カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

美作菅家のこと(メモ)

2006-07-01 14:41:00 | Weblog

 メモです。

《古代及び中世氏族の系譜関係》
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihumokuji.htm

《前田利家の系譜》
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/maeda.htm

 1
 (前略)
 海東郡荒子村(現名古屋市中川区域)の土豪の四男として生まれた利家の家系は、死後天神様として崇められた右大臣菅原道真を先祖として伝え、そのため加賀百万石の領地においては、子供の成長に応じ学問の神様・道真の木彫像を親が用意する習俗も今に残る。しかし、中世尾張の小土豪の家系が当時、正確に伝えられたのであろうか。白石の『藩翰譜』では、利家の父は記されても、利仁流藤原氏の別伝もあげられ、先祖の道真からの系図が前田家にきちんと備わっているという印象は受けない。
 私は、金沢藩の支藩城下町であった富山で勤務した際、富山や金沢でいくつかの前田氏関係系図に当たったが、そのなかに割合整理された系図が唯一あった。それが、明治期の系図研究者鈴木真年翁の手になる『前田家系図』である。その前書きから当時陸軍参謀本部にいた翁が編集して直筆で記述し、富山の佐伯有敦氏に呈示されたものであることが分かり、現在金沢の市立図書館加越能文庫に所蔵される。この系図は、神代(ただし、遠祖を天照大神とせず、「意美豆努命一云健速須佐之男命」とする)から説き起こし出雲国造、その一族の野見宿禰から出、土師連を経て菅原道真、さらに利家までに至るが、道真前代部分はここではとくに取り上げない。
 道真の後については同系図も含め真年翁関係資料を参照して記すと、その長男高規の五世孫従五位下修理進知頼が美作国苫田郡戸川に下向し、その子孫が有元・福光・殖月・鷹取や原田などの諸氏に分かれて国内の勝田・久米郡等で大いに繁衍し、美作菅党(菅家)と呼ばれた。その活動が著しかったのは南北朝動乱期であり、『太平記』巻八に見える元弘三年四月三日の六波羅攻め大激戦のなか、京四条猪熊で美作菅家一族は宮方に属して多く討死した。その後も、この一族は播磨の赤松氏に従って存続・活動したが、そのなかで原田式部丞佐広は嘉吉の赤松満祐白幡城落城の時(1441年)、尾張国海東郡下一色に至ったと伝える。その子孫が美濃国安八郡前田村に居住の前田一族の女婿となって前田を号したとされ、さらに利家の祖父蔵人利隆(利成ともいい、海東郡前田城主与十郎種利の弟)の時に分家して荒子に移ったという。なお、美濃の前田氏は藤原利仁将軍の末流、斎藤一族の出といい、秀吉五奉行の一、三位法眼徳善院前田玄以はこの流れである。
 この前田氏の系図については、中世系図は系図仮冒が多いという意味で、多角度から厳しくチェックしなければならない。前田氏の遠い先祖に遡る系図は、金沢の前田本家では現に保存されていなかったのである。鈴木真年翁はどこで、前田氏の系図を入手したのであろうか。現在荒子には利家生誕地伝承の残る荒子観音(天神)があるからといって、直ちに先祖道真の伝承は信頼できるのであろうか。『日本紋章学』に記すように、①前田侯爵所蔵の利家の父利春(利昌)の画像には平朝臣とあり、②『加邦録』に見える将軍家光が加賀藩主前田光高がその姓を菅原と改めたことを謗る歌の話、③『武蔵野燭談』に見える利長公に出自を尋ねて「利家以前は余これを知らず、此頃林道春をして之を調べしめ居る」旨を応られたという所伝、をあげて、著者沼田頼輔は「前田氏改姓の真相はこれを想像するにかたくない」と記している。

