崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

鍵文化

2010年08月31日 05時48分40秒 | エッセイ
 ドイツに留学した同僚の山本達夫氏の話である。ドイツ人は普通10個以上の鍵を持っている。家の部屋毎に鍵を掛けるのも普通であるが、冷蔵庫の中にもまた鍵を掛けるようになっているものもあるという(写真は山本達夫氏の提供)。医学的な実験室でもない限り冷蔵庫まで鍵を掛けるということはわれわれからは異様に思われる。山本氏はアパートと自転車の鍵しか持てないのにドイツ人の友人は13個も持っていたという。
 韓国では名門大学出の立派な男と結婚しようとする女性は三つの鍵を用意すべきだという。マンション、高級車、通帳の入った金庫の鍵であろう。冷蔵庫の中にまで鍵を掛けるドイツ人と韓国人は鍵に関する文化が異なる。マンションの鍵といっても一つである。部屋毎の鍵がいっぱい付いている房はないだろう。一応あることはあっても部屋に鍵を使う人はあまりいないだろう。家族は秘密がないという前提であるからである。プライバシーがないのが家族であり、夫婦であるという考え方である。したがって親しさを表現するときプライバシーを良く知っているように語るのが韓国人である。心に鍵があるか、ないかの象徴的なことも鍵の異文化としてみることが可能であろう。

国権侵奪100年

2010年08月30日 05時31分59秒 | エッセイ
 昨夜(8月29日)韓国のKBSテレビ9時のニュースは「国権侵奪100年」特集番組を放映した。日本は競争相手から「相生」(共生)の相手に代わったという。恥ずかしい歴史を克服して世界的に先進した「大韓民国」であることを強く訴えた。国民に自信感を持たせる番組であった。日本が加害国から「被害国化」していくのに懸念をした。
 私にはプロパガンダのようにも聞こえた部分もあった。今手元にある戦前のプロパガンダ映像を分析しているが、現在の北朝鮮、韓国、日本の番組さえ、中国は言うまでもなく、プロパガンダとそれほど差がない。映像とはもともと宣伝性があるからであろう。しかしプロパガンダと悪口を言いながら自らそれを繰り返し、それを身につけていくのである。
 韓国では言葉の表現は変わっている。「韓日合併」(한일합방)として学び、耳になれた言葉が最近多く変った。植民地期を「日帝時代(일제시대)」「倭政時代(왜정시대)」が「日帝強占期」日韓合併を「強制併合」となった。私の頭には同源異語が多い。しかし言葉は日本とは違って韓国では速やかに統一される。
 日本のマスコミは例外なく日韓併合の特集をしている。私はそのプロパガンダ性に注目している。私は現在中央紙や地域誌の4つの新聞を読んでいる。地域に住み地方紙を必ず愛読する。ここでは「山口新聞」であるが、この新聞は日韓併合の企画記事はもちろん韓国と地理的に文化的に近いにもかかわらず鈍感である。国際感覚を養って欲しい。

鼎談

2010年08月29日 05時31分16秒 | エッセイ
 朴さんから借りた「兄弟の川」と「ソウル1945」の映像、120時間弱を返すことなどを名目に北九州居住の大久保裕文と朴仙容の両氏をホテルのレストランで昼食に招待した。テーブルは基本的に4人席であるが、3人で座った。世界的に4人席が一般的である。おそらく二カップルを想定したものであろう。われら3人は日本、韓国、在日の国際性を常に持っていて面白く話が広がっている。二人で対談式で話題が提供されて一人のフィードバックによって広がる鼎談になる。鼎とは釜の3本足をさし、そこから鼎談になったのだ。
 終わって朴さんの韓国食料店によった。コチュジャン、キムチなどをいただいた。韓国人のインシン(人心)である。在日2世であっても、インシンは残っている。彼らの暖かい思いやりには感心するところが多い。彼らは帰路に私の自叙伝作成、私の研究活動へのサポート、東亜大学を拠点とした交流拠点の展開の可能性、などを話をしたという。感謝である。
 写真は大久保氏が撮って送ってくれた。朴さんの奥さんが経営する唐戸のお店、「海龍」である。



