都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

新富1丁目のモルタル看板建築群

2024-04-03 | 中央区  
トミー・リーアル・アドバイザー、Y邸、中央金属
所在地:中央区 新富1-4-3
構造・階数:木・2
建設年:戦前?
解体年:手前2棟は1998〜2000(平成10〜12)
   :中央金属は2016〜17(平成28〜29)
Photo 1995.6.20

 新富町1−4の北東角から南方向に撮ったもの。下記「ぼくの近代建築コレクション」の記事の2枚目写真とほぼ同じ向きで、私の方はその約1年後のもの。
 角からトミー・リーアル・アドバイザー、その隣がY邸、その奥は新光貨物株式会社のビル、その奥が中央金属(2F)。新光貨物株式会社は5F建てだが、その他は木造2階のモルタル看板建築だった。

 角地のモルタル看板建築は、1973年の住宅地図ではコーヒーマンダリン、その後、1980年代以降はトミー・リーアル・アドバイザーという会社だったが、1998〜2000年の時期に解体された。またY邸も角地の建物と同時期に解体され、その後、両者の跡地はまとめられて7階建てのビルが建てられている。


 Butterfly Stroke Inc.(旧 中央金属) Photo 2013.10.13

 一方、奥に写っている中央金属の方は、Googleストリートビューの画像を見ると、2000年代後半にはきれいに改装され、Ruffy Tuffy Inc.という小規模事務所になっており、2010年代にはButterfly Stroke Inc.になっていた。また、いつ頃からかは分からないが、この頃には外壁がツタで覆われていた。
 しかし2016〜17年頃に解体され、その後はコインパーキング、現在はホテルになっている。

 1990年代頃までは都心でも看板建築が建ち並ぶ街並みがそこそこあったが、その後次第にそれらは建て替えられ、現在はやはりかなり少なくなっている。

トミー・リーアル・アドバイザー/新富1丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中央区 #看板建築 #モルタル看板建築 
#街並み 中央区 ブログ内タグ一覧
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築地市場探索1

2006-08-05 | 中央区  

 築地界隈散策の後、築地市場へ赴く。Photo 2006.7.23

木造3階建て銅板貼り看板建築とマンサード家屋
所在地:中央区築地5-21

 築地の場外市場は、平日午前はごった返しているが、休日の夕方はやはり静か。ただ、最近は一般向けの寿司屋が多くなり、こちらは結構賑わっている。大きな寿司屋自体は昔から晴海通り沿いに何軒もあったが、お店が増えて競争も激しくなってきているのかもしれない。数年前までは寿司屋の呼び込みが街頭に立っていることなどは無かった気がする。築地=新鮮な魚=旨い寿司、という連想から客が増え、テレビでも取り上げられるようになって、築地も次第にプロだけの街ではなくなっている。

圓正寺(本堂の右側、道路沿いが卸業者の店舗になっている。)
所在地:中央区築地5-12

 ところで、場外市場地区の中には、築地本願寺の子院が何軒かあり、卸業者の店舗の間に異世界が紛れ込んでいるような状態になっている。この混在状況は築地市場と築地本願寺の歴史的経緯が深く関わっている。

 築地本願寺は、西本願寺の別院として1617年に浅草に建立された。しかし明暦の大火(1657)により焼失。現地での再建は認められず、幕府の指示で八丁堀の南側の海を埋め立て、現在の場所に移転した。言うまでもないことかもしれないが、築地の地名は埋め立てによって土地を築くことからきている。このようにして1679年に本堂が完成。このときの本堂は、正面が西南(現在の築地場外市場)を向いて建てられ、市場のあたりは門前町となっていた。現在の場外市場の場所には子院が軒を連ね、門前には多くの門徒が住み、賑わっていたという。ところが関東大震災により本殿は崩壊、子院の多くも被災した。現在の本堂は、伊東忠太設計で1934年に完成したが、このとき寺院の正面は時計回りに90度回転して、銀座の方を向くことになった。