 2
 それでは、前田氏の菅原姓というのは疑問なのであろうか。この関係の問題は大きく三つほどに分けられる。すなわち、尾張の前田氏の先祖は美作菅家だったのか、美作菅家の先祖は菅原道真だったのか、前田氏の梅鉢紋はいつ始まったのか、という諸点であろう。
 先ず第一の美作菅家を先祖とすることは、私は信頼して良いのではないかと考えている。前掲の尾張前田氏の中世歴代が具体的に記される系図は、鈴木真年翁関係の系図集を仔細に見ていくと、十五世紀中・後葉に尾張の原田氏から分かれて下野国足利に移住した一族に伝えられたことが推測される。すなわち、『百家系図稿』巻十所載の「原田系図」に拠ると、利家の三代祖となる原田与十郎佐友の兄・佐道が下野足利に移り、その子孫が二系(足利にあって上杉氏に仕えた系統と武蔵国高麗郡に居住の系統)に分かれて、そのうち足利のほうがより後代(佐道の六世孫で十七世紀後葉頃の人物)まで実名が記載されている。この子孫に伝えられた系図を真年翁がどこかで入手したのであろう。系図の流れや名・号は自然であって、内容的には疑う事情に乏しいと評価される。こうした早く遠くに分かれた支流が本宗家に失われた系図をきちんと伝えた例は、ほかにも幾つか見られる。
 『寛永系図』には、道真公が筑紫にあって二子をもうけ、兄を前田と称し、弟を原田といい、その後、前田某が尾張国に移り住すという内容の記載があるのも、前田と原田との関係の深さを窺わせる。
 美作国久米郡の原田氏については、数通りの系図が伝えられる。菅原姓では大きく二種あり、『作陽誌』には上総介平忠常の五男忠高の子孫とする平朝臣姓の系図(もちろん仮冒系図であるが)まで記載される。先に利家の父が平朝臣とあったことを述べたが、この平姓はこうした所伝に由来するものではなかろうか。美作菅家の原田氏は、菅原姓とも平姓とも称していたのである。
 利家の出た荒子の前田氏は、同郡下一色(現名古屋市中川区下之一色町)に居た前田氏を宗家としていて、この宗家は尾張前田氏第二代の原田与十郎佐治以来、「与十郎」を通称としていたが、第五代与十郎種定は天正十二年(1584)の小牧合戦の際、子の長種・利定とともに秀吉に味方し、家康・信雄連合軍に攻められ落城している。こうした尾張前田の庶流家の庶子として生まれ、信長の命により兄・利久に取って代わり当主となった利家の事情からみて、金沢藩主家に前田氏の中世歴代が伝わらなくともあまり不思議ではない。なお、現在、下之一色町と荒子町との位置関係は、前者の東北約三キロに後者が当たり、そのほぼ中間でやや下之一色寄り北方に本前田町・前田・前田西町の一帯(下之一色の北方約一キロ余)が庄内川を挟んで位置する。
 美作・播磨から何故、遠い尾張国海東郡まで落ちてきたのか、この辺の事情は何ら記載がなく分からない。ただ、尾張のこの地域には郡名の「海部」で知られるように、古代から海神族系統の氏族、とくに和邇氏族・多氏族が繁衍していたという事情があり、下之一色の西方近隣には和邇部に由来する蟹江という地もある。これらの事情が美作と何らかの交流につながっていたのかもしれない。

