崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

続「人には任せられない」

2011年06月30日 05時13分58秒 | エッセイ
私の友人で大きい病院の理事長をしている方と人の管理や経営の難しさを話す時、彼からなかなか「人には任せられない」という言葉をよく聞く。昨日のブログで「「人には任せられない」という考え方は独裁の基本である。ある重要な企画を人に任せて、拙作が出来上がって失望する」ということについて書いた。身の回りのささやかなできことからエッセイ風に書いたものであり、特定の人を非難する文ではない。このブログが韓国でも翻訳ソフトを使って読む人がいることを知った。その中のある方から自分のことではないかという意外な電話を受けた。私が最も信頼している方からの電話に、あまりにも意外なことで爆笑した。

「人には任せられない」

2011年06月29日 05時25分23秒 | エッセイ
 「人に任せられない」という考え方は独裁の基本である。ある重要な企画を人に任せて、拙作が出来上がって失望する。「人に任せられない」ということを再確認した思いである。その拙作者こそ「人には任せられない」と思って作ったに違いない。「人に任せられない」というのはエゴイズムを意味するものではない。私も「人に任せられない」という独裁的な素質があることは否めない。しかしその独裁の独が「毒」になってはいけない。企画には自分を優先、保身術的な発想が入ってはいけない。人はそれぞれ優れた能力と同時に毒を持っている。個人の偏見などを超えて普遍的なものを作るためには異なる個人の能力も加味し、それを超えて、独創的なものにならなければならない。「俺は正しい、貴方はだめ」という政治家にも言えることである。それは正しいものを求める意欲であろう。しかしそこに「私欲」が入ってはいけない。ある名人は「自分を捨てなさい」と言っている。

刑務所と「教導所」

2011年06月28日 04時56分38秒 | エッセイ
 中国の私の教え子から私のホームページが開けないからメールで書くというメールが届いた。いつか中国の人権に触れたことがあり、それが原因かもしれない。中国へ行った時そこで開こうとしたがやはり開かなかったことを確認した。今ウォルチャーMichael Walzer著の『戦争を論ずる』の書評を書いている。正しい戦争は人権や人道上のためには他国にも介入戦争が可能だといっている。人権問題は国家の内政問題を超えて普遍的な問題であるという。国際刑事裁判所はリビアの最高指導者カダフィ氏らに対し、「人道に対する罪」の容疑で逮捕状を出した。逮捕して欲しい。
 中国で「国家政権転覆扇動罪」を言い渡され、3年半服役していた胡氏が釈放されて再び自宅軟禁状態に置かれる模様だという。現在37歳の胡氏は、2007年に逮捕され、懲役3年半の有罪判決を受けた。このような人権運動者の収監者は130人ほどいるという。彼らは時代が変われば英雄になるかもしれない。刑務所を「教導所」に改名したところもあって実にそこからすばらしい思想家などが生み出される。
 私と陸軍士官学校の教官であった辛栄福氏(写真)は1968年統一革命党事件で無期懲役を受けた。彼が20年と20日間という長い受刑生活の中で書いた『監獄からの思索』が有名である。彼は刑務所で辛い日々を暮らしながら高次元の思索をしていた時に私は厳しく盗聴装置がおかれている教壇にたって愛国心を教えていた。彼は読書家であり、スピーチがうまかった。彼は女子学生などのグループを指導していた。私も一回担当したことがあり、親しく教官生活を暮らしたが彼が逮捕されたニュースを聞いてとても驚いた。富川刑務所に面会に行ったができずそれっきり、私は日本に留学し消息なしの状態で今日まで来た。彼は私を完全に忘れたかもしれない。私が彼を思い出したのはその著書である。鋭い観察と思索の深さには感動した。その文例…
  夏の服役は自分のすぐそばの人を憎悪するようにする。ぎゅう詰めで寝いるので睡眠を十分にとれない。狭い寝床はそばの人を単に37度の熱の塊りとしてだけ感じさせます。これはそばの人の体温で寒さを緩和する冬季の原始的な友情とは克明な対照をなす刑罰中の刑罰です。自らの最も近くにいる人を嫌うという事実、自らの最も近くにいる人から憎しみ受けるという事実は非常に不幸なことです。

