07/03 松し満(失われた和風建築)
07/11 1993 ヨーロッパ旅行記
07/15 Pentax ME-F(初のAFカメラ)
07/19 早稲田大学 西早稲田キャンパス(理工キャンパス20年の移り変わり)
07/24 パノラマ画像をスクロールで(横長画像をスクロールして閲覧する)
07/27 早稲田大学51号館(18階建ての高層ビル)
07/30 佐原・諏訪神社(水郷の町の意外な階段)
早大エクステンションセンター八丁堀校の講座で、小江戸・佐原へ
佐原というと小江戸の街並みということで、蔵造りの街並みが有名だ。また伊能忠敬が暮らした町で、旧宅と記念館がある。
利根川に近い水郷であり、以前は佐原市街にも多くの水路があったそうで、昔の中心部である小野川周辺は水辺の平坦な場所だ。
一方で、佐原は町の背後に20m程度の高さの台地が広がっていて、駅を出て南方の高台の端には諏訪神社という神社がある。重要伝統的建造物群保存地区に選定されている町中も見どころが多く楽しめるが、この神社もなかなか良い。
諏訪神社参道の石段(中程から上部)
中程から下部 Photo 2009.7.28
江戸時代末期の社殿も渋くて良い。だが見どころはやはり、127段あるという参道の石段。昼でも薄暗い木立の中を、細い階段が2ヶ所の平場を挟みながら直線的に高台上へのびる。
この諏訪神社は小野川の西側地域の鎮守で、秋のお祭りでも有名だという。
香取市HP > 佐原の大祭秋祭り(諏訪神社秋祭り)
佐原 > 佐原 諏訪神社
佐原はもともと佐原市だったが、2006年に周辺の3町と合併して、現在は香取市と称している。
Wikipedia > 香取市
#階段・坂 千葉県 #神社
早稲田大学51号館
所在地:新宿区大久保3-4-1
建設年:1967.3(昭和42.3)
構造 :RC+SRC
階数 :18F・地下2F・塔屋2F
高さ :65.24m
設計 :安東勝男
Photo 1987.5.9
51号館は、完成時だったか上棟式の際だったか忘れたが、一時的に日本最高の高さを持つビルだったと言われる。もっとも、ビル以外では東京タワーなどの鉄塔が既にあったし、約1年後の1968年4月には霞ヶ関ビル(36F、最高高さ156m、軒高147m)が完成して、あっという間に一位の座からは滑り落ちた。この話、私自身も大学時代に先輩などからそう聞いていたし、現在もいくつかのサイトでそう書かれているのだが、改めて高層ビルのサイトなどを見てみると、なんだかそのへんが微妙。
まず、これより3年前の1964年、建築基準法が改正されて100尺以上の建物が認められたその年に、ホテルニューオータニ本館(17F、現 ザ・メイン)ができていて、その高さは72m。また、横浜に建てられたホテルエンパイア(1965年3月開業、現 横浜薬科大学 図書館棟)も地上21F、建物部の高さが68m、尖塔と避雷針を含めると93m。あれれ?
まあ日本最高でなくても別に良いんだけど、なんだか釈然としない結果。
東西端には階段室があり、小さな窓が各フロアに3段ずつ並ぶ。研究室の側面にあたる部分は無窓で、下見板状のパネルが2F~18Fを覆う。細長いパネルをたくさん並べたのはスケール感を敢えて無くして、高さを強調するためだとも聞いた。南北面のブレースが入ったやや荒っぽい表情とは異なる、繊細な表情である。
現在の超高層ビルの大半が柔構造で、柳の木のようにしなることで風圧力や地震動を逃しているのに対して、この建物は剛構造で造られている。風が吹いても地震があっても、ガッチリ形を保ち、変形をせずに耐えるタイプの建物なんだそうだ。剛構造としては日本一の高さということだったのかな?。
Photo 1987.5.9
建設当時、太い鉄骨はまだ高価だったとかで、コストを削減しながら建てるために、細い鉄骨でジャングルジムのような構造を造り、更にそこにブレース(斜材)を入れて補強するというスタイルをとっている。ただ、開口部の真ん中に×型のブレースが入ると、窓の中央でブレースが交差して視界が遮られるため、これを避けるべく四隅に斜材を入れている。一つの枠に補強を入れれば、隣接する4ヶ所の枠の変形は抑えられるので、ブレースが入る窓と無い窓が、結果的に市松模様のように並ぶことになった。ブレースのある窓はKの字に、入っていない窓はOに見えて、壁面にKとOがたくさん繰り返されているかのように見える。早稲田なのにKO(慶応)とはこりゃいかに、という話を学生時代にはよくしたものだ。ほとんどネタなんだけど・・・。
Photo 2008.3.4
コンクリート保護のため、88年頃に少し銀色がかった塗装が施されたので、以前とは外観の色が若干異なる。
