崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

勇士の野蛮

2013年03月31日 05時31分50秒 | エッセイ
 1942年真珠湾事件直後、日軍占領下のマレー半島で、捕虜となった20余名の婦人と子供をシンガポールの捕虜収容所まで徒歩で移動させる状況を映画を字幕なしでみた。しかし感動をした。映画自体がドキュメンタリー風、また日本人の英語が混ざり聞き取りやすかったこともあった。日本人の捕虜扱いについては評判悪いのは良く聞くことではあるが、この映画がそのような印象を付けたのかも知れない。戦争の惨酷さを描出する映画は数多くあるが、この映画は惨酷な場面は見せずその状況で恐ろしさを表現している。イギリス人夫人たちが汚い水を飲み、子供がヘビかまれて死ぬ。捕虜の男性が射殺される場面は見せず表現している。人の想像によって残虐さが伝わる。後に生き残った二人の男女の邂逅のシーンで終わる。一九五六年カンヌ映画祭出品を日本政府の抗議で中止された問題作である。
 私は残虐さより日本軍の尖兵たちがイギリス人の時計やネックレスなどを略奪する場面での失望は大きい。終戦の時ソ連軍の略奪の証言を多く読んで聞いたことがあるが、日本軍が略奪したということは聞いたことはなかったからである。日本軍は東洋平和のために戦う聖戦の皇軍の勇士であるので卑劣な行為はしないと信じてきたからである。この映画のこの場面は全く虚構であり、あるいはでっちあげであろうか。いままで日本側の情報や映画だけを見ていたことを反省している。ハリウッドのプロパガンダ映画といわれるWhy We Fightを見て日本側からのものとはことなるということを知っているがこの「マレー死の行進」はショッキングであった。平和のために戦う勇士の野蛮性は例外のないものであろうか。
 

婦女売買

2013年03月30日 04時11分57秒 | エッセイ
 キャンバス内の桜が満開していても寂しい。花冷えが長く花見の気持ちになれず、また一本だけの桜は寂しい。桜は群花である。
 同僚の山本達夫准教授が主宰する「西日本ドイツ現代史学会」で専修大学の日暮美奈子氏の発表「婦女売買の作られ方」が印象的あった。1920年代のドイツブレーメン港における婦女売買をめぐって植民地、越境、プロテスタントの伝道などの問題点から警察の記録を分析した内容であった。私はサハリン日本警察の朝鮮人調書などを分析したこともあって特に関心があった。この発表を聞きながら刺激を受け、もう一度私もその警察文書に戻って研究したくなった。
 「女中」ということなどをもって人権的な意識を持っている一般市民の「通報」と警察の「確認」の対応関係の分析が行われた。私には大いに勉強になった。婦女売買を扱う論文でありながら性的暴力、売春などの性的モラルについての言及はほぼないのはどうしてだろうと質問し議論した。一般市民の「通報」というのは一般的に多く性的、あるいは職業差別的な性モラルや人権を意識するはずであるが、警察側は性行為や女中などよりは犯罪性に注目して「確認」するところの視野が異なることがわかって納得した。これが論点になって欲しい。
 

間島

2013年03月29日 05時19分00秒 | エッセイ
先日本欄で毎日新聞(下関)連載の作家古川薫氏の文にコメントしたところ昨日手紙をいただいた。私は彼の戦前の映画「真空地帯」と体罰の関連性について、その発想と文書力に感動したと書き、先日会った時も話をした。軍隊「内務班」の話は私が経験したことで実感があるが、韓雲史作の放送劇「玄海灘は知っている」と合わせてみる機会を作りたいと言ったことに古川氏は見たいと書いてある。玄海灘とは釜山と対馬の間の風浪の激しい海を指している。それも日本側からの名称であり韓国では「大韓海峡」という。日本の朝鮮海峡と対称的である。昨日の読書会では1920年頃朝鮮半島の北部の対岸の中国の間の「間島」の地名について読んだ。中国人、朝鮮人、日本人、ロシア人がそれぞれ雑居生活の中で地名が混乱するようなこと、国際化を先走ったような状況であった。
 本来は人々が山や海を見て素直に命名したはずである。それは朝鮮海峡と大韓海峡のように国家意識のないものであろうと私は本当に素直に考え直してみたかった。たとえば今問題の島が独島と竹島になったのを自由に想像してみる。独島の独は韓国の慶尚方言のドク=石で、石の島、一方日本人は岳(タケ)の発音から島名として定着したものではないか。これはただの想像であり、信憑性を証明しようとするわけではない。私は朝鮮戦争の時初めて見たヘリ機をトンボ飛行機と呼んだようなものである。「間島」のように国家間の間にある島を国家名で問題にする前にそもそも人々がその島を見て石や岳に感じたような純粋な心へ戻って考えるべきであろう。
 