 

「シャッターを押してください」

2011年06月27日 05時02分10秒 | エッセイ
 カメラを持って歩く人は多い。中には一人で自動シャッターを設定して自分の人物写真を撮る人を見かける。多くの人は赤の他人にでも頼んでシャッター押してもらう。シャッターくらいは誰でも押すことができる時代になった。それよりもカメラが押しやすくなったのである。私はシャッターの押し方を習ったことがない。ただ軍隊で銃のトリガーを押すことを時間かけて習ったことが役に立つ。標的に焦点を当てて呼吸を止めてソフトに引く。カメラも同様に被写体に焦点をあててシャッター押すことにしている。韓国では軍隊の兵役を終えた人が多く、そのような人にシャッターを任せると問題がないが、経験のない人に依頼するとカメラが動くほど下手な人もいる。銃の発射は命を落とす瞬間を狙うが、カメラでは美しく、意味のある瞬間を撮る。前者は殺す、亡くすこと、後者は採る、生かすことに目的がある。
 先日エッセイ集の表紙用の写真をわが家のベランダで家族写真として撮るとき隣の園田さんにシャッターを押してもらった。数枚の中から一枚が表紙になり、本が出版されて一番に彼女に記念に差し上げた。彼女は大喜び、その写真を拡大して額に入れてプレゼントしてくれた。今度はこちらが大喜び。自動シャッターで写真を撮る人は人に迷惑をかけずに自分の意図のまま撮れる長所がある。しかし私は一度も自動シャッターを使ったことがない。昔の新派調映画ではハンカチを落として拾ってくれた人と縁を結び烈愛になることもあった。赤の他人に自分の美しい表情の瞬間を撮ってもらうのはよい社会生活の始まりであろう。現代社会では赤の他人はいない。いつ自分の知人、友人、お客さん、読者になるかわからない、ポテンシャルな縁を持つ人である。シャッターを押すくらいで迷惑を意識している人、過剰にいうと迷惑を意識すぎる人こそ孤独死の人になるかもしれない。

嫉妬対策

2011年06月26日 06時24分54秒 | エッセイ
 先輩教授と新しい企画プランを立てる会議に、彼が広く研究協力者を求めることが大事であるが、近い人たちの「嫉妬対策」も考えないといけないと言われた。このことに関しては彼だけの話ではない。有名作家数人からも周りの嫉妬は怖いといわれたことを覚えている。韓国では一般的に嫉妬は「女の専有物」のようにいわれるが、人は男女とわず他人から刺激され、競争にもなり、プラスの面もある。浮気に対する非難の元は独占と嫉妬である。キリスト教では神は嫉妬すると明言している。嫉妬の領域は狭いのが一つ特徴である。身の回りの人からのものが多い。したがって偉大な人物も自分の周辺からは認められていない。またレベル差がそれほど開きがない間柄の人に起きる。学問的にも差の開きが大きいと尊敬するか圧倒されるが、嫉妬者自身がその差が小さいと感じるとき、嫉妬は強く噴出する。また嫉妬は陰で行なわれる。しかし大義名分や慇懃無礼などの行為で現れることもある。
 嫉妬者がグループ化すると足を引っ張る作業は本格化する。被嫉妬者が肯定的未来志向に比して嫉妬者は否定的で非協力者である。前者は個人的であるが、後者はグループ化する事が多い。「村八分」にすることが彼らの理想である。大雑把に日韓を比較すると日本人の嫉妬は見え難く、質濃いと思う。それは嫉妬に止まらずいじめ、差別など多様化している。私は韓国でも被嫉妬者として辛い思いがないわけではないが、日本で住み続けてここまでこれたことは不思議な感もする。それは私が成長期に被差別の体験を持っていない「長所」にあると確信する。私だけではなく、人それぞれ被嫉妬の経験があるだろう。それに負けるか、勝つかはその人の人生の成功か失敗であろう。人間は自然に生きるべきではあるが、生存競争のために戦い続けなければならないる面もある。

