提示された。普遍的な見解を私たちに投げてくれる問題作ともいえる。

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立ちとめられて

2011年10月23日 06時19分17秒 | エッセイ
 韓国からきた50余人の学生、先生たちと昼食とり、春帆楼(日清講和条約ところ)などを案内して歩いて帰宅するところであった。タクシーがよこに止まった。運転さんが降りて近づいてきた。道を聞かれるかと思ったら、意外に私のブログの愛読者であり、素晴らしいと感想を述べた。私が一度そのタクシーを利用したことから覚えていてくれて、韓国語も勉強しているという。嬉しいことであった。
 夜は暴風と雨の中、日和山の公園にある勤労教育館に向かった。韓国から6人の牧師たちを迎え、日本の牧師、修女たち、そして市議員など40人ほどの平和運動者会に参加した。着いたのは予定時間より30分も早く、下関西教会の鈴木牧師夫妻に会い、一緒に名札を書くなど準備のお手伝いをしたりした。懐かしい顔が次々集まった。友人の鍬野保雄氏の人脈の方が多かった。韓国語ができる人も多く、私は「下関は大陸との接点として、海と空の境界を無くして、一つになろう」という乾杯の音頭をとった。同時通訳がそのテーブル毎に行われ煩しい感じはしたが、演説のようにそのまま続けた。日韓の集まりでは賑やかなこと自体が活気と感じられるのである。(写真は左は鍬野、右が金の両代表)
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死を喜ぶ国民

2011年10月22日 05時46分00秒 | エッセイ
リビアの独裁者カダフィーが殺害された。下水道のような穴に隠れていて逃げようとしたという。指導者であった人の死を喜ぶ国民が熱狂するお祭り風景が映っている。中には悲しんでいる人もいるかもしれないが、国際的にビッグニュースになっており、大きいメッセージがある。クーデターで権力を掌握して独裁、その42年間「狂犬」として数多くエピソードを残した。韓国の諺で「権不十年」(権力は10年は続かない)といわれるが、王朝の王権は数百年も続いて、北朝鮮では3代も続く例になろうとしている。
 昨日直木受賞作家の古川氏のお宅に邪魔して「東亜大学東アジア文化研究所」の墨書き看板をいただいた。彼は軍事政権の時韓国を訪問した話をした。当時独裁者の朴正熙大統領の暗殺について質問された。李承晩大統領から軍事政権の朴、全、廬の時代について簡単に触れて、「人間朴正熙」について調査して書いたことを説明した。作家である古川氏にそれに関する小説を書くように勧めた。「第四共和国」というドラマがあると話すと、40時間でも一緒に見たいと言いながら笑った。朴正熙大統領の暗殺と民主化の道のりは激しく長かった。韓国歴史にもっとも貴重な時期に私は生きたことになる。(写真は向かって左端から古川、櫛田学長、私、毎日新聞支局長)
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聴診器

2011年10月21日 03時27分11秒 | エッセイ
 病院に行くと主治医はいつものように手と口の中を見て、胸に聴診器を当てる。私は深呼吸をする。その聴診器は医者の飾り物、玩具のようなもの、象徴的なものであり、権威を表すものであると思った。しかし今度は違った。医者は私の胸と背中に聴診器を当ててから「痰が溜まっている」という。診断の正確さに驚いた。数日間韓国旅行で急な気温の変化と空気の汚染を感じ、ハードなスケジュールで自分でも持病による痰を感じたからである。
 私には聴診器のようなものはないか。人の声を聞く補聴器は付けている。むしろ聴力は人並みではないからである。若者たちはレシーバーを耳につけて音楽を聴きながら歩く人が多い。レシーバーのために五感や六感を使っての生活や人間関係が粗末になっているように感ずる。私は学生たちに聴診器をあてるような心を持っている。彼らの悩みや嬉しさを聞いていて、アドバイスをしてみたい。