 一方、築地市場は、関東大震災(1923.9)で江戸期以来の日本橋魚河岸等の市場が被害を受け使用できなくなったため、海軍省の所有地を借り受けて、東京市設魚市場を開設したのが始まりで、1935年に現在の場所に、東京市中央卸売市場が開設されたという。

 (築地本願寺と築地市場の歴史については、築地本願寺のHPと、Wikipediaの築地本願寺築地市場の項を参考にしました。)

 さて、築地本願寺の本堂は現地で再建されたが、現在の築地3、4丁目にあたる地区にあった子院の多くは、震災後、築地を離れて郊外へ移転していった。

 江戸期には城の拡張その他の理由で寺院の移転があったことが知られているが、実は近代以降も東京の寺院は都市計画の影響などから結構移転している。大半は都心から山手線の外側の23区内への移転で、その時期は、明治の市区改正、大正の関東大震災後の震災復興、戦後の戦災復興、という三度の東京の都市計画の時期のいずれかに大半が該当する。

 移転の理由は様々だが、これも、地震による倒壊、火災、都市計画道路などにあたったためであることがほとんどである。そして、移転先として東京西郊がしばしば選ばれたのは、低湿地よりも堅固な地盤で安全、かつ高燥な山の手で再建したいという考えや、当時、急速に東京の市街地が拡大していたため、郊外で新規の檀家を獲得しようという思惑があったと言われている。

 築地本願寺には、築地本願寺地中五十八ヶ寺として58の子院が軒を連ねていたそうなのだが、現在も築地に残るのは5寺のみ(築地本願寺を除く)。

 「近代以降における東京の寺院集積地区に関する研究」千葉一輝(早稲田大学博士論文)によれば、震災復興期に少なくとも36寺が、東京郊外に移転したことが明らかになっている(下記)。また1993年に法光寺が築地4丁目から越谷市に移転した。この他の16寺は東京都以外への移転、もしくは廃寺、もしくは不明などである。

 震災復興期の寺院移転は、世田谷区の北烏山など、寺町(寺院集積地区)などと呼ばれる場所への集団移転が一つの特徴である。築地本願寺門前の寺院群の移転先の内訳は以下のとおり。

杉並区永福 5寺
世田谷区北烏山 5寺
世田谷区松原 5寺
大田区萩中 7寺
大田区本羽田 3寺
足立区伊興 3寺
調布市西つつじヶ丘 2寺
調布市若葉町 6寺
計 36寺

 現在も築地に残る寺院は以下。

築地3丁目 築地本願寺、善林寺、法重寺
築地4丁目 圓正寺 稱揚寺 妙泉寺

 つまり、関東大震災で被災したため、本願寺末の子院は転出して行ったが、同時期に同じ理由で市場の方は隣接地にやってきた。子院が転出した跡地は、今度は場外市場となり、市場のいわば門前をなしたのである。その際、全ての子院が転出したわけではなかったので、現在のような混在状況が起こった。

 寺院は江戸期から門前と称して、境内の外回りを町人などに貸して営業をしていたのだが、築地に残った子院も境内地の一部を魚河岸の卸業者に貸している。このため卸業者の建物が寺院の軒先に迫る、ハイブリッドな状況も呈している。混在はお寺の建物だけにとどまらない。塀で囲われているので今まで気づかなかったが、あるお店の脇は墓地になっている。海の幸の香り漂う街は、時折お線香の匂いもする街なのだ。

場外市場の中に残る墓地
所在地:中央区築地5-9
#古い建物 中央区  #街並み 中央区  #寺院  #看板建築 
#銅板張り看板建築  #ギャンブレル屋根 
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築地散策

2006-08-03 | 中央区  

 日曜の午後になって築地界隈へ出向く。休日の築地は眠っているかのように静かだった。
Photo 2006.7.23

 築地本願寺の裏手にあたる、築地6・7丁目には戦災に遭わなかった一角があり、銅板貼りの看板建築や木造三階建てマンサード屋根の建物が結構残っている。一説によると、米軍が戦後の接収を見越して、聖路加病院周辺を空襲しなかったんだとか。

