崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

『支那人の性格』

2016年04月30日 05時30分15秒 | 旅行
福岡に着き、深呼吸、帰宅してお風呂に入り。旅の疲労、回復をした。大連の一流のホテルでは窓ガラスが汚れていて25階の展望レストランからの絶景を楽しむことができなかった。ホテルの一番といえる窓ガラスに不満を持っていたのに下関行きJRの窓ガラスがそれより汚れているのに気が付いてびっくり。自宅からの関門海峡は鮮明に見え、清浄な日本に帰ったという実感が沸いてきた。汚れた清国(?)から清い国へ戻った感がした。
 中国人の不思議なことを文化人類学者の恩都日娜氏に質問した。世界的に見て中国人が一番お金に執着している傾向があるのはなぜであろうか。それは貧乏な歴史が長いからだという、質素な生活でお金を儲けるのに限りはない。なるほど経済的に発展しているにもかかわらず服装やファッションが贅沢には見えない群衆。レストランや食堂は大型ビル、ラウンドテーブルに最低10皿以上料理を注文して半分以上を残すのは彼らのステ-タスであり、楽しみであろう。富は個人の夢であり、国家の理想であろう。スミスが『支那人の性格』で「良心がない」と述べているが、満腹文化のレベルを超えなければならない。

世界一広い広場

2016年04月29日 04時56分27秒 | 旅行
世界一広い広場の星海広場、大連市民が褒めたたえた薄市長の功績が広がっている公園を散策した。私には思索の時間であった。薄氏は終身刑であっても尊敬されるのはよいと思うべきであろう。刑を政治的な争いと思うのは韓国と同様である。珍しく春晴れ、初夏のような晴天に恵まれた。しかし暗い歴史遺跡を訪ね、歴史学者の呂氏の運転案内は最高であった。彼は拙著の中に朝鮮戦争中中国軍人が民家へ被害を加えなかったこと、米軍の性暴行とは対照的であるというところに中国のプライドを感じながら一話を付け加えた。文化大革命の時自分の父親が9歳の時、日本殖民時代に軍用馬の管理(飼育)のアルバイトをしたことが密告されて親日派として同族の村人から殴られ、首に重いレンガをさげた縄をかけられた。その恥辱的なことを子供には言わなかった。しかし後に密告した人と職場の同僚として働くこととなった。息子たちが成長して復讐をしたという。なぜ人間は政治のイデオロギーや宣伝に染まりやすいのか。今の日本ではメディアに染まっているという憂いがある。しっかりした自我確立ができていないからだと思う。
 旅順へ向かった。日露戦争遺跡は二度目、詳しくみて、自分の研究を振り返ってみる時間となった。リスが新緑の二レの木の芽を食べていたので私も味わってみた。ロシアの不凍港として陣地を構築したのに日本が破壊したことの辛い戦いが浮かんできた。日本が立てた記念石像がそのまま建っている。反日デモの無い大連では反日を気にせず歩くことができる。旅順日俄監獄旧地も二度目、刑と絞首刑の場、恐ろしい場であって国民に愛国の現場として開放している。以前みたときは一般公開の前で緊張したが今は観光客の中に混ざってゆっくりみることができた。しかし展示館の職員たちは表情も硬く、看守そのものの感じであった。無表情の中国の女性たちにはふさわしく感じた。おそらくガイドではない、看守(?)意識が強いのだろう。林さん夫婦の招待晩餐会は満族レストランの大清苑で鹿肉料理にマンゴージュース、魚の具が入った餃子をご馳走になった。呂氏の配慮で3泊目のホテルは大連海岸の星海假日酒店、海上に橋が架かった絶景のネオンを眺めながら茶話会。
 今日は朝食後空港へ向かう。

