崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

ツバメ「越境の生き方」

2013年04月30日 04時39分53秒 | エッセイ
 冬と夏を往来するようなこの頃ではあるが季節は確実に変わっている。海辺のホームセンターの室内の天頂の処に2個の燕の巣を見つけたのが2週間ほど前であった。昨日寄って見上げた時には孵化したそれぞれ一羽の小鳥が巣立ちに向けて練習なのか羽ばたいていた。店の閉店時間にどうして出入りするのだろうか。ドアの閉開と燕の出入りのことについて店員に聞いた。日が暮れる頃親鳥が帰ってからドアが閉まり、店の開業と同時に日課が始まるという。安心した。
 ツバメは昔私の生まれ故郷の農家の板の間の上に毎年巣を作ったことを思い出す。ツバメに障るとマラリアになるといわれ保護されたのである。東南アジアなどではツバメは険しい絶壁に巣を作ると言う。その巣を料理に使う話がある。そこではツバメが人との距離を持つのは当然であろう。
 日本や韓国ではツバメは家禽ではない野生鳥としては最も人に親しいのではないだろうか。人はツバメの行動をよく観察している。韓国では「川水に擦れ触れたツバメ」を美女に比喩する。西洋では素晴らしい紳士に比喩するのか「燕尾服」がある。ツバメは夫婦が子供を産んで育てていく家族のモデルを人間に見せているようである。天頂の巣の子鳥は間もなく巣立ち、家族連れで南へ渡るだろう。そして懐かしい故郷へ戻る。国境なしに「渡り鳥」として生きる「越境の生き方」を我々に教えてくれるているのではないだろうか。
 

本屋でコーヒーが飲める

2013年04月29日 04時49分56秒 | エッセイ
 デパートの中にある日本料理の食堂で夕食を食べた。終わりまで私たち4人だけであった。貸切のような気分でもあり、店の経営が問題であると余計な心配までしてしまった。やや高い値段だがメニューは変わりなく親切さなどの特徴もなく、ただ良い場所の便宜さを狙った安易な商売の末路であろうと感じた。ある友人の在日韓国系の食堂で昼食をとった。時間が昼の時間であっても陰鬱なコーナーに座り、全体がガラガラであった。私が注文した一品料理はお盆に載せることもなく、ぽんと一器置いて行っただけであった。注文したものを持って来たのだからそれでいいのだろうが、外食の別味の感が全くなく、客が来ないことに納得した。先日廃れていく街の風景に触れたが、そこから学ぶところが多い。
 本屋の改革が起きたとニュースになっている。本を読みながら、ゆっくりコーヒータイムを楽めるということである。本屋の中でコーヒーが飲めるコーナーを設けたことである。韓国のソウルの大型書店の教保書店の横には食堂とコーヒーショップなどがあって便利だと思った。今考えなおすと経営のアイディアであったと思う。しかし書店の中でコーヒーが飲めるコーナーではない。いま日本の書店が構造を変えるということを歓迎する。本を売るだけではなく、図書館的なサービスの拡大なども考えてほしい。それが長い目で見ると書店の経営にプラスになるのではないかと思う。
 いま日本では変えるべき点はまだまだ多い。インタネット上では横書きが一般的であるが、出版物は縦書きが多い。それは漢文からの伝統として定着したものである。韓国も一昔前まで同様であったがほぼ横書きに変えた。それはコンピューターと世界化の影響から促進されたものである。アラビア数字や横文字の引用、編集の便利な機械的な点というメリットがある。日本のテレビではかなり横書きが使われているか混用されている。新聞はもっと積極的に改革を試みるのはどうであろうか。テレビと違って新聞は休刊日の伝統を守っている。新聞はなくても良いことの体験であろうか、マスコミとしては良い伝統ではない。伝統を見直すことが改革の始まりである。