また、51号館は傾いているという話もまことしやかに伝えられていた。55号館ができる前、建築学科は51号館の10F、17F、18Fに入居していたが、建設時に傾いてしまったので、責任をとらされて最上階をあてがわれたなんていう話もあった。学生の頃、測量実習の授業があって、51号館の高さを測定せよという課題をやったような記憶がある。その際に屋上から下げ振りを下ろしたが、傾いてはいなかった(経年変化もあるだろうから現在は知らないが。)。実際、少なくとも当初の51号館は傾いておらず、建築学科が責任をとって最上階に入居したわけでもないようだ。むしろ、高い建物を設計したので、自ら高層居住を体験すべく最上階に陣取ったというあたりだったのかもしれない(詳細は知らず)。
KOの話と傾いているという話は、理工学部が3学部に改組された今でも、大久保キャンパス(現 西早稲田キャンパス)に伝わる都市伝説として語り継がれているのではないだろうか。
#古い建物 新宿区 #高層ビル #早稲田大学 #大学
#安東勝男
パノラマ画像を掲載する時、普通は、画像を小さく表示してクリックで別ウィンドウを開くか、初期ウィンドウを横長にしてしまうしかない。ウィンドウ幅は普通のまま、画像を横にスクロールさせたりできないだろうかと、ちょっと前から考えていた。
ネット上であれこれ調べたりもしたが、当初はよく分からなかった。だがふと、自らもホームページ上で更新記録をスクロールさせて表示していることを思い出し、それを応用してみたら、簡単にできてしまった。なぁんだ。
ブログは制約もあるので簡単にはできないと思いこんでいたのだが、結構、シンプルなやり方だった。
(上)Photo 2006.2.4 皇居二重橋前より丸の内のパノラマ
(下)Photo 1991.10.13 皇居二重橋前より丸の内・18年前のパノラマ
というわけで、以前の記事に使った写真を貼り直してみました。
丸の内の変貌
全体を一度で見るのは難しくなったが、具体的な部分の比較はしやすくなったのではないかと。
#街並み 千代田区 #パノラマ #広場 #公園
20年の移り変わり。私が入学した頃の西早稲田キャンパス(当時の名称は大久保キャンパス)は、現在とは少々様子が異なっていた。
51号館屋上から大久保キャンパス(東方向を見る。上方が明治通り)
左:56号館、左奥:65号館
右手前:53号館、右:54号館、右奥:自動車部部室(瓦屋根の平屋)
Photo 1987.5.9(3カットを合成)
入学当初は広角レンズ付きのカメラを持っていなかったので、50mmレンズで3カット撮影。最近になって当時のフィルムをデジタル化し、これを結合したのが上の写真。
この写真を撮ってからしばらくして、55号館の建設が始まり、1993年にこれが完成すると理工キャンパスの様子は大きく変化した。
当時と最近の様子(下写真)を比較してみると、まずなんといっても55号館が無かった。ここには防球ネットで囲まれた小さなグラウンドがあり、キャンパスの東南角には自動車部が使っていた瓦屋根の小さな部室があった。グラウンドは理工サッカー部や理工ラグビー部などが入れ替わり立ち替わり利用していたようだ。運動系の部やサークルに属していなかった私は、結局このグラウンドに足を踏み入れることはなかった。
51号館18F階段室から西早稲田キャンパス
左:56号館、左奥:65号館、正面:55号館N棟・S棟
右手前:53号館、右:54号館
Photo 2008.6.23(2カットを合成)
55号館建設前は、東側に建物がなかったため、理工キャンパスの中庭は景色の面では東側に抜けた感じになっていたが、55号館が完成すると、中庭は校舎群によって完全に囲まれ閉じたスペースになった。ある意味、いかにもキャンパスの中庭らしい空間になったと言える。
中庭じたいの様子も変化している。私の入学当初は中庭には高木は少なかった。
理工キャンパスでは、東西南北に沿った格子状の基準線が考えられていて、建物群は全てその格子を基準にして計画配置されている。中庭の四角い植え込みもこの基準線に沿って規則的に配されたもの。特に噴水周辺の植栽には、大きな木がなく、半球型に刈り込まれたツツジが花を咲かせ、整然とした様子になっていた。大木を中庭に配すると、視界が遮られて広がりが感じられなくなると考えたのだろうか。キャンパス内の建物群が見えなくなるとも考えたかもしれない。
中庭に高木が少ない一方で、グラウンドの周囲には高木が立ち並んでいた。これらは55号館の建設に際して伐採されたが、その後、一部を移植したのか、減少した緑を補うためか、中庭に高木が配されることになった。桜の木が植えられたのもこの時である。
