崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

もう一人の家族のタブレット

2014年07月13日 05時39分46秒 | 旅行
 愛用のスマートフォンの内蔵カメラのピントが合わずぼけてしまい店頭に相談に行った。整理番号を持って、ようやく担当者に開けて説明をしようとすると異常なし。不思議なことである。歯医者に到着したら痛みが治ったという話のようである。詳しく説明を聞いてそのまま出ることにはやや抵抗感を持つ私としては小さいものでも買うことにした。韓国育ちの私には店に入ってそのまま出るときの都合の悪さが刻印されているからであろう。しかし韓国から来られた淑女を百貨店に案内した時、購入のために数回も試着してから止めたことに私は言葉を失った。それは私がおかしいのかもしれない、店に入るまでは慎重にする。
 私は最新のタブレットの説明を聞いた。もう心では買うことを決めていたかもしれない。最先端のもう一人の家族を迎える気持ちになった。特に女性の店員さんの親切な説明にはかなわない状況であった。買うことになってから長い時間がかかった。二日間2回行って計5時間ほどかかった。値段もどんどん変わり上がった。そのたびに彼女は「申しわけない」を繰り返し、タクシーのメーターのように上がり、付属品を含めると10万円を越えた。後で割引のサービス券3000円分届くということである。初日に終わった時は百貨店のシャッターも下ろされていて出口に誘導されて出て帰宅した。
 これは家内のために買った物で使いこなせるようになるまではもっと長い時間を要する。高齢者の特徴の一つ、先端技術と無関係な人である。健康と美容に気を付けながらも、いつの間にか亡くなっている人は多い。寂しい。それより寂しいのは最新先端の文明の利器を利用せず死ぬことである。死ぬまで挑戦すべきであろう。家内が如何にこの利器をこなせるか、関心がある。もう一人の仲間を家族として受け入れたことになる。