光化門(クァンファムン)

2010年08月28日 05時11分20秒 | エッセイ
 先日8月15日光復節に光化門が145年前の姿に復元された。光化門は景福宮の南側にある正門である。朝鮮初期に景福宮の南門として1395年に建てられた。いわば豊臣の朝鮮征伐(壬辰倭乱)の時、景福宮と共に1592年に焼失したが、旧韓末に大院君が景福宮を建立しながら1865年に光化門も再建した。植民地時代に朝鮮総督府庁舎を作りながらその位置を移して保存されたが、1950年韓国戦争の時、木造中二階が火災でなくなった。以後1968年に石垣はそのまま置いて上部だけ鉄筋コンクリートを使って復元した。それを壊して、2010年にその姿で復元して8.15日に公開した。
 消失と復元の歴史が象徴的に表れる。1920年代朝鮮総督府を立てる時、この門を移転保存したが、朴大統領が復元したものをハングルで懸版を書いたのが気にいらないということで40年以上の歴史を持っているものを壊して新しく建てて、「145年前の物だ」と言っている。歴史を遡ってやり直せるとでも思うのだろうか。それは歴史物ではなく、2010年の美術品に過ぎない。「復元」とは言っても「レプリカ」であり、「偽造物」であり悪く言うと「捏造」である。総督府庁舎も100年の歴史を消すために壊したか今は反省の声がある。歴史に関して短見に過ぎなかった。明日29日が日韓合併の韓国にとっては「国恥日」である。本当の「恥」を知る政治をして欲しい。

脱北者映画鑑賞

2010年08月27日 06時21分51秒 | エッセイ
 昨夜下関映画センター主催の試写会で脱北者を描いた韓国映画『クロッシング』(原題『크로싱』監督:김태균、2008年)を市民会館で鑑賞した。北朝鮮の咸鏡道にある炭鉱町に暮らすヨンス一家。妻のヨンファ、息子のジュニの3人で暮らしていた。ヨンファは肺結核で倒れる。ヨンスは中国に行き薬を購入することを決意し、命懸けで密出国する。中国へ行って働きながら薬を買う金を貯めるが、公安当局の取り締まりを受け、貯めた金をすべて失ってしまう。脱北ブローカーに言われるまま瀋陽に行き、ドイツ領事館に駆け込み、いつの間にか韓国亡命希望者に仕立てられて、そのまま韓国に送られてしまう。
 一方北朝鮮に残されたヨンファの病状は悪化しこの世を去り、ジュニは父の後を追い中国へ行く。ブローカーの手により豆満江を渡ることができ、父と再会するためにモンゴルまで行くが途中で寒さと飢えで死ぬ。
 今話題性のあるドキュメンタリーのような映画である。この映画を以って脱北者人権運動の動きもあるが、映画は「映画」である。脱北者の真実に迫った映画として見る必要はない。貧困な炭鉱から一気に国際化という舞台となるのは映画が強く物語る。政治宣伝臭を排除した作品とはいってもマスコミで見慣れた風景からそのように見えるのは当然であろう。絶望の中で家族のために命賭けで国境を越えた男の家族愛、父との再会を夢に行動する少年の演技に感動した。韓国ドラマの無理なハッピエンディングとは違って、珍しく悲劇的なエンディングであった。愛犬を殺して病弱の妻に食べさせる場面、少年が泣く場面は10歳ころの私の体験でもあった。
 北朝鮮に3回も訪問した私としては見覚えのある風景が多いが、炭鉱や強制収容所は知らない。韓国や中国、あるいは日本のどこかにもこのような死角があるのではないだろうか。日本の虐めや孤独死などもその死角であろう。

