都市徘徊blog
徒然まちあるき日記
 



 大学院の修士2年の時、研究室の調査旅行でロシアへ2週間滞在した。訪れたのは、ロシア極東の、ハバロフスク、ウラジオストク、それから首都モスクワ。
 帰国後、この旅行中に書き留めていた日誌を加筆して、ひとまとまりの日記とした。
 当時はワープロ(Canoword)でテキストを入力していたのだが、1994年頃になって、これをMS-DOSフォーマットに変換、FDで保管した。更にMacを使うようになり、スキャナーも購入したため、当時の写真をスキャンしてテキストと合わせてレイアウトし、個人的日記として冊子体裁のものを一つ作り、データはMOで保管していた。

 軍港都市ウラジオストクは、冷戦の終結を受け、90年台になって、ようやく外国人の立ち入りが認められた街で、1992年当時は、訪れる外国人もまだ少ない状態だった。現在では、かなりアジア系の外国人も多くなったようだが、当時はまだ日本人などは珍しがられた。ソビエトからロシアになったばかりで、経済状態・経済感覚も、日本とは全く異なる文化であるので、かなりのカルチャーショックを私は受けた。

 今後、個人情報等の問題のない範囲で、当時の日記を順次、Web上に公開していこうと思う。帰国後加筆しているため、帰国後に起きた事柄も記載されているが、原則的に、帰国当時(1992~93年)の時制で記しているので、現在では既に状況が異なる事柄も、相当多いかもしれない。
 1992年当時に書いた文章なので、92年の日記としてエントリーする。Blogというシステム自体が存在しなかった時代に、Blogを使って日記を書いたことになってしまうのだが、かなり以前に書いた文章を、現在の年月日でエントリーするのも変なので。
 90年代の極東ロシアの状況について興味のある方は、Entry Archive欄の、1992年10月、もしくは1992年10月 記事一覧から御覧下さい。


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帰国  


1992ロシア日記
とりあえず最新記事として掲載して、しばらくしたら1992年10月の位置に移動します。

1992.10.17(Sat) Khabarovsk → Japan

 08:45 起床。2週間のこの旅行も今日で終わり、帰国である。

 09:00 朝食。お世辞にも美味しいとはいえないロシア料理だったが、本場ではこれが最後となるとちょっと残念だ。慌ただしく荷物をまとめて帰国の準備をする。

 10:30 ホテルから出発。

 10:50 空港到着。例のホールで出国手続き。ごった返す中で記念撮影をする。

 12:00 出国手続完了。絵画など美術品の持ち出しには許可証と税が掛かる。私は全然関係ないはずだったが、ロシアの基準を知らないので税関チェックの際、数日前に1,000RBで買った小さな油絵のことがほんの少しだけ気になる。

 結局、私は何事もなく手続きを終える。しかしF氏は長髪の外見が災いしたのか、入念にチェックを受ける事態になり、税関で中身を開帳することになる。スーツケースを開けると中には楽器や土産物がたくさん・・・。こう沢山の品物が納まっていると、税関は手荷物として輸入しようとする業者かと疑ってしまう。バンドネオンなどは紙製の箱に入っていたのでそれも開けさせられる。すると中の隙間にもマトリョーシカが詰め込まれていたりするので余計に怪しく思われてしまった。まるで麻薬かなんかの密輸業者のような詰め方だと思われたらしい。F氏は面倒くさいのと恥ずかしいのでちょっと困り顔になってしまう。バンドネオンやマトリョーシカの数は妙に多いが、どうやら輸入業者ではないらしいということで無事放免されたF氏だったが、パズルのように詰め込まれていたため、元に戻すのに難儀してしまう。

 ボディチェックのゲートで振り返るとアレクサンドル氏が見送っている。そこでカメラを取り出しアレクサンドル氏を写す。手荷物検査の所で写真を撮ってしまったが、特に問題はなかった。考えてみれば随分やばいところで撮ったものだ。アレキサンドル氏は飛行機に乗る直前まで手を振ってくれていた。

 12:30 TU-154に搭乗。離陸。
 13:30 軽食。

 14:15=13:15、時差により-1時間。新潟上空に到着。

 13:30 新潟空港に着陸。ハバロフスクの天気も良かったがこちらも快晴だった。日本への帰国時の入国手続きはいたって簡単だ。20分程で帰国手続と荷物のキャッチが完了。ここら辺の彼我の差には全く驚かされる。どこがどう違うとこんな差になるのだろうか?

