サハリン瑞穂村の朝鮮人虐殺事件を中心に
崔吉城
はじめに
1999年シベリア調査中、軽く寄ったところ私は気持ちが重苦しくなった。ノンフィクション作家の角田房子氏は『悲しみの島:サハリン』の序文で(韓国語版1995)「サハリン帰還問題を知るようになった時, 祖国に戻ることを希望する人々に私は何をしてあげることができるか考えた。作家として可能なることはやはり書くことしかなかった。まずサハリンに行って現地の人々の体験談を聞いて,日本でこの問題を解決するために努力した人々にも取材した。サハリンの歴史を書くことは日本人である私には非常に苦しいことであった。しかし歴史の真実を知らなくては反省も謝罪も出てくることができないと信じてこの本を完成した」。
なぜかということは後にして、私も彼女に同感でこの本をこうとする。現在4万人ほどの朝鮮人たちがサハリンに住んでいるかについて書かなければならなかった。
平和のための戦争に虐殺、暴行は付き物か、戦争は狂気か
一 瑞穂村
は真岡から約40kmに位置する
「調書」「裁判記録」
コンスタンチン・ガポニエンコK.Gaponienkoの著書『瑞穂のドラマ』の訳文
1) 「朝鮮人は夜に飛行機に青や赤の懐中電灯で信号を送るソ連のスパイだ」「ソ連軍を朝鮮人が先導している」「朝鮮人は日本人を裏切り、武器を赤軍に渡している」「ソ軍には朝鮮人が勤務しており、我々のことをすべて察知している」「ソ連側に密告したりして、日本人を裏切って、復讐をしている」
2) 「朝鮮人が日本人の婦女子を殺している」「恵須取、泊居方面からの避難民達から聞いた話では朝鮮人達が赤軍の進攻と共に日本人の婦女、子供を殴り、略奪、殺人、復讐をしている」
3) 「もしわれわれが朝鮮人たちを抹殺せねば、彼らがわれわれを抹殺するだろう」「朝鮮人たちを殺さねばならない<朝鮮犬>を抹殺しろ」「逢坂の山沢大佐が瑞穂に住んでいる朝鮮人たちを殺せと命令した」。在郷軍人会長の森下安雄は「赤軍が到着したらこれを援助し、苦境にある日本人住民に敵対し、逆に赤軍には忠誠をもって相対する」という理由で朝鮮人虐殺を決心した。
1945年8月20日から23日にかけて朝鮮人27人が惨殺された。ここには村人ではない3人も含まれているという。
二 虐殺
<8月20日>
清住大助が彼をベルトで殴り始め、サーベルで数回切りつけた。朝鮮人は清住の殴打を拒み、顔を手で覆った。それから細川は、足踵で腿のつけ根を蹴った。朝鮮人は、体を曲げ、重いうめき声を上げ、身をのばした。その時、清住がバンドの留金で顔を打った。目から血がはとばしり出た。細川は朝鮮人を足蹴りし続けた。最後に森下がやってきて、短い敏速な動作で、朝鮮人の腹に日本刀を突き通した。死んだこの男から日本円(軍紙幣?)合計215円(250円?)をとった。約200メートル入った茂みにその死体を捨てて、森下の家に寄って数時後それぞれ帰宅した。
<8月21日>
朝7時頃、日本人男性だけ17人、会議を開き、虐殺する決議、承認された。会議中に3人の朝鮮人が栗山宅にやってきた。夏川以外の者の名を知らない。鉄の鎖で朝鮮人夏川の頭を打ち殺した。死体を草わらに捨てた。(朝鮮人の夏川がやって来た。彼は挨拶をしながら「若しロスケが瑞穂村にやってくると非常に困る事になる」といった。私は「そうだ。困る」と云った。この時夏川に角田が近づき「おい、ロスケのスパイ!」剣で肩を斬った。夏川は畑へ走った。負傷したのを角田が追いかけ斬り下した。50歳くらいの朝鮮人農夫を千葉政志が発砲して殺した)。
森下が朝鮮人山本(42~43)を刀で打って、2ヶ所胸に傷を負わせ背中を斬った。この時4人の朝鮮人平山、夏川、松田と60歳くらいの老人が近づいてきた。松田を撃った。老人は逃げ出したが永井幸太郎が殺した。
初め鎖で殴り、刀でとどめを刺した。細川宏と千葉最一が幼児1人づつ殺し、女性と他の子供を殺した。鈴木が11歳の女児を刀で刺した。千葉は12~13歳くらいの女児を殺した。森下は女性を短剣で刺し、それから4歳と6歳の子供を殺した。道から5米位のところで私は女の背を刀で3度斬りつけ斬殺した。
千葉政志が猟銃で射殺した。3人は皆知っている者。(老人はすぐ若者達に捕まえら、打ち刺された。丸山、彼の妻、14歳くらいの娘、そして2人の男性がいた。この2人は夏の間に丸山の家で畑仕事をしていた。朝鮮人の後ろを、武装した日本人が歩いた。落葉樹林の側で、3人を殺した。朝鮮人を皆殺した。殺す必要がある、なぜなら赤軍がやってきたら朝鮮人たちは日本人を裏切るであろう。