講演

2016年04月28日 05時54分24秒 | 旅行
 晴れても薄曇りの日、遅ればせながらの桜の花見、ここでは自然な季節であるが異国風景に感じた。大連一の海水浴場の金石灘に行った。夏までは閑散な海岸、海には魚養殖の船が密集している。内モンゴル大学の温都日娜氏が来られて12年ぶりの再会。彼女が広島大学留学時代大病をし、指導教官であった私が親代わりに面倒をみたことを憶えている。前日の夕食は中華料理、昨日の昼食は朝鮮族の「田舎の家」でいただいた。私の注文は韓国式の納豆湯であった。懐かしかった。朝鮮族の人は韓国や北朝鮮に美味しい料理が無いといった。私が時々「日本には料理がない」と行って日本人がびっくりすることがあるように。
 大学での講義は学部長により私の紹介で始まった。通訳と司会を兼ねて広大時代の私の学生だった呂秀一教授が勤めた。まず使用言葉を日本語、韓国語かどちにするかと聞かれ、一瞬躊躇した。日本語を知っていると挙手した学生が6人、韓国語はなし、英語はほぼ全員が挙手した。それで私は自己紹介を英語でした。反応は意外に大きかった。日本留学してから日本が好きになって韓国で「親日派」という汚名への反感から日本植民地研究、そして西欧諸国の植民地へ広がって行ったことを日本語で説明した。好き嫌いは大事な感情ではあるが、もうひとつ大事なことは客観、中立の態度を持つべきことを強く主張した。メモと質問時間も持った。結局植民地史、負の遺産とは言われても発展に持続するものではないかという学生の意見がでた。それを持って講義を終えた。引き続きオンドロナ氏の「国境地域の社会調査」に関する講義を楽しく傾聴した。
 夜の歓迎会には大学の学部長らと私の教え子がそろった。北朝鮮の女性が働いている大連鴻賓樓酒店であった。中国式の晩餐会で順番で祝辞や話たいことをはなすことになって私にの恩恵の言葉が多く、照れくさく、逆に感謝であった。後半には北朝鮮の二人の舞女が登場してカラオケ歌、孫連花氏が加わって登場し盛り上がった。最後に果物皿が出てから終わりと言い、閉会辞で終わった。良かった、無事だった。

大連

2016年04月27日 05時20分42秒 | 旅行

 駅で偶然久しぶりに下関在住のフランス人のクリストファー氏にあって同行の女性の森田氏と列車内で話をした。話中に彼が「日本人は特殊だな」という言った。英語通訳の仕事をしている森田氏と皆で日本人論のようになった。短い熱血討論をして分かれた。大連空港には以前広島大学留学生であって現在大連大学の歴史部教授である呂秀一夫婦が迎えに来てくれた。奥さんも私の学生であった。呂氏とは1996年に初めて会ったので20年前からの関係である。二人とも朝鮮族であり、自然に日本語から韓国語で話をしていた。急に暖かくなり夏日のようであり、エアコン作動、日本製の良い車でホテルに案内された。車窓からは桜、レンギョウそして白と紫のライラックの花が咲いている。現代的な高層ビルが林立している新都市、マンションの窓には商店名の赤いネオンの看板、マンションに商店が多く入っているようである。大学教員の給料も上昇して、さらに夫婦共働きでは豊かな生活ができるようになった。彼は言った。中国が早く発展して嬉しいが、日本に行ってみると日本はよりよくなっていて日本で住みたいと。年金も良く、日本でのわが夫婦よりははるかに豊かにくらしているようである。
 昔大連の医科大学の先生がその展望が暗いと思い旅行ガイドになった人、留学研究を放棄して商売の道に行った人を思い出した。お金の話より研究の話はどうであろう。夕食は海辺にある九龍湾国際飯店の4階でご馳走になりながら彼らの近況を聞いた。窓際の外の川のような海には満州時代から海地を個人所有してふぐなどの養殖をしていて中国一の海産物の都市である。日本のものが人気で「日本産」と宣伝したが、日本の震災の あとは「現地産」と宣伝が変わったという。日本との関係が長く、悪くないような印象であった。夫婦教授の研究はどうであろう、また関心を起こした。日本人引き上げの話になった。奥さんの母の弟の話という。日本軍のある兵士が食べ物が無く、手榴弾を湖に投げて魚を捕ろうと爆発させて間違って子供を殺してしまって、牛2頭で賠償して、彼自身は自殺したという。それほど良心的な日本人に感動したが、彼自身は満州国の警察をしていたので戦後の中国での刑罰が怖く、妻と二人の子と別れ、南朝鮮に逃げて、そこに定着したという。引き上げの調査を勧めた。黄砂とPM2.5が気になりながら否定的な私の中国感は変わりつつあった。