小笠原諸島を世界自然遺産として登録

2011年06月25日 06時00分17秒 | エッセイ
今日は朝鮮戦争の勃発の記念日である。決して祝うべき日ではない。私にとってその日は辛さを極める日である。戦争は私の人生にとって重要なテーマである。ただ今私は『戦争を論ずる』を読んでいる。前半は論理がしっかりしていてまあまあ分かりやすく読んだが後半には訳文が難雑で辛い苦読になっている。それは文章だけのことではない。特にイスラエルとパレスチナとの差別、恨みと復讐の戦争とテロの連続からうけるものである。今朝は気分的に一層重い。
 ただ今良いニュースが入った。フランスのパリで行われているユネスコの世界遺産委員会が小笠原諸島を世界自然遺産として登録することを正式に決定したという情報が入った。写真掲載ページ: http://www.320per.net/tag/?p=382。小笠原諸島には生物や植物が数多く存在している点が高く評価された。その自然遺産の中には虫の存在も大きかった。「虫を無視」した人の目からうろこが落ちた気分である。人間は自然を征服するために何世紀もついやしてきた。これからは生命と環境を重要視する世紀であることを新しく認識する思いである。


「私の日本留学」

2011年06月24日 05時22分05秒 | エッセイ
 連載中の「東洋経済日報」(2011,6,17)掲載文を全載してみる。

 私の日本留学には最初から無理があった。日韓国交正常化となり、石田英一郎先生、泉靖一先生などが来られ、韓国文化人類学会で講演会が行われた。私はその時、幹事をしていた。1972年、ソウル大学の恩師の李杜鉉先生の紹介で日本留学をにわかに決心した。海外への持ち込み制限額200ドルを持って日本に来た。ある教会で泊めてくれるという期待を持ってきたが、そこの長老から「教会は旅館ではない」と断わられ、期待ははずれ、もち金は数日間の滞在費に過ぎなかった。私は突然飢え死にする境地になっていた。さらに私は高い学費を払わなければならなかった。兎に角その頃は常に無銭の状況であった。
日本語ができず、すべてが無能な無重力な状況で私は完全に気力も失った。書籍販売会社で労働、食堂や洗車所などでアルバイトをし、授業料を払うまでにはもっと必死にならなければならなかった。さらに韓国人としてアパート探しも難しかった。ほぼ決まる段階で韓国人であることを不動産の方が言った時、丁寧に後で夫と相談の上連絡しますとのことであった。私はその言葉をそのまま信じて嬉しかったが、同行した友人は不可能であろうと言った。その通りであった。
ようやく見つかったアルバイト、10日間にたいして「アルバイト料はいくら出せばいいか」と聞かれて「貴方の判断におまかせします」と答えて、報酬の入った封筒をもらった。たったの一万円であった。最初の日本人との仕事上の出会いというか、縁がこんな状況であり、大いに失望した。しかし考えてみると自分がしっかりしていなかったからである。朝鮮奨学会、米山奨学金へのアプライも不合格だった。英語塾の教師へ推薦により面接に行ったこともあったが落ちた。そんな最中に指導教授を亡くし、浮いてしまった。私はすべての日本人の先生から疎外されたような気持ちになり、地獄に落ちた感じであった。さらに日本の気候に適応できず腰を痛くし、激しい労働で結核の再発の憂いが襲ってきた。
しかし辛い思い出ばかりではなかった。狭い道を歩く苦難にも柳東植先生のように最後まで信頼してくれて、相談に乗ってくれた方もおられた。そんな私に柳先生はポケットに残っているコインをくれた。それは貴重な恩恵のお金であった。後に伴侶の幸子に出会ったことも幸運であった。
そんな時のある日、大学の階段で一万円札を拾った。貧困の境地にあった私にとって正直さのテストであった。事務室に届けてほっとした。また民団で世話になった老人から私がお金を盗んだと非難され、相手の勘違いだとわかっていたが、私は賠償した。後に彼がそのお金を戻しながら自分の間違いであったことを詫びてくれた。
東京大学の中根先生の研究会で発表し、伊藤、末成、嶋の諸氏の協力を得て学位論文を準備したが、成城大学は最後まで学位を認めてくれなかった。後に筑波大学の芳賀登先生の推薦で宮田登先生が主査となり、指導を受けて論文を提出し、文学博士の学位を取得したのは望外の喜びであった。その時にはすでに13年の歳月が流れていた。