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 次に、美作菅家が実際に道真の子孫であったのだろうか。私は、当初、この辺の系譜はほぼ信頼していた。しかし、菅家一族の有元氏でも原田氏でも数種の系図を伝えること、全国の菅原姓を名乗る武家の系図の殆どが疑わしいこと、などの事情から、疑問が増大してきた。結局、おそらく菅家一族も美作古来の豪族であって、その場合、後孫が行方不明となっている備前国邑久郡の吉備海部直の族裔が古代のある時期に吉井川を溯上して定着したものではないか、と推測するようになった。あるいは、後述する和邇部臣との関連もあるのかもしれない。
 美作菅家一族の系図をみると、原田氏の近親には播磨国の佐用郡や長田荘に居住するものが見える。利家の先祖として見える原田二郎兼知とその兄・佐用菅太知季のことであり、南都本平家物語には「播磨国佐用党、同国の在庁、利(ママ)季、兼知等云々」、『源平盛衰記』には「「播磨国佐用党、利(ママ)季、兼知を始めとして、七百余騎云々」と見える。
 兼知の子の原田右馬允知貞は長田荘に居住し、承久合戦のなかで討死したが、その子右馬太郎知明は美作国に帰住したと記される。この長田荘の地は、『和名抄』の賀古郡長田郷、いま加古川市尾上町長田となっており、住吉大明神を祀る古社尾上神社が鎮座する。『播磨国風土記』に見える古い地名であり、地名起源伝承として、昔、大帯日子命(一般に景行天皇と解されているが、年代などから成務天皇とするのが妥当)が和邇部臣の祖・印南別嬢のところへ妻問いで御幸した際にちなんだ起源譚が見える。佐用郡は美作に隣接する播磨西北部に位置し、中世以降、赤松一族が繁衍したことが知られるが、赤松一族にも佐用氏が見える。赤松氏は流布する系図では村上源氏の出とされるが、明らかに仮冒であり、私は、実際には古代播磨に繁衍した和邇部臣一族の末流ではないかと推測している。また、佐用郡に南接する赤穂郡には、海神族倭国造の祖が居住したとも伝える。これら美作の原田氏を巡る事情は、その源流が海神族にあったことを窺わせる。
 美作菅家一族はいずれも菅公の末裔と称して梅鉢紋を使用したことは、『日本紋章学』に見えるが、同書にあげられる梅鉢紋使用の諸氏には興味深いものがある。京の菅原姓公家六家のうち、五条家を除く高辻・唐橋などの五家はいずれも梅鉢紋を用いた。武家では、まず、同じ尾張国内で知多郡の大族久松氏(幕藩大名の久松松平氏)があげられ、公家高辻の支流と称する系図を持ち梅鉢紋を使用した。しかし、この系図仔細に検討してみると出自仮冒があることが分かり、実際には古代知多郡の大族、知多臣・和邇部臣一族の末流と推される。また、北陸に梅鉢紋使用の諸氏が多く、加州江沼郡の敷地天神を氏神として崇めた斎藤氏などが梅鉢紋を使用した。斎藤氏は一族が美濃各地に天満宮を勧請したが、美濃の堀・前田などの諸氏は斎藤と同族と伝え、やはり梅鉢紋を使用した。