53号館のすぐ前の四角い植え込みは、ちょうど写真の時に撤去中で現在はない。右側の教室棟側は、この植え込みが撤去されたために、正門から55号館へ至るプロムナード状の空間になり、緊急車両なども入りやすくなっている。
このように中庭の植栽を変更したら、キャンパスの雰囲気ががらっと変わった。以前は建物がズラッと見えていて、それはそれで壮観だったが、一方でかなり人工的な感じになっていた。やっぱり理工学部だから冷たい感じだと皆が思ったものだったが、樹木が多くなったら、意外に緑がある穏やかな感じに変わったのだった。春になれば桜が咲き、秋になれば落ち葉が舞う。芝生とツツジと低木の植栽が中心で、緑さえも計画的に管理されていたようなプランだったのが、それが少し崩れた。緑が多くなり、木陰も増え、木が大きくなった最近では、夏になると中庭の反対側の建物が見えなくなるようになった。昼休みに木陰で弁当を食べる学生も増えた。
建物の変化は良く知られているが、いつのまにかキャンパスの緑地環境も変化しているのだった。
大久保キャンパス建物配置図(2006年頃・上が北)
2008年6月には東京メトロ副都心線が開通し、大久保キャンパスの東側の明治通りの地下には西早稲田駅ができた。キャンパス内にも駅の出入口が完成し、理工キャンパスへの新たなアクセス手段が生まれ、渋谷、池袋、新宿3丁目から、飛躍的にアクセスが向上した。理工系学部の学生は、今までは西武新宿線の沿線などに下宿することが多かったが、今後は東武東上線や西武池袋線、東横線沿線に住んで、副都心線で通学する学生も増えるかもしれない。
#街並み 新宿区 #早稲田大学 #大学 #眺望 #高層ビル
Pentax ME-Fは、当時、世界初のオートフォーカス一眼レフを謳っていたような記憶がある。Wikipediaを見ても、Pentax ME-Fこそが世界初の製品化されたAF一眼レフカメラだとある。だが一眼レフカメラのAF化が急速に進んだのは、1985年2月に発売されたミノルタのα7000以降。Pentax ME-Fはそれより3年以上前に発売されていたのに、大したブームにはならず今では半分忘れ去られている。確かに初だったのかもしれないが、AF自体が開発途上のもので問題が多かったらしい。α7000以降、使い勝手の良いカメラが次々に出て、一気に一眼レフもオートフォーカスの時代になったのだった。
Pentax ME-F(1981年11発売)
ME-Fは初のAFカメラだったので、発売時に対応するレンズも一種類だけ発売された。しかしこの専用ズームレンズ(SMC PENTAX AF ZOOM 35-70mm F2.8)がエライ代物。後にも先にもこんな形のものは恐らくこれしかないという珍品だった。
写真にもあるが、レンズ下に大きく出っ張った部分がある。ここに単四乾電池4本を入れて、内部の小さなモーターを動かし、ギヤを介してピントを合わせるのだった。この4本の電池は完全にレンズ用で、本体側ではSR44などのボタン電池をこれまた4つ使う。AFを使わないときは、レンズ前面下のスイッチをOffにする。レンズ駆動専用の電池があってレンズ側に電源スイッチがあるのは、今考えるとかなり面白い。
現在のAFレンズは本体側に駆動モーターがあるものが多い(レンズに超音波モーターが内蔵されているものもある。)。だがME-Fの専用レンズはレンズ側に軸モーターがあり、これを使ったレンズ駆動に時間が掛かった。無限大側にピントがあった状態から1mぐらいにピントを動かすと、ジーッという音ともに、ハイハイちょっと待っててねー、ピント合わせるからねー、てな感じ。頑張ってる気分が良く出てるので、嫌いではなかったが、動く被写体だったりすると、もうお手上げ。面倒なので目測で適当にレンズを回してから、微調整をお願いするという変な使い方になる。それってAFじゃなくて半AF。
また、薄暗かったりコントラストが低い対象だと機能しないというのも、初モノゆえの弱点だった。消費電力も大きくしばしばレンズ側で電池切れが起こる。単四電池4本がレンズ側にあるので、ボディ部分を持つと電池の重みで前へ傾いてしまう。仕方がないのでレンズを下から支えるクセがついた。構え方の基本が否応なしに身に付いたのが、なんだか哀しくおかしい。
父は研究者だったので、実験機材同様カメラも最新型を買いたいと思ったのかもしれない。また老眼だったので、ピント合わせを速く正確にするためにAFカメラを買ったとも言っていた。でも、少々不便だったので結局あまり使わなくなってしまった。
