崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

タレント政治

2008年01月30日 07時25分33秒 | エッセイ
 大阪府知事選は学者とタレントの戦いで、日本社会の性向を図るような選挙であった。若いタレントさんのような弁護士の橋下氏が当選した。私にはまるで天才少年がトップになって政治をするように感ずる。社会学ではパワーエリートになるためには教育、経済力、政治活動などが正道といわれていたが、突飛な例がタレントさんの政治への登場である。それは当選者本人より民衆側の志向である。指導者として判断するには理論や論理だけではなく広く長い経験も重要である。しかし民主主義は民衆によるものであるからその民衆が遇衆であるか、賢衆であるかによるしかない。タレントさんの政治化現象は続くであろうか。人気とは縁の遠い「冷たい制度」も作り、維持されるべきであろう。


「満州武装移民の妻」

2008年01月29日 07時11分07秒 | エッセイ
 角田房子の「満州武装移民の妻」を完読した。藤原ていの実録的なものと大体脈絡が一致するが、より敗者としての生き方の問題点がはっきり提示されている。築き上げた財産や子供をなくして、体も汚されて帰国し、罪意識を払い、新しい生活を始める。日本は植民地や戦争を引き起こし多くのものを失った。そこには勝利と敗北が交差した。戦争で多くの人の命を失った。この作品を通して見えるものは、人間とは勝利と成功の時より失敗と悲惨な敗戦を通して人間らしさを取り戻せるのではないかということである。私は朝鮮戦争の時に人間の動物化の状況をみた。五味川純平の「人間の条件」を思い出す。敗戦で失ったことが多いが、それを貫いて生きてきた人たちはそれなりに得たものも多いはずである。それが現在の日本の低力かもしれない。

生け花の奉仕

2008年01月28日 07時11分41秒 | エッセイ
 日曜日の教会のテーマは献身、奉仕であった。私ども夫婦は生け花で奉仕をした。直径30センチくらいの白磁に真ん中にユリとバラを目玉にして回りに菊の花をあしらえ、金柑の枝の線で周りを処理した盛り花であった。前の夜に生けて修正しながらバランスをとり、乾燥しないように暖房も控えにして礼拝の前に壇上にささげた。この教会の生け花の当番としては最初である。これから月一回順番が回ってくる。以前にも学会や教会などで生けたことがあるがこれからも神にささげ、人々を喜こばせたいと思っている。会員のびっくりするお顔や、嬉しそうな表情やお褒めを戴いたり、「この教会の120年の歴史で男性が生けたのははじめてだ」という言葉に乗せられてもっとよく生けるように頑張ろうと思った。

韓国の英語教育

2008年01月27日 07時40分42秒 | エッセイ
 李明博次期大統領は韓国の英語教育について発表した。公教育のクラスで英語で授業するという案を出した。韓国では子女の英語教育のために英語圏の国に母親がつきそう子供留学で離散した父は「雁父:キロギーアッパ」といわれている。英語教育を充実させることによって国民の英語教育への願望を満たす政策だという。言葉には言霊があると主張し言語ナショナリズムを煽ってきたのは世界的な現象であった。韓国も例外ではなく、国語はナショナリズムの核ともいえる。しかし一方では言葉はコミュニケーションの道具であり、国家のアイデンティティなどとは関係が無いともいう。シンガポールは国民による自由選択で大体が英語化したのである。韓国は植民地時代にハングルを守るということが愛国の中心でもあって戦後ナショナリズムの核であった。その国から英語教育へ強化が一歩進んで英語の一国語化への多言語国家にもなりうるのこの発表から目を離すことができない。

放送用語として韓国の漢字地名

2008年01月26日 07時35分46秒 | エッセイ
 あるテレビ局の映像を考証している。放送用語として韓国の漢字地名が問題になった。韓国は基本的に現地音中心主義である。東京をトウキョウと呼ぶようになっている。しかし古くからドンギョンというのがなじみがあり、つまり韓国の漢字音で読むのが一般的である。
 現地音中心主義の原則は良いとしても実用は難しい。山口の「特牛」の地名を韓国人がコットイと読めるだろうか。また日本や韓国の人が中国の地方の地名を表記して本でも出版しようとしたら無駄な努力をしなければならない。人名も出身地によって同じスペルでも発音が異なる場合も多い。たとえばGeorgeという人名はジョージとかゲオルグー、グルジアなど多様である。
 韓国の「慶州」は日本人にケイシュウがなじみのある地名である。それをキョンジュと読んでは外国の地名とのニュアンスはあっても植民地時代からよく知っている地名ケイシュウを無視することになる。基本的には国語、外来語、外国語の判断になると思う。