「フタバから遠く離れて」

2013年04月28日 05時27分37秒 | エッセイ
 昨日ドキュメンタリー映画「フタバから遠く離れて」(舩橋淳)を鑑賞した。東日本大震災については既にマスメディアによって映し尽くされて脳裏にキチンとインプットされているのに今更ドキュメンタリーを見る意味は何だろう、何を期待するのか、自ら疑問をもって1時間半鑑賞した。おそらく250余の観衆はテレビでは見れない悲惨な状況を期待したのではないだろうか。ナレーションの代わりに時々全面字幕があるだけ、資料画面を最小限にして現地避難所の生活をそのまま見るものとして撮っている。トークで司会者の飯田氏が飲食の場面が多いのはなぜか質問した。船橋監督は日々の生活に寄り添うことで、ありのまま撮るのがドキュメンタリーだと答えた。それによると飲食は不足していないと感じた。少なくとも刺身などは一般の食卓より贅沢に感じた。それにもある男性は「美味しくない、昨日と同じ」と不満を言った。数人は政府に不満を言った。震災直後メディアに報道された、被害者がいろいろな支援に丁寧に感謝する場面は見当たらなかった。もうその心は無くなったのだろうか。
 ドキュメンタリーの撮り方は人類学者と似ている。私が北朝鮮で撮った映像を見せたら多くの人からテレビと違うと言われたのと同様である。映画が終わり、トークの時、船橋氏と元町長の話では東京と福島の関係を加害者と被害者の「犠牲のシステム」として考えていると言っていた。都会と地方の不平等だと主張する。まるで国家間の関係で考えているように聞こえた。3.11をリアルタイムで生中継で見たマグネチュード9・0の地震の後、高い津波に呑み込まれる怖さ、自然の怖さが私の脳裏から離れない。しかし、この映像ではそのに記憶が大部消えたように感じられ、映画とトークから距離感を感じた。あのような状況では一人も生き残らないだろうと思われたのに、生存者たちは無条件に命に感謝する場面は消えている。もちろん生存者ゆえに辛いこともあろうと察している。その震災後の人間の生き方の変化がどう描かれているかを私は期待をしていたのである。原子力は我々に電力をくれる一方放射能の危険がある。太陽も光と熱をくれる一方砂漠化することがある。海も魚など海の幸をくれる一方津波を起こす。風も追風になるが台風にもなる。人もやさしい面もあるが怖い存在である。大震災から自分自身に戻って考えてほしい。

『アジア社会文化研究』14

2013年04月27日 05時50分29秒 | エッセイ
 90年代末、広島大学の学生たちにハーバード大学の勉強虫という映画のような読書会を勧めて一緒に発行したのが2000年『アジア社会文化研究』創刊号である。その後私は退職したが、記念号を出して頂き、大学院の教員と学生たちの研究活動によってそれは今も続いており、何時も関心を寄せている。昨日14号が届いた。前回、少し薄くなっていたので消えていくかと心配であったが、編集委員長の三木直大教授の編集後記には「外部の研究者も含めた査読制をしき、教員が編集委員となって刊行する研究誌ですが、査読制は院生諸氏が切磋琢磨し自らの研究能力を向上させていく手助けのためのものでもあります」と書いており、安心し、嬉しい。内容は「満州国の『説き憲書』と通書」(丸田孝志)、「消費される花柳界のイメージと、顧客が求めるもの」(中岡志保)、「想像上の戦争」(アン・シェリフ)と書評(越智郁乃、広瀬光沙、水羽信男)を読み始めた。
 オベリン大学の教授のアン・シェリフ氏の「想像上の戦争」はアメリカや日本などの歴史、文学、文化人類学の冷戦研究の状況を知る上で有効である。特に私にとってはほぼ生きてきた時代、また後期植民地を研究する者としては大いに参考になった。「冷戦」の中に「熱い戦争」(朝鮮戦争)を体験した私としては「戦後」の時代に実感がわいてきた。ソ連崩壊までの時期は戦時中とは変わらないプロパガンダ戦争であった(54p参照)。その後アメリカ中心の地域研究からグローバル化への研究に繋がっている。一方では17世紀以降の国民国家が多くの戦争を起こしたが、戦後の国家主義ナショナリズムが膨大する現在にいたっている。いま東アジアはナショナリズムの危機にさらされている。私には皆平和を装った戦争主義者に映るのはなぜであろうか。