 14:05 新潟駅行きのバスに乗る。
 15:00 新潟駅で新幹線あさひに乗車。車内で早速駅弁を食べる。2週間ぶりの日本食だったが、私は思ったほど懐かしいとは感じなかった。実際、帰宅後もしばらくいわゆる日本食は食べなかった。S氏やF氏は食堂車へ行って早速カレーなどをたらふく食べた模様。

 17:05 東京到着。S氏と私はF氏の彼女の車で送って貰う。
 18:00頃 帰宅。やはり疲れた。

 深夜のニュースでウラジオの話をしていた。前より親近感を感じた。荷物の整理は後日にして久しぶりに自宅のベッドで安眠する。

1992ロシア日記 了

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#飛行機


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1992ロシア日記
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1992.10.16(Fri) Khabarovsk

 3人組から離れた後、カールマルクス通りへ焦って戻る。とりあえず大通りの方が逆に気楽なことに気づく。表通りとは違って裏通りにはやはり人があまり歩いていない。大通りに出てホッとしながら、しかし相変わらずやや警戒しながらキョロキョロしながら歩いていると、道の反対側の角で電話を掛けている女性に気が付いた。すると近くの男がその女性に脇からつかつかと近寄り、いきなり彼女が片手に持っていたバッグをひったくろうとするではないか。ビックリして注視していると、彼女は電話を掛けながら大声で何か叫びバッグをまた手元に引き寄せた。わずかの間、引っ張り合った後、男はあきらめて走り去ったが、女性は男の後ろ姿を睨み付けて立っていた。でも何故か周囲の人は全く手を出さなかった。僕自身、男が走って道をこちら側へ横断したので、やや危険を感じて女性よりも男に注意を払いながら素知らぬふりをして足早に歩き続けた。これだからやはりあまり気が抜けない。

 通りを再び北の方へ行くと映画館がある。劇場であるためか他の建物とは少々異なり、道路から後退して建っていて、入口前には小さな広場が設けられている。映画の看板は当然ロシア語で書かれている。日本と違って文字主体の看板なので、何の映画なのかはさっぱり判らない。片隅に描かれた絵から推測すると、どうやらハリウッド映画がこちらでも上映されているようではあったが、描かれた俳優の顔立ちがロシア人風になってしまっているので、仮にそれがアメリカの有名俳優だったとしても(例えばシュワちゃんでも)、僕等には判らない。描く人がロシアの人だと、日本人でもアメリカ人でも何となくロシア人風になってしまうらしい。日本でも同様のことは起こっているのだろう・・・。ところでロシアの映画館ではハリソンフォードも、ブルースウィリスもロシア語を喋ってるのだろうか。もっと時間があればそんな彼等を見てみたかったのだが、なにぶん時間がないので見ることはかなわなかった。

 歩いていると向こうからS氏とF氏が歩いてきた。他にも多くの人が歩いているのだが、東洋人だからか、キョロキョロしてるからか、人々の中から私たちは互いを容易に見分けることが出来る。二人共やや大きな包みを抱えている。包みといっても茶色いザラ紙をクルクルッと巻いただけで、F氏のものなどは買って間もないのに既にところどころが破れてしまっている始末だった。その中身は、S氏はラッパでF氏は太鼓だった。日本で楽器を買えばたいがい段ボールか何かに入っている。ビロードの付いた化粧ケースに入っていることもしばしばだ。しかし極東のこの地ではザラ紙にくるまれ、破けたところからは中が見えてしまっているのだった。このへんの感覚はやはり共産主義時代の名残なのだろう。家に持ち帰ったあと捨ててしまうようなものは最初から付けないのだ。でもしまっておくときの箱ぐらいあると良いのだが。

 S氏はラッパを買ってなかなかご機嫌で、カメラを向けるとラッパを吹くポーズをとってくれる。夕暮れが近づき、夕焼けが綺麗になってきたので、川まで行ってラッパを吹こうとS氏が言い出したのでまたまた川の方へ向かう。なんだか川とカールマルクス大通りを行ったり来たりしてるだけだが、他に対した見どころがないのでこれでいいのだ。

 コムソモール広場は夕焼けに包まれていた。共産主義のシンボルである星を先端に付けたオベリスク状のモニュメントが妙に美しく感じられる。

 広場で結婚式が終わったばかりの人々に出会う。盛り上がっていたので近づいていったら快く写真を撮らせてくれた。後で写真を見て気づいたのだが、彼等は広場でグラスで酒を飲んでいた。一体どこから持ってきたのだろう?

 アムール川の岸に着く頃には、日は既に沈み、空は真っ赤な夕焼けになっていた。静かな川の夕暮れを何枚か写真に撮る。S氏は早速包みをほどいてラッパを取り出し、誰もいない川に向かって思いっきり吹いていた。でかいチャルメラのようなこのラッパには、押さえて音程を変えるキーがない。従って口元での吹き方の加減で音を変えるしかない。それで出せる音階はドミソだけなので、できる曲は非常に限られ、結局この時S氏が吹いたのは正露丸の曲だった。ラッパのマークの正露丸のCMでおなじみの例の曲である。正露丸は元々は征露丸だったとかで、日露戦争の時にロシアを征する為に携行した薬だという。それを考えると、現代のロシアでこんな曲を披露するのは実はけしからん話なのだが、この曲しかできないんだから仕方ない。誰もいないし正露丸の曲なんてこちらでは皆知る由もないだろうから、そこら辺は気にしないことにする。