意外な出会い

2013年03月28日 05時10分14秒 | エッセイ
 下関でも桜の満開宣言がされてもまだ寒い。中国新聞の伊東氏からこの寒さを花冷えという日本語を教えていただいた。花が咲いてからの寒さを指す言葉であり、韓国語のコッセンチュイは花を咲かせない寒さを指す言葉で、日韓において開花の前後の寒さを指すことが異なることを知った。我がマンションの大きい桜はまだ3,4分咲き、まだ寒い。
 下船時間より早めに下関港に着いた。韓国からの留学生18人を迎えるために立っていた。そこで小倉教会の朱文洪牧師一行に会った。彼の引率で韓国歴史探訪団、豊臣朝鮮侵略歴史に関する資料以って旅行したという。彼らと別れの挨拶をしてしばらくして留学生たちが現れた。荷物は大きく重い。広島大学時代の私の博士課程の学生であった黄氏の娘が含まれていた。小学生の時わが家で大みそかを過ごし、新年初日の出も見た家族たちとの思い出がよみがえり感動的であった。ただ彼女は前髪が長く、顔が半分しか見えないファッションであって残念であった(写真下)。
 彼らを大型車で大学寮に案内後、私は東京からのお客さんを紹介された。魚井氏と大学創立者らと談話が長く続いた(写真左端から櫛田学長、魚井、先代理事長)。魚井氏は、ノルウェイのナイト(Knight)の称号を持っている方で、水産業系の大物人物であるということが察知できた。彼の話で原子力発展に努力していること、特に驚いたことは父親の女性関係など世俗的な、あるいはそれを超越した話が延々と続いた。この面白い話が漫画になっていると言うので読みたくなった。ネットによると魚井一生氏は1933年生まれ、ノルウェー王国第一功労ナイトであり、東京工業大学で「原子力への期待」と題して講演された方である。

「これで縁は切れない」

2013年03月27日 04時48分33秒 | エッセイ
 毎日新聞社の三嶋祐一郎支局長(写真の中央)は鹿児島へ転出するということを昨日の定期コラム「支局長評論」で明らかにした。私が下関に来て間もない時、3年ほどリレーエッセイを書かせていただいた。それが下関での言論人との付き合いの始まりであった。私は20代に韓国文化公報部において情報を言論に出す経験を持って以来の言論人との付き合いは多い。彼は新任の記者を紹介していただいたりして親しくなるようになった。多くの言論人は事務的な関係、一回で関係が切れるのが普通である。私は言論人とは平等な関係、情報を知らせることはあっても付託はしない。その最近の模範的な関係が三嶋さんとの付き合いであった。
 彼と談話したことがコラムとして触れられたこと、私が研究所を立ち上げる時古川薫氏宅まで2度も案内してくれりした。またいろいろ講演会企画などの相談にも乗ってくれた。私は多くの同僚や友人に彼を紹介した。彼の人間関係は広く、深い。先日東亜大学の櫛田学長と送別の時間を設けた。二人で彼の車が見えなくなるまで手を振った。会って別れる普通の出あい、そこに人情のスパイクが起きた瞬間であった。これで縁は切れない。

 

「冬へ戻った」

2013年03月26日 05時19分40秒 | エッセイ
桜が例年より早く咲くという朗報にブレーキがかかった。ここ山口地方の気象台では霜注意報を出している。この寒さを「冬へ戻った」というのに韓国ではコッセンチュイすなわち花を咲かせたくない「嫉妬の寒さ」と報じられている。この気温の急降下は全く自然現象であり、温度と曇と風などの説明で良いはずである。それを冬に戻ったとか嫉妬とかはオーバーな表現であろう。人間が自然を感じ、解釈する勝手なことであり、あるいは文化といえる。日本の表現に比べて韓国は派手な花にやきもちを持っている。日本に比べて寒さについてオーバーな解釈であり、面白さがあり、日本の方がドライに感ずる。
 桜は気温に敏感であり、一足早く満開したところではこの寒さで花嫁が泣きそうな表情をしているように見える。しかし我がマンションの桜は慎重型でまだ1,2部にしか咲いていない。これからはまさに春の日和になり、お待たせしました!というように満開になるだろう。