「無縁死」

2010年08月26日 05時28分40秒 | エッセイ
 世界最長寿国の日本で高齢者所在不明が問題になっている。中には死者の年金だけが頼りで、死亡届を出さないまま白骨体と暮らしていた人がいる。居場所のわからない「100歳以上」のお年寄りは数百人もいる。平均寿命の伸び率、孤独な高齢者、そして失踪と無縁死、年金問題など高齢化社会の象徴的な表われであろう。
 日本は明治維新以来戸籍制度を確立し、植民地にも普及させた信頼される国である。しかし、今では高齢化、最長寿国家という体面はドン底に落ちた。「無縁死」についていろいろと言われている。私の日本居住歴から考えると過剰な「プライバシー」が主な理由だと思う。ある大学では電話で身分を明らかにして自分の電話番号を教えても本人に繋げてくれないところが多い。そして「プライバシーを守る先進国」という意識のような態度である。その成果か宣伝電話以外に固定電話のベルは少なくなった。学会では住所録も作らない。個人を守り、個人がしっかりする西洋の「個人主義」を誤解して受容し、人間関係を切って孤独にさせている。これから無縁死だけではなく、自殺なども多くなるだろう。社会病の根っこを直すべきである。



拍手

2010年08月25日 06時16分16秒 | エッセイ
 日本で音楽会や公演で拍手が少ないと感ずる時がある。それは感動が少ないことをさすのではない。拍手を起こすトリガーtrigger引き金が難しいからであろう。司会者などが「拍手でお迎えしましょう」とか手信号で拍手を誘うことがあれば無難に拍手がでる。日本では北朝鮮の金正日の感動のない拍手を資料映像でよく流している。戦前の日本やナチス・ドイツは国民に愛国を強要し拍手を独裁を煽るのに使い尽くした。(写真はMein Kampf)
 昨日ナチス研究者である同僚の山本氏からナチスドイツに関する映画「橋」と「我が闘争」を借りて鑑賞した。一貫して拍手と万歳の連続のように感じた。ヒットラーの国粋主義が人気を集め、政権を握って独裁政権、個人英雄崇拝、ユダヤ人差別、戦争と敗戦などを鑑賞しながら悲惨な歴史を振り返ってみるのもとても辛いと思った。ドイツ人さえ嫌な感が生れてくる。中国の留学生からのレポートに映画に出てくる日本人を見たひとがその残酷さから日本人さえ嫌になったという話を聞いて納得できる感がした。
 拍手や万歳にも毒素が入っている。しかし自然な感動の拍手や万歳は美しい。汚染された愛国を純化して「拍手をする美しい生活」を奨励したい。

台湾から来客

2010年08月24日 06時09分10秒 | エッセイ
 台湾の台中から張修慎教授が研究室を訪ねてきた。彼女は昨年の末に台湾で会って私が放映した古い映像の分析に協力してくれるということで共同調査を計画した。今柳宗悦氏の民芸思想を研究しているという。柳宗悦は韓国では韓国を愛した日本人として有名であるが台湾ではどうであろうか。その研究にも関心がある。
 彼女は日本で熱中症を感じているという。台湾より日本が暑い夏だというのは今、台北市にいる上水流氏からのメールでも同様である。ヨーロッパから帰国した人はあちらは寒かったと言う。日本の暑さが地球全体の温暖化とはいえないようである。私の体調は冬には気管支の調子が悪くて大変だったがむしろ夏期には楽になった。
 約束が食い違って、彼女と昼食を一緒にできなかったことが残念であった。遠くから来られた方への配慮が足りなかったようで、心が痛かった。

講演と公演

2010年08月23日 05時45分45秒 | エッセイ
 昨日は私が講演をし、公演を鑑賞した。下関では1週間ほど前に関門花火大会をして120万人(門司を含む)が集まった。きのうの馬関祭りにも大勢の人があつまった。「愛と誓ひ」の上映の前後に解説を兼ねる講演をした。私は市民にしばしば顔を出すことがあるからと思われてか、ほぼ紹介されずまた自己紹介もせずであった。しかし140人の中には私を知らない人もいたはずであった。2時間で講演と上映をしたが休憩せず、特に全消灯しての上映中に居眠りする人は2,3人だけで熱心に映像に集中しているのをみた。質問では朝鮮の伝統娯楽がなぜ長く入っているのかという質問があった。主に朝鮮人に見せる趣旨からと説明した。特にカササギの鳴き声などは日本人には意味が分かり難いが、監督が入れたことなどの意味も説明した。今朝の「山口新聞」にはその質問の様子まで詳しく報じされている。
 昼時間には祭りの会場で韓国のジジミを美味しく食べた。市民会館では「下関・釜山ふれあい」の公演を鑑賞した。下関側の夫婦による尺八とピアノコラボレーション演奏には惹かれた。笛吹きなどに趣味のある私にとって夫婦の演奏は素晴らしかった。演奏者からは尺八が百済から伝来した楽器であるとも説明があった。韓国の伝統音楽と舞踊で幕を閉じたが内容は素晴らしかったが司会者の進行がうまくなく盛り上がらなかったのが残念であった。(写真は筆者)