 S氏がラッパを吹き続けるので、F氏もおもちゃの太鼓を包みから取り出して、堤防にそれを置いて叩き出す。私は他にすることがないので夕焼けの中の二人のシルエット写真を撮る。正露丸の曲以外にできる曲がないのでS氏は気の向くまま吹き続け、F氏も適当に叩く。あまりにちゃちな太鼓なのですぐに壊れてしまいそうで、当然彼も本気にはなっていなかった。

 そうこうする内に孫とおぼしき幼い児を連れた老人が向こうから歩いてきて、私たちを何者かといぶかしそうに見ていた。私なぞは老人がまた何事かロシア語で怒鳴るのではないかとちょっと身構えてしまったが、それは杞憂に終わった。私達が挨拶をすると彼はその曲を続けてくれと言う。F氏は「えっ、こんなの聞きたいんか? ほんまはお腹の薬の曲やぞ、おい」とかなんとか言いながら、また太鼓を叩く。S氏もなんか他の曲ないかなあなどと言いつつ、笑いながらまた正露丸の曲を吹き、正露丸マーチが続く。老人は子供の手を引いて、足踏みをして、ほら踊ってごらん、楽しいよとか何とか言っている。ようやくそこで私たちは彼が続けてくれと言ったわけが判ったのだった。子供もはにかみながらもニコニコしながら跳ねている。しばらくして老人と少し話をする機会を得た。彼はゴルバチョフになって国は良くなったと言った。ソビエト時代は自由がなくて、今思えば唾を吐きたくなるような時代だったという。そのようなことを彼は子供に微笑みかけながらも強い調子で語った。そうかロシアになって平和で明るい世の中になったのだなあと改めて感じたのだった。

 その後、これを書いている2014年までに20年余が経った。自由主義経済の荒波にもまれたロシアでは高齢者(年金生活者)が生活苦に陥っているともいわれる。あの時の老人と子供は今どうしているだろう。

 19:00 カールマルクス大通りにあるRestaurant Sapporoで、30分遅れでロシア最後の夕食を取る。

 20:40 夕食を終えてホテルに帰着。明日は帰国だ。土産物をスーツケースに入れ準備をする。その後、21:30頃から、S氏の部屋でアレキサンドル氏を招いて、ウォッカで最後のお別れ会をする。この旅行の間はツアーコンダクターのアレキサンドル氏にいろいろお世話になった。私達は次第に彼に親近感を持ち、また彼の真面目な人柄は我々に強い記憶を残した。とりわけS氏はウラジオでのヒアリングその他の行動の様々な場面で彼にお世話になったために、非常に去りがたい気持ちになったのだろう。互いにつたない英語で長いこと話をしたのだった。

 ところで、話をしている時にK氏がホテル備え付けのポットを絨毯の床にちょっと落としてしまった。すると魔法瓶(古い言い方だが)はいとも簡単にあっけなく中のガラスが割れてしまい、底からお湯が流れ出してきた。ひっくり返して見ると、このポットには底蓋がなく、中の真空のガラスビンが裏から見えているという、いかにもロシア的な代物なのだった。当然外枠との間にクッションが挟まっているわけがないので、ちょっと落としたりするとあっという間に割れてしまう。これじゃしょうがないねなどと言いながらも、最後になってもいろいろあるなぁと思うのだった。こういうこと一つとってもそうなのだが、何故このようになっているのか理解できないことがしばしばあるのが旧ソビエトである。

 25:40 飲み会を終えて就寝。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#海・川・池  #夕景・夜景  #広場  #公園  #ホール・体育館 


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1992ロシア日記
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1992.10.16(Fri) Khabarovsk

 街へ向かってまた階段を上る。この階段は手摺が立派だった。老人のためなのか、途中の踊り場には手摺に沿ってベンチがしつらえてあった。その場では珍妙に思えたが、後から考えると日本にもこういう階段がもっとあってもいいのにと思う。

 階段を上りきったところには極東国立体育大学があり、旧ソビエト時代に造られたとおぼしき銅像が正面にある。旗を掲げて前に疾走するその姿はいかにも共産主義っぽい。これに共感したりしていたのだろうか。そこら辺やっぱり私個人としては不思議だった。更に行くと大学のゲートに辿り着く。入っていいのだろうかとやや心配になりながらも、周囲に人がいないのをいいことに通り抜けてしまう。ゲート自体は料金所みたいな近代的建築物だった。

 歩いていると3人組の男達が芝生の反対側から声を掛けてきた。声に反応して一瞬視線を合わせてしまったので仕方なく軽く手を挙げて会釈する。するとなにやら了解したものと思ったらしく、彼等はあっという間に近くに寄ってきた。どうやら写真を撮ってくれと言っているようだった。私が首からカメラを提げて一人で建物の写真を撮っていたのを見てそう考えたらしい。