「お忙しい中」

2013年03月25日 04時53分21秒 | エッセイ
 編集者から一冊のゲラが送られてきた。急いで脱稿しようとしていた仕事を中断してこれを優先することにした。以前であれば三つの仕事を並行することが出来たが、今は気持ちだけが忙しく、本当に「お忙しい中」になっている。最近は外回りが多くなり、なかなかこなせない。これも歳の所為か、私が慎重にする「日本人」となったのか。古典文学を主に出している出版社の編集者のコメントに感謝しながら、この関門を越えたら私の「日本文」成績は合格になるだろうと、受験生のように緊張して読みながら校正している。食卓兼用のテーブルの上の一輪刺しは無色、仕事の資料などが山盛り、無秩序の散乱状況、でも来客の時は一瞬に綺麗な応接間に変身する生活は続く。「お忙しい中」ということばを形骸の儀礼語としか思っていなかったが、今はそれを痛感する。 今週から留学生の入港、花見などの予定で忙しさが増強、気持ちが浮ついている。
 ブログやFBなどでは毎日発信しているが、紙の文化への未練は大きい。私は若いころに活字の印刷現場で誤植を見つけ直す仕事、当時七,八回の校正を行った。後にはオフセット印刷、またコンピュータープリンター印刷などへと、私の印刷文化への思い出は多い。今はネット上で筆者と読者が直結し、本屋無用論、出版社の危機説が言われ、本の出版がどんどん難しくなる時代になるという。出版社と本屋の対策が新しく求められている。氾濫する本の中から評価する機能、デジタル化への挑戦などが必要であろう。私はまだまだ本を書きたい。
 

「女の気持」

2013年03月24日 06時42分55秒 | エッセイ
 「毎日新聞」投稿欄「女の気持」に二人の知人の女性の文が載った。山崎のぶ氏はいやがる認知症の夫をデーケアーに送って友人と時間を過ごしたしたことを今は亡き夫を反省を込めて思いだすこと、中村明美し氏は老いは醜いといわれるが、75歳で白髪の山姥のようになっても音楽を教え、老いの真の美しさについて書いた。山崎氏は葉書エッセーで受賞もされた方でクリスチャン夫婦として生き方を素直に表現している。以前中村氏が指揮する音楽会で感動したこともあり、年を重ねながらより一層完熟していることを感じさせられた。本当に「文は人なり」である。早速感想を手紙と電話で反応した。電話では楽しい対話が続いた。

3K精神

2013年03月23日 05時23分55秒 | エッセイ
 昨日韓国の提携大学から来れれた金正淑教授を駅で向かえ、送るまで一日楽しく付き合った。昔家内の同僚であった女性であり親しみを感じ、本学の若い教員を巻き込んで学生交流に関して協議した。その大学は専門短期大学から4年制へ昇格し、人文教育を強化するようになったという。日本の大学が就職のための各種資格を与えるような専門大学化して行くような傾向があるのに、それとは逆な傾向を聞いて考えてみた。韓国は常に大学進学率が高く、高学歴社会であったので、実用教育への変革を求めている。特に李明博政権から専門系高校の就職率を高めようとする政策をとっていて現大統領はそれをより強化するという。しかし彼女の大学校は専門系高校から来る学生が減って、人文系卒業生が増えて偏差値も高くなってよくなったという。つまり早く就職、低学歴を優先させようとする政策とは逆の現象として、私は注目して聞いた。
 この時期日本では卒業生の就職、職種が話題になる時であり、私は就職と教育に関して考えながら聞いていた。韓国の大学は身分と就職の役割を果たしている。韓国人同僚であったある教授の婦人の話を思い出す。彼女は専業主婦で時間が余りすぎのように見える方であり、子供を「大学の先生にさせたい」という。そのわけを聞いたら“大学の先生は社会的地位もあって楽な仕事であるから”と言った。私はそのために「大学の先生」になったら“絶対良い研究者や教育者にはなれない”と内心叫びたい気持であった。彼女の夫は良い成果を出した研究者でもなければ仕事に否定的な人に過ぎなかった。日本では3Kつまり「きつい (Kitsui) 」「汚い (Kitanai) 」「危険 (Kiken) 」という職種があるという。この前ある役員達に私は3K精神について冗談ぽっく語った。私は今一般人が好まない古い文献や映像を分析し、日本語、韓国語、英語の字幕とナレーションなどを聞きながらパソコンで執筆中である。このような作業が出来るという自慢話ではない。これらの作業は3Kに当たるものであろう。大学の教員も3K精神が必要であることを覚悟して職種を選ぶべきである。