<8月22日>
朝、日本人の集団は栗山吉左衛門の家に集まり、永井秋雄の家に向かった。永井の家には全部で5,6人が集まった。そして全員そろって、八号線にある、日本人今部のバラックをめざした。バラックには朝鮮人が住んでいた。途中で5人の日本人が我々に加わった。こういう具合にして、バラックには全部で22人か23人が行った。
今部のバラックまで行かずに私達は山口という日本人の家にいて下見に出て、朝鮮人のいるバラックの付近をよく調べることにした。斥候には私と森下、それに後5人が出たが名前は覚えていない。付近を調べ終わってから、我々は2つのグループに別れ、分隊でバラックに到着、朝鮮人が逃亡できないようにすることに決めたというのは彼らはもうすでに目をさまし外に出ていたからである。グループの一つは道路の方から、もう一つのグループは店の方からバラックに近づいた。バラックのほんの近くまで来たとき、森下安雄は「前進」の号令をかけた。全員がバラックに突進した。中から1人の朝鮮人が私の方に走って出てきた。私はすかさずこの男をサーベルで切りつけた。その後2人目が手に棒を持って飛び出てきたので、私が飛びのくと、この男は逃げ出した。私はこの男に追いついてマラサーベルで切り殺した。この2人を処分した後で私はバラックに行った。その中には森下安雄がいて、彼と共に4,5人の日本人がいた。その名前は今覚えていない。女が2人いてそのうちの1人が足に怪我をして倒れていた。2人目の(もう1人の)女は5人の幼い子供と一緒に立っていた。1人の朝鮮人の男を森下がつかまえていて、めった打ちにしていた、 その後で男を外へ出してサーベルで切り殺した。
その他の朝鮮人男子は殺害され、畑に横たわっていた。足に怪我をした女もバラックから外に出されて殺されたが、誰が殺したか私は知らない。2人目の女と5人の子供を森下安雄と清住大助が前に殺された丸山という朝鮮人の家に連れてきて見張りをつけた。見張りは清住大助と私の兄弟、細川武である。
今部のバラックの中には9人の男子、2人の女と5人の子供がいた。殺された朝鮮人の死体はバラックのそばに埋めた。女と子供は騒ぎを起こさないように、バラックの中で殺すことはしなかった。子供はひどく泣き叫ぶからまた子供がかわいそうだったが、殺さないというわけにもいかなかった。もし彼らを家族と一緒に日本の僻地に疎開させるにしても、朝鮮人のみに起こったことすべてを彼らが(子供達)しゃべる可能性があるから。という訳で、女と子供を丸山の家につれて来て、夜、眠っている時に殺すことにしたのである。森下安雄は以前日本人住民と一緒に山に避難していた、丸山の妻を子供と共につれてきて殺すよう鈴木正義、細川武と千葉最一に命じた。細川が番した女性は彼に「幼児は空腹なので飲ませたいが自分は乳が出ないといった。細川は「今牛乳のくれる所へ連れてゆく」といった。細川と森下は彼女を連れて行った。(彼女の髪を引っ張ったとき女体の匂いがし、欲望が出てきたのでこれを打ち消す為に強く斬り下げた)。
<8月23日>
寝ている4人の子供と女を殺して死体をに家から約20米の所に埋めた。森下安雄は「日本軍司令部から朝鮮人達を全部殺すよう命令を受けた」と言った。
大浦島飯場で、7人の朝鮮人男子と1人の50歳位の老婦と11~12歳位の女児の9人を殺した。今部の大納屋に住んでいる15~16人を皆殺した。窓から朝鮮人達が見ていた。森下は納屋へ突入した。朝鮮人達は窓から走り出した。
以上の細川宏の供述は裁判所の尋問の際、清住大助陳述によって完全に裏付けられた。大助の供述によると彼らが殺害したのは全部で27人、その中には女性3人、子供が6人いる。
<8月24日以後>
朝鮮人の女性が未だ生きていて唸っていた。道中は1人の朝鮮人を棒打ちで殺し、女性の方はカサワバラがスコップで打ち止めをさした。疎開から帰って8月26日に死体を埋葬した。
三 検死、調書、判決、執行