東京裁判と靖国合祀

2013年04月26日 03時42分38秒 | エッセイ
 目下問題になっている政治家の靖国参拝を「日本宗教史」の講義で扱ってみた。まず学生たちに日本人であることから抜け出て考えてみるよう提言し、ドキュメンタリー映画「東京裁判」を見せてから「靖国合祀」の問題を議論した。戦争中の殺し合いを戦後の極東軍事裁判所で裁くことが正しいのか、根本的な問題に迫った。日本軍が戦争中、一般人を残虐に殺したことの「殺人罪」、つまり人権問題と戦争予防のために罰を主張し、結局7人の絞首刑が執刑された。ここに基本的な問題がある。つまり戦争中に殺し合ったこと(人権や犠生はあっても)が殺人罪となるのかということである。そうであるならばあらゆる戦争が「殺人行為」、軍隊は「殺人集団」にならざるを得ない。戦争をどう裁くかが問題である。
 いわば7人の「A級戦犯」は靖国神社に合祀されて、日本の政治家によって参拝される。それが韓国や中国によって非難されている。学生の十亀君は日本の植民地や戦争占領地は広く台湾、東南アジアなどのそれぞれの国からはそれほど問題視されていないのはなぜか、さらに西洋諸国の被植民地であったアジア・アフリカの反発もそれほど聞かれないのはなぜだろうと問題提議をした。なぜ日中、日韓関係において常に戦争と植民地が問われるのか。それは現在の政治的な状況によるものであろう。その問題を考えるに政治を越えて、より普遍的、客観的な思考をすべきである。
 「靖国合祀」という戦犯の死霊を祀ることへの批判である。私は以前2回ほど月刊雑誌「正論」に寄稿したことがある。つまり私の宗教・民間信仰の研究の見識からは善神や悪神でも祀られることは世界的な宗教現象であることを述べ、日本人が戦犯でも偉人でも、どんな死者でも祖霊「英霊」として祀ることに他の国が文句いうことはないと書いた。そのようなことは先進諸国や後進国を問わず「戦争英雄」のメモリアルはいたるところに存在する。ただ問題は、それを宗教的な次元を越えてナショナリズムに利用することは危険である。その点、日本内部からも批判すべきである。韓国や中国は日本のナショナリズムを警戒することは悪くない。しかしもっと怖いのは中国の軍事大国化や北朝鮮の核化である。平和のために今、日本のナショナリズム化を警戒すべきであるのに中国や韓国は植民地歴史認識の批判をし、むしろ日本のナショナリズム化を刺激し、強化するのに効果的な作用をすることになり得る、そのような発言は自重すべきである。

靖国参拝は慎重に

2013年04月25日 04時05分14秒 | エッセイ
戦争と植民地の歴史が甦っている。私はこの問題を本格的に解決できないと日韓関係や東アジアの平和はないと思って植民地研究を始めた30年前を想起している。政治家はその植民地と戦争の問題を学者に任せるという見解があるのは以前にも触れたことがある。しかし政治家より小心な学者の中には知っていても発信しない人もいる。政治家と学者の一致や不一致はどう考えるべきか。政治家は行動する、学者は考える。政治家はどう行動すべきか。学者や研究者側から見るとより深く広く考えないで行動するように見えることもある。
 日本の政治家の靖国参拝が続き、安倍晋三首相の侵略の定義は国によって異なるとの趣旨の発言で韓国で反発が強まっている。安倍氏の人気上昇とは逆に韓国の朴槿恵大統領は「慎重に」行動するよう警告した。私から見ると侵略戦争の定義はテロと聖戦のように国によって異なるのは事実である。それは深く考えたと言える。しかし広く考えたとは言い切れない。少なくとも日韓、日中の関係、加害者と被害者を合わせて考えることが必要である。人気上昇だけで傲慢な態度だと韓国言論は指摘している。隣国との関係改善が必要な時にこそ慎重に行動してほしい。

