都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2006年12月 記事一覧

2006-12-31 | 記事一覧 

12/01 ロシア日記 1992.10.03~10.17
12/09 左官業の家(モルタルレリーフのある木造住宅)
12/13 口羽医院(高輪・失われた近代建築)
12/14 秀吉ビル(銀座・失われた近代建築)
12/15 神保町ビル(神保町・失われた近代建築)
12/15 TBについて
12/16 大塚3丁目交差点(変わりゆく東京風景)
12/17 三共電気工業(築地・失われた近代建築)
12/19 高輪プリンスホテル別館・古稀殿(高輪・失われた近代建築)
12/21 平和生命館(銀座・失われた近代建築)
12/24 一年経過
12/25 上野駅前のビル(東上野・失われた近代建築)
12/27 夜のさくら新道(王子駅そばの小さな飲食街)

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夜のさくら新道

2006-12-27 | 北区   

 尾久から町屋のあたりをぶらついて、都電で王子にたどり着いた頃には真っ暗になっていた。

北区王子1、さくら新道の飲食街
Photo 2006.12.3

 王子駅と飛鳥山公園の間にはさくら新道の飲み屋街がある。日曜の夜、お店は一軒もやっていなかった。住人が若干おり、数件の家には灯りが点るが、あたりはひっそりとしている。JR京浜東北線ホームのすぐそばなので、ときおり電車が到着する音が響き、アナウンスと発車の音楽が聞こえてくるが、ひとたび電車が出て行ってしまうと、再び静けさがあたりを支配する。言い方は悪いが死んだように静かだと言ってもいい。

 建物は、2階部分が道路側と線路側に張り出している。木製の斜材で張り出し部分を支え、庇を作るように覆い被さる様がなかなかかっこいい。また側面から見ると、2階の上にも小さな窓があり、どうやら屋根裏部屋もあるようだ。更に、広告掲示用だろうか、屋根上には垂直のパネルが付けられている。2階が1階より大きくやや不安定に見えるのと、屋根上のこのパネルが、長屋建物の印象を独特のものにしている。

Photo 2006.12.3

 さくら新道の飲食街は、JRと飛鳥山公園下の道の間に、2階建ての長屋が3棟並んでできている。道の片側だけにお店が並ぶいわゆる片側町。道の反対側は公園で、夜は真っ暗なので、飲食街としてはちょっと寂しい。

Photo 2006.12.3

 写真を撮りながらぼんやりしていると、暗闇の向こうから、ジョギングをする人や自転車が、落ち葉を踏みしめながら急に現れるのでドキッとする。しかし彼等は無言のまま小路を走り抜けていく。

 詳しくは知らないが、やはり戦後の闇市、露店に端を発するのだろうか。駅の北側周辺が次第に整理されていく中で、線路と丘の間の隙間空間には手がつかず、ずっとそのまま残されてきた。使い道が少々難しいこのような空間はしばしば開発から取り残されて、昔の空間の有り様を伝えていることが多い。高田馬場周辺や、渋谷の宮下公園そばなど、駅の近くなのに奇妙な空間が残り続けているケースは、考えてみればいくつもある。

 戦後の雰囲気を今に残し、必ずしも豊かな生活の場とは言い切れない、どちらかというと昔の貧しさの記憶がつきまとってしまうような空間だが、なぜか奇妙に惹かれる場所だ。

#失われた建物 北区  #古い建物 北区  #夕景・夜景  #商業系 
コメント (4)
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上野駅前のビル

2006-12-25 | 台東区  

 JR上野駅浅草口を出て、駅前広場の反対側正面、浅草通りの角にあった建物。

喜昇堂玉生商店、きつね鮨、丸越書店
所在地:台東区東上野3-19
階数 :3F
解体年:2004(平成16)頃
Photo 1992.8.13

 左から、たばこ屋(喜昇堂玉生商店)、寿司屋(きつね鮨)、書店(丸越書店)が1階に入居していた。壁面がタイル貼りなので、RC・3階だと思うのだが、木造3階の看板建築とも考えられ、詳細は不明。角のたばこ屋(玉生商店)部分は3階建て。でも浅草通り側の3階窓はなぜかかなり下方に付いている。2階から上は住居として使われていたのだろうか。写真を見ていたら、逆に内部の様子が知りたくなってきた。一方、右側は2階建ての上部に看板が付いていたらしい。2階の窓が全て共通なので、一体的なビルなのだろうが、それにしては3階部分がばらばらだ。