恩師への電話

2011年06月23日 05時36分22秒 | エッセイ
 久しぶりにソウルの恩師へ安否の電話をした。喜寿の先生は耳が若干遠くなったようであるが、よく話ができた。お元気であってよかったが恩師の著作集の出版が遅れていて自分が死ぬ前に見れないのではないかと言っていた。一方的に𠮟られた感じであった。2年前に私も参加して著作出版委員会を立ち上げたのに進展が遅くなっているので先生の催促の話には耳が痛かった。出版社に言わせると古い世代の本は漢字が多く混用されて若い職員には新しいハングルで打ち込むのが難しいという。出版が活気のない時代になって著者自身がきれいに打ち込んだ原稿を持ち込むのが普通になり、手書きの原稿の本の出版計画はもともと無理だったかもしれない。
 先生の出版への強い意欲は「お元気でいらっしゃる」という象徴的なこととして一方では嬉しく感じた。先生は社会や人に厳しく批判する人格の方であり、人をほめることは稀である。しかしたまにほめられるとその言葉は重い。今度はそのような言葉はなかった。先生ご自身がトラも歯が抜けてどうしょうもないといわれたことがあるが、私は先生の健在ぶりに満足した。しかし私の著作集が超スピードで進行することには申し訳ないと思う。ある人から先日、韓国で出版されたエッセイ集を50冊購入すると連絡があった。また去年古希記念論文集の印税(?)が出たと嬉しい連絡をいただいた。感謝である。先生の著作集も早く出るように努力したい。 

辛い過去は決して無駄な過去ではない

2011年06月22日 06時21分56秒 | エッセイ
 
 夏にはマクワウリを食べるのが好き。昔韓国で高速バスがサービスエリアに休憩のために寄った短時間に私が3個も自分で剥いて食べるのを見た人からマクワウリが好きな人といわれたことがある。たまにソウルのホテルに泊まると知人たちがマクワウリを買って訪ねてくる人がおり、それがダブって過分に食べることがある。今度の誕生日にもマクワウリとメロンを多くいただいた。二人がソウルから持ってきてくださり、もう一人は日本からわざわざ注文したものを持ってきて下さった、その他メロンなどをいただいて「マクワウリ豊作」のような光景になった。うれしい。
 マクワウリの味だけではない。私の嗜好物であることを知って持ってきてくださったことに感謝である。また別のことを思い出す。広い畑の中に高足小屋を立てて見張りしながら売り場にもなっている農村の天然の原風景が甦ってくる。スイカが農村で栽培するようになったのはその後である。いくら豊作といっても夏のものであり、その季節以外には見ることもなかった。1960年4月19日革命のとき副大統領の李氏宅からスイカが見つかって、国民がその贅沢さに怒ったことがある。私の幸福のバロメーターは朝鮮戦争であり、それによって幸福感を持っている。辛い過去は決して無駄な過去ではない。