 以前は気づかなかったのだが、小さな路地空間もあちこちに結構残っている。

 湿った梅雨空の下、路地を歩く。植木鉢の草花の緑が瑞々しい。

中央区築地6-11

 看板建築、木造建物の多くでは、窓に簾が掛けられ涼を誘っていた。さほど暑い日ではなかったが、湿度が高く、窓を開け放っている家は半数ほどで、ガラス窓を閉ざしてエアコンをかけている家が多い。ヒートアイランド化の影響か、最近は夜になっても蒸し暑い日が多いので、開放的な木造建物でも、昔ながらの涼のとり方では済まなくなっているのかもしれない。

中央区築地6-6

 震災後80年、戦災後60年が経ち、住んでいる人も代替わりして、住人の職業の傾向も変わり、生活スタイルも大きく変化した。昔ながらのお店は続かなくなり、看板建築系の店舗も軒並み廃業寸前である。路地裏の木造長屋では、完全に戸を閉ざし、無人となっているところも散見される。今、残っている建物も、代替わりと共に、残念ながら早晩建て替えられてマンションなどになる運命なのかもしれない。

中央区築地7-13

P.S.
 発売されたばかりの、「東京人」2006年9月号pp.22-25に、日野原重明さん(聖路加国際病院名誉院長)のお話として、「米軍は「聖路加は爆撃しない」というビラを撒いていました。」という記事(文:森まゆみ)がありました。築地あたりが燃えなかったのは、やはり聖路加国際病院を爆撃しなかったのと関係があるようです。

#古い建物 中央区  #街並み 中央区  #路地
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見えてうれしいランドマーク

2006-07-30 | 中央区  

 築地七丁目あたりをぶらぶら歩いていたら、築地本願寺の屋根の一部が通りの先の方に見えていた。

築地七丁目から築地本願寺
Photo 2006.7.23

 ある程度、東京の建物のことを知っている人なら、築地近辺で東洋的な建物が見えたら、それが築地本願寺であるだろうと推測できる。近代建築を知っている人なら、伊東忠太の名が思い浮かぶ。遠くからでも見分けられるカタチ、それは言い換えればかなりアクの強いデザインでもある。知らずに夜などに通りかかったら、ハッとしてしまうかもしれないし、ちょっと気味が悪いと思う人もいるかもしれない。でも私はこの屋根が遠くに見えるとうれしい。東洋的な怪しいデザインなのかもしれないが、築地本願寺は見えてうれしいランドマークだ。

 ちょっと前には、同じ中央区の入船のあたりから、明石町の聖路加病院の塔が見えてハッとしたこともある。最近も、勤め先の早稲田鶴巻町の低地から、目白台の上、文京区関口の東京カテドラル(丹下健三氏設計)の鐘塔が見えることに気づいてうれしくなった。帰宅後に地図で確認すると、実は大した距離ではなかったりするのだが、軸線が通っていることがあまり多くない東京の街で、しかも計画的でなく偶然という感じで見えていたりすると、ちょっと得した気分になる。

中央区入船三丁目から聖路加国際病院のチャペル
Photo 2006.4.7

 見えてうれしいヴィスタ景は誰かに教えたくなる。「あのね、○○のあたりから△△の建物が見えるんだよ、意外でしょ!」という感じ。喫茶店で話しているときなど、一人がそういう知識を披瀝すると、他の人も、あそこからは何が見えて驚いたとか、感動したとか、言い出して、さながら景色自慢大会のような状態になることもある。

 一方で、見えてうれしくない場合も、そのストレスを解消するかのように「いやぁ参っちゃったよ。●●から■■がバーンて見えちゃってるんだよねー」てな具合に、あちこちで毒づいてしまう。こちらの方は決まって、何とかしないといけないと思うんだよねー、全く・・・、という感じで次第に暗くなってしまって、精神的にもあまり宜しくない。