1946年7月に行った死体発掘と検死によって次のようなことが明らかになった。全部の死体に無数の刺し傷があり、いくつかの死体はバラバラにされていた。頭部や手足が切り離され、死者の頭蓋骨には穴があいていた。大多数の死体の肋骨や手足はあちこち折れていて、この殺人が残忍な性格を帯びていることの証明となっている。丸山の妻とその12歳の娘の死体を調べると、頭蓋骨の額の部分と頭頂部が陥没していることが分かった。また、母親の方は、肩甲骨の所に3箇所、後から刺された傷があるのが見られた。左の肋骨には多数の骨折が見られ、腹部には2箇所、貫通した刺傷があった。5,6ヶ月の赤ん坊の死体に胸部と腎部を貫く刺傷が見つかった。
四 武装化した日本農民
3人の女性と6人の子供が混ざって、総27人が殺害された。それについてソ連当局は犯人を逮捕し、供述や検死など資料にして有罪判決をし、1947年2月26日に処刑して終結した。しかし全体を指揮して殺人をした代表者である森下安雄は欠落している。細川は昨日の事件に参加した人を連れてきた。総て22人である。森下は指揮を取ったが犯人の名簿に載っていない。自決したか逃げたかは不明である。日本は真相糾明などもしていない。
農民である瑞穂村には在郷軍人会と青年会が日本人のみで組織化され、ほぼ武装化されていた。在郷軍人会には会長森下安雄をはじめ、元陸軍上等兵細川宏、元陸軍曹長栗山吉左衛門と会員清住大助、永井幸太郎がおり、全員武器を持っている。会長の森下安雄は曹長、応召前、青年団を指導し、短い日本刃(鉈)を持っていた。細川宏は上等兵、森下の補佐、短い刃物のナタ(鉈)を持っていた。千葉正義は上等兵、銃アリサカ76301番号、ベルダン銃―古い物、日本刀1丁―古いもの、アリサカ銃の弾、銅弾24弾蒼、黒弾―11弾、ズック弾薬盒、弾入れカバン、猟銃、短剣フィンク刃渡り35~40cmを持っていた。永井幸太郎は支那事変に参加しメダル、赤十字章、勲8,5等章を受賞し、軍用長剣を所有した。栗山吉左衛門は1923から1927年まで軍隊勤務、上等兵であり、栗毛色の馬、生後3ヶ月子馬を持っている。長男は23歳で日本軍隊に勤務した曹長で村役場の顧問、最上位の位で、長剣を持っている。このメンバーはほぼ武器を持っている。在郷軍人以外に鈴木秀夫は古いサムライの刀を持っていた。栗栖昇は剣、1.5米位の竹槍、スコップ3丁、長さ90~100cm、8~10mm中の銃鎖を持っている。角田は軍用短剣を持っている。
青年団には細川武、同団員永井秋雄、千葉政志、鈴木住吉など30数人の団員がほぼ武器を持っている。青年団は在郷軍人会の息子たちが中心になっている。
参考;北満州に武装開拓移民。在郷軍人会と開拓団は「銃を持って戦う」ことであった。満蒙開拓青少年義勇軍も設けた。韓国・巨文島に移住した木村忠太郎もピストルを所持したという証言があり、終戦直後在郷軍人が治安を担当して武装を解除したのが分会史に書かれている。
五 スパイとされる朝鮮人
日本とソ連の挟間にいた状況において朝鮮人は時にはソ連側から時には日本側からスパイとされた。作られたものであろう。それは日本とソ連の挟間にいる状況で両方からスパイとされた。サハリンの日本軍はソ連のスパイに対処するためにサハリン少数民族を諜報活動に利用した。彼らはサハリンの南北を跋渉しながら猟をして生活したので利用性が高いからであって、ソ連軍も彼らをスパイとして利用した。日ソ両側からスパイ視されたということは朝鮮人のマージナル、二重文化の特徴の裏返しとも言えるだろう。
<ソ連側から>
ソ連は日本人に最も近い危険な民族として朝鮮人を見た。極東シベリアや沿海州に住んでいる朝鮮人は日本のスパイであろうとの嫌疑がかけられたといわれている。朝鮮人はソ連地区に生きながら日本にスパイ行為をしたという嫌疑で逮捕された。ソ連にとっては日本と近い民族として疑わしくて, 日本人と分離させようという政策を取った。ソ連には日露戦争の敗北、日本軍の極東遠征侵略という苦い経験があった。さらには1931年の満州事変、32年の満州国の登場という情勢の流れの中で、いっそう日本軍に対する警戒を強めた。当時、ソ連の国境地帯では朝鮮人の独立運動が熾烈だった一方、シベリアではソ連に対する日本の諜報活動が活発だった。日本の諜報活動には高麗人が多数利用された。高麗人は朝鮮語、ロシア語、日本語、中国語に堪能だったし、ソ連にとっては朝鮮人と日本人の区別がつきにくかったからである。ソ連当局は高麗人を信じようとはしなかった(鄭東柱著,1998:98)。日中戦争勃発以後ソ連は日本を警戒するようになり関係が緊張していた。その時朝鮮人が日本の間諜をしているという噂が回った。