 仕方なく3人の写真を撮ってあげる。しかし彼等は1枚では納得しなかった。1枚を立ちポーズで撮ったら、次はしゃがんだ所を撮ってくれとさっさと3人揃ってしゃがんでしまう。仕方ないので2枚目を撮る。なんでこんな写真を撮らなくちゃならないんだ、というかんじ。

 漸く2枚撮って、ハイ、サンキューと言って立ち去ろうとすると、彼等はスバヤク私を取り囲んでしまった。何となく人相がぱっとしない男3人が1人の僕を取り囲むのだから、私は急速に焦った。彼等は妙に近づいてああだこうだと言っていた。意識をそらせている間に財布を抜き取ろうとしているのではという悪い予感がして私は身を固くする。良くわかんないよ、ロシア語できないんだよと英語で言うが、彼等にはそれも通じず、彼等は僕を離してくれない。

 らちが明かないのでとりあえずノートを取り出して、最後のページを開き、言ってることを書いてよと身振りで示してペンを渡す。わかったわかったと彼等はノートに大きな字でコメントを書き殴った。うわぁマッタク汚い字だなぁと思いつつ、少しは理解しようと努めるのだが、ロシア語は聞く方も書く方も全く出来ないのだから判るわけはない。だから書いて貰っても大して意味はないのだが、でもここは判ったふりをしないと逃れられないと思い、OK!OK!を連発し、I Understand!、I See!、All Right!、とアホでも判る英語(でも純粋のロシア人じゃダメか・・・)で、合間にダー、ダー(これはロシア語のYes)とかも言いながら、引きつった笑顔を見せながらノートを引っ込める。ノートを仕舞おうとすると、彼等はノートに書いたことに未練を持つかのように3人であーだこーだ言っていた。何なんだ?

 数分後、漸く解放?されて、相変わらず引きつった笑顔をしながら彼等と別れる。走り去りたい気分だったが、ここはそんな気持ちを抑えて足取りを一定に保ちながら、しかし緊張感一杯のまま少しずつ、少しずつその場から立ち去る。まるで熊から逃げる時みたいだ。しばらくして彼等が見えなくなると、私は大きな溜息をつき、あーやばかった!と独り言を言いながら足早に歩いたのだった。

 この後、夕食時に、このノートを添乗員のSさんに見せて訳して貰ったところ、「来週の月曜にこの公園で待ってるから、その時に出来た写真をくれ」と言っていたことが判った。月曜というのは3日後だったが、僕等は明日には帰国してしまう。だから月曜にこの公園には行けない。私は無理な注文に笑顔でOKをしてしまったのだった。月曜日の午後、彼等はここで私が来るのを待っていたのだろうか。そして彼らは、私が来ないがために日本人に失望したかもしれない。そんなわけで私は彼等に対してちょっと済まない気分になったのだった。でもあの頼み方はやっぱりちょっと脅しが入ってた気がする・・・。

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#階段・坂 海外  #大学


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1992.10.16(Fri) Khabarovsk

アムール川   Google Map
Wikipedia > アムール川

 公園を抜けて川に出て水際へ行く。前に来たときと違って天気が良いので、川も穏やかに見える。西日の中に対岸が見えていた。この時は対岸は中国かと思ったのだが、後で調べたところ、中国はもっと上流のほうだった。

 川沿いの砂地になぜかベンチがぽつんとおかれていて、そこで二人の女の子が話し込んでいた。夏には海水浴客で賑わったりもするらしいが、晩秋の川は人影も少なく静かだ。

 下流の方には船着き場が見える。緑色をした2階建てで、木造の館を模したものだが、船着き場としてはやや奇妙な姿だ。簡便な施設だが、対岸は外国なので一応税関や入国審査の部屋があるようだった。しかし小型ボートさえあれば簡単に中国に行けそうな雰囲気で、そこらへん国境のあり方というのはよく判らないものだ。

 川沿いを歩いて展望台の真下まで行く。丘が川際まで突きだしたところにある展望台は下から見るとちょっと昔の砦のようで意外に格好が良い。更に遠くには遊覧船だろうか、割合に立派な客船が停泊していたが、そこまで行ってしまうと街外れになってしまうような気がしたので、そちらには行かなかった。中心部をもう少し見たくなったので、また川から離れて、今度は大通りの裏側を廻ってみることにする。ハバロフスクの中心部は基本的にグリッドパターンなので、およその方角さえ間違えなければ大きく迷うことはない。

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#海・川・池  #パノラマ  #眺望 


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1992.10.16(Fri) Khabarovsk

 15:00 昼食後、若干の休憩を各自部屋で取ってからロビーに集合して市内の散歩に出掛ける。18:30にRestaurant Sapporoで夕食ということだけを決めて、とりあえず解散する。まずはゆっくり目抜き通りであるカールマルクス大通り(現ムラヴィヨフ・アムールスキー通り)を歩く。

 道行く人々の髪が逆光の中で白く光り輝く。白ロシア系の人が多いので金髪や栗毛の人が多く、その髪は太陽の光を白く反射する。これは日本人の髪の毛ではなかなか見られない景色だ。