千代田区神田神保町1丁目から文京区役所
Photo 1995.7.22

 神保町のとある通りからも、文京区役所が遠くに見えるのだが、これはなぜかあまりうれしくない。遠くからなので、圧迫感があるとかいうことはないのだけれど。

 今回は図らずも、ちょっと裏通りからの偶然のヴィスタ景について見ることになったが、こうしてみると、つくづく電線・電柱が多いなぁと思う。東京では表通りは徐々に電線の地中化がされてきたので、建物を撮って電線が入ることは確かに少しは減っている。しかし裏通りで、遠くの視対象を写すと、途中にあるたくさんの電線や電柱が全部写り込んでしまう。なんだかなぁ。

#街並み 千代田区  #街並み 中央区  #ヴィスタ  #寺院  #教会 #病院 
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街中でクルマを見る

2006-02-04 | 中央区  

 街を歩いていると、いろいろな車に出会う。

銀座にて
Photo 2006.1.22

 銀座界隈は日本の中では街並みが比較的揃っていてきれいだ。また、この界隈では路上駐車をしている車が多い。高級感のある街並みを背景に、流麗なスポーツカーが停まっている姿はやはり絵になる。格好良い人が運転してるんだろうか? 妙なおやじが現れたりすると幻滅するから、そこらへんはあまり考えないことにしよう。

 小さい頃は自動車を見るのが好きで、街で見かける車の名は大体判った。大人になったら記憶力が衰えたのか、他のことに関心が向いたのか、車種名はあまり判らなくなってしまった。私の目には現在の国産車はどれも似通って見える。もっとも、私が車種名を次々に言い当てていた子供の頃、両親は車なんてみんな同じに見えるとぼやいていた。似通って見えてしまうのは、やはり記憶力か関心の問題なのか・・。

 大人になって自動車の運転もするようになったが、私はパワーとか加速とか装備にはさほどのこだわりはない。値段の高い車が好きってワケでもない。ただ外観デザインは気になる。そこらへんいわゆる面食いなのかも。

銀座並木通りにて
Photo 2005.6.12

 はっとするような車に街中で出会うことはたまにある。私の場合、それらはたいがい外国車や古い車。数が少ない車が目立っているだけなのかもしれないが、ヨーロッパの車などの方が個性的なスタイルをしていることも一つの理由だろう。

 もちろんショールームにある車はきれいだ。しかし街歩きを基本としている私は、あまり関心がない。車は基本的に路上にあるものだと思ってるし、見て下さいと言わんばかりの状態より、素の状態でもきれいなたたずまいである方が価値がある気がする。

 絵になる光景とでもいうべきか、車が停まっていて良い感じに見えたり、車がやってくるのが印象深かったりすることは、たまにある。車のCMとかで、美しくかっこいい情景が流れたりするので、それに似通った光景を見ると、おっ、ということになるのかもしれない。街中で偶然に、格好良く見える状態に出会うことは極めて少ない。美しい状況は車のみで出来るのではなくて、背後の街並みや通りかかる他の人や車の様子、天候など、もろもろの周辺状況が揃って、絵になる情景が生まれる。(ここまで書いてみて、フォトジェニックな状況って、車が主題でなくてもみんなそういうものなんだとふと気づいた。)まあ、それはともかく、街中にいる車とその背後の街並みの幸運なコラボレーションに出会いたい。

#自動車  #街並み 中央区
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八重洲1丁目

2006-02-02 | 中央区  

 日本橋高島屋と東京駅の間のゾーンを八重洲仲通りを中心に歩く。

八重洲仲通り
Photo 2006.1.28

 なぜか新旧のトヨタセンチュリーがたくさん走っている。帝都無線のハイヤーなのかと思ったがどうも違う。いわゆる社長さんの車である。それがあちこちに路駐していて、運転手が車内で待ってたりする。30分ほどの間で、十数台のセンチュリーを街中で見たのなんて初めての体験。真っ白でばかでかいキャデラックなども路駐していたりする。