絹代塾長として

2013年04月24日 03時29分24秒 | エッセイ
 私が「絹代塾」の塾長として今年度の仕事を5月から始めることになった。昨日その月別会の内容の構想を考えた。大学側から鵜澤副学長ら3人、田中絹代メモリアル協会から河波事務局長ら3人が参加して私の研究室で話し合った。私は会の規模にとらわれず映画をもって、「感想と思考の時間」にしたいこと、地域が狭いなので新しい内容にし、同じ内容の話を繰り返さないことを前提にすることをいった。ただ映画を見せるのではなく、また知識や博識を披露するのではなく、映画をどう見るか、そのメッセージを議論すること、映画を観ながら感想を話し合う深みと重みのある研究会にしたい。さらに重なる下関映画祭、東亜大学東アジア文化研究所の文化講座「楽しい韓国文化論」などの準備も気になる。
 その後下関中等学校に交換教員として来られた張洪碩氏(写真最長身)の歓迎晩餐会に参加した。その時前任者の呉信媛氏から国際電話が掛ってきて順番に通話した。私は半分冗談で、張氏に前任者の呉氏の活躍を称賛した。彼女の送別会が10回以上、多くの人を泣かせ、別れたことを笑いながら話した。外国では一人一人が外交官の意識を持つようにというメッセージを発信した。昨日はいろいろな人に重荷になるような発言をしたような気がする。しかし、それはただの重荷ではなく、共に担う、共に生きる「楽しみ」であってほしいという願いでもある。

SIM宣教師の吉岡洋子氏

2013年04月23日 04時35分55秒 | エッセイ
 アフリカ・ニジェールで医療宣教師として数十年間、病院で献身してきた吉岡洋子氏が昨日我が家を訪ねてきた。彼女のことは以前にも本欄でも触れたことがある。世界的なキリスト教宣教団のSIMから派遣されて病院で看護師として働いた末、交通事故でその職務を終えなければならなかった。突然彼女が乗った車の前に飛び出してき車が道の傍溝に激突し数回転んじ、少年は即死、彼女は意識を失い救急車で首都のニアメまで搬送された。アメリカで治療を受けて回復して下関に帰国した。彼女はその不運の事故について「今回の事故は神様のゆるされた事故であったことを知りました。神様の愛がどんなに深く神様がどんなに忠実なおかたであるかも知りました。また神様は熱い祈りに答えて下さる方であることも知りました」。世俗的にいうと、悲劇的な主人公として不運を恨んで生きるような人生であろう。
 私は彼女の人生から大きい素晴らしいメッセージとパーワー受けている。私の文化人類学の講義に彼女を講師として迎えニジェールの文化と水に飢え乾いている環境、死の陰の谷から神が助け出して下さいましたと語った。日本のキリスト教会では彼女のメッセージを受けて披露するようにする機会が少なく、私は常にもったいないと思っていた。昨日彼女の話を聞いて、彼女のメッセージと祈りが十分生かされていると思った。職員1000人にもなる安岡病院の理事長が彼女を見つけたのである。その理事長は戦後ニュージーランドから連合軍の一人として下関に軍務された人と付き合い、その中に入って国際的交流を続けたという。理事長と同行してニュ-ジーランドへ理事長の旅行、通訳、看護の三つの役割をしてきた話、英語圏、フランス語圏において国際的な素晴らしい献身的な愛の行動には感動した。彼女は祈ってくれた。その祈りには我が愛犬のミミチャンも入っていた。