参考サイト及び記事
ぼくの近代建築コレクション」> 地下鉄ストアビル、きつね寿司/東上野3丁目
tansei.net」> 近代建築 > 上野駅前の店舗付住宅閉鎖

 tansei.netの記事内の写真には、建物の右側側面が写っている。側面からみたときにトタン貼りで屋根が傾斜しているところをみると、木造看板建築だったのかとも思われるが、正面の壁面はかなりしっかりしたタイル貼りで、どうも木造には見えない。もしかすると本体はRCで、増築部分が木造とかいうことだったのだろうか。専門外なのでこういう建物の構造はよく分からないのだが、見ているとどうも気になる建物だ。いずれにせよ、建物が解体されてしまった今となっては、関係者に聞き取る以外には本当のところを知る術はない。

 さて今回参考にした「ぼくの近代建築コレクション」には、下町の古い建物の写真が沢山掲載されている。80年代に撮影された写真が多いようだが、これを見ていると、20年ぐらい前までは、東京にも様式建築がごろごろあったのだなぁと再認識させられる。私が東京に出てきた頃まではまだ方々に近代建築があったわけで、早い内にもっとたくさん見ておけばよかったなと、今更ながら思うことしきり。そう考えると、2020年頃になると、現在に対しても同じような感慨を持つのだろう。やはり今のうちにあちこち見ておかなければいけないな。

 2003年までの住宅地図では喜昇堂玉生商店、きつね鮨、丸越書店の名があった。2004年版では建物は残っていたが、きつね鮨以外が空き家状態になり、2006年の住宅地図では建物もなくなり駐車場になっていた。また左隣の看板建築、長塚延寿堂薬局も2004年までに解体されている。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 台東区  #商業系   ブログ内タグ一覧

2020.10.11追記
 1953(昭和28)年発行の『火災保険特殊地図』でも上記の店舗はほぼ同じ状態で記載されている。写真左端は延寿堂クスリ長塚、喜昇堂(菓子・茶・海苔)、きつね鮨、丸越書店。

コメント (3)
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一年経過

2006-12-24 | Weblog 
 気がついたらBlogを始めてから1年が経過していました。途中何度も中断しましたが、なんとか続けて来たので、今後もぼちぼち書き綴っていこうと思います。

 全記事数162件。平均すると2~3日に1回更新していることになるけれど、パッとしないものも結構あるので、まともに書いたのは少ないです。今後、良く練って書きたいのはやまやまですが、まともに書くのは私にはやはり大変。
 そんなわけで、2007年はもう少し気楽に、でも定期的に更新して行こうと考えています。
 定期的に読んでいただいている方、今後もどうかお付き合いくださいませ。
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平和生命館

2006-12-21 | 中央区  

 銀座、外濠通りに面して建っていたオフィスビル。

平和生命館(旧菊正ビル)
所在地:中央区銀座 3-2
構造・階数:RC・7F(8Fを増築)
設計 :國枝 博
建設年:1932(昭和7)
解体年:2006(平成18)
Photo 2001.6.24

 ビル本体は、アールデコ系デザインで、垂直線を強調したモダンなもの。当初は7階建てで、外壁の付け柱が屋上まで突き抜ける形だったそうだが、8階の増築により、垂直感はややそがれてしまっているという。竣工時の写真は手に入らなかったが、昭和初期の銀座では、7階建てで垂直方向を強調したアールデコデザインは斬新で印象的だったに違いない。

 今回、掲載にあたって、参考のために、いくつかの近代建築サイトをチェックした。

 ニッポン懐景録中央区銀座3丁目には、2005年の写真が掲載されている。

 また、街の風景平和生命館には、1999年と、2002年の写真が掲載されている。

 拙Blogの写真と合わせて、古い順に1999、2001、2002、2005の写真が見られるわけだが、たった6年の間なのに、あちこち様子が違っている。いやはや。

 1999年の写真では、コーナー部に「平和生命」のネオンサインが付いている。

 平和生命が、2000年4月にエトナヘイワ生命になったため、2001年6月の写真(写真↑)には、平和生命の文字はない。

 更に、エトナヘイワ生命は、2001年12月にマスミューチュアル生命になってしまい、転居してしまったとのこと。

 2002年以降の写真は、転出後のもののようだ。収入の足しにするためだろうか。大王製紙・エリエールの巨大な広告看板が屋上に付けられている。建物が8階建てなのに、3階分ぐらいに相当するバカでかい看板が付いたため、バランスが完全に崩れ、見る影もない状況になっていた。また外壁のリニューアルもされたようで、窓の上下の壁とコーナー部の縦のラインの色が茶色から緑に変わっている。使い続けるためにリニューアルしたんだろうに、数年したら解体なんて切ないなー。