「ITによるアジア共同体教育の構築」

2016年04月26日 05時20分19秒 | 旅行
今日は中国へ出発。明日大連大学で公開講座で講義をする。この講義は東京のワンアジア財団(理事長佐藤洋治)の研究助成で行われるアジア共同体構築のためのものである。私は留学を通しての異文化理解について講義をするつもりである。今度の講義は別の大きい目的もある。実は同財団から10月から私が主催して東亜大学で「ITによるアジア共同体教育の構築」の15回の講義などを行うための見学でもある。それには日本、韓国、中国、台湾から碩学たちが参加するようになる。大学を発信地として下関から東アジアへ文化交流、文化政策などへの提言と学生や市民との討論ができることを期待している。具体的な企画については連休明けに発表するつもりである。
 助成金支給決定の通知を受けた時は大賞でも受けた気持ちであったが次第に運営と成果を上げるための仕事の実感がわいてくる。これは賞ではないが、大企画が認められたことは名誉である。それより内容を充実したものにしていくことが大事である。講師の方々には趣旨を理解していただいて姉妹提携大学や機関ともスカイプなどのITにより参加できるようにする。最先端の媒体を利用して発信、交流することができると思う。まわりでは私の健康をきづかって下さる方が多い。今のところはお蔭様で大丈夫、疲れも残らない。 
 

葱根

2016年04月25日 05時38分30秒 | 旅行
ヴェランダのプランタにネギの種を播いたものが伸びていて、間引きをした。根が細く、白く、光る。白髪に似ている。韓国語で結婚祝いの言葉の「葱根になるまで파뿌리가 될 때까지」を実感した。言葉の中にはこのように事物を観察して生まれたものが多い。それが多くの人に共有されて言葉として生きるのである。私が、日本語が難しいということはこの言葉の生成文化というか、その基礎を体験していないからかもしれない。
 日本に住んで30年弱、韓国語でも異様な言葉と感ずるものが多い。日本語の「とりはだ鳥肌」がその漢字語を韓国語に訳してダクサル닭살という。その韓国語は最近のものであり、日本語から意味だけを採った造語であろう。国語の純粋化運動の一環として日本からの外来語を撲殺させようとしている中に巧みにできた造語といえる。以前私の知人の一人である国語学者宋敏氏が日本語のクツが韓国語のクドウ구두になったのではないかと思い、調べたところ日本語から韓国語へと言うことが明らかになったと述べた。私は言葉の影響より生活文化の共有、造語発想の共有が面白いと思う。

常に裏切られる覚悟

2016年04月24日 06時04分19秒 | 旅行
先日の百数十人の会合では知っている人、知らない人がいた。知っている人には挨拶、知らない人には自己紹介の授受をした。中には会いたくない人も二人いた。その一人は知らんぶりをしていたが、もう一人は探してきて挨拶をしてくれた。知らんぶりをしている人に会おうとしたが探せなかった。残念だと思っている。喧嘩したわけでもないのに疎遠になったようである。私が留学生を受け入れることに彼は積極的に反対したのが禍根であろう。前回もある集まりで会った時も彼は私を避けた。この人と仲直りをすれば下関では関係が悪い人は一人もいないだろう。いずれ私から手を差し伸べるつもり。
 若い頃の私は一寸先が分からなかったが今の私の年になると若い人の先が見えるように思う。韓国の朴クネ大統領が選挙で惨敗、世論調査の人気度の下落、メディアも多くの人も背を向けている。嫌われるのは嫌であろう。政治家としても苦しいだろう。私は就任時女性大統領に、母のような深い愛と優しい友愛の政治を期待した。しかしドンドン期待は外れていった。彼女は一期限皇帝のようであり、現代政治の政策運営のガバナーとしての意識が低い。玉座に座った以上怖いものなしの態度を一貫している。良かった日韓関係に「歴史認識」「慰安婦」を繰り返し力説して関係を悪くした。世論を作り上げようとして世論に裏切られた。メディアに乗ろうとするとそれに裏切られるという世俗の本質を今や悟ったはずである。人との付き合いには常に裏切られる覚悟が必要である。