猫の日向ぼっこ

2013年03月22日 04時27分33秒 | エッセイ
 東日本の被災地に行ってこられた同僚の礒永和貴氏から話を聞いた。復帰復元作業がそれほど進んでおらず悲惨な状況が残っていること。また一方では政府などからの支援金で景気がよく飲食街には活気があふれるという感も受けたという。支援金を貰う対象の人とそうではない人との格差も出て、災難が福に替っている人もいるようであるという。その話を聞きながら複数の意見と一致するところがあると思った。私は朝鮮戦争の時を思いだした。その戦争から大きい被害を受けたが、人によっては貧富の逆転の好機であった。東日本大震災は基本的には天災である。それは当然被害が平均、平等に受けるわけではない。無秩序、大混乱で戦争のように人命、財産を失った天災、なにより安心の基盤が揺れて崩されてしまった。私は激しい戦争の中でも生き残った者である。生き残った人の心と使命のようなものがあるように感ずる。それは非モラルの混乱期を克服する心であり、生命倫理である。不幸や混乱を好機にするようなことではない。支援の多少を問わず感謝の心を持って助けあうことであろう。
 東京から下関へ炭焼きの調査をするために宮下良子氏が来られた。以前私がインタビューして既に本欄や「東洋経済日報」などに報告したことのある小野の吉冨胤昭氏宅まで倉光氏の運転で案内した。閑かな農家の玄関前に三匹の猫が日向ぼっこをしている。猫が私の足に体を擦って歓迎する。老夫婦が頬笑んで挨拶をしてくれる。おいしい苺を頂いて帰って来た。被災地の厳しい状況の話を聞いた後なので、のどかな春を過ごす猫と吉富夫妻の笑顔が心を温めて下さった。被災地にも一日も早く、このような日々が訪れてほしい。

花嵐忌

2013年03月21日 05時37分42秒 | エッセイ
今日は女優田中絹代の「花嵐忌」であり、昨日はNPО田中絹代メモリアルぶんか館の作家古川薫名誉館長と平井愛山理事長、映画関係者たちと一緒に午前中下関市中央霊園で墓参りをし、午後には絹代の1949年訪米の記録映像を見た。面識のない田中の墓へ焼香し、祈った。新年度から私が「絹代塾」長として絹代に関して勉強しようと覚悟した。
 人が死ぬことは「止」「静」になることである。特に俳優は「活動写真」など映像を多く残すことが出来るので死んでも生きているようである。絹代記念館で皆で一緒に弁当を食べながら権藤博志氏製作の映画祭記録映像をみてから河波茅子事務局長の案内で記念館展示を改めて観覧した。大阪から参加した大学院生の津田なおみさんは絹代に関する学位論文を準備していると言い、一所懸命にノートを取っていた。絹代は近い親族の小林正樹に抜擢されて名優になったこと、占領下の日本の女優として光栄なる訪米、大歓迎されたことを知った。私はアメリカが占領して、まさかアメリカ合衆国の一州のような日本の名優を迎えるような感、その日米親善大使として絹代の役割として読み取った。
 夜は韓国教育院長金起萬氏宅に招待され韓国料理で歓待された。話題は食材の比較の奇談であった。日本でトウガラシとおもって買ったオクラ、そして土筆、ジュンサイ、ミョウガなどは全く知らないという。院長の奥様は日本食はお口に合わずお米からキムチはもちろん全ての食料を韓国から運んで食べるという。昨夜は牛骨のスープなど韓国の季節料理の一年分を味わったような感じであった。