楽しい道

2013年04月22日 04時54分18秒 | エッセイ
 午前中「十字架を背負う」という重い内容の説教をした牧師の奥さんの運転で大韓宇部キリスト教会へ向かった。そこへ行く道を比較的に私が知っているがナビの通りに行った。別れの交差点で私は自分で知っている道を指したがナビは異なった方向へと案内する。運転する人はナビの通りに方向を変えた。結局行き過ぎ、逆もどりする遠回りの道であった。しかし式が始まるまでは1時間半も早かった。春の日和に広い森の中のガラス張りの教会の周りの散歩と歓談は楽しかった。別府や福岡などからも人が集まり、牧師と長老、信者には顔見知りの方々が混ざっていて挨拶の握手と目礼、笑い声が続いた。礼拝時間に金正明氏の長老就任式が行われた(記念写真)。十数人は登場して司会、開示、説教、奨励、祝辞、祈り、讃美歌などが行われた。全員が個性のある面白いスピーチであった。矢張りスピーチの上手い韓国文化を感じた。
 私の出番は全くなかった。ただ一番後ろの席での「臨席」であった。式が終わると私の出番のように日本語の知らない韓国からのお客さんと歓談した。その場では私が長く務めた啓明大学校出身の方が4人もいて、「先生」となったような話題であった。名刺が足りず拙著のエッセイの本と寄稿文のある新聞を代わりにあげ、自己紹介もした。韓国料理で夕食を早めに済まして帰路はナビより私の指示によって帰宅することとなった。牧師夫妻と我が夫婦4人だけの狭い空間ではやっと出番一番のようになった。先日家内の手の手術の時に送り迎えの時に語った我が夫婦の人生、後編のように語った。その所為か早く帰宅した。しかし時計は夜9時近かった。行くには遠回りの道であったが、帰り道は直線に近い道であったか。遠回りの丸い道が誤りの道、直線の道が正しい道(近道)であった。楽しい道が正道であろう。


「熟味」

2013年04月21日 05時24分23秒 | エッセイ
 家内のお姉さんが千葉から来られてから1週間、昨日駅で見送った(写真上:姉さんが家内の指処置する)。何と、別れの寂しさが湧いてきた。私は姉妹との暮らしをしてから、家内に遺言のように語った。私が死んだらお姉さんと一緒に暮らすのら私は安心だよと、死後のことを頼んだ。それが義理の姉と1週間暮らしての総合評価のよなものであった。食卓はやや和食風になり我が家のものと合わさってややメニュが多くなった。食卓上には海藻やねばねばのものが増えた。
 私はソウルの姉から送られてきた古いギンジャン・キムチが冷蔵庫に入ったままで気になった。そのキムチをだして一度軽く洗ってごま油を若干混ぜて弱火で永く煮た。この食べ方は韓国でも食堂では食べられないものである。子供の時覚えた味であり、韓国料理とはいえない。和食とはほど遠い食べ方である。それがお姉さんに喜んでもらえるとはとても思わなかった。分量の多い鍋が一瞬に消耗されたことに私は嬉しく、一躍名シェフにでもなった気分であった。秘訣(?)まで教えることになった。私曰く、料理とは「火の扱い方法」が重要である。若者の料理は短く高熱で、味が滲みわたるには時間が足りないと批評しながら「熟味」の味について語った。若者のクレージー・ラブの熱は熟愛へ熟していくのである。(写真下:杉村と坂本両氏からの見舞花) 

 
 

