都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

金魚坂

2014-10-29 | 文京区  

 金魚坂って、本当に金魚屋さんがあるからなんだな〜。

金魚坂
所在地:文京区本郷5-3と4の間   Google Map
Photo 2014.7.15

 菊坂から北へ上る細い路地。奥の方には「珈琲・中国茶 金魚坂」の看板が路地に出ている。

金魚問屋の吉田飼料(株)

 350年前からここで営業している金魚商なのだそうだ。というわけで金魚坂の名も江戸時代からのものらしい。

 私道の坂には段ボールやら木枠やら桶が立て掛けてあって、雑然として却って面白い。

 坂を上りながらひょいと覗くとたくさんの水槽が。坂の上の方には金魚坂という名の喫茶店もある。

#階段・坂 文京区  #商業系 
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本郷の矢印形階段

2014-10-15 | 文京区  
本郷の矢印形の階段
所在地:文京区本郷   Google Map
段数 :33段(下16・上左右17段)
建設年:1970年頃
Photo 2014.9.5

 Aカルチャーの階段まちあるき講座で本郷へ。 「東京の階段」にも載せた矢印形の階段へ行ったところ、受講者の内の一人、N氏がぼそっと、「そう言えばこの階段、昔、俺が設計したんだった。来てみたら思い出した。」といきなり驚愕の発言。

 えーっ!!!!! これ設計した人なのーーっ?!?! 都内の階段で設計者が分かったのは初めて。 しかもこんなに身近な知人だったとは・・・。

 土木系の設計事務所勤務だった方で、東名高速や多摩ニュータウンの造成の設計下請けをしてたということなので、都内でもあちこちの道の改修設計もしておられるようだが、区道の階段の設計までしてたとは・・・。

 「会社に入ってから初めて本格的に任された現場だった。」とのこと。なんでも昭和45年頃、春日通り(国道)が拡幅されることになって、周辺の街路との取り合いや高低差を考慮して、区との打合せを経て矢印形の階段とすることにしたのだそうだ。その際、余ったスペースができるので、そこに公衆トイレも造ったらどうかと提案したという。

 しかしよりによって、御本人をその階段にまちあるきでお連れすることになるとは・・・。あー、本当にビックリした。。。

東京の階段 DB0273 本郷の矢印型階段

#階段・坂 文京区 
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大塚の階段再訪

2013-05-29 | 文京区  
大塚5丁目のジグザグ階段
Photo 2013.5.14
東京の階段 DBNo.0379 大塚5丁目・ジグザグな階段

 大塚5丁目のジグザグ階段を2年ぶりに訪問。2年前に下水道工事が行われて、階段が全面的に直された。
 段数としては、途中が1段だけ増えたようだ。
 平場も石畳+コンクリートモルタルから、透水性アスファルト舗装に替えられていた。
 近代化というか進化なんだが、ちょっと普通っぽくなってしまって残念。。

大塚5丁目のクランクした階段
Photo 2013.5.14
東京の階段 DBNo.0359 大塚5丁目・木の下を上る階段

 少し北側のややクランクした階段では、途中の沿道建物が建て替え中で、細街路拡幅のため、塀の位置が後退して、道が少し広がっていた。災害時の危険性を考えて拡幅してるので、これもある意味では正常な?変化だが、路地や細い抜け道を歩いて喜んでいるような私みたいな人にとってはやや残念な変化。

大塚6丁目・豊島が岡へ上る階段
Photo 2013.5.14
東京の階段 DBNo.0375 豊島が岡へ上る階段 下

 坂下通りの南側の斜面にある階段では、階段下部の右側に車庫ができたため、階段幅が半分になって、オレンジ色の車止め兼手摺が設置されていた。取り外し可能なようで、車の出し入れの時には外すのかもしれない。
 しかし道のどまんなかだ。携帯とか見ながら、ぼんやり歩いていたら股間をぶつけそうだ。