『大韓帝国の保護と併合』

2013年03月20日 05時23分57秒 | エッセイ
先日友人である県立広島大学の原田環名誉教授と知人の首都大学の森山茂徳教授の共編の『大韓帝国の保護と併合』をいただいた。大韓帝国併合、特に1905年の第二次日韓協約をめぐって政治、外交、経済、社会など、幅広く論議されている。日本の朝鮮植民地が悪であったか、開発近代化であったのかという、新しく危険な論議も含んでいるので軽くは読めないと思う。私は主に戦後における植民地遺産に関する研究を続けているので時代的には距離があるが連続して考える必要がある。その意味で原田氏と『植民地の朝鮮と台湾』の共編を出したこともある。
 本書は李氏王朝を引きずっている大韓帝国の無力さ、日露戦争をめぐって当時の大韓帝国と国際的な情勢、西洋への反植民地化に対する脅威における日本の役割が正当化されるようにも読める。本書は日韓の研究者によって構成されていても歴史観は日韓の学者によって自国を味方するような内容だという印象がある。ここで韓国の朴大統領が「日本に歴史認識を正せ」という意味はどういうことだろうか、考えてみるべきである。この本を読む前に、私は常に考えている「客観性」をどう保つべきかを考えた。学者は民族と国家を超越することが出来るかが試金石であろう。政治家や一般人に比べると研究者が客観的であると評価できるが、南京問題、従軍慰安婦、創始改名、強制連行などなどを客観的に研究し、発表することは難しい状況である。
 戦後韓国の解放と独立過程においては植民地史をもって反日愛国を強調していたのは事実である。それは植民地から解放された民族において一般的な現象ともいえる。旧宗主国であった先進西洋諸国や日本は反省の沈黙をしたのも同様であった。しかし歴史は過去のものではなく、生き続け、政治的なカードにもなりうるものであった。
 「歴史認識を新しくせよ」ということばがどれほど難しいか。それは自分自身に戻って考えるべきであろう。歴史を持って相手を攻撃することはプロパガンダに過ぎない。日本は1910年に韓国併合を合法的に行い、韓国を近代化させたと主張しても意味がない。なぜなら戦後の韓国における歴史認識がでっちあげの歴史だといってもそれももう一つのポストコロニアル歴史であることを認めざるを得ないからである。本書が歴史をひっくり返すことは出来ないが、私は歴史をもって客観的な思考をする上で良い教材だと思っている。一読を勧める。


「奇跡の一本松」連載エッセイ

2013年03月19日 05時12分28秒 | エッセイ
 六本木、八本松などの地名を聞くと何か由来があるのではないかと聞きたくなる。「奇跡の一本松」とはご存知のように東日本の大震災後にアイアカマツ(赤松と黒松の雑種)の1本が奇跡的に倒れずに残った松の話である。しかし背の高い赤松の美しさの話ではない。震災で悲しくも死んで、剥製にされ、記念塔のように立っている松である。多くの人が訪ねて見上げる。その松を見る人の心境は複雑であろう。
 美しさと悲しさを同時に感じさせるからである。この松は大地震で多くの人命や財産を失う現場を見守った証人のようにその廃墟地に立っている。また生き残った人々に生きる意欲を象徴する励みの老松かもしれない。しかし正直にいって私には見上げる勇気がないように思う。死の地獄から生き残った当人たちにその場面を回想させるのは残虐な気がする。すくなくとも二度と見たくない気持ちと悲惨な歴史として残ることだろう。
 その赤松を保存するか、否かよりもっと根本的な問題がある。その松が生き残ったとはいえ、悲惨な象徴物であるからである。保存する側と観る側は必ずしも一致するわけではない。私はその3.11の日にテレビの生中継のような映像を忘れられない。東日本大震災から2年になった。その事実は少しずつ忘れられ希釈されていくだろう。
 文化庁は「地形が残っている」として名勝地として指定しようとすると伝わっている。何を文化財、どう保存すべきか常に考えるべきである。悲しい不幸な被災地の松を以って記念、名勝地化することは何だろう。このような負の遺産を無くすべきか、保存すべきか、深く考えてみる必要がある。
 イタリアのボンベイには火山の爆発で犠牲になった悲惨な状況が展示されている。私はローマ時代の華麗な文化生活が一瞬で火山物に埋められた悲劇的な状況の痕跡をみて気持ちが重くなった。広島には原爆ドームが世界文化遺産として登録されて、原爆の恐ろしさを表している。その被曝中一本のソテツが元気に生きている。私は広島大学東千田キャンパスでの講義に行く時はその路辺に被曝しても生き残っているそれをみた。そのソテツは偶像化されていない。
 韓国が東洋の代表的な建築物である朝鮮総督府の庁舎を植民地時代の歴史とし、破壊・撤去したのはまだ記憶に新しい。日本も植民地歴史を否定しても、歴史自体は消えるものではない。また焼かれた南大門を復元してもそれはあくまでも新しいものに過ぎない。歴史の中から何を残して、何を保存するかは簡単なことではない。国家や民族に限るものではない。
 負の遺産をどうもつか。ただそれを公にもって反省するか、密かに持つかは当本人の判断によるものであろう。どちらが正しいか、否か評価することも批判することもできない。個人も痛みを持って、忘れたい過去を持っているはずである。それを消そうとしても消せない。むしろその過去によって現在の自分、人格が形成されてきたことを悟るべきである。(「東洋経済日報」2013.3.15)


