05/01 Olympus IZM 300 QUARTZDATE
05/04 新静岡センター 1(建て替えられる百貨店)
05/07 新静岡センター 2(バスターミナル)
05/10 新静岡センター 3(広場)
05/13 新静岡センター 4(静鉄改札と立体駐車場)
05/16 天神湯(静岡の洋風銭湯)
05/18 東京の階段 plus
05/19 早大通りの住居(大谷石の蔵)
05/22 学習院大学 ピラミッド校舎 1(外観)
05/25 学習院大学 ピラミッド校舎 2(入口付近)
05/28 学習院大学 ピラミッド校舎 3(内部)
05/31 学習院大学 ピラミッド校舎 4(内部その他)
解体直前の見学会で見た内部の様子、つづき
頂部へ至るタラップ
Photo 2008.1.12
客席後方の天井・壁面には、映写室から頂部へ至るタラップが吊されている。上ってみたい気もするが、実際はかなり恐い梯子段だったのではないだろうか。
客席後方の天井・壁面には、多数のアンカーも取り付けられていた。ガッチリしたものなので、防災上必要なものだったのかもしれないが、どのように使うのかは不明。装飾その他を吊したり、紐を渡したりもできるが、本当の使い道はなんだったんだろう?
足下にはセントラルヒーティングのパイプやラジエーターがある。この手の教室は冬場にひどく寒いことが多い。天井が高く、エアコンで上から吹き出すタイプだと非効率になるので、イスや足下から暖めるのは理にかなっている。セントラルヒーティングは最後まで使えたのだろうか。
内部に入ると、外観から想像するのとはまた異なる印象の空間が広がる。
客席前方から室内全景(2枚の画像を合成、Click:1,000*405pixel)
個人的には天井から吊られた照明がとにかく印象的だった。直管の蛍光灯を円形に並べて空中に吊っているが、そうしたことでなんだかかなり大胆な照明器具のように思われる。
客席後方から室内全景(3枚の画像を合成、Click:921*405pixel)
四角錐の空間にドーナツ形の照明の組み合わせで、うまく室内を照らせるのかと思うが、意外によく光が回っているようだった。ただ、天井や壁面はもう少し明るい色調の方が、教室としては良いのだけれど。もちろん、60~70年代のややクラシックな感じの教室の雰囲気としては悪くない。上の方がくすんでいるのは当初からの仕様ではなく、汚れたりしたためではないだろうか。
ステージ前から客席
教室の前半分は平らな床面にイスが並べられており、階段教室状になっているのは後ろ半分だけ。傾斜を徐々に変えるような複雑な設計ではなく、意外にシンプルな階段教室だ。最後部には小さな映写室がある。シンボリックだが巨大教室というわけではないようだった。
中ほどの通路から
巨大教室ではないのと、天井や照明に求心性があるので、室内には一体感がある。特色のあるこういう教室で学んだりした記憶というのは、貴重な体験に違いない。外観が変わっていて面白い建物だが、中に入ってみると、卒業生が残したいと考えた理由も改めてよく分かるのだった。
客席後方から通路と客席、ステージ
床には木レンガがはってあった。長年ワックス掛けされたためか真っ黒になっており、雨で濡れた靴で歩くと滑りやすくなっていた。半世紀近い教室の時間の経過が刻まれた床。
Photo 2008.1.12
内部の様子は解体直前の見学会で初めて見た。
Photo 2008.1.12、1.13
入口は柱や梁があるためか、ちょっと低い。それをくぐると半屋外のピロティ状ホワイエ。
屋根面を兼ねた外壁(左)と教室の床面(正面)に囲まれたホワイエ空間。ギザギザになった天井は、階段状になった教室の床面が裏側にそのまま現れたもの。シンプルだが、結構印象的な空間。ただ昔の蛍光灯照明はちょっとあっさりし過ぎな感じ。