テロと聖戦

2013年04月20日 05時25分31秒 | エッセイ
スポーツ競技は選手の戦いで行われる。観衆はそれを観て楽しむ。しかし選手たちの反則や喧嘩などになることがあり、観衆も巻き込むことがあって悲劇的になることもある。戦争は軍人によって行われるが無辜な一般人が犠牲になることが普通である。しかし戦争には歴史があり、一定のルールが存在している。たとえば宣戦布告や捕虜の扱いなど国際的な決まりがある。マイケル・ウォルツァーは勝利を前提にして「正しい戦争」を政治的な道具として考えている。アメリカがよく戦争をすることが分かる気分である。
 戦争のルールや規則をはるかに超えているのがテロの問題である。戦争と違ってテロは主に無辜な(innocent)一般人を対象とするから非道徳性の極まりである。われわれは被害者側からテロ(terror)というが、テロリストの加害者側からは「聖戦」ともいわれるのが大きい問題である。いま戦争と同様怖いのはテロである。それは新しい問題ではない。過去多くの被植民地などではテロが独立愛国運動の手段として称賛された。いわばテロリストが民族的な英雄とされている国が今も少なくない。
 4月15日に発生したボストン爆破テロの容疑者の男2人はキルギス出身のチェチェン人だという。テロは戦争の方法では扱い難い。一方的にテロという被害者側からだけではなく、加害者であるテロリストを支えているジハード、聖戦の意味にも関心を持つべきである。テロを起こす人々の範囲、属性、愛国心などの背景を伝え、よく分かる必要がある。それのために戦前の「聖戦」と「抗日運動」などを以って考えて、対策を立て直すべきであろう。

ボストンからの電話

2013年04月19日 05時11分35秒 | エッセイ
 昨日ボストンから電話があり、圧力釜爆弾テロのところからなので安否の電話かと思った。So Far from the Bamboo Groveなどの作家のYoko Kawashima Watkins川島擁子氏からであった。彼女の本が東京で日本語訳で出版されることになったという。記憶にも新しく、彼女が10歳ころ北朝鮮からの引揚の体験に基づいて書いた小説がアメリカで学生向けの推薦図書に指定されたが、韓国系アメリカ人の学父兄たちによって反発され、大きくバッシング、日本での出版も難しくなったのである。当時韓国のマスメディアは口を揃えて彼女の「父親が731部隊のメンバーだ」とか、「嘘」であるとか激しく非難を浴びせた。
 私は嘘ではない「虚構」であると思い、彼女を日本に呼んで研究会もし、出版を進めた。結局出版できず今に至ってしまったが、出版できるという話は嬉しい。私は作品を精読して、アメリカの韓国人父兄たちと韓国のマスメディアの非難が正しくなく、まったくいじめのように思っていた。数年過ぎた今その作品を「反反日」的作品と思う人は少ないだろう。この本が日本で今出版されることは安全であり、遅すぎると思う。彼女の電話は夫のダンさんの「僕の死ぬ前に訪れて下さい」という伝言を伝えながら最後の挨拶は「ごきげんよう」であった。昨日は4月18日であり、彼女からのファックスは時差によって4月17日になっている。
 今日は4月19日。韓国で1960年、学生革命の記念日である。反政府デモに参加したことを思い出す。人によって社会を変えたという自負心をもっている。私もその一人である。韓国では多くの人が政治や社会を変えることが出来るという信念を持っている。それが韓国社会を民主化する低力であろう。
 

死をそばにして生きる

2013年04月18日 04時32分18秒 | エッセイ
 月一回の定期診療に行った。サチュレーションが93%でようやく90を越えて安心した。私は若い時肺結核を罹った部位が損傷をうけ気管支拡張症が出現することがあるという。それは気管支が非可逆的な拡張をきたした病態で気管支が拡張すると、気管支の浄化作用が低下し、気管支炎や肺炎に罹りやすくなるという。拡張した気管支には、血痰や喀血も出現する。この持病を予防するために換気、ヘモグロビン、心臓の調子をチェックするといい、池田先生の大気汚染に関する説明が行われた。PM2.5は中国からだけではないと言う。日本でも車の排気ガスからも出るのでそれが中国からの大気汚染と合わさって先日標準の30倍にもなったことがあり、場合によってはマスクをしなければならないと言う。
 大気汚染とはいっても健康な人には影響が少ないが、患者や妊娠した人、幼児に影響しやすいと言う。中国では流産が多くなるのではないかなど先生の話は環境論になり、グローバルなミニ講演のように感じた。今の内は中国の大気汚染の話や温暖化の話は放送や放映から少なくなっているが、池田先生は呼吸器内科の専門医として空気清浄、大気汚染に注意していることが分かった。春雨が降っており、多少空気が良くなったのかと思ったらよけ悪いと言われて、日本で大氣汚染を心配するのが贅沢のように感じた。昨日読書会の後に来訪した客とは日本の仏教の話をし、日本人にとって仏教とは自分の死んだ後の処理を頼むように生きるので人生観には関係ないという話になった。しかし死をそばにして生きるような私にとっては人生観にも影響してほしいといった。深刻な話でも聞き手は聞き流したようである。健康な人は死はあまり気に止めないようである。