スターリンは朝鮮人が日本人と極類似しており国境地方に住んでいるので戦争期には障害になり、間諜になりうる存在であるので移住を決定した。また1沿海州に居住している朝鮮人達が独立運動をすることが日本の侵入の名分を与えるか、あるいは朝鮮人が日本の間諜活動をする憂いがあると考えてと1937年沿海州と北サハリンの朝鮮人たちを中央アジアに強制移住させた(キンピオトルゲルノビチ)ソ連側からは朝鮮人は日本人と最も近い危険な民族に感じられた。1937年中央アジアへ強制移住もいくつかの理由があるといわれているがソ連が朝鮮人を日本人と分離したのが主であろう。北サハリンでは朝鮮人が日本のスパイとして疑わしい存在にもなったことはそのような脈絡から理解できる。
<日本側から>
19世紀以後朝鮮人の沿海州への移民者は大部分農業移民であったが中には独立運動をする人が混ざったので日本は武装勢力以外の農民さえ間諜と考え、1920年4月4日に新韓村の朝鮮人数百人を虐殺した事件が発生した。1922年日本軍が撤収しながらソ連に朝鮮人の独立運動を中止させることを要求した(崔協・李光奎1998:176から再引用)。サハリンの高等警察は主に独立運動者を「要視察」した。朝鮮人取締に関する文書綴には要注意朝鮮人の手配や、所在不明者の手配の通達などが記載されている。それによると「鮮人」「思想」「共産」「民族」などに分類して、「要注」「特要」「思想」「容疑」のランク付けをしている。特に樺太はソ連国境と隣接しており、ソ連の領土である北樺太から移住して来た朝鮮人にはスパイ活動を防ぐために防諜取締をし、防諜要注意者の手配した。管轄別の朝鮮人の人口(朝鮮人現在表)を調査して、「要視察」「要注意」と、所在を把握し行動を視察する。朝鮮人を犯罪人視し、思想つまり独立運動者として憂いがあると、報告し、手配する。本籍、前居住地に照会して周密正確に調査し、北樺太の出生者については前居住地における交友関係を調査するという。これはソ連の領土に生まれたことに注意を払っていることであろう。1930年、樺太長浜の鮮人鄭用基の飯場にて労働しながらそのニュースを漏らしたり、知取など転居したり所在不明になっているので厳重捜査して報告すべしという。飯場とは石炭山において飯場頭が鉱夫の供給保護監督する制度であり、朝鮮人が飯場頭になって労働することも多かった。その組織に独立運動者が入り込むことを恐れている。
ホルムスク(真岡)において 8月 20日アノミーのような状況において日本人の中では朝鮮人がソ連に情報を流す、ソ連に近い民族,つまりソ連の味方ではないかと思う人がいた。樺太全土の日本人社会がパニック状態になり、日本人の敵はソ連軍であってももっと怖い存在は近くにいる朝鮮人とした。朝鮮人がスパイをしたので負けたと、簡単に結びつけてしまったようである。朝鮮人はそれまでよき隣人であり、一緒に仕事をしてきた仲間であった。しかしごく平凡な民衆が、いつの間にか加害者になってしまう。殺す対象は村を越えていない。幼児、女児、男児、女性、老人などを含むジェノサイドの残酷さ極まるこの心はどこから出たのだろうか。他にも朝鮮人がスパイとされた事件「上敷香虐殺事件」もあった。
結 論
35年間続き、特に「内鮮一体」の政策を強く実施してきたがその結果を日本人自身が信じていなかったことを明白に示す。つまり民族を超えて完全に溶け合うことは出来なかった。
第一にロシア書記長は「戦争というものが、あのような異常な雰囲気を作った」と)といった。しかしすべての人が狂気になるわけではない。その状況において少なくとも民族や国家を超えて人間であることの人間性の教育が必要と思う。たとえばアメリカの戦争映画によく登場するヒューマニストのような人はこの事件では見つけることが出来ない。戦前の日本の国民教育が如何に徹底していたかを意味する。
第二には国民国家や帝国へ虚像を見ることが出来る。現在も大国主義の国民国家を理想とする国家が多い。しかしユーゴスラビア崩壊から見られるように国家の危機において強大な国家権力は力を失うものになるだろうと考えられる。帝国主義に反して中江兆民が小国主義を主張したように国家のサイズより質高い民生に主力すべきかも知れない。
第三にスパイともいわれた少 不幸な歴史にも拘らずサハリンのスパイから国際化へ向けている。
1)経済的に若者が韓国に出稼ぎ、逆出稼ぎの現象
2)韓国語、日本語、ロシア語のトライリンガー
3)キリスト教の宣教
4)文化交流