客席後方の入口付近。斜めになった客席床面と地面との間の隙間にトイレなどもレイアウトされている。
菱形に組まれた鉄筋コンクリートの柱梁が印象的。地面付近の隙間から間接光が入り、そこから風も吹き込んでくるので夏場は涼しそうだ。だが建物を見学した日は1月の雨の日で、風が吹いてホワイエも寒かった。そのへんはモダニズムらしい?割り切りのような気もする。
扉を抜け、歩みを進めると、階段教室の前方の平場に出る。
次回は教室内の様子を。
半世紀近くにわたり、学習院の一つのシンボルでもあった異形の教室建物。
学習院大学 中央教室・ピラミッド校舎 左奥東2号館、右)南1号館
所在地:豊島区目白1-5
建設年:1960(昭和35)
構造・階数:RC・1F
設計 :前川國男
備考 :2008年解体
Photo 2008.1.13
学習院大学のキャンパスは奥の方に校舎群がある。だから目白駅のそばにある門からは校舎の様子をあまり見ることができない。
十数年前は、学習院も比較的自由にキャンパス内に入ることができた。学生時代、友人とキャンパスの奥の方にまで入り込んで、ピラミッド校舎を見た記憶もある。写真を撮らなかったのでおぼろげに記憶していたそのピラミッド校舎は2008年に解体された。
解体直前に見学会があったのでその際の写真を少し。撮ってからすぐに出せば良かったのだが、写真の整理を怠っている内に2年も経ってしまった・・・。
もちろんエジプトのピラミッドとは形が異なる。頂点の位置が中央ではなく偏心した、四角錐型の平屋建物だ。内部には座席が三方から舞台を囲む教室が一つ。中央教室、ピラミッド校舎と言われていたそうだが、キャンパス内での位置どりやシンボル性などを考えると、講堂のような存在だったのではないだろうか。
前川國男設計の建物はこの校舎だけではなく、北側と南東側に2棟がある。以前は東側にも1棟があったといい、ピラミッド校舎を囲んで、シンボリックなキャンパス空間を形作っている。周囲の前川設計の校舎は、ピロティを持った低層のモダニズム建築で、西側と南側の古い校舎はいわゆる近代建築。中央に位置するピラミッド校舎は、周囲とは全く異なるデザインで、強い発信力と求心力を持っていた。
北面と東面が座席後方で、その面に窓がある。また、南西以外の三方の角付近からピロティ・ホワイエへ入るようになっていた。
学生時代に、広場とシンボリックな建物が組み合わせられた姿を見て、ちょっとショックを受けたことを思い出した。形は違うが、そこには宗教的な空間のような荘厳さが感じられた。法隆寺の回廊の中にある金堂や、広場の真ん中に建つヨーロッパの教会のような感じ。
背後って言うのかな?、ステージ側からの姿。客席側への入口はなく、窓もなくて全部が屋根面になっているが、南側にはステージの控え室への入口がある。
防水工事、耐震工事、照明・空調整備に多額の費用がかかることと、内部の構造が授業に不向きであることなどが解体の理由だという。こういう理由は毎度あちこちで聞かれる。
耐震工事は別にして、防水や設備工事の費用については、今まであまり手を入れていなかったからそうなったのではないかと思う。コンスタントに補修したり機能向上に努めていれば、今になって多額の費用が掛かったりはしない。日頃放っておいたことを白状しているようなものだ。内部構造が不向きというのも、裏返せば工夫を怠ってきたとも言える。早い段階から改修したり細かい改築をすれば、使い勝手は改善できる。工夫をせずに使い勝手を云々する人たちは、新しい建物になったとしても、また使いにくいと言いつのるのだろう。
この項も、もう少し続く。
月刊旧建築 > 学習院大学、前川国男の「ピラミッド校舎」を建て替え
> さらばピラ校!!学習院大学中央教室の見学会へ行ってきました
★近代建築探訪★ > ピラミッド校舎
早大通りの住居と蔵(K邸)
所在地:新宿区早稲田鶴巻町519
構造・階数:木造2階、石造
建設年:?