『風の匂 土のにおい 人の温もり』

2013年04月17日 04時31分13秒 | エッセイ
 人はそれぞれ旅をした体験をよく生かして生活しているはずである。何も記憶に残っていないもの、印象強く残っているもの、さまざまであろう。メモや日記、写真、映像などで残している人は多い。よいスケッチを残している人が居る。画家の堀研氏のスケッチブック『風の匂 土のにおい 人の温もり』を開いて私のフィールワークを反省している。私は人の話や行動を観察し、ノートと写真で記録してきた。本書を読み鑑賞しながらスケッチの意味を考えることが出来た。私が昔山の麓に住ん人にその山の形を描いてくれと注文したが覚えて描ける人が少ないことに驚いたことがある。私は生まれ故郷の周りの山の形を覚えているのは小学校の時間に絵がいたことがある事を思い出した。スケッチは記憶にダイナミックな力を持っている。堀氏の旅行地は多く私とダブっている。しかし彼のスケッチには記憶が濃く残っている。白黒のものもあるがカーラーのものが多い。私は多くの人と風景をカーラーで見ていたが記憶は白黒にされてしまっている。彼の本から世界のいろいろなところの自然や人の記憶が生きていることを感じている。そして彼自身の「人の温もり」と奥様の内助の功を感じさせられた。
 彼とは戦前巨文島で生まれ、戦後から豊浦町在住堀麗子氏の息子として知ることが出来た。その娘さんが現在韓国嶺南大学校の教員の堀まどか氏、堀家と3代続きの付き合い、永く堅強である。アトリエで立っている彼の写真を撮った。しかし強く記憶に残こすためにはスケッチの方がよいだろう。




タケノコ

2013年04月16日 04時55分23秒 | エッセイ
 突然鳴ったチャイムの音に映った薄影は「楽しい韓国文化論」の受講生であった山尾信也氏(77)、3つの袋一杯タケノコを持って来られた。私はたまに口にすることはあってもその食文化には詳しい知識がない。さっそく山尾氏の竹林を見たくなった。私は彼の車の横に乗り、家内と千葉から来られた姉さんが載った車が付いて走った。下関青山(300メートル弱)のふもとの田倉の彼の自宅と竹林に立った。イノシシの妨害柵で囲まれた竹の子を守っている長身紳士の新鮮さに竹林の中の小柄な自分は委縮感を感じた。私の目測で7-8メートルの高さ、彼による竹の寿命は10年、最盛期はもう少し先になるというが、ぼつぼつ頭を出している竹の子を見つけながら回ってみた。イノシシの好物であると聞かれてタケノコを食べると元気になるとも感じた。
 彼の奥様がコーヒーをお盆に載せたまま初対面の挨拶をし、彼女の顔を見ながら深く答礼した。野外用のテーブルを囲んで彼の人生歴を語ってもらった。歴史は古く、先祖代々この竹林は、江戸時代から始まり、彼は水産業関係で福岡から室蘭、北海道、埼玉などで仕事をされ、定年してこの処に戻った、贅沢な老後生活の理想郷を作ったロングストリー。我等は帰宅して大きい鍋で煮て竹の子で暴食満腹して苦しくなるほどであった。歴史と味が合わさって食文化が形成される現地体験となった。