送別会

2013年03月18日 00時13分16秒 | エッセイ
 教皇選挙が注目された。ローマや西欧圏外から法王が選ばれたからである。しかし法王選挙は民主的なモデルとして有名である。韓国では大学の総長などを法王式で投票を行うことが多い。最初に自由無記名投票をして上から多数の2名を以って、決選投票をする方式である。投票では匿名性を守りながら、同時に自分自身への投票を防ぐ巧みなシステムになっている。聖職者たちは正義感や良心的な人だとはいわれても必ずしもそうとは限らないので、個人を越えた公人になるためのチェックが必要である。私が知っている二人の牧師は自分の恩人に当たる人を裏切った。もし彼らにそれについて聞くとおそらく神様の指示によるものだったというだろう。そしてイエスが裏切りを戒めたことを平然と説教するだろう。
 日本人は教会と言えばオウム真理教のようなオカルト集団のように思われがちである。教会は愛を育てていくところである。エリヒ・フロムは愛は教育されなければならないという。昨日私が出席する教会では韓国へ帰国する呉信媛教師の送別会が行われた。私とは3回目の送別会となる。美味しい韓国料理を食べながら涙汲みながらの祈りと対話が続いた信徒の交流であった。人類愛と正義感をもって交流しながらの人間関係が行われるところが教会である。

映像を分析する

2013年03月17日 04時47分48秒 | エッセイ
半年ほど前、脱稿した原稿をある友人に送ったら「短い」と言われたので、出版向けに補充すと約束した。また映像編集を協力すると東京の会社に約束した。執筆のためのまとまった時間がとれず原稿が進んでいない。数か月前から隣近所の建物を壊して新しく建築している。せっかく時間があっても建築の現場が気になって窓際に立ってずーっと見下ろして時間を潰していることが多い。新しい建築物はほぼ完成に近い、最後の仕上げになっているのに私の原稿はそれほど進んでいない。早い仕事をモットーにしている私が日本人の「遅い慎重さ」(?)になったのか。仕事が進まず負担を感じている。これがストレスと思う。人にはストレスを酒で発散せず「仕事で解決せよ」と言ったが、いま自分のストレスが気になっている。
 映像を分析している。ストーリーや筋の把握のために全体を観てから停止場面にして画像の構造をメモし、またナレーションを聞いて書きとめ、字幕を書き揃えてみると映像作品がまな板の上の魚のように調理できそうになる。昨日は一日中その作業をして、疲れて隣の工事現場をみると外側は仕上がっでいる。その仕上げ方は丁寧で完璧である。それを自分の作業に参考にする。
 いま楽しく観ている韓ドラの「全部上げる」は次回を待つのが長く感じてしょうがない。緻密なプロット、疑問をゆっくり一つつ処理していく誕生の秘密と母(写真)娘の葛藤のドラマ、高く評価できると思ってネット上で調べると視聴率低下で急に終幕したという。自分がこんなに楽しんでいるのに勝手に視聴者のレベルが低いと思ったりしている。これは私の高慢であろう。否、人は人を好きになり、愛することも自分勝手な高慢から始まるのかもしれない。