備考 :2010解体・建て替え
Photo 2010.3.26
早大通りに面して建っていた木造2階建て住居と大谷石でできた蔵。
最近になって解体建て替えのお知らせが貼り出された。来春には6階建ての共同住宅(店舗)に建て替えられるようだ。
早大通り沿いはここ数年の間に2階建ての木造建物が次第に減って、次々に中層のマンションやオフィスが建てられ、昔ながらの街並みは急速に変化を遂げた。もともと住宅地で個々の敷地がそれほど広くないため、結果的にペンシルビル型の建物が最近は増えている。
この建物の右隣も以前は空き地で、最近7階建てのほっそりしたマンションができた。左側もマンションなので、マンションの間に挟まれて頑張っているなと思っていたのだが、あまり間をおかずこのお家も建て替えられることになった。よそ者からすれば、ひとまとめに建て替えれば良かったのになどと思うが、土地所有に関することは複雑なので、端から見るほど簡単ではなかったのかもしれない。
新しいマンションに挟まれた姿
Photo 2010.3.26
改めて正面から眺めてみると、石造の蔵と玄関はかなり左に傾いている。全体が傾いていたので今まで気づかなかったが、となりに新築の建物がまっすぐに建ったら、傾きがやけにはっきり分かるようになった。
Photo 2005.3.29
大谷石の蔵の窓には鉄製の庇と、棚のようなものが付いている。庇の板がガラス製だったのはちょっと意外。2005年の写真では、まだガラス板が嵌っていたが、解体直前の3月時点では既に無くなってしまっていた。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区 #倉庫・蔵
「東京の階段」を出させて頂いた日本文芸社からのお誘いで、ネット上に階段記事を書いていくことに。
「都市徘徊blog」と「東京の階段 DB」をプライベートで既にやっているのに、更に一つ増えるわけで、ちゃんとできるかな?って感じですが。
東京の階段 Plus
とりあえず二週間に一度、更新の予定です。またこのサイトの写真は出版社の方の撮影です。
DBの方はほんとにデータベースなので、最小限のことしか書いてませんが、plusの方では周辺の諸々も少し書こうかと思っています。
お時間のある時に御覧頂ければ幸いです。
#階段・坂
天神湯
所在地:静岡市葵区浅間町1-29
建設年:?(創業は大正期、建物は戦後のものらしい)
構造 :木造
備考 :長谷通りに面した建物。
Photo 1997.5.4
母校のそばにある銭湯。
静岡には銭湯がほとんど無い。人口あたりの銭湯の軒数割合が全国最低だという話を、昔、聞いたことがある。逆に喫茶店の率は全国最高だという話もある。統計調査を見たわけではなく、伝聞なので怪しいのだが、少なくともいわゆる銭湯に関しては旧静岡市内には3軒しかないようだ。近年はスーパー銭湯なんてのもあるので、それを含めると多くなるが、昔ながらの銭湯は小さい頃からほとんど無かった。静岡では高台に上って銭湯の煙突を探しても、工場の煙突ばかりで、銭湯のそれはまず見つけられない。
そういう静岡で、数少ない銭湯がこれ。東京でよく見掛ける宮造りと呼ばれる、お寺のような外観ではなく、看板建築的で洋風。大型の表札のような感じで、縦書きで天神湯と書いてある。静岡にいた頃は銭湯の典型的な建物様式なんて知らなかったので、さほど違和感を持っていなかったが、東京型の銭湯を見慣れると、今度はこの銭湯のデザインがかなり奇妙に思えてくる。
通り沿いの両側はもともと小さな箱庭状だったのだろうか? 屋根が掛けられて目隠し壁が付けられてしまったので、1F正面のファサードが見えなくなってしまったのは残念。塩ビトタン屋根を突き抜けて樹木が生えているのがちょっとユーモラスだ。
銭湯が少ないのは内湯の率がほぼ100%だからで、逆にいうとここに銭湯があるのは、この周辺に内湯ではない長屋がそこそこ残っているからだ。静岡市内は大戦時の空襲で中心部が焼かれてしまい、中心部には昔ながらの住まいはほとんど残されていない。戦後の建物は内湯があることが多く、そのため銭湯も減ったのだろうが、この周辺は戦災で焼けずに戦前の家屋がそこそこ残っているため、昔ながらの生活空間構造と生活様式が残されている。