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中国ひき逃げの2歳児を18人が放置

2011年10月20日 06時11分25秒 | エッセイ
 昨夜NHK9時のニュースウォッチでショッキングな映像を見た。中国広東省仏山市の路上で2歳の女児が車にひかれ、倒れて苦しむ女児のすぐ脇を歩いて素通りする若い男性をはじめ通りかかった18人が助けようとせず、別の車にひかれてしまって、死亡させた映像が防犯ビデオに映っていた。廃品回収業の女性(58)が「誰の子だ」と女児を抱えながら付近を歩き回り、救急搬送されたという。
 孟子は幼児が井戸に落ちそうなことを見て黙っている人はないだろうという普遍的な心「性善説」を主張したのは多くの人は知っている。また善きサマリア人の例話は世界的に知られている。本欄では日本には正義感が弱いとしばしば触れたことがある。しかしこの事件を見ると中国社会の大きい問題点を象徴的に表すと思う。古代の素晴らしい思想家、文学者を排出した中国が長い間、社会主義、唯物主義を信条にして、教育精神も問題になっている。私は社会主義の国家であるロシアと中国を頻繁に調査旅行をしたが、ロシアはヒョードルに西洋化になった時代もあり、文学や芸術も人々の心にあり、中国とは比べものにならないほど倫理道徳の意識を持っていると感じた。
 古代文明の発祥地という自慢心をもっている国々は現在その影を残していない。ギリシャ、ローマも偉大な遺跡に比して大した国家とは言えない。歴史や伝統を現在の人がどう持ち続けるかが問題である。経済一辺倒に近代化を進める国家の恐ろしさを露呈した中国は「善きサマリア人」を教育すべきである。いつまでも経済的に競争を優先する困った隣人から善き隣人へ、百年かかっても教育が始まらなければならない。


孟子
今、ちっちゃい子供が井戸に落ちかけていたとする。これを見たらどう行動するか?誰でもこれはいかん!とあせってかわいそうだ!と思って助けるだろう。その瞬間、これをネタに子供の父親母親に取り入ってやろう、などとと考えないだろう。地元の英雄になって友達から賞賛されたい、などと考えないだろう。見殺しにした薄情者めと悪名を受けるのはいやだ、などと考えないだろう。こうやって考えれば、惻隠の心(かわいそうだ、と思う心)がないのは、人間でない。

イエス
イエスは「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中で,強盗たちに襲われました。彼らはその衣をはいだうえに殴打を加え,その人を半殺しにして去って行きました。たまたま,ある祭司がその道路を下って行くところでしたが,その人を見ると,反対側を通って行ってしまいました。同じように,ひとりのレビ人もまた,そこまで来て彼を見ると,反対側を通って行ってしまいました。ところが,その道路を旅行していたあるサマリア人がやって来ましたが,彼を見て哀れに思いました。それで,その人に近づき,その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやりました。それから彼を自分の畜獣に乗せ,宿屋に連れて行って世話をしたのです。これら三人のうちだれが,強盗に襲われた人に対して隣人になったと思いますか」。彼は言った,「その人に対して憐れみ深く行動した者です」。するとイエスは言われた,「行って,あなたも同じようにしてゆきなさい」。(ルカ 10:30‐37)
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春海保険大学