GODIVA

2010年08月22日 05時47分09秒 | エッセイ
 母からの躾というか教えが身に付いた一つが人から貰ったものを大事にすることである。教え子の仲人役で記念に貰った洋服、伊藤氏や秀村氏の結婚式答礼品、各種祝いに貰った品や鉢物が何十年前のものがある。ソウルから送られてきた唐辛子の漬物は辛くても残さず全部食べてお腹を痛めた。
 昨日ヨーロッパ旅行をした方からベルギーのGODIVAチョコレートTruffesをいただいた。それが世界的なブランド商品であることは研究室を訪ねてきた全員が知っていることからであった。ブランドとは縁のない私には珍しいものである。それよりも関心があるのはベルギーの植民地商品であることである。その歴史はベルギーのアフリカ・コンゴ植民地を支配した悪名高いレオポルドⅡと関係の深い19世紀にさかのぼる。植民者たちはココアの原料から現在のようなチョコレートを作ったのである。ベルギーはその原料を多量に輸入してベルギーチョコレート産業を発展させた。それが20世紀に世界的に普及するようになったのである。
 イギリス西南部のブリストルにある大英帝国植民地博物館でみた植民地香辛料などの展示を思い出し、植民地を研究する私にとって意味のあるGODIVAチョコレートを味わいながら感謝している。

業績と行跡

2010年08月21日 06時01分23秒 | エッセイ
 昨日韓国のMBCテレビの恐ろしい番組「PD手帳」(2006年8月15日)のDVDを初めて見た。呉善花氏への非難が一貫している。彼女が在職している拓殖大学の彼女を推薦した方の話を出している。その教授いわく彼女を「業績」で評価したといったが韓国語の字幕では「行跡」となっており、学歴偽造、日本語の不能力を主張している。彼女の日本語能力が足りないといいながら業績を「行跡」と間違えるほど幼稚な番組である。
 公的なテレビが作家や教授をしている彼女をプライバシーをもって非難できるのだろうか。韓国を愛するという韓国のナショナリズムしかないように思う。私は彼女と10日間一緒に調査に行ったことがあるが、他の人類学者より彼女が熱心にインフォーマントに密着して調査をするのを見た。その態度と能力を認めた。彼女の講義を盗撮した番組は告発されるべきであるが、韓国では無冠の帝王というマスコミの暴力には犠牲になるしかないであろう。
 韓国も鎖国状況の偏ったナショナリズムからグローバル化している。しかし時代に乗る生き方は正しくない。時代を超える個人の生き方を正すべきであろう。

朝日新聞に「愛と誓ひ」報道

2010年08月20日 05時13分44秒 | エッセイ
 明後日(22)放映予定の植民地朝鮮の映画「愛と誓ひ」について取材を受け、昨日「朝日新聞(下関)」にて報道された。午後から会場へ行って上映のためにセッティングをした。その後数人とお茶を飲みながら話をした。
 この上映は主に中高の教師たちの「地域から考える世界史プロジェクト」会が企画したものであるが、8月22日が日韓合併100周年記念日でもあり、意義があるとか、不意義だとか、裏話を聞いて私はただ唖然とした。研究者であるのに学問外のことについて懸念ばかりし、信念のない研究態度の人がいることに失望した。私はこの映画を映画館で見るような映画ではなく、研究室で歴史資料として分析するように見せたい。そうして左、右の立場と意見を払拭したい。
 先週東亜大学院の集中講義を受けた岡嶋君幸君は「撮影当時の様子を知る貴重な資料でもある。この意味で、映像は、文字資料や写真資料よりも、客観的であり、具体的であるだろう。当時の様子を知るという目的で映像を見る場合は、「愛の誓ひ」のようなストーリー性の強いものよりも、単に戦争の様子や国民の様子等をドキュメンタリー風に撮影したものの方が資料としては扱いやすいものと思われる。より強い「意図」をもって作られたものほど、より工夫を凝らしたものであろうからである」とコメントをしている。
 左右を超えて視聴して欲しい。
 