さて、この銭湯、いつまで残り続けるだろうか。言い換えれば、昔ながらの生活様式がいつまでこの周辺に存続するだろうかということでもある。
静岡鉄道・改札(センター地下から接続)
鉄道利用者ではなかったので、地下の改札を通ることはあまりなかった。もちろん昔は自動改札ではなく有人改札だったはずだが、使ってなかったせいか私自身にはあまりそのへんの記憶はない。(あおい君様の御指摘にもありましたが、よく見たら、改札の奥の方にエスカレーターがちゃんと設置してありました。)
自走式立体駐車場
写真の自走式立体駐車場は後年造られたもの。1980年頃までは単なる青空駐車場だったのだろうか? ここはあまり記憶がない。父親が車を買ってからしばらくのあいだは、少し東側の線路沿いにタワー型の立体駐車場に停めていた。だがキャパシティがあまり大きくなかったのと、センター本体まで距離があって雨の時など不便だったためか、両親はやや敬遠していて、この頃は車でセンターに行くことは少なかった。しかしこの立体駐車場ができたので、80年代後半以降はセンターにも再びよく行くようになった。今考えると、当時はかなり自動車優先の生活になってしまっていたのかもしれない。
Wikipedia > 新静岡駅
南プラザから伝馬町方向。太い柱は換気塔だったのか? Photo 2009.2.8
センターの南側にはプラザと呼ばれるイベント広場があり、バスターミナルから連続する屋根で囲われた空間になっていた。プラザからは伝馬町方面へも抜けられるようになっており、駅方面へ行く人々も行き交う空間ともなっていた。
南プラザ
プラザで友人と待ち合わせすることも多かった。ここにInformationカウンターが設置されていた時期もあったような記憶がある。90年代、既に私は大学に入って上京していたが、ドトールコーヒーもプラザわきにできて、最後の頃までそれなりに利用され続けた空間だった。
南プラザ側玄関
Wikipediaを見たら「南口プラザに架かっていた壁画は、城戸真亜子さんが手がけたものだった」とあった。そうだったんだ~、上京後に設置されたので、これは知らなかった。
冬場はバスを待つ間、建物の中でのんきに暖まったりもしていた。その頃、店内で流れていたBGMは、あとあとまで記憶に残る曲となったりもした。例えばジリオラ・チンクエッティの「雨」。1970年代に流行したイタリアンポップだが、当時小学校低学年の私は、そんなこと知るはずもなかったし、父母もそのへんについては全然詳しくなかった。ところが私はこのメロディを「センターで聴いた曲」としてなぜかずっと覚えていた。大学生になって、いろいろ洋楽を聴くようになった過程で、たまたま原曲を知るに至って感慨深かった記憶がある。
お濠端の小学校と中学校へバスで通学していたので、その頃は新静岡センターを毎日のように利用していた。母に連れられて、喫茶店コロンバンに行き、クリームソーダを飲んだりもした。マクドナルドの静岡1号店もたしかセンター地下だった気がする。1977年頃ではないだろうか。
最後の頃は丸善になっていたが、昔は谷島屋書店やすみやがあって、本やレコード、文具などを見たり買ったりしていた。スケッチブックや画材を買いに行ったのは彩画堂。自走式の立体駐車場ができてからは、父母と車で行くことも増えた。決まって5Fの岩久そば店で、箱天や天丼を食べていた気がする。地階に文明堂のお店があって、私が小さかった頃は三笠山の実演販売をしていた。職人さんが鉄板プレートに生地を薄く丸く広げるのを飽くことなく見ていたりした。
中高生になって少し写真を撮るようになってからは、3Fと地階にあったカメラのジャンボーにも出入りした。80年代頃まではE版サイズが主流だったが、早くからL版を標準にしていた写真屋さんだった。 それから、昔はバスターミナル側のエスカレーターは、わきがガラス貼りで谷津山や富士山がよく見えていた記憶がある。ただ最後の頃はパネルで塞いでしまって残念ながら景色は見えなくなっていた。
屋上にはあまり行かなかったが、中学生の頃、友人に連れられて何度か行った記憶がある。既に下火になっていたアーケード型のインベーダーゲームが置いてあった。ゲームが上手くないのであっという間に終了した記憶が・・・。 そういえば、小さい頃、正面入口のホールにビスケットが一面に貼られたお城が展示されて、甘い香りが漂っていたことも覚えている。