#階段・坂 文京区
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本郷あたり

2012-06-12 | 文京区  

 5/29にも来たのにまた本郷界隈へ。こんどはAカルチャーだったのだが、ほぼ同じコース。

 文京シビックセンター~炭団坂~菊坂~東京大学~西片~曙坂~丸山福山町~白山駅。少しだけ時間を多く掛けて、寄り道をしながら3時間弱で歩く。

一葉の路地の階段   Google Map
Photo 2012.6.2

 西側の木戸のあたりを見ていたら、関係者が出てきて、静かに通るのならどうぞと了解して下さった。10人程度の少人数で、土曜の日中だったこともあったのだろう。大人数で、変な時刻にどやどや訪れるのはやはりダメ。行き止まり的な道は、空間の性質上やはりプライベートなものだということを重々了解した上で訪れなくてはいけない。

 下見板張り出桁町屋わきの階段の下で、本郷の坂道を歩く別の団体に出会ってしまった。休日の都内にはやはり多くのまちあるき団体が出没しているようだ。

東京大学本郷キャンパス・三四郎池   Google Map
Photo 2012.6.2

 久々に三四郎池にいってみる。最近は東大本郷キャンパス内にも高層の建物が増えているが、三四郎池の周囲にはしっかり緑が残されている。木々が鬱蒼としている小さな谷にある池の畔に立つと、ビルなどはほとんど見えない。都心なのに、どこかの山奥の池に来たような景色だ。やはり国立大学のキャンパス環境は素晴らしい。うちの大学がせせこましいだけなのかも・・・。

白山上交差点   Google Map
Photo 2012.6.2

 旧中山道、白山上交差点。左の中山道は本郷へ向かってやや上っていき、一方、右の薬師坂は白山通り・指ヶ谷の谷へ向かって下る。斜面の途中にX字型にクロスする交差点が造られており、印象的な景色になっている。

#階段・坂 文京区  #街並み 文京区  #海・川・池  #大学 
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清水坂

2011-10-22 | 文京区  
清水坂
所在地:文京区湯島2-1と3-1の間   Google Map
Photo 2011.10.9

 湯島天神前の道を南下すると清水坂に至る。神田明神の北西側にあるこの清水坂もなかなか良い景色を持った坂。タモリさんも坂道の本で語っておられるが、カーブしたり折れている坂は美しい。清水坂の場合、折れ曲がりはわずか5°程度なのだが、それが景色にアクセントを与えている。

 坂を下りて蔵前橋通りを横断し、向かいの坂を少し上ると右側が東京医科歯科大学で左側は湯島の聖堂。そしてその先は聖橋、ニコライ堂だ。残念ながら湯島聖堂やニコライ堂は清水坂からは見えない。奥に見える高層ビルは御茶ノ水駅前の御茶の水サンクレール。その手前に聖橋があるようだが、ほとんど分からない。

清水坂の石柱
裏側に大正十三年一月と書かれている。
Photo 2011.10.9

 坂道の東側の歩道上には「清水坂」と記された石柱がある。自治体が立てた説明標識には「大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。そこで、町の人が、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。」とある。

 石柱には「大正十三年一月」とあった。関東大震災の翌年だなぁと思い、帰宅後、帝都復興街路事業の地図を見てみると、東京市執行の補助線街路として事業が行われた道だった。また周辺は全て震災復興土地区画整理事業が行われた地域でもある。ちょっと調べたら逆になんだかよく分からなくなってきた。

 説明として微妙なのは「清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。」という部分で、「会社が坂道の整備もした」とも取れるし、「会社が土地を提供した結果、(東京市が)坂道を整備できた」とも読める点だ。この坂はそもそも清水家が造ったのか、帝都復興事業に際して清水家が土地を提供して東京市が整備したのか、どちらなんだろう?