名前を憶え

2016年04月23日 06時04分47秒 | エッセイ
新学期の初め頃には学生の名前を憶えるよう気にかける。カーネギー処世術の一つは人の名前を憶えることと書いてある。私には出世欲は強くないと思うのでそれはさておき、講義などでは名前を覚えるのはよいと思っている。大型教室ではない、20余名のクラスでは憶えるのはそれほど難しくない。特徴がある人を早く覚えるが、中には似ており、区別し難い人もいる。優秀な二人の学生は4年生になっても時々混同することがある。大変失礼だと思ってもなおらない。下関に長く住み、知り合いも多くなっている。若い人から挨拶されることもある。卒業生であろうかと、たどり着く記憶術を動員する。時には思い出せない。認知症も心配になることがある。名前だけではなく、普通よく覚えている漢字なども忘れている。加齢によるものであろうか、コンピューターに慣れて手で書くことが少ないからであろうか。戸惑っている。紙の本を読む時間も減っている。
 授業などでは指名することがあるが、注意すべきである。名前で呼ばれることは親しさを表すことではあるが、公式である場合の「呼名」には緊張する。講義の初めに「呼名」、討論などでは「指名」をすることがある。名前を憶え、使いこなせることは授業のレベルであり、人間関係の基礎でもあるといえる。名前は名称と呼称がある。名前を憶え、どう呼ぶかを考えながら教壇に立つ。それについては以前詳しく書いたことがある。崔吉城「韓国人の名前に関する人類学的研究」『名前と社会』早稲田大学出版部

二つの祝賀パーティ

2016年04月22日 05時26分18秒 | 旅行
コンピューターをリニューアルしてから使い不慣れ、時間が懸かり暴風雨の中、会合に遅れそうになってぎりぎりに間に合った。受け付けの市国際課の高野氏が「下関の宝の方」と名簿を確認してくれた。大学の学長の代わりに参加した。西信用金庫の会長の山本徹氏の韓国名誉総領事就任式であった。下関の名士の総動員のような150人ほど参加した。私は市立大学の理事長、梅光大学の学長などと同席した。式は延々と長く、食事の時は舞台でサムルノリのような演奏と舞踊がうるさく話ができないような中でも古川薫氏や中尾市長、総領事などと久しぶりに挨拶、講義のため途中退席大学へ戻っても食事はほぼ抜きで教室へ、続いて読書会、忙しい、疲れて声も枯れていた。その時電話のベル、東京のある財団から「先生に対する委員たちの評価がよく」プロジェクトの申請が採択されたというビッグニュース、読書会メンバーから拍手、お祝いの夕食を倉光誠氏、祝賀と大連理工大学の林楽青氏の帰国送別パーティとなった(写真寿司屋「一心」で)。
 講義ではイギリスでトマスクックがナイル川、ピラミッドのことをもって観光の始まりについて触れた。元々巡礼など宗教的な旅から観光化への話を、特に墓も観光対象になれるかと画像を見せながら説明した。巡礼的観光から労働と余暇の分離、交通機関の発達などによって観光は一気に発展する。現在日本に外国人観光客が2000万人を超えている現象を注視すべきだと述べた。その中で日本語の聞きとり練習のように余暇と労働について価値観に関する話をした。つまり余暇と労働には人間の質があるということ。仕事workにポジティブであるかネガティブであるかは個人はもちろん社会全体の運を決めるのではないかと語った。学生たちのノートでは墓を観光にすることは以外だとして迷惑かもしれないが(白君)、観光の価値はある。多くの学生(院生5人、学部2年生10、4年1)は仕事へ真面目になるためには仕事の内容を把握、嫌な仕事を避ける、我慢する、しかしやりがいのあるものを選びたい(柴田)。次の時間には余暇の価値についても考えることにする。
 

募金箱

2016年04月21日 06時24分03秒 | 旅行
 スーパーマーケットの前に3人の青年が震災募金箱をもってお辞儀をしながら立っていた。日本では少ない風景ではない。日本を含め多くの仏教国ではよく見かけ、時には戸惑うこともある。チベットでは日常的に出あう風景である。ロシア正教会の前には物乞いをする人が入口の両側に並んでいることもあった。フィリピンでも困ったことが多々あった。日本では托鉢僧が歩くこともある。宗教的には施しや布施というものがあるが、乞食とはどう違うのだろうか。同情か協力か、考えてみるべきであろう。今永井氏の盲目人について書いた本の書評の校正をしている。分かりやすく書くつもりではあるが、難しい。その難しさとは同情から社会福祉へ繋がっていることの延々と長い近代史が絡んでいるからである。5月には出版されるので一読を勧めながら、ここで要点に触れておきたい。
 この本から宗教的背景を持ちながら社会福祉の変化の様子を伺うことができた。伝統社会では障碍者は厄介なもの、あるいは天国に行くための宗教的慈善のようなものに過ぎなかった。つまり盲人や障碍者への人格的な本質から考えることはなかったが、キリスト教では盲人が聖職のように社会的地位を得たこともあった。日本では琵琶法師とキリシタン宣教師との関わりがあったことも知らなければならない。今寄付金の募金はどのように考えるべきであろうか。送金制度などが発達している現在、募金箱の現象は何を意味するか。組織を通して献金などの形式はどうであろうか。同情、協力、少しでもお手伝いしたいという善意は分かるが、物乞い文化との差異化を考えてみる必要があろう。