大学に入学して上京してから暫くの間、私はキヤノンFT+50mmレンズを使っていた。しかし父がこのPentax ME-Fをあまり使わないまま、新しくOlympusのAFカメラを買ったため、私はお下がりを88年に頂戴した。
建物や街の風景を撮る場合はほとんどの場合、ピントは無限大で事足りる。「撮り鉄」でもないし、運動会を撮るパパでもないので、AFはほとんど不要。スイッチを切って電池を節約するだけでなく、結局は電池も抜いてMF状態にして総重量を軽くしてしまった。合焦の検知は本体側でやっており、ピントが合ったかどうかは分かるので、全く問題なかった。
学生でお金もなかったので、このカメラは長く使った。後に広角28mmをカバーするズームレンズを購入し、珍品AFレンズの方はあまり使わなくなったが、ボディの方は結局10年間も使っていた。
このカメラは、1998年にフィルムの巻き上げノブ(巻き上げも手動)が摩滅して壊れてしまった。既に修理用部品のストックが会社に無かったため、修理不能となってしまったが、それまでにフィルムにして450本弱、約15,000コマを撮り、最後まで使い切った感じだったのでほぼ満足だった。新宿三井ビル内にあったPentax Forum(現在は新宿センタービル内)にカメラを持ち込んだ時、「長い間、継続して使っていた割に他は痛んでいませんね。大切に使って頂き有り難うございます。」と言われて、ちょっと嬉しかった。そしてこの時、新しい製品を割安で提供しますと言われ、MZ-3を購入。他の修理屋さんに行けばあるいは修理できたのかもしれなかったが、その時は、もうそろそろ新しいのにしようかなと思っていたので、意地になって修理をすることはせずに素直に新品に替えた。
カメラなどはできるだけ、大切に長期間使いたい。もちろん使わずに持っているのではなく、ちょこちょこ使って。
Wikipedia > ペンタックスの銀塩一眼レフカメラ製品一覧:35mm判 (KマウントMF機種)
非公式PENTAXファンサイト「PENTAX-FAN」> Pentax ME-F
1993 ヨーロッパ旅行記・記事一覧当時の日付に合わせて記載するが、テキストの作成と入力が2009年であることもあり、基本的に回想記のスタイルである。社会情勢、物価などの記述は当時のものだが、16年の間に世界情勢の変化などもかなりあり、今になって振り返ってみれば、として書いておきたいことも多く、そのあたりも随時、挿入している。当時の日記に基づいて記載するため、消化不良で時制が異なる文章が混在する場面も生ずるかもしれないが、そのへんはご容赦願いたい。
全体のおよその行程は以下。駆け足で西欧を北西から南東へ抜けた感じ。
02/28~03/04 イギリス:ロンドン、オックスフォードとは言っても、まだ最初のイギリス・ロンドンの第1日目までしかアップしていない。いつになったら完成するのか分からないが、今後、徐々に掲載していく予定。
03/04~03/07 フランス:パリ
03/08~03/10 スイス :ツェルマット、ベルン
03/11~03/15 イタリア:ベネチア、ローマ、アッシジ
03/16~03/20 ギリシャ:アテネ、アテネ近郊の島巡り
03/21 帰国
ところで以前、1992ロシア旅行記を記述していたが、ちょっと事情があってウラジオストク、モスクワ編は中断している。こちらも条件が整い次第、再開したい。
また、他にもいくつかテキスト化できていない旅行日記がある。いつになるか分からないが、こちらも順次作成していこうと考えている。
松し満
所在地:中央区新富2-10
建設年:玄関部分は江戸期
構造・階数:木2
備考 :創業は寛政期(1789-1801)とも言われる。
2005頃解体
Photo 1995.6.20(写真は本館)
江戸期に創業したといわれる歴史のある割烹料理屋。参考にした下記HPなどによると、正面玄関部分は創業の頃からのもので築200年以上だったという。その他の建物も戦前のものだったのだろうが詳細は不明。
新富町は昔は花街として賑わっていたというが、現在ではオフィスやマンションが多い町になっている。そのような中、松し満は残された数少ない昔ながらの立派な料亭だったが、数年前に南側向かいのビルに移転。一連の建物は2005年頃に取り壊され、跡地には高層マンションが建設された。
参考HP・Blog
ぼくの近代建築コレクション > 松し満/新富2丁目
歴史の 浪漫街道/蔵店舗・老舗店舗/城央・日本橋・銀座エリア
集落町並みWalker > 新富町
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 中央区 #遊興施設