崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

犬を連れて歩く人

2006年05月30日 06時04分17秒 | エッセイ
 道を歩く時、子供たちに声をかけたり視線を当てて微笑したりしたが意外に子供が驚いている表情をするので気がついたことがある。子供の殺害、誘拐などの事件が多いから彼らの親や先生が私のように「知らない人なのに声をかける人は危険」と教えたのであろうと悟って私自身が驚いた。特に日本人は他人にを声をかけることや挨拶することが少ないのに、子供の時からこのように人を敵対視する教育をしているのではないかと心配になる。私が犬を連れて歩く時にはいろいろな人と視線を交わし微笑したり、話かけられたりする。犬が他人との関係に潤滑油の役割をしていると思うと犬に大いに感謝したいのと同時に、犬がいなくても安心して道行く子供たちを含む、人たちと話したり、微笑し合える暖かい社会になって欲しいものである。
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下関韓国教育院で講演

2006年05月29日 19時45分11秒 | エッセイ
 下関韓国教育院(李永松)で「シャーマニズムから見た韓国文化」という題目で講演した。山口県民団団長(李相福)、下関市民団団長、教会の長老たち、韓国語教師など多くの人が参加した。私が撮影した映像を見せながら私の研究の出発点から話を始めた。朝鮮半島の周辺地域のシベリア、インドネシア、台湾、モンゴルなどと比較して韓国のシャーマニズムの穏やかさと美しい儀礼を見せた。在日の方は本国文化に触れたと感想を述べ、韓国から来た人は懐かしさを強く感じたようである。
 質問が多く出た。私は聴衆の熱意に乗ってシャーマンの踊りのしぐさを見せたら家内が驚いたようである。楽しい時間であった。帰宅してからシャーマニズムとキリスト教に関する執筆に拍車を加わえた。
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日本文化論

2006年05月27日 23時59分16秒 | エッセイ
 韓国出身の私が今、日本で日本文化論を講義している。青木保氏の『日本文化論の変容』をテキストとして使っている。敗戦直後日本人は失望していたが朝鮮戦争を契機に日本が経済成長をして肯定的な日本人論へ転換していくことに触れられている。ここで二つの疑問がわきでる。一つは戦争を契機に成長することは倫理に反するか、否か、倫理と経済には相互関係がないのか否かということである。実際には経済事情によって、ものごとの見方が変わる。特に成金など、急に金持ちになった人が心も変わっていくのをみる。つまり経済は人を変え、国民の心をも変えるものであるということを感じている今日この頃である。
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泥棒の増加

2006年05月26日 22時51分17秒 | エッセイ
 日本でも最近泥棒が多くなったという話を聞きながらサハリンで泥棒が多かったことを思い出した。私は一度掏られたこと以外盗まれたことはない。しかし泥棒の話を良く聞いた。泥棒の原因は経済的に苦労をしていることを上げる人が多い。その論理では貧乏な人が泥棒になることになる。貧乏な人が豊かになるためには正直勤勉が唯一の武器ともいえる。泥棒が多いところには経済的に豊かな支配層が存在し、横領や詐欺などが多いので経済の問題より倫理の問題であろう。
 中国からの女性留学生から聞いた話である。彼女が夜遅く帰るのを見たある日本人の老婦人が中国人の彼女に「最近日本でも中国などの留学生が多くなって危ない」から気をつけてと言ったという。日本の泥棒増加は経済より国際化を意味するのだろうか。
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宗教教育

2006年05月25日 12時30分39秒 | エッセイ
 国会で議論されている宗教教育について思い付くことがある。今の日本の学生は宗教に関して無関心、無知を強く感ずる。クリスチャンさえ異様に感じるかもしれない。世界的には宗教と民族紛争などのニュースなどがあふれている。しかし、それにまったく無関心であり、世俗的な見方で見ている人が多い。信仰はしなくても宗教への理解は必要であろう。
 戦後の日本の教育はあまりにも宗教に関心をしめさなかった。合理的な人間ばかりを教育してきた。宗教は非合理的なものの理解を求める。合理的、計算高い人は非合理的な愛情、尊敬、親孝行など理解しにくいであろう。また国や民族、人類愛を考えることなどはめったにないであろう。非合理的な点こそ人間性の重要な特徴であることを宗教を通して学ぶべきだと思う。
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拙著訳者の真鍋氏