カールマルクス大通り   Google Map

 今日は暖かく、金曜日の午後で大通りは人通りも多かった。前回、車中から見たときは日曜の夕方で人影がほとんどなく、街が信じられないほど寂しかったが、さすがに今日は目抜き通りらしい風情だった。

 とりあえず川と反対の北の方へ行き、途中の時計店に入ってみる。いわゆるロシアで一般的な時計店のようで、このへんはロシアのどこの都市の店でも同じで、売り方や品揃えの雰囲気に大きな差はない。ノーファインダーで店内の写真を撮ってしまう。何気なく堂々としかも素早く撮ってしまえば一瞬で撮影は終わってしまい、たいして気にも留められないようだった。旅行も終盤になって漸くこのようなこつを掴むことができたのだった。

 通りを戻ってコムソモール広場へ行く。広場に面した3F建ての建物はイギリスのカレッジかアパートメントのような雰囲気だ。

 アムール川へ向かって、文化と憩いの公園の中の長い階段を下りて行く。木立の中のコンクリートの段々が晩秋の日差しを反射して美しい。

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#街並み 海外  #商業系  #階段・坂 海外  #広場  #公園 


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1992.10.16(Fri) Khabarovsk

 ハバロフスクとモスクワの時差は7時間。モスクワへ向かったときは同じ日に着いたが、東に戻るときには半日ほど損をすることになる。モスクワを離陸してから7時間半、ハバロフスク時で正午に快晴のハバロフスク空港に無事着陸する。

ハバロフスク空港   Google Map
Wikipedia > ハバロフスク空港

 飛行機からはすぐさま手荷物を持って外へ出ることができる。外国人がやや優先されるのは、どうもいつものことのようだ。

 タラップを下りて飛行機の前で数人ずつ記念撮影をする。乗ってきたのはIL-62Mで後ろ4発の飛行機だ。水平尾翼が垂直尾翼の上に付いていて格好いい。

 エプロンの上を空港ビルまで歩いて行く。管制塔のある大きな建物もあるが、旅客の手続きは昔風の建物で行われるようだ。

 空港建物に入って、預けた荷物をキャッチするのだが、下りるのが素早かった分ここでは相当待たされることになった。飛行機からの積み荷降ろしが前時代的な手作業になっているため、効率がえらく悪い。そこら辺を屁とも思わないのも問題だ。私の手荷物は若干早く出てきたので、皆より先に表に出て、迎えに来てくれているはずのS氏らを探す。

 最初にロシアに着いたときは慌ただしかったのと緊張していたので、ゆっくり空港建物を眺めなかったが、よくよく見るといろいろ発見がある。建物の玄関部分がギリシャ神殿風なのだが、柱頭がドリス式だったりイオニア式だったり、はたまたコリント式だったりで統一感がない。

 空港建物にあまり期待しても仕方ないのかもしれないが、ホールの柱頭はコリントもどきで、しかもその上に星印がついている。表側の柱頭もホールとは異なるコリントもどきで、松ぼっくり状でもある。ソビエト式擬洋風建築と言うのが適当かも知れない。

 S氏ら再会。3、4日間離れていただけなのだが、ロシアで別れてまた再会するのはなかなか感慨深かった。互いの無事を確認して荷物も受け取り、平和委員会の人々が用意した車に乗る。いつもながら車は日本車だ。なんのことはない、シビックやシャレード、それからコロナとかブルーバードである。個人的にはロシア製のヴォルガとかモスクビッチとかにも乗ってみたいのだが、彼等はサービスのつもりで良い車=日本車を用意してくれる。見慣れた車内よりもロシア製の車内を見たかったのでちょっとつまらない。でも途中でエンコされても困るので、まちなかで急いでいないときにちょっと乗りたい。もっとも、私たちが乗せられた日本車もスピードメーターの針は全く動いていなかった。速度規制はあるが、自分が何km/h出しているか判らないのだからどうしようもない。でも気にしてるのは僕等だけで彼等は一向に気にしていなかった。そういうのを見るにつけ、世界は広い!と単純に思ってしまう。

 市街への道はずっと並木道で、葉が落ちた木々に点々とカササギの巣が掛けられていた。今日は本当に良い天気で、数日前とは違って日中は暖かい。

 13:40 再びホテルチャイカに到着。すぐさま昼食。久々に人数が増えて僕等はモスクワ土産の話をして盛り上がる。ウラジオに残っていたY君とH君は、僕等が去った後また寮の女子大生と会ったそうだ。僕等は彼女たちが寮から閉め出しを食ったのが気になっていたが、結局彼女たちはその晩は友達の家などに泊まったのだそうだ。彼女たちから託された誕生日プレゼントの花とカードをY君がK氏に手渡すと、旅行中に誕生日を迎えていた彼は、思わぬプレゼントに満面の笑みをたたえたのだった。

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1992.10.15(Thu) Moscow → Khabarovsk