韓国の政治と教授

2008年01月25日 06時38分49秒 | エッセイ
 この頃韓国の大学の教授たちは、大統領室長にソウル某大学某教授がなったなど政治の話題で盛りあがっている。韓国で大学教授のステータスのグレードアップは政治家である。私の恩師の中には大臣や次官をした方もいる。私が勤めた大学の同僚の数名は国会議員になって、また大学に戻ったり出たりした。「選挙浪人」の方もいる。このような現象は一見アメリカに似ている。しかしこれは韓国の伝統的な政治構造からきたものである。李朝時代の学者たちにとっては科挙に合格して官吏になることが理想的な正道であった。今「大統領引き継ぎ委員会」が大学教授の名前を挙論するたびに教授たちは人脈がどうであるなどと熱論しているようである。韓国人の意識構造ではアカデミズムが政治やマスコミと密着している。良い学者が政治家になることによって学者として弱まっていくのは残念なことである。

アメリカから友人のメール

2008年01月24日 06時12分58秒 | エッセイ
 昨夜アメリカに住んでいる娘のところに行ってきた夫婦とも旅行の話で盛り上がったのに今朝先日韓国に年賀状を送った友人の崔仁鶴氏夫婦のアメリカからのメールが届いた。崔氏は私が1970年代初め頃留学してから今まで、比較民俗学会などで協力してきた人である。彼の息子と娘はアメリカに住んでいる。韓国の私の田舎でも子女がアメリカに住んでいる人がいる。韓国政府は外国人も国家公務員になれるという法律を作ると発表した。私が外国人として国立大学広島大学に職を得たのは十数年前のことである。韓国も国際化進んできたのである。一昔前までは国際結婚は異様な感じがしたが今では普通の話になった。もっと日常的なことになるだろう。その現象には人類愛という普遍的な愛が裏付けられねばならない。愛は溜まるものではなく溢れ流れるものである。それに乗った国際化が必要である。

佐賀県立名護屋城博物館

2008年01月23日 06時41分32秒 | エッセイ
先週、戦前京城生まれの著名な地理学者の紹介で植民地時代の朝鮮の絵葉書を多く管理している佐賀県立名護屋城博物館の学芸員の浦川氏に会うために昨日佐賀まで行ってきた。距離に反比例して時間が掛かり、まさに一日旅行であった。文化人類学者の原尻氏の調査地として知られている筑前も通過した。数時間で3000枚の植民地朝鮮の絵葉書に目を通した。洗濯する場面や乳を飲ませる若い母の写真、カメラが一般化されていなかった時代の記念写真的なものとして意味があったなどと浦川氏は説明してくれる。日本ではコレクターによるものが1万枚くらいあり、韓国にもその半分の量はあると推算される。現在われわれは絵葉書を多く利用するがその絵よりは手紙としての意味が高い。しかし一昔前は絵葉書の手紙より「絵」が大切にされたという時代を読めた。エスカレーターの階段も早歩きで歩き、連絡口を走って電車に乗った時はすでに夜であった。

年功序列と能力主義

2008年01月22日 07時20分24秒 | エッセイ
 若者の就職希望の調査で業績・能率主義より年功序列式の職場を好むという結果が報じられた。つまり就職が決まったらその職場で一生安定して仕事をしたいということである。私のように職場を8回も変えたものとしては不思議でしょうがない。アメリカや韓国では能力を発揮して良い職場へ動くのが当たり前である。年功序列と能力主義のシステムについては社会や人によって異なる。たとえば被雇用者として個人からみると能力云々ではなくて、給料さえもらえば良いというところだろうか。しかし社会的あるいは経営者側からみるとそれとは違う。私の友人のある社長は連休が多いことに不満を言った。ある大学では連休を埋める時間を設ける所もある。会社の場合は連休のために生産量が落ちるのに同じ給料を上げるのは矛盾であるとも思われる。しかし連休の意味を永く、広く考えると損失ではないことが分かる。社会はすべてが合理的になっているわけではない。その深い意味も理解していない低レベルの経営者やリーダーも多い。

外交犬

2008年01月21日 06時43分35秒 | エッセイ
 広島大時代の留学生であった韓国人白さん、林さん夫妻が子供を連れて遠くから遊びに来た。一瞬保育園児の子供はわが愛犬ミミを怖がった。しかしミミは子供にくっ付いてじゃれはじめ、ついには一緒に走ったりして、二人の関係はよい遊び友たちになった。そしておやつを分け与えたり、ミミのえさをやったりして旧知の友達のようにねっころがったりして、2時間くらい過ぎて帰る時は子供は犬と別れるのがさびしくなったようで、連れて帰りたいと言う。人間ではこのような付き合いが難しく、人によっては数年もかかる付き合いの過程を短時間で見せてくれた。異様な関係から一緒に遊んで(共に時間をすごして)、淋しさを感じながら別れるのは人間関係の基本ではないだろうか。

