カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

ある家族写真の風景から(メモ)

2006-07-30 00:41:41 | Weblog
 メモ。ある家族写真をめぐって。

永田先生の歌集『無限軌道』(1981年刊)より。

倒立し皆一様に笑いおり蛇腹写真機の中の青空  永田和宏

***

 この一首を読むとなぜか思い出すのが次の一節です。

                ☆

 私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹(いとこ)たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴(はかま)をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
「可愛い坊ちゃんですね」
 といい加減なお世辞を言っても、まんざら空(から)お世辞に聞えないくらいの、謂(い)わば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
 と頗(すこぶ)る不快そうに呟(つぶや)き、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
 まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺(しわ)を寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。
 (後略)

                ☆

 これは、云わずと知れた、太宰治の有名な小説『人間失格』の冒頭です。

***

 永田先生の一首にも、太宰治が描いたような屈折がないわけではないのですが、永田先生の場合、結句の「青空」がそれを見事に打ち消している(あるいは、「中和」している)ような気がします。

 惹かれる一首です。
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詩とメロディの関係(memo)

2006-07-30 00:01:54 | Weblog
 昨日の朝のTBSラジオ「永六輔その新世界」で永さんが話していたことから、メモです。

***

 (前略)

(永さん):僕は、中村八大さんやいずみたくさんと歌を作ってきましたが、八大さんのときといずみたくさんのときとで歌の作り方がちがいました。八大さんのときは、最初に八大さんがピアノで曲を作って、僕がピアノの脇に立ってそのメロディに言葉を乗せていきました。「上を向いて歩こう」や「遠くへ行きたい」などはそうです。いずみたくさんとのときは、僕がはじめに詩を作って、それをいずみたくさんに渡していました。たとえば「見上げてごらん、夜の星を」がそうです。

 (後略)

***

 詩とメロディの関係。昔から興味のある問題なので、永さんの話を興味深く聞いていました。

 そういえば、前にテレビ番組で阿久悠さんが話しているのを聞いたのですが、阿久さんは、たとえば、ピンクレディのヒット曲を書くのに、まず都倉俊一さんからメロディをもらってそこに言葉を乗せていったのだそうです。

 はじめに詩ありきか、はじめにメロディありきか。どちらが先かで最終的に歌の出来に差が生じるものかどうかはよくわかりません。

 興味を惹かれる問題です。
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