 室町期の『見聞諸家紋』には加賀国石川郡の松任氏や大和国添上郡の筒井氏が同紋を用いたと記される。松任氏は利仁流藤原氏の富樫・林一族であるが、実はこの一族は海神族から出た阿倍氏族(和邇氏族と同族)の道君の末流であった。林一族の山岸氏も、美濃国大野郡大洞村に遷住して、天神を信じ梅鉢紋を用いた。阿倍氏族という佐々貴山君や和邇氏族の後裔が繁衍した近江でも、梅鉢紋使用の氏は多く、佐々木一族の佐々木・深尾・竹腰などが同紋を用いた。大和国添上郡では、筒井氏をはじめ今井・辰市・中坊などの諸氏が用いた。沼田頼輔は、添上郡は菅原氏の発祥地であり、天満宮の信仰が行われた故であろうと記すが、そうではない。筒井等の諸氏は系譜に諸説(藤原氏とも三輪氏ともいい、他の説もある)あるものの、実際には添上郡に繁衍した和邇氏族の末流とみられるし、中坊氏は柳生氏の一族であって、柳生氏も菅原一族の出とする系図を伝えるが、実は和邇氏族櫟井臣の族裔であった。
 長々と『日本紋章学』の記述を基礎に梅鉢紋使用諸氏を概観してきたが、武家で梅鉢紋を使用した諸氏は菅原姓と称しても、実際には海神族とくに和邇氏族の流れを汲むものが多かったことが知られる。海神族はわが列島に稲作・青銅器などの弥生文化を伝え、北九州の奴国を中心に居住した。和邇氏族は記紀では孝昭天皇の後裔と称するものの、その奴国王家の嫡宗的な存在であり、この氏族には粟田臣、久米臣、柿本臣、葉栗臣、櫟井臣、葦占臣、根連、楊生首など、植物に関する姓氏がきわめて多かったことに注目される。美作菅家の「菅」も、菅原の菅ではなく、植物の菅であったのかもしれない。そうすると、その本来の出自は、播磨和邇部の同族(この場合、早い時期に赤松一族と分岐か)ないし吉備海部直の末流で、いずれにせよ、源流を海神族の一派とみるのが妥当であろうということになる。
 菅公の子孫と称し梅鉢紋を使用した美作菅家の一族原田氏の一派は、その主・赤松氏没落の時、海神族が繁衍した尾張国海東郡に遷り、その地でやはり梅鉢紋を使用していた北陸出自の斎藤一族前田氏と縁組みして前田氏を名乗り、やがて英傑利家を出して、梅鉢紋使用氏族の多い加越能の地の太守となった。まとめてみると、こういう粗筋になる。長い歴史の中には様々な巡り合わせがあるが、本件もなかなか面白いものの一つではなかろうか。
 なお、美濃の前田氏が起こった安八郡も、和邇氏族が多く居住した地域であり、美作菅家の一族にも前田氏があったことは系図に見える。勝田郡位田村八幡宮の社人に前田豊前が見えると『姓氏家系大辞典』に記載されるから、これもおそらく菅家一族の後裔であろう。そうすると、「前田」という地名自体が海神族に縁由深いものかもしれないし、古代筑紫の前田臣氏も海神族の流れであった可能性もあるかもしれない。
 最後にもう少し附記しておくと、前掲『前田家系図』の件で鈴木真年翁が接触した佐伯有敦氏とは、私の最も尊敬する系図学者佐伯有清氏の祖父であることが分かった。有敦氏は明治に富山藩最後の藩主前田利同の東京の住居に寄寓しておられ、そのとき陸軍参謀本部に勤務の鈴木真年翁と出会った模様である。氏はのち栃木県に遷られたが、佐伯家は代々富山藩校の儒者をつとめ藩主の教育にあたってきた事情が寄寓の要因ではなかったか、とのお話である。有清氏もいわれるように、系図を巡る奇遇の一つと思われる。
 たしかに富山県には立山の麓の集落に佐伯姓の人々が多い。この佐伯の一族は立山信仰と密接に結びつき、祖先は立山に鷹を追って入ったという立山開祖佐伯有若(あるいはその子・有頼)と伝えるが、これは系譜的には疑問があるのではないかと私には思われる。越中国司の子弟が任地に土着するという所伝には一般に疑問を感じるとともに、別に掲げた拙稿「越の白鳥伝承と鳥追う人々」で記述したように、伝承的にみて似通う古代鳥取部の流れではなかったかと考えるからでもある。 (02.1.16記)