女性か、黒人か

2008年01月20日 07時15分07秒 | エッセイ
 アメリカ大統領選挙から目を離せない。ニューハンプシャーに続いてネバダでもヒラリーがリードしている。今回は多様な候補者から私の関心は三つに絞られている。「女性」「黒人」「牧師」の3氏である。つまり女性のヒラリー氏、黒人とのハーフのオバマ氏、バプテストの牧師のハカベー氏の3氏である。いずれも日本ではありえない状況である。日本では女性や少数民族の政治家は人口が少ないのでそのような候補者は登場しにくい。もちろん選挙は政策政治が主に投票の基準にはなるが、この度アメリカではこの3人が象徴的な意味がある。今まで民主主義の先進国といわれるアメリカに女性大統領がいなかったこと、黒人牧師運動家キング牧師の暗殺から民主主義が一歩進んで、新しく女性、あるいは黒人大統領が現れ、アメリカ社会へ活力を与えることを期待する。

文盲の日本

2008年01月19日 07時41分53秒 | エッセイ
 文盲とは文字を読めない人を意味する。日本の文字は平仮名、片仮名、そして漢字がある。漢字は中国以外朝鮮半島、ベトナム、日本のいわゆる漢字文化圏に広く使われたが戦後ベトナムと北朝鮮は漢字を捨て、韓国もほぼ使わないようになった。日本だけが有効(?)に使っている。しかし日本人が漢字を読めないことは意外に多いし、また常識としているには驚く。私は日本の大学院に留学したばかりのとき院生たちが漢字を読めないのをみて実力がないと誤解したことがある。地名や人名を読めなくてもさほど恥ずかしくないようである。漢字は日本の文字ではないのか。それは外国語でも外来語でもない日本語である。それを読めないことを「文盲」と思わないことこそ鈍感といわざるを得ない。国語政策を見直すべきだと思う。

謝罪を求めない

2008年01月18日 07時02分42秒 | エッセイ
 韓国大統領当選者李明博氏は日本に「謝罪を求めない」と明快に語ったニュースは痛快!。日本人にはなかなか理解しくいだろう。なぜなら基督教的な意味があるからである。日本での謝罪とは相手から攻められて、結局謝罪しなければならないはめになりする。つまり相手を屈服させる手段として行われるのが一般的である。謝罪の主体は本人であるはずである。日韓関係にしていえば謝罪の主体は日本人であり、韓国人が求めるべきことではない。これはある意味では世俗的なレベルを超えた意味であろう。この話を日本人が聞いてほっとするかも知れないが、そうではなく、謝罪の主体が日本に戻ったと重く受け取るべきである。韓国は古い仇敵への復讐する心から解放される意味がある。これから仏教の盛んな日本の政治家から日朝関係などにも李明博氏のような寛容な発言がなされることを期待している。

自分を投げ捨てて書く

2008年01月17日 07時07分05秒 | エッセイ
一昨日「名作を書きたい」という気持ちを書いたところ北九州住まいの文章家の朴仙容氏から以下のようなコメントが書かれている。「激動の韓国を生きた崔先生の半生は、きっと人々を魅了する有意義な物語になります。まだまだ日本の方は、日帝時代・米軍政時代・李承晩時代・朴正煕時代などのことを知りません。先生の幼年時代から青年時代の韓国、ありのままに書かれるだけで、それは素晴らしいノンフィクション小説になります。物語「韓国の歴史」というようなものよりも、崔先生の『個人史』そのものが韓国の『近現代史』だとも思っています。崔先生の新たな挑戦に期待します」。もし書くならば自分を褒め称える自叙伝ではなく、自分を投げ捨てて書く「告白」型にしたい。

朝鮮人大虐殺事件パネル展

2008年01月16日 06時47分38秒 | エッセイ
 1923年関東大震災の朝鮮人大虐殺事件パネル展が2008年1月23日(水)~27日(日)下関市民活動センターで開かれる。私はサハリン朝鮮人が日本人に虐殺された事件を分析して最近『樺太朝鮮人の悲劇』を出した。それは私が経験した朝鮮戦争の最中のアノミー(混乱な社会の状態)からこれらの大事件が何故起きたのか、人間の基本的な問題に挑戦して扱ったのである。人間は戦争や大きい混乱、無秩序の状態に堕ちるとパニックな無重力な状況になり、普段の差別や偏見がダイナミックになり悲惨な行動をとることと知った。そこらへんから私は教育者として法律やナショナリズムから解放された真の裸の人間としての教育の必要性を痛感した。これらの悲惨な写真などが嫌な方もいると思われるが、パネルの前に立ち止って人間の本質を考える機会にして欲しい。私は社会運動に一切賛同しなかったがこれには賛同した。それは日本人と朝鮮人の枠を越えて、普遍的な人間の問題であるからである。