土産物屋

 15:00 またしてもバス運転手のコネのある土産物屋に連れて行かれる。

 僕等としては市内の賑やかな場所、例えば前にも行ったアルバート通りのような、商店街、市場とかフリーマーケットで買い物をしたいのだが、どうも運転手はいわゆる土産物屋に僕等を連れていこうとする。I氏を中心として、アルバート通りにもう一度行きたいと交渉するのだが、あちらより良いものがあると言って譲らない。その土産物屋に行かないことには運転手が納得しないので、仕方なくとりあえずその店に行く。

 しかしやはり昨日訪れたようさえない土産物屋で、予想したとおり値段がやたらに高い。ドルで買えるのだが、つまらないボールペンが1ドルもするのには腹が立つというより、もはや呆れる。なにしろ市中に行けば1/10の値で同じものが買えるのだ。不当に高いというか、外国人なのを良いことに詐欺まがいの値で売りつけているといっても良い。当然何も購買意欲をそそるものは見あたらない。運転手氏が自ら、ほらこんなものはどうだ、これはいいものだとか言って妙に熱心になかば押売のように勧める。

 だが、そうされればされるほど、げんなりしてくる。わかったわかった。でもそれは高すぎるから要らない。それは僕の好みじゃないとか言って断る。最初の内は相手の好意をむげに断るのがためらわれたので、少しは興味を持つようなそぶりをしていたが、却って向こうをその気にさせてしまうので馬鹿馬鹿しくなって、はっきりNO Thank Youと言うことにした。そっちが売り込むつもりで断られて当たり前、乗ってきたら儲けものと思っているなら、こっちもドライに断ってしまえということになる。

 とりあえず店に立ち寄って、運転手氏の顔も少しはたてたので早々に切り上げて再度アルバート通りにバスで向かうことにする。運転手氏は「もういいのか、もっとゆっくり見たらどうだ。」と言ったが、アルバート通りへ断固として連れて行けと要求して、漸く向かわせる。

 


アルバート通り

 15:10 アルバート通り着。1時間半程度ここでモスクワ最後の買い物をする。一回目は何となく散歩しただけだったが、今日はモスクワ最終日だったので、みやげ物買い漁りモードになり、街を見るのもそこそこにいろんなものを買いに走ることになった。

アルバート通り   Google Map

 あちこち見て回るうち、F氏と出会ったのでしばらく行動を共にすることにする。

 F氏はウラジオ以来、ずっとバラライカを買いたがっていた。品切れだったり土産物の飾り物だったりで、結局ここまでは買わずに来たのだが、ここへ来て遂に手頃な物を見つけて交渉に入る。相手も慣れており、最初は結構高額な提示をしてくる。英語があまりできない売人で、その様子を見て近くの他の売人が仲立ちをしてくれる。

 ただ、彼等は互いにロシア語でしゃべっているので、「良くわかんないみたいだからふっかけて高く売っちゃおうぜ!」と言ってるのか、「そいつは高いんじゃないの。それじゃ買ってくんないよ。」とたしなめているのかよく判らない。「彼はいくらが希望だと言っている。」というだけの通訳ではないのは、彼等の話の長さから見ても明らかで、仲介者の意見もいろいろと入っているようだった。これだから間接的通訳は厄介なのだが、この通じてるんだかどうだかわかんない状態も、街角でのショッピングでは面白いものだ。

 結局F氏はバラライカ2台を買うことにし、その合計は当初の1台の提示額よりも安くなっていた。ついでに言うなら、このようにしてF氏は旅行中にバラライカ、アコーディオン(バンドネオン)、おもちゃの太鼓と、様々な楽器を買ったのだった。

 さて私は、色とりどりのスカーフが気に入ったのでそれを買い求めることにした。こちらは通りに並ぶ露店ではなく、その背後に控える国営商店で売っている。通りに並ぶ服飾店の中でもやや立派で綺麗な建物に入り、店内を見て回る。ガラスケースの中に入っているスカーフをあれこれ出して貰い、気に入ったものを数枚買うことにする。

 途中で出会ったターニャさんが数詞の言い方を教えてくれる。例によって品名と値段をレジで言って先に会計を済ませる。おそるおそる数詞を言うと、わきからターニャさんが補足して言ってくれる。レジのおばさんはまるで愛想がなく、ただつまらなそうに頷き、レジスターを操作して釣りとレシートをよこす。レシートを持って再度カウンターへ赴くと、売り子のおばさんはニコニコしながら既に包んであったスカーフの袋を渡してくれる。ここらへん、営業成績に関わる人とそうでない人の差なのか、単に個人的性格の差なのかよく判らない。ただ微笑んで貰って店を出られるのはとりあえず気分が良い。サービス過渡期の町中経済の一端を見た気がした。

 通りでは相変わらずいろいろな土産物が売られている。絵はがき、マトリョーシカ、スカーフ、ライターなどの小物などなど・・・。ピロシキなどの食べ物を木箱に入れて持って現れ、売り切ったらすぐに立ち去るおばさんもいる。