革新的な人材欠如

2011年06月21日 06時03分37秒 | エッセイ
 先週中国で大学の総長会で耳ざわりなある話を聞いて気になる。日本は明治維新によって隆盛してきたが、最近の低迷の原因は「革新的な人材の欠如だ」と言った総長がいた。その人材を育てていくのが大学の使命であるという論法であることはわかる。しかし中国人から日本の低迷さを言われることは違和感がある。中国では地方都市でも日本の飛行場の庁舎のような大きさの建物が多く建設されており、日本をはるかに追い越していると思うのは正しくない。いくら短いスピーチといっても教育者は文化、政治、経済などを広く、遠く見て話をしなければならない。確かに日本の現状では革命的なつまり「革新的な」人材が欠如しているかもしれない。旧時代に比べると全国民上流化されたような楽しいことだけを求めるようになっている。革新よりは安定が欲しいかもしれない。
 総長の中には父子二人の参加に注目した。父上の経営を息子が見習い、革新的な経営者になりそうであるからである。独裁的な世襲でなければ父子継承は悪くない。私は父から何を継承しているのか。10才ころ父を亡くしたが、父からいただいた精神的な遺産は大きい。それは寒い冬にわが家の物置に寝る乞食を家に入れて、家族と共に寝かして虱で困惑したことがある。父親が他人のために貢献したことは広く知られていたが、私は困惑をしながらも体験を通して人を大切にする父の心を継承しているはずであるが、私はいつも不十分とは思う。それでもそれを思い出すだけでも父子継承の威力を痛感する。

私の韓国語に異常

2011年06月20日 05時37分37秒 | エッセイ
私の新著を校正した出版社の洪社長と対話を交わした。彼の話では私の韓国語は古く感ずるという。また日本的な単語が分かりにくかったという。また私からは韓国語の単語が分からないものがあったということで、「私の韓国語に異常がある」と感じた。それには二つの理由がある。一つは韓国語が変わったこと。ノル(鹿に似ている動物)の尻尾が短いところから「給料がノルの尻尾のようである」といういい方を「給料がネズミの尻尾のようである」と表現が変わった。しかしネズミの尻尾は体に比して長いほうである。そのような類は多くある。もう一つは新造語である。虐めをワンタという。はじめは日本語のイジメをそのまま外来語として使われたが、韓国語のタドリン(人を外す)のタに強調するワン(王)を接頭してワンタになったようである。私の言葉はバイリンガルになって国際的になったと思っていたのに中途半端な言葉になっていることが分かった。
 私の言葉だけではなく、生活もそうであろう。日韓の両文化の混合となっている。時には日本式、時には韓国式をこなせる。しかし自分の都合に合わせて悪く、賢くならないように注意はしているつもりである。誕生日に日韓の友人から花などを多くもらった。それを嬉しく思っている私に家内は私に幸せそうだといった。幸せも日韓総合であると、肯定的に応えた。

出版記念会

2011年06月19日 06時48分13秒 | エッセイ
 今度の出版記念会は家庭礼拝の形式で行った。大韓キリスト教団の総会長であり、宇部教会担任牧師の崔栄信先生が執礼をした。賛美歌431の愛しみ深き・・・、坂田氏がライアーで伴奏し、皆で立っておお声で歌い、崔牧師から旧約聖書の創世記49章の22-27の箇所を持って私を垣根に立っている木に比してその枝が壁を越えて伸びていくこと、国家を超えて影響しているというメッセージを語ってくださった。光栄であり、また伸びて実っていかなければならないと神の言葉として受け入れた。バプテストの元老牧師の藤田英彦先生のお祈り、山崎氏の乾杯音頭により家内の手料理、それぞれ心をこめて持ってこられたお料理で昼食会と談話会が続きとても楽しく、貴重時間をすごした。
 民俗苑の洪鐘和社長は毎年誕生日に一冊づつ出版してくれると言ってくれた。しかし少なくとも年内に出す予定の本もあり、今年は豊作になりそうである。批評は良しあしあってよい。社長の提案でエッセー集を出した、その由来と書けなかった裏話をして韓国民俗学界の草分け時代の歴史を証言したような時間ともなった。有効な解釈、弁明にはなったようでもある。これからは弁明より、事実に基づいて著書を続けて書き、翻訳なども含め残せる仕事をしたい。