日本帝国の軍票

2016年04月20日 05時55分49秒 | 旅行
下関在住の知人から連絡があって訪ねて行った。家族は誰もいないから気にしないでと繰り返した。掃除整頓されているので奥様には客が来ることくらいは言ってあるはずである。かなり秘密の話でもあるように、テーブルの上に骨董品がズラッと並べてある。以前絵葉書を寄贈してくれたのにまだ50点ほど持っておられる。奥さんからは骨董品趣味が認められていないようで、さきほどから奥さんが不在であることを強調する。高麗青磁意外には珍品は少ないが驚いたのは100枚ほどの日本帝国の軍票である。どうして私の趣味に合うように収集したのかと嬉しくなった。彼の表情はフィードバックした。今研究中の軍票に出会ったのは幸運であった。その資料を私に持って帰って自由に研究しなさいと勧められ、感謝して借用してきた。
 このように収集するためにはお金も使ったはずなのにどうしてこのような趣味をもったのだろうか。私の質問に、酒を飲まない、煙草を吸わないと答えた。私には十分な答えではないように感じたが、高齢の彼はそれがすべてのような表情であった。それはどんな意味があるだろう。飲み乱れた人生を否定的に見ているのか、世俗的に見ているようである。その分彼自身は文化に価値を持って絵を飾り文化生活を目指して生きた自分の人生を語らず主張するようである。彼はその骨董品趣味に奥さんは価値を認めないが隠かに楽しんでいるようである。奥さんは歌唱を趣味として外出中、それぞれの二人の人生観、価値観が共存しているようである。その夫婦をわが家に招くこととした。彼は快楽した。

地盤は不動のもの

2016年04月19日 05時21分20秒 | 日記
われわれは乗り物に乗って揺れながら往来しているが地盤が揺れると驚きは大きい。地盤は不動のものであるということ、それに反して動物は動くものである。不動を基盤として動物、人間が繁栄している。不動の基盤が動くことによって、不幸な禍が起こる。実は地球も動く。地核には高温高圧が潜在して時々爆発する。今まで火山や温泉などは観光の魅力であったが、今多くの犠牲者を出している。活断層の画像を見る度にここも安全ではないという不安と恐れがでる。既に多くの人が死傷しており、避難生活をしている。余震の中にも全国的に支援活動が活発である。普段は隣り人には無関心な人々だと思っていたが救援活動をみると人情溢れる社会であると安心している。自分とは全く縁のない人への思いやりが表れている。政府の政策も活発であり、国家や政府の必要性も感じている。
 昨日校庭でワゴン車に荷物を一杯積んでいるところをみて聞いてみた。本学の熊本の学生に支援金品を集めて出発するところであった。物豊かな時代にものがないところへ物を送る。しかし気を付けなければならないことがある。私は留学生時代に当時の韓国の貧困、ある孤児園に好意で衣服などを集めて送ったことが迷惑になったことを思い出す。外国からということで、税金まで払って受け取ったものが古着であったと失望、迷惑を掛けたことになった。それ以来、私は人にあげるものはよりいい物でなければならないと思うようになった。受け取る人も送った人の心を受け取るべきであろう。愛の授受が行われるように祈りたい。

研究所のホームページをリニューアル

2016年04月18日 05時14分52秒 | 旅行
韓国からの留学生と長く話をした。彼は下関での生活がソウルより便利で楽しんでいるという。物価が安く空気もきれい、人も少なくてよい。老後の生活をしている人のように語った。大都会のソウルと閑散な小都市下関の比較の話であろう。しかし私には若者の中にも大変化が起きているのではないかと考えている。近代化過程において人は夢を持って大都会へ「上京ブーム」があった。それは近代化であり、出世の道であった。私も少年時代に生まれ故郷の農村を捨てるようにソウルへ転学し、読書、学習、試験などを通して生きてきた。これは私だけの人生旅路ではない。韓国人は多く、旧満洲、沿海州、日本、アメリカなどへ夢(?)をもって移住した。「狐も死ぬ時は自分の穴に戻る」といい、帰国した人もいるが私は「住めば都」私は住んでいる所を大事にし、新しい郷土愛をもつ。
 東亜大学に赴任して10年、下関が地元のような気持ちである。海風が強く、地震で揺れてもここを愛する。ここが私の最終着点であると思う。大学は私に研究の場を提供してくれている。感謝である。東アジア文化研究所に新しく中村八重氏、楊小平氏などが非常勤研究員として入った。読書会、研究会、講演会を行っている。研究所のホームページもリニューアルした。これから活動、内容刊行物などの情報を発信し、グローバルに交流していこうとしている。時々http://rieac.asia/をクリックしてみてください。