 ベンツやBMWといったヨーロッパの高級車は、六本木や麻布へ行くと日本車より多いが、ここではそれらの密度は他の地域と変わらない。トヨタセンチュリーとアメリカの大型車がなぜか多いのだ。

/
飲食店街の路地
Photo 2006.1.28

 丸の内ならともかく、八重洲の裏通りにこのような車がたくさんいるのには、それなりの理由がある。昔からこの近辺は飲食店が多く、周辺のサラリーマンが昼食を食べたり、仕事帰りに一杯やったりする店が多いのだが、最近はそれに混じって、怪しいマッサージやビデオボックスが、そこここで営業するようになっている。新聞等で見聞きはしていたが、確かに昔に比べると、風俗関係の店舗が入った雑居ビルが多い。

 センチュリーと上記の営業形態に明確な関係はなく、これは全くの推測なのだが、いま話題のヒルズ族や、丸の内の大企業の社長さんが、この手の車に乗るとはあまり考えられない。乗せてもらうならやはりヨーロッパの高級車か、国産のセルシオ、インフィニティ、レクサスあたり。運転するなら、ヨーロピアンスポーツカーなどであろう。センチュリー、プレジデントは、かなり旧世代に属する社長車と言わざるを得ない。しかしセンチュリーやキャデラックには、独特のオーラがあって、ある種の立場の人々を象徴する記号になっているらしい。そしてそういう車が集まる八重洲は、知らぬ間に微妙な場所になっていたのだった。

八重洲
Photo 2006.1.28

 丸の内では三菱主導で古いビルの建て替えが急速に進んだが、八重洲の方は、小規模な建物が多く、雑居ビルの老朽化が進んだのだそうだ。八重洲ではオフィスが設備の良い他の場所へ流出し、賃料も相対的に下がり、そこへ別の業態が入ってきたという。東京駅前で、地下鉄も大手町、日本橋があり、交通の利便性は完璧。地方からの出張の人も空いた時間に使える!、ということで一気に街が変化したようである。

 一方で、一部にはバブル期の地上げの跡とおぼしき、奇妙な空地や駐車場も目につく。東京駅前でありながら、思うように立地を生かせていない状況は、やはり問題とされていて、八重洲、そして一つ南側の京橋あたりでは、再開発の計画がいくつか進行しているようである。都心がみな丸の内のようなオフィス街になってしまうのも味気ないが、再開発などをせず、危険なエリアになるのだけは勘弁してほしい。

Pokemon Center TOKYO
Photo 2006.1.28

 たまにしか見ないMAZDA RX8が路駐していたので、ついそれを中心にして撮ってしまった・・。

 土曜の昼は、周辺のオフィスで働く人もいないので、街は閑散としていた。ところが、角を曲がると、遠くからたくさんの子供の歓声が聞こえてくる。何かと思って近くへ行くと、そこにはPokemon Center TOKYOという店舗があり、何かを求めて2、3ブロック先から長い列ができているのだった。付近はほとんどオフィスや飲食店。なぜ八重洲にこの類のショップがあるの??

 先ほどまでのちょっとぎらぎらして大人中心の妙なエリアから、全く異なる場所にいきなり到着し、不思議なギャップを感じる。はしゃぐ子供に連れられるようにして列に並んでいる大人は、みなマイホームパパであり、優しいママである。この人たちって、すぐそばがそういう場所って知ってるのかな? それとも目的地以外は全然関心がないから、気にならないのかしら?