 ちなみに2005年の写真では、広告塔のデザインがマイナーチェンジされている。

 2001年に撮影していたので、その後は撮らなかったのだが、こうして比較してみると、かなりいろいろ変化していたようだ。経年的な変化は、現場では気づかないことも多い。デジカメになって沢山写真を撮れるようになったので、やはり何度でも撮っておくべきなのだなと思った。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中央区  #近代建築  #オフィス  #銀行・保険 
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高輪プリンスホテル別館・古稀殿

2006-12-19 | 港区   
高輪プリンスホテル別館・古稀殿
(手前の和風建物、後方は高輪プリンスホテル本館)
所在地:港区高輪 3-13-1
Photo 1989.4.7

 高輪プリンスホテルへ至る、さくら坂という坂道の途中に、立派な和風建物が以前は建っていた。現在は高輪プリンスホテルさくらタワーが建っている場所。当時はさほど気に留めていなかった。というのもあれだけ立派な建物なので、かなり古いのではないかと思い、そういうものがあっさり取り壊されるとは思っていなかったから。

 プリンスホテルは、赤坂プリンスホテル旧館、高輪プリンスホテルの旧館など、宮様の邸宅をレストランなどに転用しながら保存しているので、この和風建物も保存していくものとばかり思っていたのだが、しばらくぶりに行ってみたら、跡形もなく建物は消え、高層ホテルが建てられていたのだった。遠くから撮るだけでなく、近くまで行ってちゃんと写真に収めておけばよかった・・・。

 しかしこの建物、なんだったんだろう? 気になったのでホテルにちょっと問い合わせてみた。変なこと聞く奴だなと思われたかもしれないが、さすがホテル、丁寧に応対して下さった。

 さくらタワーのオープンは1998年10月、それ以前にあったのは、古稀殿という高輪プリンスホテルの別館で、中国料理レストランだったのだそうだ。同名のレストランが、現在も高輪プリンスホテル内にある。写真を見て貰ったわけではないので、正確には分からないが、電話での回答によれば、どうやら写真に写っているのは古稀殿らしい。さくらタワーがオープンして8年経つのだから、この和風建物は10年ぐらい前には取り壊されていたのかもしれない。

 中国料理レストランだった場所が、13階建てのホテルになったわけで、レストランとしてだけでなく、宿泊、宴会、その他様々な形で利用できることになった。ホテルが古い低層棟をそのままにせず、建て替えて利益を上げていこうと考えるのは当然だろう。都心の民間敷地内にある建物は、指定や保存策がない状態では、保存や維持が大変なのは想像に難くない。でももう少し巧い方法が無かったのかなとどうしても思ってしまう。

 ちょっとした問い合わせで判明したのはここまで。この和風建物がいつ建てられたのか、プリンスホテルの和風別館になる前にはどのような使われ方をしていたのか、などまでは分からなかった。気になるけど、とりあえず現段階ではここまでにしておく。

 昔のことは機会があったら図書館などでまた調べてみようと思う。

Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 港区  #ホテル 
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三共電気工業

2006-12-17 | 中央区  

 築地にはギャンブレル(マンサード)屋根の4階建てがあった。

三共電気工業
所在地:中央区築地 1-4
構造・階数:木4・ギャンブレル屋根
Photo 2001.6.24

 ギャンブレル屋根を使って、法をすり抜けて3階建てを造ってしまった例は都内にもたくさんあるが、4階建てを造ってしまったのは他に見たことがない気がする。そもそも3階建てがだめだったから、ギャンブレル屋根を使って2階+屋根裏にしたのであって、3階+屋根裏じゃ、完全にアウトだったんじゃないのか?? 当時の事情はよく分からないけど・・・。