誕生日記念出版

2011年06月18日 05時46分43秒 | エッセイ
 去年6月17日には2冊の誕生日記念出版『交渉する東アジア』(古希記念)、『韓国人の祖先崇拝と孝』(著作集)が発行されたが、昨日6月17日つけ『雀様の学問と人生』が出版されて民俗苑社長らと崔錫栄館長が下関に持ってこれた。私は中国長春から上海を経由して下関で夜11時にこの本を手にした。外国語学院の日本語系の劉氏から誕生日祝いのお土産をいただいて、また大きいお土産の自著、中村と李良姫からは素敵な花が届き、祝電が多く待っていた。毎日新聞の三嶋氏から電話は中国で受けた。彼の娘の誕生日が私と同日であることを思い出した。
 私の旅はまだ終わっていない。帰国報告して後処理、事務的に大学間交流へ積極的に進行させなければならない。私の人生の旅もまだ終わっていない。仕事から離れて悠々とする時間がない。今度の旅行では多くの総長、学長らと出会った。ほぼ話を交わしたがすべての人が肯定的な態度、積極的な人であった。大学生の指導者として、また成功した人々の秘訣のようなものがキャッチできた。これらの人が不評不満のある人やひねくれた人を指導することになっているようにも感じた。私の人生の航路には幸せと明るい方向へ進めていけるようにしたい。今日は昨日お祝いできなかった私の誕生日、出版記念会を自宅で尊敬する牧師の二グループと出版関係、教会関係の知人たちが集まって行う。楽しみにしている。

お詫び

2011年06月17日 23時24分49秒 | エッセイ
 中国・長春で本欄をかけないことが残念である。時々私のブログが開けないということを中国の方々から聞いたが、私も確認することができた。これからはブログとホームページの両方に書くことにしたい。それは以前に中国の少数民族や法輪功などに関して書いたことがあり、このように禁止されたのではないかと考えられる。しかし昨日は吉林華橋外国院でアメリカ、ロシア、日本、韓国などの学長などの高等教育に関するスピーチを聞き、午後からは私は日本語学科の3年生80人ほどに「国際化」をテーマにして講演をした。私のようなものが講演して良いのかというためらいもあったが。目がピカピカする学生の前で話をして一緒に笑ったり,質問もたくさん出て6人までとした、日本に関する関心が高いことがわかった。私の自著贈呈式も行った。講師料を多めにもらったので案内者にご馳走したくなったが、なかなか受け入れない。
 市内の日本時代の建物を見回ってホテルについたころには疲れていた。しかし広島大学院の卒業生らが訪ねてきて遅くまで談話をした。私はホテルのルームサービスでビールを頼んだが栓抜きがなく、連絡しても応対がなく、結局私の靴べらで開けることとなった。中国は大国で経済発展が盛んではあっても人間は変わりにくいことが分かった。しかし最初の訪問時1990年に比べては天と地の差があるように発展した、。ただこれから見えないところの成長が追いついていくことが重要であろう。 
 

中国・長春から

2011年06月16日 05時45分40秒 | エッセイ
上海空港で3時間待ち、長春に着いたのは午後5時半過ぎであった。ここには2年前山口テレビ局の竹村氏ら数名と旧満州映画協会の調査に来たときも含めて数えると5回ほど来たので懐かしく感ずる。長春空港は迎えにきている人で込んでいたが、大学関係者が黄色の歓迎の大きな札を持って立っていたので、すぐわかった。日本からオビリン大学、岡山商科大学の関係者たちとも同乗してホテルへ向かった。ホテルでは懐かしき、韓国馬山の昌信大学の総長、副総長とも会えて嬉しい。
 夕食後ホテルで広島大学時代の教え子の許春蘭さんと会った。彼女から教室二つの壁に掛けるほどの、有名な画家の大作の東洋の絵をいただいた。大学で展示することにして櫛田学長が持って帰ることになった。気になることは私の大学での講演である。数人の前で2,30分の話をするつもりであったが、100人の学生の前で1時間講演といわれて急いでレジュメを作ろうとしている。こちらの大学の教員の話で私のプロフィルなどを作ろうとしてホームページを見ようとしても開けないという。私のブログなどには中国の少数民族のことを書いたので開けないようにしていると聞いたことがある。私も確かめてみたい