 街をずるずると歩いて徘徊していると、聖と俗の隣接とか、健全と不健全の混在とかが気になってくるのだが、地下鉄や自動車で一気に目的地のそばに到達すると、そのような街の様相に気づく暇もないし、必要もないのかもしれない。

 しかし八重洲、なかなか謎も多くて奥が深い街でした。平日の夜も見ておきたい。

#街並み 中央区  #商業系  #古い建物 中央区  #自動車
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アイストップが気になる

2006-01-28 | 中央区  

 昨日は野村證券と旧東海銀行が日本橋三越あたりの中央通りからアイストップになっていると記した。ちょっと気になってきたので、中央通りを南下しながら同様に見てみることにする。

日本橋高島屋付近から汐留の電通本社ビルを望む
Photo 2006.1.27

 中央通りの横断歩道を渡りながら撮ってみた。真正面にエライ存在感で電通本社ビルが建っている。手前には銀座三越の裏手にある王子製紙本社ビルが見えており、以前はこれがアイストップだったのだが、電通ができて銀座を飛び越えて汐留の建物がアイストップになった。電通ビルは、見る方角によって細くなったり幅広になったりするのだが、中央通りから見るとべたっと幅広い状態で見える。

京橋付近から銀座方面と汐留シティセンター
Photo 2006.1.27

 もう少し南下して京橋付近になると、京橋で中央通りは少し向きを西に変える。すると今度は汐留シティセンターが街並みの背後に聳えるようになる。銀座の建物は、銀座ルールなる暗黙の紳士協定のようなもので、軒高が56m以下になっている。そのお陰で銀座の街並みは比較的揃っているのだが、汐留エリアの200m級の建物は、銀座の街並みの向こう側に、銀座ルールなど全くお構いなしに建っており、少し広い視点、遠い視線で見てみると、街並みがかなり乱されてしまっていることが判る。

 花の都パリでは、バロック期のオスマンの都市計画により、アイストップを多用した街並みが造られている。アイストップの対象となる建物は、凱旋門やオペラ座、有名な寺院、モニュメントなど、文化財的なランドマークばかり。一企業の建物がアイストップになっている例はほとんど無い。現代においてバロックの都市計画を再現しろというつもりはないが、アイストップを効果的に用いた都市景観は一つの財産であり、そういう都市景観計画がもっと考えられても良かろう。

 地方都市では山や城をアイストップにして都市景観計画を行っている例も増えてきている。東京でも、絵画館前、国会議事堂前、東京駅前の行幸通りなど、公共系で既存のヴィスタ景とアイストップ景観については、東京都の都市景観マスタープランをもとにしてコントロールするようになっている。しかし、これからアイストップ景観を巧く創るということは、まだあまり実例がない状況。

 汐留のビル群は、デザイン検討の際に、どの程度アイストップとしてのランドマーク性について考慮したのだろうか? 汐留シティセンターについては、アイストップになることを認識していたという文面を読んだことがある。一つの民間建物が、中央通り等のメジャーな通りでアイストップになり、それだけで視線を一手に集める時、広告塔として更に目立つようにデザインするか、街並みに合わせてできるだけ調和しようとデザインするか。景観法が成立して、景観の向上に努めねばならないことは決まっている。しかし現在は、まだ建築家、施主の良識に頼る面が大きい気がする。

 ところで、日本橋に最近オープンした三井記念美術館に行ってきた。三井が所有する茶器などの美術品が展示されているのだが、現在は開館記念特別展として、日本橋を描いた江戸期の北斎、広重、清長らの浮世絵版画などが一堂に会して展示されている。その中に、駿河町の越後屋の通りを描いたものがある。そして通りの正面、つまりアイストップの位置には富士山が描かれている。

 江戸期の城下町計画に際しては、山あてといって、通りの延長線上に山が見えるように街が計画されたといわれる。日本でも江戸期には既に、バロック的な景観を考慮した街区計画がなされていたわけだ。上記の駿河町は富士山を望むように道が造られた街なので、お天気なら正面に富士山が見える。ちょうど現在の三井本館の脇の道、中央通りと直行する道。江戸で一番繁盛していたこの道から、現在は富士は見えない。