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《美作菅家党(みまさかかんけとう)》
http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/kanke.htm

 美作菅家党(宗家:有元氏)は、岡山県勝田郡を拠点として活躍した中世の武士団で菅原道真を祖としている。菅家党を語らずには東作の歴史を語ったことにはならない。(中略)
 『勝央町誌』では、渋谷氏(河合郷の地頭職)、安東氏、一丸氏を菅家の一派とみなし、記述している。安東氏は元は有元氏であるが、それ以外の氏は菅家と繋がりがあっても婚姻、主従ないし同盟関係と推測される。
 亦、真庭郡の南三郷(鹿田、垂水、栗原)を名字のように扱っているが、これらは地名であり、その地名を姓とした武士がいたと確定はできないであろう。
 『勝田町誌』には室町~戦国時代の欄に菅家党のことが1行しかふれられていない。勝田町にも菅家党の血脈は連綿と続いて現在子孫は多いのだが、発行年が古いのとその当時は美作菅家党が観光資源にならないと見做したので載せていないと思われる。
 (後略)

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《岡山県美作地方出身の画家、有元利夫(ありもととしお)》
http://www.harenet.ne.jp/senohpc/data/arimototo.html

 豊かな才能で将来を期待されながら38歳という若さでこの世を去った「夭逝の画家」有元利夫(1946~1985)は疎開先の岡山県津山市小田中で有元吉民、琴子の四男として生まれ、その後東京の下町である台東区谷中で育った。
 私立駒込高等学校に進学し、2年生の時美術の講師として教鞭を取る版画家中林忠良との出会いが芸術家を目指すさっかけとなり、東京芸術大学美術学部デザイン学科に進学した。 在学中、日本画、彫刻、版画の研究室にも通い、さらには、音楽学部にも足を運び様々なジャンルを幅広く吸収した。
 初めての海外旅行でフレスコ画と出会い強い衝撃を受け、そこに日本の仏画との共通点を見いだし、岩絵具や箔などの技法を学び、それを画面の中に用いた独特の技法を開発し、独自の絵画を創造していった。
 大学卒業後の3年間はデザイナーとしてのサラリーマン生活を経験し、自ら退職し、その後は望んでいた自由な創作活動に入り、それにひたすら邁進、専念した。
 1978年には具象絵画の登竜門といわれる安井賞において初の特別賞を受賞、さらに1981年には安井賞を受賞し、その作品は高く評価され、将来を期待されながら絵画に止まらず幅広い才能を発揮させながら活躍した。
 (奈義町現代美術館での有元利夫展のパンフより 1998.11)

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《有元家・勝北郡高円村》
http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/arimt.htm

 作州ではたいへん有名な家で、いろんな家がこの家系につながっています。
 では、神代からの系譜をご紹介いたします。
 始まりは天照大神の第2子天穂日命です。出雲宿祢野見は垂仁天皇の御代に土師連の姓を賜っています。
 宇庭は阿波守、安人は和泉国秋篠に住んで、丹波、備前、備中の守などに任じられています。
 古人は桓武天皇の侍講をつとめ、遠江守従5位下に任じられました。この人は大和国菅原里に住んでいたので菅原朝臣を賜っています。古人もその子清公、清人共に遣唐使となって中国で勉強したようです。とくに、清公は3度も入唐しています。嵯峨、仁明両天皇の侍講をつとめ、文章院を建て、従2位にまで叙せられています。
 是善は文徳、清和天皇の侍講をつとめた文章博士で、従2位に叙せられています。文徳実録の勅撰、貞観格式の撰などに関わっています。
 学問の神様、天神様として有名な菅原道真は、こういう古代の学者の家系から生まれています。代々の当主と同様に、遣唐使として大陸にも渡って勉強していますが、先祖とは少し違って、政治感覚も持ち合わせていたのか、権大納言右大将、従二位と政府内の地位もどんどん上昇して行きました。もともと天皇に講義をするような家ですから、道真が政府高官になることを快く思わない人がいたのでしょう、57歳の時に、讒言によって太宰府に流されます。翌年には無念のまま配所で亡くなりました。しかし、道真の死後、都ではいろんな事件が多発し、これを道真の祟りと畏れられ、道真は左大臣正一位、太政大臣と位階を上げられて復権しました。
 有名な人なのでいろいろな逸話があるのでしょうが、道真は父是善が出雲国に勤務中、当地の女性との間に出来た子であるという説もあるそうです。賤女とあるので、身分の低い女性だったのでしょうが、色白のたいへんな美人であったようで、是善を神秘の梅がある山に案内した時から良い仲となったそうです。「賤女裾をかかげて案内す」とあるので、なんだかあやしい場面を想像してしまいます。あまり品のない勘ぐりをしては罰が当たりそうですから止めましょう。
 道真の復権をうけて、子孫はまた文章博士、侍講として学者一門として続いています。後に、高辻、東防城、西防城、唐橋などと名乗ったようです。
 資忠の次男良正は正暦年中に遁世して美作国勝田郡香爐寺に住みました。良正から数代を経た知頼は美作守となり、勤務中に作州勝田郡で死去しています。その子真兼は都に帰らないまま押領使となって作州に住み着きました。知頼、真兼、尚忠の墓は円墳として現存しているそうです。
 尚忠の妻は漆間時国の妻の実妹になり、仲頼と法然上人(浄土宗開祖)はいとこ同士になります。この関係は立石家のページでも書いていますが、両親を喪った幼い頃の法然が、奈義山中腹の菩提寺(浄土宗)の古刹にいた伯父観覚上人を頼って身を寄せたという話もあります。
 仲頼は子供のないまま妻に先立たれていましたが、保元の乱で流されて来た近江国の住人近藤頼資夫婦の面倒を見ていた処、頼資が亡くなり、その妻を後妻にして満祐が生まれました。頼資の2子公資、公継は仲頼の子として大きくなりました。頼資の妻、仲頼の後妻は二階堂藤原維行の娘です。二階堂氏はこちらで紹介している二階堂(中島)家の先祖だろうと思います。
 満祐は三穂太郎と号し、名木山(奈義山)に登って仙人の術を学んだということです。その妖怪飛行術で播州佐用の女性のもとに通うので、妻が嫉妬して満祐を殺したというアブナイ話があります。元気な人だったのでしょうか、男子7人に恵まれ、それぞれ有元(在本)、廣戸、福光、植月、原田、鷹取、江見という姓を名乗っています。これを併せて菅家7流といって、作州の名門ということになっているようです。有元の起源は、名木山の麓(元)に有るところから付けられたそうです。廣戸、鷹取の代わりに野上、豊田を挙げているものもあり、また、菅家一統として皆木、小坂、富坂、右手(うて)、梶並も加わるそうです。どこがどうつながっているのか正確なところは不明です。同族と云うことで結束の強化を計ったものではないでしょうか。
 (後略)