2006年05月24日 05時44分42秒 | エッセイ
 拙著『恨の人類学』の訳者の真鍋祐子氏が東大東洋文化研究所に職を得たという葉書をいただいた。彼女から学部学生時代にハングルで手紙をもらってびっくりして返事し、以来拙著を良い文章で日本語で翻訳してくれたことにいつも感謝の気持ちを持っている。栄転を心から嬉しく思っている。
 最近私は人の喜ばしい事に感謝する心が以前より強くなっていることを悟った。年をとったということであろうが、人への関心と感謝の気持ちを常にもっていたせいでもあると自評している。
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日本の治安も乱れ

2006年05月23日 22時35分39秒 | エッセイ
 アジアを広く歩いてみると日本人は正直、勤勉であるという評価は揺らぐものではない。しかし最近日本でも物が盗まれることが多くなったという。しかし私の偏見かもしれないがまだ大丈夫と思い込んでいるせいか鍵を閉めることを忘れるときが多い。人を疑うよりは盗まれてもしょうがないという気持ちが強い。
 日本社会の治安の不安を外国人が多くなったことに原因があるという人がいる。中国からの留学生の女子学生がよる遅く帰るのを心配して、ある年配の女性がその女子学生が中国人とは思わず「最近中国人が多くなって危険であるから注意しなさい」といわれたという。皮肉な話であるが事実である。
 不法滞在者が多いこと自体が国際化を意味するという学者もいる。日本人は純粋である、日本は温室状態であり、外から外国人が入ると汚されるという態度も変えないといけない時点に来ているのではないだろうか。
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勝者と敗者

2006年05月22日 07時01分37秒 | エッセイ
 私は最近人生、特に日本での20年近くの生活を振り返ってみながら失敗が多かったことが気になり、会田雄二の『敗者の条件』を読み直した。それについて、ある同僚と話をしたら、彼が私に「勝者であろう」といった。人からはどう見られるかは別として自分としては敗者の意識が強い。それが極端になると自閉症など心理的な病気になる憂いがある。
 クリスチャンとしてイエスが歩まれた難しい人生をモデルに生きてきたつもりではあるが世間は理解してくれない。それが辛いと感ずることもある。年を重ねることによって信仰が強くなるといわれているが私はそうでもない。反省する朝である。
 
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Da Vinci Code

2006年05月21日 22時50分48秒 | エッセイ
映画Da Vinci Codeが世界的に話題になっている。去年12月デンマーク新聞にイスラムを侮辱する風刺漫画12枚が掲載され、それがヨーロッパの多くの新聞に報道されムスリムの反抗デモが広がったばかりなのに目下カトリックとプロテスタントの抵抗運動が起きている中、映画はより人気を得て商売繁盛になっていく。また少し前にはパッションという映画がユダヤ人の抵抗運動を起こしたのは記憶に新しい。これからは仏教などあらゆる宗教がこのように侮辱されるようになるかもしれない。
 これらの現象は宗教の世俗化の時代に宗教の聖なるタブーを壊すこと、宗教の神聖さと言論の自由の葛藤、フィクションと映像の暴力性の強化などが読み取れると思う。ここで特定の宗教を信仰する人々はそれらの宗教への挑戦が起こることに柔軟性を持つべきである。抵抗することによって逆効果だけ増幅するようなことはしないほうが良い。また世俗的、あるいは合理的な立場から宗教の非合理を攻撃しても宗教は教義だけを重要視するのではないし、宗教的コミュニティに教権侵害することは良くない。人権侵害と同様教権侵害もしないように注意すべきであろう。
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民団と総連の和解