 それからおばあちゃんがレース編みを何枚か持って通りの片隅に佇んでいるのを今日もまた見かける。机も椅子もなくただレース編みを胸の前に掲げて立ち、低い声で道行く人に声を掛けている姿は痛々しささえ感じる。軍のバッジや勲章を売っている老人もいる。年金が底をつき、軍事台の勲章を売って生活の足しにしているのだという。ロシアは老人がのんびり暮らせる状態にある国ではないことを痛感する。残念ながら僕たちは軍の勲章の価値を計る価値観を持ち合わせていない。ミリタリーマニアとかなら喜んで買うのかも知れないが、それにしてもいくらぐらいの価値なのだろう。綺麗な金属片と見るか、老人の人生の価値を見るかで勲章の値段は相当に異なるのではないだろうか。

 16:50 2時間弱の買い物を終えバスに戻る。ようやくじっくりと買い物ができ、残金も少なくなり、心残りの事柄もなくなり私たちは満足して帰路に就いたのだった。

 


ハバロフスクへ

 17:30 ホテルに帰着してすぐに夕食。1時間後の18:30にはホテルをcheck outした。ウラジオから一緒に来てくれたAndreさんがここでcheck outの確認に現れ、パスポートを僕等に渡してくれる。彼が同行するのはここまでで、帰りは私たち5人だけでハバロフスクへ向かうことになった。バスで慌ただしく空港へ向かう。行きとは違って天気は悪くなかった。

 19:50 疲れてウトウトしている内にDomodedovo空港に到着。モスクワの案内をしてくれたターニャさん、マキシムさんとここでお別れする。飛行機の便を確認し損なわないようにとターニャさんから注意を受ける。ターニャさんは真面目で親切な人だった。旅行業のサービスの一環とはいえ有り難い。

 荷物を預け搭乗開始を待つ。表示されているサインのほとんどがロシア語で、行き先も便名もロシア語なのでややてこずったが、20:30になんとかSU-025便(飛行機はIL-62M型機)に搭乗する。搭乗してから離陸するまでに結構時間が掛かった。国が大きいせいかここら辺のおおらかさも国際線並みだ。

 21:30 ようやく離陸。「モスクワの夜は更けて」ではないが、夜更けのTake Offだった。街の東はずれからそのまま東方へ飛び去ってしまうので、街の夜景を見ることはできなかった。

 ハバロフスクまでは約8時間のFlightである。帰路は東へ向かうので時間が早く過ぎる。夜が短くあっという間に朝が訪れる。睡眠時間は勢い短くなってしまう。時差ボケのままなら、それが戻るのだから良いのだが、3日間滞在してようやくというか早くもモスクワタイムに慣れ始めてしまったので、東に戻って早起きを迫られるのには、実際この後難儀したのだった。

 23:30 機内食が出る。僕の隣はロシア人のおじさんだった。ただこのおじさん、機内で席に着くなり寝入ってしまった。そして離陸時もシートベルトもせずに寝たままで、更にハバロフスクまで食事もせずにひたすら寝続けていた。あんまり寝たままなので生きているかどうか怪しく思われてしまったが、たまに見ると寝返りを打って向きを変えていたので、それで死んではいないと判るのだった。結局彼は着陸時もシートベルトをせずそのまま寝続けていた。スチュワーデスも彼のシートベルトを別にチェックはしておらず、ここら辺も相変わらず大雑把だった。彼が起きるのを見ることなく僕等は飛行機を降りてしまったが、今頃彼はどうしているのだろうか。そして如何なる理由で彼はあの時寝続けていたのだろうか。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

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1992.10.15(Thu) Moscow

オスタンキノ・タワー遠望

 モスクワ市街の北部にオスタンキノ・タワーはある。市街のガイド地図にテレビ塔は記載されているが、街中からは霞んでしまいあまり見えない。このテレビ塔の足下にはオスタンキノテレビの放送局がある。

宇宙征服者のオベリスク遠望   Google Map
Wikipedia > 宇宙征服者のオベリスク

 また塔の周辺にはジェルジンスキー公園があり、国民経済博覧会、宇宙飛行士博物館などの施設もある。市街を北へ向かってバスに乗っている内にテレビ塔が見えてくる。先端部までで540mあるという塔の高さに比してその太さはかなり細く見える。遠くから見ると本当に500mもあるようには見えない。しかし近づくにつれ、見上げると首が痛くなりそうなくらいに高い建物であることが判ってくる。

オスタンキノ・タワー   Google Map
Wikipedia > オスタンキノ・タワー
建設年:1963年着工、1967年完成。
高さ :540m

 13:00 オスタンキノ・タワーに上る。塔の構造はRCで、下の方はスカートのように広がっており、全体としては巨大なロケットのような形をしている。これだけの高さのものをかなりの自重があるRCで造ってしまったのはすごいことだ。

