カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

雑駁メモ下書きシリーズ

2006-07-18 17:52:55 | Weblog
 雑駁メモ下書きシリーズです。

【M田先生音楽批評ゼミ・2006年7月11日】
クロード・ドビュッシー(1862-1918)の音楽から見えてくるもの??
~ドビュッシーのバレエ音楽「遊戯」を聴いて~
発表者:K君、S君、Tさん、Sさん
報告者:かわむら

1.取り上げる音楽
ドビュッシー作曲 バレエ音楽「遊戯」
 →ドビュッシーの晩年近く、1913年にバレエ・リュスからの委嘱により、作曲された管弦楽曲。オリジナル台本は振付師ニジンスキーによる。二人の女性が、一人の男性テニスプレイヤーをめぐって恋の駆け引きをする、三角関係を描いたストーリー。
ドビュッシーの音楽と比較する音楽:マライア・キャリー「恋人たちのクリスマス」

2.問題提起
 マライア・キャリーの曲については、聴いてすぐに「クリスマス」のイメージを思い浮かべるひとが多いと思われるが、一方で、ドビュッシーの曲は、初めから聴き手に明確なイメージを簡単に与えてくれない類の音楽ではないかと思う。生前のドビュッシーは、アンチ・ワグネリアンのひとりとして、「聴き手に想像させる余地を持つような音楽を作りたい」と願っていたらしい。たしかにドビュッシーの幾つかの(あるいは、ほとんどの)曲には、全体を通してピアニシモの指示が多く、キャッチーな主題を前面に押し出さない傾向が見られ、またその作品のタイトル(「海」「春」「夜想曲」など)の付け方にも、「作者としての主張をできるだけ抑えて、聴き手の想像力に委ねよう」という姿勢が窺える。こうして見ると、ドビュッシーは、あえて聴き手の「能動的」な想像力を掻き立てることを狙った音楽を作った、と言えるのかもしれない。それに対して、ドビュッシーの音楽と違い、いわゆる流行歌や商業主義的消費音楽は、聴き流していても不思議と耳に残る。「受動的」に聴いていても充分に楽しめるわかりやすいものが多い。近頃はそのような「受動的」な音楽が氾濫している。だから、「受動的な聴き方」が世の中に.横行していると言えるのかもしれない。この、ただ聴き流すというもったいない聴き方だが、そもそも、「音楽」の聴き方として「正しい聴き方」なのだろうか。「能動的」に自分でイメージを描いて聴いてみるような聴き方が、本来の「正しい聴き方」ではないのだろうか?