2006年05月20日 21時23分23秒 | エッセイ
 私は民団と総連の敵対と反目には非常に否定的であって、和解を狙って4月末に下関の民団長と総連の委員長を招待して同席していただいた。私は二人が同席しているのを見るだけでもうれしかったし、満足した。しかし最近、中央で和解のニュースが流れた。大歓迎である。
 ただ問題になるのは彼らが自主的に行ったというよりは朝鮮半島の事情によって変わったことである。ある意味では朝鮮半島の影響を直接的に受けていることの証明のように思われるがこの二つが自主的な団体になっていくことを切に願っている。
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自宅死について

2006年05月19日 22時17分08秒 | エッセイ
 昨日の続きの話。渡辺氏の奥さまから家内が電話でお聞きした話しであるが、彼が自宅のソファーで昼寝中眠るように逝かれたという。もちろんびっくりされた奥様が救急車を呼び、病院で蘇生術もしていただいたそうであるが、本当に息を引き取ったのは奥様の胸の中で幸せな死に方だとふっと思ったが、以外な話が続いた。自宅で死亡したということで、警察がこられ、血痕などがないか調べたり、保険関係のことを聞かれたりと調査を受けたということである。自宅で死ぬことが残された者には大変なことだと知った。
 伝統的には自宅で眠るように死ぬことが理想的であったが今では病院で死ぬことが普通になった。韓国では死ぬ直前に病院に運ぶか、死後でも病院に運び、そこで葬式を終える。葬式は変わりにくい伝統的な基礎文化といわれたがその基礎がいつの間にか変わったことに気がついて驚くくらいである。
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渡辺正治氏の死去

2006年05月18日 06時21分00秒 | エッセイ
 昨日広島の渡辺正治氏の死去のお知らせが留守電に入っていた。渡辺先生は1970年ころ韓国の被爆者の調査団として調査研究し、長い間チェルノビル被爆問題に関心を持って調査研究をしてきた。彼には私の恩師のソウル大学李杜鉉先生の紹介で出会い、広島大学で「被爆と東アジア平和」というシンポジウムを開催し、共同司会をした思い出がある。その時二人の意見が合って尊敬する池明観先生に基調講演をしてもらった。その報告書は広島大学国際協力研究科から出た。渡辺先生はクリスチャンとして人類愛と信仰に生きた方であり、大切な友であった。彼の御冥福を心からお祈りいたします。
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先生の日

2006年05月17日 05時51分03秒 | エッセイ
 5月15日は韓国では「先生の日」であるということで感謝のメールや電話などをいただいた。これは先生という存在は職業を超えて恩の関係であるということを意味する。日本ではすでに恩などの関係は古臭いと捨ててしまったので親も先生もただ役割の関係のようにドライになったように思う。したがって親や先生に心から感謝するという感情が薄らいでいるように思う。
 恩の概念は「無限の恩返し」であり、二人の人間関係には愛情という感情が含まれている。私はこのような意味で「恩師」をもっており、弟子を持っている。それが幸せである。
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若層が少ない

2006年05月15日 05時53分11秒 | エッセイ
 教会で母の日のお祝いでカーネーションをもらった。もらう人は多く、あげる人が全無に近い。つまり若者が少ない。長老3人と話をした。老齢化は教会でも深刻な問題である。特に宗教離れ現象とともに教会の存立が問われている。しかし復興する教会もある。それは牧会者の熱心さとノウハウによるものである。それについて長老たちと熱心に議論した。
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母の日

2006年05月14日 08時06分31秒 | エッセイ
 今日は「母の日」である。広島大学での数人の教え子から花やお菓子などが届いた。感謝している。私は母に親孝行をした覚えがない。親不孝だったと思っている。クリスチャンだということで法事もしない。しかし母の愛情は良く覚えている。私が幼い時、指が炎症して痛んでいるのを見て「その痛みを私に下さい」と夜神に祈る母の声を今もはっきり覚えており、その祈りで今まで無事に暮らしていることに感謝する。その役割を今は家内がやってくれる。まわりに感謝すべきことが多い私である。
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