2011年10月19日 05時15分33秒 | エッセイ
 1年ぶりに蔚州郡にある春海保険大学を訪問した。蔚山市から数十キロ南、山間にある。しかし入試競争率が高く、釜山や蔚山地域で就職率は最首位、優秀大学に選定されたという垂れ幕、サイという韓国超人気歌手を招待しての祝祭などを行う活気あふれる大学である。約束時間より早めに到着して、3百数十人が住む寮、食堂、講義の現場を見た。遠くから私たちを見て走ってきて案内してくれた守衛さん、エレベーター前にはわたしたちを歓迎する立て看板、画像が映っていた。韓国では教育技術部が退出大学を発表して危機を感ずる大学の話題が多かったが、それとは逆に金煕珍総長らにお会いした時は明るい話が展開された。韓国の大学は学生募集、就職のための教育がいかに強調されているかが、皮膚で感じられた。アカデミズムは話題になる隙間もなかった。
 美女の金総長は久しぶりに会った挨拶として私に以前より若く見えるという。それは決まり文句の挨拶と受け止めたが、「ファッション感覚がある」と付け加えたは耳に残った。家から出るとき家内が韓国は寒いからといって持たせてくれたマフラーをしていたからであろう。釜山まで送ってくれる金美淑教授は運転しながら「総長は美女でしょう」といい、特に女性教員には服装まで関心をもって「明るい色のものを着るように」など母のようにアドバイスしてくれるという。私の印象として優し総長だといったら「優しく厳しい」という。それこそ私の理想的な人物像であると人物論が展開されるうちに釜山近代歴史館に到着、羅東旭館長の親切な説明を聞き、これから協力をお願いした。二日間の旅程だったが、その十倍も長く感じた。多くの人に会い、大学間提携などの話し、大事にされたことに感謝する。
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蔚山大学校で講演

2011年10月18日 05時33分47秒 | エッセイ
 朝から龍頭山展望台に登り、チャガルチー魚市場、チャイナタウンなど歩きながら久しぶりに釜山市内を見物した。午後から学生たちに講演することが気になり休憩の時若干メモを若干した。釜山から蔚山までただ20分、KTXを乗った。副総長との姉妹提携の会議の時には完全に疲れた。それよりも講義準備が全くない状況で不安になった。演壇にそのまま立った。メモカードを探したが見当たらない。もっと不安になった。
 まずインタネットから私のホームページの画像を開いて自己紹介から「研究と人生」について語り始めた。私の人生にとって二つの大きい転機があった。一つは20代に巫女たちに惚れて旅芸能集団に入り込んでほぼ2年間村々を歩きながら調査をしたこと。情熱的に調査したことである。それによって損したことも多い。私に期待した多くの人に期待を裏切ったようになった。噂にさらされて困った時、突然日本留学の機会を得た。日本語が全くできない状況で「言語喪失」や社会的な存在感がゼロとされた。しかし再生の力が出た。
 日本語教育科の教員として韓国に帰国し、日本人女性と結婚した。反日と親日に乗らず日本植民地研究を始めた。親日派と非難されたこと、特に学生から親日派と言われたことは忘れられない。日本の大学から呼ばれ、日本に住み続いている。「これでは困る韓国」という対談集によって韓国から非難された。日韓関係が国際化、友好になり私が韓国で講演する時代が来た。
 私の成功物語りではない。むしろ失敗と戦う私の人生をそのまま語った。学生たちが私の戦った情熱とパワーへのメッセージを受け取ってほしい。
(写真は向かって私の右が金海龍国際交流院長、その右が魯教授)
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弟子たちに迎えられて

2011年10月17日 06時42分51秒 | エッセイ
 釜山空港に慶南大学の張竜傑君が迎えてくれ、海雲台の有名なカルビ肉で昼食、海岸の調査地に昔調査したところを走行して巫女たちにも顔出した。私の長寿を祈るクッをしてあげたいといわれた。私を祈ってくれる人は巫女や教会のクリスチャンそして多くの友人知人がいることに感謝である。同行した副学長の鵜沢先生肯定的な反応したが、クリスチャンの韓国の東亜大学の崔仁宅君は私がキリスト教の励士であることを知って困って可笑しいな表情をした。
 蔚山大学魯成ハワン、釜慶大学の張相彦、申宗大の諸君と韓国大学の困難な状況が話題になった。教育部が大学を評価して下位の大学の財政支援中止を発表したという。学生募集に大きい打撃を受けるという。競争社会を象徴的にあらわすものである。単純な競争に私は大きい懸念を語った。多様な生き方をもって普遍的な教育に損傷を与えない政策を立てるべきであろう。競争社会から毀れ落ちる人へ日本は受け皿になっていくのも良いかと笑いながら話をして終わらせた。
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