レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

『カラマーゾフの兄弟』

2008-10-02 05:33:47 | 
ページをめくって目にするのは、「一粒の麦もし死なずば~」のエピグラム。私はこれを使った本に3回出会った覚えがあり、ジイドの『一粒の麦もし死なずば』、石坂洋次郎『麦死なず』、はて、あと一つはなんだったろう?と思っていたのだけど、こんな大物だったのか。
 まえに読んだのは高校生のときだったか? 多少縁のある国文学の先生が『沖田総司に捧げるバラード』という本に再録されたエッセイの中で、近藤・土方・沖田はカラマーゾフの兄弟に似ている、とちらっと書いていらしたのだ。どのくらいの深い意味があったかはわからないけど、私の心の中には残っていた。そういえば、天使っぽいけどなにかウラをかんぐってみたくもなるアリョーシャは、司馬遼沖田とだぶる面がある。(清水義範に、司馬遼太郎ノリの『カラマ』をやってみてほしいものだ。)
 キャラのくっきりした世界だ。無頼の長男、インテリの次男、敬虔な三男、えたいの知れない私生児(?)。一見蓮っ葉で根は純な仇っぽい女、ツンとしたご令嬢、カレンなご令嬢。俳優に詳しければ、キャスティングを想像して楽しめるだろう。
 ドミートリィ、どうにも要領と運の悪い奴! フョードル殺しのあと、取調べの際の供述、支離滅裂だったり後付けくさかったり、こりゃ不利にもなるだろ、と読んでいて思うが、現実って案外こんなものだろう。事件前後の行動について理路整然と説明なんてできないほうが普通かもしれない。(『刑事コロンボ』でも、犯人夫妻の供述があまりに一致しすぎていることにかえって不自然さを感じるという場面があった。そういえば、『罪と罰』のポルフィーリーをコロンボのモデルとする見方は一般的なのだろうか?)
 イワン、クールぶってるわりに根がヤワだ。ズメルジャコフの告白にあれほど動揺してしまいには心身ともに壊れる。法廷での供述の際にヘンにならなければ、スメルジャコフ犯人説がもうちっと聞く耳持ってもらえたかもしれないのにと思うと残念な気がする、しかしあのヘンさは迫力のある場面だ。スメルジャコフとのやりとり(兄が犯人だと誤解していたことを一人でわびるのが痛々しくてかわいい・・・)に加えて悪魔との対話、たいへんに自虐的でそそるものがある。少女マンガだよあれは~~! 
 俳優に詳しくないので実写キャストを考えることはできないが、少女マンガならば誰のイメージか?ならばいくつか思いつく。
 ロシア絡みということで、安直に『オルフェウスの窓』の池田理代子。(第3部=ロシア編よりも、そのまえのレーゲンスブルク編、ウィーン編のほうがいいとは思うけどね) これのメインの一人であるイザークは、作者が「私の大好きな少年」と呼び、息苦しいくらい真摯な人間でありながら、自分も周囲もあまり幸せにしていない、一部読者の間ではけっこうヘタレよばわりされている。なんかだかね、ちょっとアリョーシャとの共通点を感じるのだ。
 『天上の愛 地上の恋』の加藤知子の絵も浮かんでくるのは、これの第3部でルドルフのまえに出てくるバーベンベルクの亡霊のせいだ(あれはむしろ『エリザベート』のトート閣下の影響だろうけど)。きれいだけどちょっとかげりも感じさせる絵なので合ってると思う。ではアリョーシャはアルフレートなのか。イワンはヨハン・サルヴァトールみたいなのか? 
 ほかにロシアものといえば、古いところで水野英子。いまのひとならさいとうちほ、でも基本的に淡白な画風なのであまり合わないかな。でも『罪と罰』を大島弓子が描いた例もある。いまよりはるかにふわふわ少女マンガな絵のころに。
 萩尾望都、清水玲子あたりも悪くあるまい。
 私がこの小説とつながって思い出したほかの古典は、『魔の山』。彷徨する青年の周囲で延々議論が多いことからの連想。事件や動きはうんと少ないけど。出てくる連中がおハイソばかりという点は違う。次にこれが注目されたら面白いのに、と思うけど、『蟹工船』(私は読んでない)のあとでこれ読んだら腹たつのではなかろうか。

 関係ないけど、この秋の大相撲とちょうど同じ期間に読んだ、だからなんだというわけでもない。大相撲が好きなわけでもぜんぜんナイ。
コメント (2)
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