 むりやりの4階だからかどうか分からないが、各階の階高がなぜか全て異なる。それにつられて、窓の上部のアーチ部分のカーブもそれぞれ異なるものになってしまった。しかも円弧でも放物線でもないビミョーな曲線で、いまいちキレイではない。ファサードのデザインとしてはあまり巧くなくて、むしろ下手かもしれない。でも、ギャンブレル4階というペンシルビルのインパクトはやはり強かった。ビミョーな窓の形も逆に印象深いものだった。

 手許の資料が不足で建築年は分からないが、看板建築などと同時期の洋風木造商業建物で、関東大震災後の大正末期か昭和初期のものではないだろうか。大工さんは頑張ったんだけど、ちょっと妙な洋風建物ができてしまったという感じが好きだった。

 ニッポン懐景録内にも写真があり、こちらは2002年5月撮影となっているので、少なくともそれまではあったようだが、その後、2005年頃までの間に取り壊されたらしい。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中央区  #看板建築  #ギャンブレル屋根
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大塚3丁目交差点

2006-12-16 | 文京区  

 大塚3丁目、春日通りと不忍通りの交差点。

キクヤカメラ・タバタメガネ
所在地:文京区大塚3-9
構造・階数:木2
Photo 1996.10.12

 建物的には、なんでもない普通の木造2階建て。ただ立体的に作られた「カメラ大特売」の看板が、訪れる度に気になっていた。色褪せて錆びた看板だが、巨大な「カメラ」の文字は、押し出しが強く、妙な迫力があった。看板で隠れている部分にも部屋がある、木造3階だったのかもしれないが、今となってはわからない。

 写真の1996年秋の時点で、既にカメラ店は廃業していて、シャッターに建築計画のお知らせ看板が付けられていた。いつ解体され、建て替えられたかは知らないが、2006年春に訪れてみると、跡地には11階建てのビルが建っていた。

#失われた建物 文京区  #看板建築 
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TBについて

2006-12-15 | Weblog 
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トラックバックしたい方は今まで通り普通にTBして下さいませ。ただ、手作業で確認した後で表示することになりますので、すぐには反映されません。TB手続きをしても表示が変化しませんが、故障ではありませんので、少々お待ち下さい。
スパム・トラックバック以外は、選別などはせず、基本的に全てのTBを受け付けます。

なお、コメントは全く関係ありませんので、今後もお気軽にコメント下さいませ。
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神保町ビル

2006-12-15 | 千代田区 

 火曜日に神保町へ行ったら、ある建物が解体されて既に更地になっていた。

神保町ビル
所在地:千代田区神田神保町3-3
階数 :3F+RF
建設年代:戦前
解体年:2006(平成18)秋
Photo 1992.7.31

 今まで建物名さえ知らなかったのだが、住宅地図には神保町ビルと記載されていた。所在地のまんまの名前だ。1階はカバン屋、物産店、2階から上の用途は不明。RC3階+屋階増築ではないかと思うが、もしかすると木造3階+屋階だったのかもしれない。

Photo 2001.4.2

 神保町の靖国通り沿いには、以前は2〜3階建ての看板建築系の洋風建物が建ち並び、1980年代頃まではまとまり感のある街並みを見せていた。しかしバブル期の頃から建て替えが進み、大通りである靖国通り沿いには8〜10階建て程度のビルが建ち並ぶようになってきている。2001年の写真では、左側は奥まったプレハブ2階に建て替わり、右側は6階以上ある中高層建物になっている。壁面位置や軒高、ヴォリュームが異なる建物が建ち並ぶ状態になり、まとまり感のある街並みは次第に崩れてきた。全てが8〜10階建てになって再びまとまり感が生まれる時は来るのだろうか。

Photo 1992.7.31 Click 600*400

 軒先に装飾が付き、また3階の窓には窓台、庇が付く。装飾のためか比較的目立っており、最近でも街並みの中でキーポイントになる存在だったので、あっという間に失われてしまったのは残念。


 2023.12.22追記
 戦前の1935(昭和10)年の火災保険特殊地図に「神保町ビル」として既に記載されているので、この建物は昭和初期頃に建てられたものだったようだ。

ぼくの近代建築コレクション神保町ビル/神保町3丁目
Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 千代田区 
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