【キーワード】 「能動的」、「受動的」

3.さまざまな意見
・「能動的に聴く」「受動的に聴く」の定義が不明。そもそもこの問題は、曲の問題なのか。それとも、聴き手である私たちの問題なのか。→アドルノの「聴取」論。アドルノ『音楽社会学序説』(平凡社ライブラリー)によれば、「聴取」のパターンには、きわめて能動的な聴取者である『エキスパート(芸術音楽の聴取者など)』から、段階順に、『良き聴取者』、『教養消費者』、かなり受動的な聴取者である『情緒的聴取者(大衆音楽の聴取者など)』・・・まである、と説明している。
・音楽のメッセージ性の強弱を考えるとき、歌詞のメッセージ性の強さは否めない。従って、「器楽曲」の場合と「歌」の場合とで切り分けて考える必要があるのではないか。→今回の議論では、「器楽曲」の場合で考えたほうがよいのではないか。
・音楽をなぜ聴くのか? を考えるとき、「受動的に」聴くのかor「能動的に」聴くのかを考えることは意味のないことなのではないか。→認知科学者・戸田正直氏の提唱した「感情のアージ理論」に沿って「音楽を聴くこと」を考えてみると、「感情を押し殺すことの多い現代社会における、現代人にとっての感情の自由を獲得できる数少ない機会」と思う。そこには「能動的」な聴き方はないのではないか。現代人にとって「受動的に聴く」ことこそが「必然でやむを得ないこと」なのではないか。
・音楽は「何かを伝えるためのツール」であり、聴き手は、音楽が主張しているものを探しに行かなければならない、と考えることができるのではないか。その「探しに行くこと」が、「能動的に聴くこと」なのではないか。→「何かを伝えるためのツールではない音楽」は存在するのか。
・史実(?)を多く取り込んだという、ダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』には、「ドビュッシーもシオン修道会(*)総長のひとりであった」という記述が登場する。「自分の本当の真実を探り当ててほしい」という謎かけのメッセージがドビュッシーの音楽には織り込まれているのではないか。
* シオン修道会
http://2.csx.jp/~smx/davinci/yougo.html
 1099年に設立されて存在したというヨーロッパの秘密結社。
 この名が初めて登場したのは、マイケル・ベイジェント、リチャード・リー、ヘンリー・リンカーンが著した『レンヌ・ル・シャトーの謎 イエスの血脈と聖杯伝説』(1982年)であり、1975年に、パリのフランス国立図書館で「秘密文書(ドシエ・スクレ)」として知られる史料が発見され、その存在と会員多数の名が明らかになった事が根拠となっている。
 その文書によると、シオン修道会は、イエスの妻である「マグダラのマリア」の墓と、その血縁に連なる者(子孫・フランク王国メロヴィング王朝の血統)を守る為に作られたもので、更に、イエスの血脈に連なる者(メロヴィング王朝の末裔)のフランス王位への復位が目的であったとされ、創設者ゴドブロワ・ド・ブイヨンは、第1回十字軍の指揮をとり、テンプル騎士団にソロモン神殿の廃墟から秘密文書を発掘する様に命じ、また、フランク王国を建国したメロヴィング王朝の末裔である人物とされている。
 『ダ・ヴィンチ・コード』では、ジャック・ソニエールが総長を務め、冒頭の事実と称したページに、「シオン修道会は1909年に設立された実在の秘密結社で、その会員には、サー・アイザック・ニュートン、ボッティチェルリ、ヴィクトル・ユゴー、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチらも含まれている」とされている。
 だが、実際には、シオン修道会が実際に存在した形跡は無く、根拠とされたアンリ・ロビノーなる人物によってまとめられた秘密文書も、ピエール・プランタールという人物が、偽名を使って捏造したものである事が幾つかの証拠で明らかになり、会員とされた著名人らが残した文献もくまなく調査されたが、シオン修道会とかかわりがあったという事実は全く見つからなかったのだ。
 ピエール・プランタールは、自分がフランス王家の血を引く者だという主張を行う為に、それを支持する様な証拠を作り、レンヌ・ル・シャトーの聖杯伝説を利用したのである。
 1993年に、改訂版シオン修道会総長一覧に名前があったロジェ・パトリス・ぺラという人物のインサイダー取引事件に絡んで、ピエール・プランタールは家宅捜査を受け、取調べをされた際に、彼はシオン修道会に関する話は全てでっちあげであったという証言を行ったという。
 彼はその後、警察から厳重注意を受けて放免され、各地に転々と移り住んだ末、2000年2月3日に亡くなった。
・オリバー・ストーン監督の有名な反戦映画『プラトーン』のテーマ音楽として使われた、サミュエル・バーバー作曲『弦楽のためのアダージョ』のケース。この音楽は、今では、「反戦」や「葬送」のイメージで聴かれることが多い。が、バーバーは、生前、『弦楽のためのアダージョ』の音楽について、必ずしも「反戦の音楽」や「葬送の音楽」というイメージで作曲したものではなかったことを述べている。そこから、「能動」と「受動」ということが見えてくるのではないか。つまり、「能動」とは、オリバー・ストーンが「能動的」にバーバーの音楽を聴いて、そこに「反戦」や「葬送」のメッセージを見つけ、反戦映画のテーマ音楽に採用したこと。「受動」は、私たちがオリバー・ストーンの掴んだ「反戦」や「葬送」のイメージを、そのままバーバーの『弦楽のためのアダージョ』に当てはめて受容(→「受動的な聴き方」)すること。「能動的に聴く」や「受動的に聴く」とは、こういうことではないのか。
・作曲家・ピアニストの三宅榛名さんのエッセイ集『音楽未来通信』(晶文社、1984年)所収の「生活的音風景」の中に、「(前略)チェホフにバイオリンを弾く男の話があった。しけた男で、これといったとりえもなかったが、ただバイオリンで一曲だけ弾くことができた。そのメロディーを男が弾くと、みんなが泣いた。何べん弾いてもみんなが泣いた。この話を読んでいると、この曲が実際に耳に響いてくるのだった。(後略)」という一文がある。これも、ひとつの「能動的に聴く」ということなのかもしれない。
・聴き手に「わかりにくい」音楽を書いた、という意味で、ドビュッシーの音楽はすべて「駄作」だったと言えるのではないか。→ドビュッシーが活躍した時代は、簡単に意味を掴ませないような、象徴派、高踏派と呼ばれる象徴主義、表現主義が流行し、ドビュッシーはそうした芸術思想の潮流をしっかり踏まえて創作活動を行ったと思われる。現代の時代尺度、一面的な視点だけで、ドビュッシーの芸術を「駄作」と決め付けてしまってはいけないのではないか(もちろん、ドビュッシーの作品は「駄作」ではない! と思う)。

4.最後に(結論に代えて)
 問題提起にある「ドビュッシーは、あえて聴き手の『能動的』な想像力を掻き立てることを狙った音楽を作った、と言えるのかもしれない。」という指摘は、ドビュッシーの音楽についての正しい指摘なのではあるまいか、と思った。ドビュッシーの音楽は、聴き手の国を問わず民族を問わず、聴き手のうちにさまざまなイメージを喚起させることのできる「豊かさ」を有するものだと思う。ここでは、ドビュッシーの音楽が「能動的に聴かれるもの」か「受動的に聴かれるもの」かは、あまり意味のない問題提起なのかもしれない。そもそも「正しい聴き方」というマニュアルも存在しないのだろう。聴き手が「能動的に聴く」のか「受動的に聴く」のかは、そのとき聴き手が何のために音楽を聴くのかということに収斂される問題なのかもしれないと思うからだ。いずれにしても、興味深い面白い議論であったと思う。ドビュッシーの音楽をあらためてじっくり聴いてみたくなった。
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河野先生の「家霊」のうた(メモ)

2006-07-18 00:07:16 | Weblog
 メモ。

 「塔」2006年7月号より。

 巻頭の「月集」欄。河野先生の「家霊ども」の歌にとくに惹かれます。。。

症状は日に日に変るが変わらずに毎朝掃き寄す椋の葉竹の葉  河野裕子

この家のきれいに磨かれし鍋たちがいいだろ俺たちと重なつてゐる  河野裕子

家霊どもが浮遊してゐる階段の中程(なかほど)に坐るなつかしく怖く  河野裕子

***

 たとえば、映画「となりのトトロ」に出てくる「すすわたり」も「トトロ」も「ネコバス」も、あれらは家霊の一種なのだろうと思います。

 私も小さいころは、たしかに「家霊」を近くに見ていたような憶えがあるのです。。。
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