 現状では、放っておくとあちこちの通りの末端正面に民間建物が建ち、まるで栓をするように次々に視線を塞いでしまう可能性がある。アイストップのコントロールによって、良好なヴィスタ景観を創造しうる道を、まずリストアップし、個別に対策を講ずる必要があるのだろう。

 ところで、さきの三井記念美術館に隣接する日本橋三井タワーだが、これも周辺を圧倒する高さを持つ、巨大ランドマークとなっている。日本橋、八重洲、神田周辺の通りを歩いていると、突然巨大なお姿が見えて唖然とさせられることが多い。日本橋の高速道路景観を憂い、昔のすばらしい景色として駿河町から見えた富士の浮世絵を掲げていることと、なんだかひどく矛盾している気がするのだが・・・。経済効率からするとこれまた仕方のないことなのだろうか。

#ヴィスタ  #街並み 中央区  #旧東海道 
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野村證券と三菱東京UFJ銀行

2006-01-27 | 中央区  


 Photo 2005.6.12



所在地
建設年
構造・階数 
設計
野村證券
(旧日本橋野村ビル) 
中央区日本橋1-9
1930(昭和5)
SRC・7F
安井武雄
日本橋御幸ビル(右)
(三菱東京UFJ銀行/旧東海銀行)
中央区日本橋1-7
1975(昭和50)
SRC+S・11F
日建設計

 日本橋の南詰にある二つの対照的な建物。昭和初期に建てられた近代建築と、70年代のモダニズム建築。

 野村證券は増築部分と合わせると船のように細長く、7Fだけが白く艦橋のようで、頂部の塔も船の煙突のように見える。折衷主義の名作と言われる堂々とした建物。手元の「建築探偵術入門」(東京建築探偵団、文春文庫ビジュアル版、1986)を見ると、昔は建物の左手前に交番があり、目立っていたのが、右側に移設され比較的目立たないデザインになったことが判る。

 三菱東京UFJ銀行(旧東海銀行)の方は、野村證券と対峙するかのように鋭利な姿を見せる。西側、南側には玄関以外に全く開口部が無く、まるで彫刻かモニュメントのよう。レンガ風の赤いタイルが鮮やかで野村證券と共に日本橋の新たなランドマークとなっている。

 調和という観点からすると、確かにかなりギャップのある風景。大きさもデザインもかなり異なる。しかしタイルが同じ赤系統なのでひどい対立にはなっていない。

Photo 2006.1.27

 中央通りは日本橋を境に少し向きを変える。日本橋三越の方から見ると、野村證券の建物はアイストップの位置にある。恐らくこの建物は、そのように見えることを想定して設計されているのだろう。しかし旧東海銀行の建物はその景色の背後に壁のように建ってしまった。ヴォリューム上の要請とはいえ、ちょっとこれはもったいない景色だった。そして更に旧日本橋東急の跡地に建った日本橋コレドによって、この景色は大変貌することになった。日本橋コレドは、東海銀行の建物よりも遙かに巨大であり、今では野村證券の建物は、可愛らしく思えるほど小さく見える。しかも日本橋コレドは、このアイストップの景色に完全に背を向けてしまっており、正面に比べて無粋な背面が大きく見えているのだ。地価も高く、有効活用が期待される日本橋周辺ではあるが、商業的価値の向上だけでなく、景観的価値をも大切に保持する取り組みが、もう少しあればと思わずにいられない。

 >日本橋からの景色を後から追加しました。

 それにしても「三菱東京UFJ銀行」って長い名前だなー。合併に次ぐ合併で、どんどん名前が変わるので、昔の銀行の名前が全然思い出せなかった・・・。

#古い建物 中央区  #街並み 中央区  #ヴィスタ
#安井武雄  #モダニズム  #近代建築  #オフィス  #銀行・保険 
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1992-01-10 | 記事一覧 
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Tokyo Lost Architecture
静岡の建築・土木構築物
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