書信から読む牧師先生の人生論

2016年04月17日 06時19分58秒 | 旅行
先日下関韓国教会で行われた日韓合同礼拝で説教と講演をなさった牧野邦久牧師からお手紙をいただいた(写真の左から2番目)。私信ではあるが拙著『韓国の米軍慰安婦はなぜ生まれたのか』へのコメントが含まれている。考えさせられる点が指摘された。「ご自身の自伝を含めての著作」「地上戦を現状で体験され、心象のまま、誠実な記載に敬服いたしました。私も戦中は、横浜での空襲で実家を焼却し、祖母は焼死しました。10歳頃の体験は、意外に冷静というか、もの知らずというか、成人してからの思いとは異なる感があります」「戦争と性の問題をリアルに認識されての著作」「日本軍の従軍慰安婦問題」「沖縄においてはレイプの件数が多く、これは全て報告されない、表に出ない」
 特に私の主点である貞操の問題に次のように指摘してくださった。儒教の貞操理念の高い村人が自衛のため慰安婦を受け入れざるを得ない「屈辱的な選択により変容した現実は重く、深く考えさせられました。人は悲しいかな、関係を生きるものであり、状況をどのように生きるか選択の可能、不可能の中で生きることの課題を考えています」。「日本人の貞操観念は、思想的にも、理念においても「あいまい」なことが常に伴います。「おおらか」というか、遊郭、赤線という公然とした場が昔からあり、戦国時代においても大名、将軍の傍らにはべる小姓(太刀持ち)も明らかに女性を伴えない戦場での性の用具であったこと。性に関わる人間生活を深く、広く考察する必要があります」といい、「性愛が広く人格的、情感的、感性において、生理的に、相互信頼において、広く人間生活にとって総合的な性の交わりであり、豊かな喜びを共にする局面であり、その豊かさを経験してもらいたいものです」とまで広く展開している。拙著へのコメントより牧師先生の人生論そのものに私は感動した。
 

盤石の上の信仰

2016年04月16日 06時31分43秒 | 旅行
今朝午前1時25分頃熊本地方の地震、震度6強。下関でも酷く揺れた。4回ほど断続的に揺れた。棚の上の花瓶や人形などが落ちた。花水用のバケッツの水もこぼれた。私は命が安全であっただけで感謝している。昨日韓国ソウルから来た中学生団体37人の来校を歓迎した。熊本へ行く日程であったが地震に驚き、引率の先生たちの賢明な判断で下関に泊まることになった。熊本ではどうであろうか想像して地震の怖さを実感している。このような経験は日本で4,5回ほどしている。なぜ基盤が揺れることで怖くなるのだろうか。愛犬ミミも怖がって吠えていた。命あるものの本能的なものであろうか。人々は堅い基盤の上に生きている。人によって盤石の上の信仰、家族、職場、国家などであろう。しかしそれが不安定、壊れることもある。土がただ堅く固定していることが如何に大事なことであるか考えさせられる。
 日本文化論の授業は大変良くできた。留学生の多い授業であり、サンダル教授の負の歴史は継続か、断絶かについて討論してみた。まず映像のポイントを知らせ、数回繰り返して見せてから自分の意見をメモするようにしてからメモを見ながら意見を発表するようにした。植民地や戦争の歴史を今の学生たちは責任がある、責任がないと分かれた。時間の関係でその討論まで行かず多様な見方があることを理解することになった。私は政治家たちが歴史を利用する傾向を指摘した。例えば韓国は日韓親善を言う時は朝鮮通信使を、日本を悪く言う時は慰安婦の問題を出すなどである。しかし私の意見はあえて強く言わなかった。彼らに考えてほしいからである。熊本の地震は韓国馬山地域にも影響し、マンションなどが揺れて、外に飛び出す人々もいたという電話があった。