猛暑

2010年08月19日 04時12分01秒 | エッセイ
 立秋が過ぎても厳しい暑さが続いている。熱中症で病院に搬送される人も多い。特に高齢者が犠牲になるという。しかし私は海辺に住んでいて海からの風に頼って冷房をつけず文章を書いている。
 留学生時代の暑さを思い出す。東京の世田谷区梅が丘のトタン屋根の二階の4畳半の部屋は50度近くになる。冷房はなく、自分で工作して作った扇風機では熱帯夜が特に苦しかった。昼は冷房のある公民館などを利用して読書会をした。
 東大に留学した元東国大学校教授の金泰俊氏と北海道へ旅に出た。函館駅でベンチでは寒くて辛かった。日本といっても涼しい所もある。日本の冬に赤道のインドネシアで暑さも経験した。今世界の天気概要をみるとヨーロッパは20度代である。
 我が家の愛犬ミミは玄関先の涼しい所で楽なポーズで寝ている。韓国語のことわざで幸せな人を「5,6月(旧暦)の犬のような運」だという。韓国ではミミのように苦労せず楽に過ごすことが人のし幸せということだろう。こんな暑い夏には少し怠けるのが心身ともに良いかもしれない。

2010年8月13日「平和への願い:韓日新時代へ」寄稿全文

2010年08月18日 05時51分17秒 | エッセイ
 私は1940年に韓国で生まれた。日本の敗戦直後、京畿道楊州にある国民学校に入学したので戦前の記憶は乏しい。ただ(私のいどこで私が生まれる前に養子となっていた)兄が広島へ徴用されて行った時の送別と帰還は印象に残っている。兄はすでに結婚していて、44年に徴用された。兄は広島の宇品の工場で働いたが、原爆投下の前に帰国した。いまは亡き兄だが私が広島で生活するようになったとき、広島をもう一度見たいと言われて道案内をしたことが、今も思い出される。
 さて戦争が終わってから、村には徴用された数人の青年が戻ってきた。私は彼らの戦争物語を聞いてびっくりしたのを覚えている。南洋のある食堂には人の肉が掛けてあり人肉を食べる話や、B29の爆弾投下の時にどう逃げ惑うのに必死になったという話も聞いた。
 8月15日によって世相は一変したが、学校の中はそれほど変わらなかった。運動会、学芸会、入学.卒業式などもほとんど同じだった。スコットランドの民謡「離別」をもとに朝鮮などの歌詞を入れかえた愛国歌として歌われたが、運動会の騎馬戦などの応援では、紅白戦で「紅がんばれ、白がんばれ」に3・3・7拍子の拍手、式次も日本式で行われていた。
 名前や物称も日本語のまま、村の青年たちが日本語で討論するのも聞いた。隣家の明子は「アキコ」であり、後に「ミョンジャ」(韓国語読み)の両方を使っていた。子供に聞かせたくない話があると、親が日本語を使う家庭もあった。3・1と8・15の記念日には日本時代のように花電車が走った。昌慶苑の桜の花見には電車の臨時駅も設けられた。このように植民地時代の影響がしばらく残っていた。今では桜の木は抜きさられ、松の木に植え替えられた。紅白戦と青白戦に変わった。
 70年代ではナショナリズムが強くなり、日本文化は「日帝残滓」とされ、「低級倭色日本文化」は禁止された。故金大中大統領が98年に日本文化を開放するまで、日本文化は長い間、軽視され禁止された。日本文化を肯定的に紹介するものは、「親日派」と指弾する政策や社会的な雰囲気があった。政治や外交の日韓関係は常にギクシャクしていた。韓国の四大国慶日のふたつ、3・1と8・15は反植民地、反日思想を強化するのに大いに効果を成したのである。
 こうして韓日関係の中で独立記念館が作られた。日本警察の悲惨な拷問場面が復元されて展示されている。その歴史は事実ではあるが、戦後60年以上過ぎた現在、どう受け止めるべきだろうか。日本に植民地にされたことと、被害が大きかったことは事実であるが、教育的には早く植民地意識からの反日思想から脱皮すべきだと思う。
 また日本へ提言したい。私は広島に10年間居住した。広島大学では数年間、「韓国人から見た広島・長崎への原爆爆撃」という「ヒロシマ学」講義を行い、その意味をもっと知り、深めようとした。被爆に関するシンポジウムを主催したこともあった。日本はアジアへの加害と原爆による被害と、2つの側面を持っていることを、きちんと伝えていかないといけない。
 戦争は非情であり、原爆は多くの犠牲を強いた。その事実を直視し、教訓としなければならない。だが、私は戦争を通して平和を教育する論理には反対である。つまり戦争や敵を想定した平和教育はいけないと思っている。何をどう教えるか。アメリカの子供教育テレビプログラムの「セサミ・ストリート」のように子供たちが「遊び」ながら「協力」し、「愛する」ように教えることが望ましい。そこでは主語が愛と平和であり、被害と悲惨ではない。
 今まで韓日は国家間の対立や文化的葛藤が長く、多かった。これからは国家や日韓のレベルを超えていくことに期待する。国家を超えるということは国家間の関係ではなく、生活や文化のレベルでの交流、「韓流」が流れるのではなく「沈殿する」ことであり、韓日を越えるということは北朝鮮を視野に入れて東アジア、アジアへとグロバール化することである。(写真は山口民団の終戦記念式で万歳する場面)