***

《菅家・久米南条郡下神目村》
http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/kan.htm

 下神目に菅という家があることは大村家の系図を整理していて知りました。
 即ち、大村官右衛門房重母の実家になる同郡建部村綿屋大村家から於直という人が菅周齋妻となり文化七年に廿七才で死去しています。また、房重の直系子孫盛長妻菊子が下神目菅寛次郎次女とあるので、おそらく同じ家だろうから一度確認してみたいと思っていました。
 その後、父の従兄江田治三氏から、「エイズ問題に対して立派な対応をされた厚生大臣の菅直人さんは岡山県の人だよ」とお聞きしました。また、作州菅家一統の宗家筋に当たる勝田郡奈義町高円の有元家のご子孫から、「江戸時代、下神目の菅家の人、つまり菅直人さんの先祖が作州菅一族を代表してルーツを確かめるために上京しました」という話もお聞きしていました。
 二百年以上昔の関係を気に懸けていた時、現代に結びつく情報が飛び込み何か新鮮な刺激になりました。
 「菅さんはホントに岡山の人?」という自分への問いから、回りの人たちへの問いかけになり、岡山県のほとんどの人が「菅直人さんのルーツが岡山」ということを知らないと云うことが判りました。
 一方、米国で仕事をされている江田治三氏がどうしてそんなことをご存知だったのか益々不思議になりました。江田家の初代妻が大村房重次女であることも面白い縁に思われました。
 「菅(かん)」は菅原の「菅」、ご先祖様は藤原氏の陰謀で太宰府に流された菅原道真、作州の菅家一統の一派です。
 国道53号線を北に走り、「下神目」という小さな地名標を目印に右折すると小集落があります。ここには菅姓を名乗る何軒かの家があり、それらの家の土蔵には梅鉢紋が入っています。みんな同じ株家のようで、山の手の奥まった処に菅直人氏のご先祖が暮らされていたという屋敷跡があります。この裏山に上がると、菅一族の墓地がいっぱい並んでいて、一番上に直人氏の家の墓地があります。この村の庄屋を勤められていたようで、この辺りの菅一族の本家筋になるようです。
 江戸時代の初期に琴平や小豆島(何れも香川県)に分家が出ています。倉敷の宮崎屋井上家七代、五蔵永美の妻政子のところに「琴平菅氏、文化九年歿六十五才」とあります。
 (後略)

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