オスタンキノ・タワー展望室から

 塔に上るために必要なチケットはマキシムさんという男性が手配してくれていたのだが、その人の到着が遅れたので塔の下のエレベーターホールでしばらく待つ。

 テレビ塔は情報関連の重要な施設なので、出入りの管理はかなり厳しい。東京タワーではセキュリティチェックなどは大してないが、ここでは身体検査と荷物検査が入念に行われる。その後、上海のテレビ塔でも同様の体験をして、テレビ塔とはそういうところなのだと再認識したのだった。オスタンキノテレビはその後、94年のクーデターの際、反乱軍が占拠し、そこへ戦車が突入する様子と、銃撃戦の映像で世界にも報道された。たしかにテレビ局は政治的にも重要な施設なのだ。

展望室から市内

 展望室は地上337mの場所にある。東京タワーの先端部よりまだ高い。当初は世界最高の高さであったこの塔は、1992年時点で自立型のものとしてはトロントのテレビ塔についで世界第2位(RCでは未だに世界一)だった。確かに高い。しかし期待したほどの感慨はない。塔が街の中心部から離れているため周辺に大きな建物や、有名な施設がないため、塔からの景色にはそれほどの特徴はない。それでもせっかく来たのだからと、一応いろいろな方向の写真を撮っておく。市街の中心部は霞んでしまってほとんど見えない。

展望室から市内 直下のビルはオスタンキノテレビ  Google Map

 地上328mにある展望レストランで昼食をとる。レストランは回転式で、座って食事をしている1時間ほどの内に一回転した。高さが高いので風の影響を受け、座っているとゆっくりとした揺れを感じるのだった。ちなみにこのレストランは、8年後の2000年にタワーで火災が発生したため、その後、閉鎖されたままなのだそうだ。

 タワーで同行してくれたマキシムさんはキリッとした人なのだが、何となく表情が暗く、また無口なので今ひとつ何を考えているか判らない。サービス用の笑顔を作るのにロシア人はまだ慣れていないのだろうか。食事の時にもむっつり黙って外を眺めているので、どうもこちらも話しにくく、やや困惑してしまうのだった。

 14:30、タワーを出て市内に戻る。



オスタンキノ・タワー パンフ
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#パノラマ  #眺望  #塔  #モニュメント  #公園 


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1992.10.15(Thu) Moscow

 10:30 市中のプーシキン美術館に到着。意外に日中は暖かなのでホッとする。

プーシキン美術館   Google Map
Wikipedia > プーシキン美術館
建設年:1898年定礎、1912年開設。

 美術館の建物は玄関部分がギリシャ神殿風で、ガラスの天窓が左右にのびた折衷主義の様式建築だった。

 ロシアと言えばレニングラードのエルミタージュ美術館が有名だ。エルミタージュ美術館は皇帝の収集品を展示したのが始まりだが、モスクワのプーシキン美術館もそれに次ぐコレクションを持っているという。ただプーシキン美術館の方は、市民が芸術に触れる機会を与え、その文化水準を向上させる意図も持っている施設らしく、やや意外なことに古今東西の絵画や彫刻のコピーが多く展示されている。もちろん中には本物も数多くあるのだが、ロシア語の説明書きが分からないので、私たちは本物かコピーかよく分からない。モスクワくんだりまで来てコピーを見せられてしまうのはやや釈然としないが、ここまで来たのでとりあえず館内を見学する。

 エジプトのレリーフ、ギリシャやローマの彫刻、印象派の絵画、近代ではロダンの考える人や、ブールデルの作品など、いずれもコピーで見ることができる。教育目的が重視されているだけあって、小学生や中学生達が集団で見学しているのに出くわす。日本の美術館ではあまり見られない風景なのでちょっととまどってしまう。しかしよくよく考えてみると、精巧なコピーを展示しているのであれば、質の良い作品を安く、身近に見ることができる環境があるのは実は素晴らしいことなのではないかと思えてくる。何も何億もする絵を買うだけが美術鑑賞ではない。コピーでも目の前にそれがあって、体験することができるのは幸せなのかもしれない。

 館内にはロシア正教のイコンも数多く展示されている。学生達は自身のルーツを辿るようにイコンを眺めているのだった。だが教会から取り外されて美術館の綺麗な壁に吊されたイコンには、宗教的な力がやや感じられず、単なる美術品にしか見えなくなっているような気がした。そこらへんは、社会主義、共産主義国家として、宗教の存在自体がいったん消滅してしまったという事実にも遠因を求め得るのかもしれないとも思われる。

 内部中央には3F分程度の高低差のある大階段室があり、建築的にもそれなりに楽しめるものだった。この時点では私はまだ西欧諸国の優れた様式建築を見ていなかったので、この美術館の立派な造りには結構感動した。しかし彼等がなぜ私たちをここへ案内したのかは結局判らずじまいなのだった。

 12:15 美術館を出てオスタンキノテレビ塔へ向かう。ここで昼食らしい。

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