続「ソウル1945」

2010年08月17日 05時18分48秒 | エッセイ
 東洋経済日報への寄稿、光復節特集の「8.15と平和への願い」が大型写真と共に掲載された。私の人生を8.15、6.25、4.19.5.16などで綴ることができる。そのはじめの8.15について思い、日本と韓国へ痛切な願いを書いた。昨日の本欄で紹介した野口の証言と映画「ソウル1945」の視聴で心がかなり沈滞している。
 数ヶ月前朴仙容氏の薦めで貸していただいたDVDの71回分の視聴を夕べ完了した。後半の部分は私が体験した時代であり、心痛いところが多かった。激変時代にも家族愛、友情、恋愛、忠誠と復讐、戦況の逆転などが描かれている。その戦争の主舞台が我が故郷で甘嶽山、議政府などになっている。主点は同じ生まれ故郷出身の二人の男性と二人の女性の友情と恋愛の物語が戦争による激変でもつながっていくことである。その時代を多少知っている私にとっては李承晩大統領の奥さんの顔が出ていない、飛行機の爆撃のない歩兵だけの戦争のようであり、私が体験した戦争とはかなり異なっていた。軍人の「忠誠」という敬礼は休戦後ナショナリズムで生じたものなのに戦争中になっているなど徹底的な考証はされていない。
 しかし大きい教訓を感動的に受けた。植民地、38度線、休戦線による悲劇はすべてといえるほど朝鮮半島の悪い政治によるものであること。解放された自由を育てていくことができず派閥政治で分断させた事実である。その結果「統一戦争」など悲惨な戦争になったのである。人々は「悪い時代」とか「悪縁」などで犠牲になっていた。近い歴史を知っている私は常に「政治家を信じない」と戒め、この映画でもアメリカ戦争映画にでるような一人のヒューマニストのドンウのような人物を教育する必要があるなど、今年の終戦記念日前後には考えさせられたことが多い。DVDを長期間貸して下さった朴氏に感謝する。また今週日曜日22日には終戦直前の映画「愛と誓い」をもって講演することになっている。