 清水家が坂道を造ったとして、かつ帝都復興事業との関係を整理すると、以下のようになる。

 清水坂自体は震災よりも前に清水家によって造られたが、震災後、帝都復興事業で拡幅整備され、その際、石柱が立てられた。大正5~10年に作成された1/10,000地形図にはこの道は画かれていないので、大正中期のわずかな期間の間のどこかで清水家が建設した後、すぐに震災になり帝都復興で再整備されたことになるが、可能性がないわけではない。

 もう一つは、帝都復興街路事業と土地区画整理事業に際して、清水家が土地を提供して坂道ができた可能性。

 清水坂という名が付いた由来もあるので、清水家が関わったのは事実だろう。だが、東京市は帝都復興街路事業として道路を整備している。また、区画整理事業を行ったのなら、地域が協力して減歩して街路分の土地を捻りだしたのだろう。大半を清水家が所有していたので、事実上、清水家が道路分を全て提供したのかもしれない。だから御苦労様、有り難うございますということで、石柱を立てたということだろうか。土地提供だけでなく道路整備も清水家がやったのか、整備は東京市なのか、そのへんは資料を細かく見ないと分かりそうにない。

 帝都復興街路事業による整備についても看板でちょっと書いてあると、大正13年1月という石柱と坂の由来の関係性が分かるのだが・・・。細かいことなんだけど、気づいてしまうとどうも気になる~。

東京23区の坂道文京区の坂(1)~湯島方面
坂学会のページ全国・坂のプロフィール
   > 東京23区の坂〔文京区)profile/清水坂

#階段・坂 文京区  #ヴィスタ  #眺望

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三組坂

2011-10-21 | 文京区  
三組坂上から御徒町方面
所在地:文京区湯島3-5・12・13と14・15・19の間
   Google Map
Photo 2011.10.9

 湯島界隈では湯島天神前の道を境に東側が急激に落ち込んでいる。ここも武蔵野台地(本郷台地)の東端部で、奥の方は隅田川・荒川沿いの低地。急傾斜の場所だが、道路網はグリッド状で、この斜面にある坂は皆、見通しがよい。

 坂が急に始まるので、坂上の交差点から見ると走っている車の一部が隠れて見えてしまったりするのが印象的だ。このような坂に出会うと、階段も良いけれど、坂にもいい坂があるなと思う。

 三組坂の名の由来は、この地に住んでいた「三組の者」と呼ばれた人たちから来てるんだそうだが、そのへんは以下の坂道サイトに譲ることにして、とりあえず私は、この都市的な風景を愉しむことにしようと思う。

 正面奥には、台東区台東2丁目の昭和通り沿いのマンションと、墨田区太平4丁目のオリナスタワー(139m、31F)、Brilliaタワー東京(159m、45F)の3者が重なって見えている。3者の中で一番高く見えているのは、錦糸町駅付近にある高さ160m近いBrilliaタワー東京で、これにもまた驚かされる。

東京23区の坂道文京区の坂(2)湯島方面(その2)
坂学会のページ全国・坂のプロフィール
   > 東京23区の坂〔文京区)profile/三組坂
#階段・坂 文京区  #ヴィスタ  #眺望
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湯島中坂

2011-10-18 | 文京区  
中坂 湯島中坂下交差点の東側から
所在地:文京区湯島3-21~24と25~29の間  Google Map
Photo 2011.10.9

 遠くから見ていいなぁと思う。もちろん坂のこと。

中坂途中の出桁家屋とモルタル看板建築
所在地:文京区湯島3-28
Photo 2011.10.9

 坂沿いには昔はもっと多くの出桁町屋や看板建築が建ち並んでいたが、多くがマンションなどに建て替わり、残るものは少ない。

 上げ下げ窓があるモルタル看板建築は、後ろがマンサード屋根(平入り)になっている。

東京23区の坂道
   > 文京区の坂(2)湯島方面(その2)
坂学会のページ全国・坂のプロフィール
   > 東京23区の坂(文京区)profile/中坂
#階段・坂 文京区  #古い建物 文京区  #街並み 文京区 
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湯立坂と網干坂

2011-10-17 | 文京区  

 以前は大して気に留めていなかった湯立坂と網干坂。でも調べてみたらなかなか興味深い名前だった。

湯立坂(ゆたてざか)
所在地:文京区大塚3丁目と小石川5丁目の間   Google Map
Photo 2011.9.27

 湯立坂の標識には、「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得ず。故に此所の氏子ども此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり。」と、昔の記録(江戸志、御府内備考)に記されていると書かれている。標識板の方には更に、

我方を 思ひふかめて 小石河
   いづこを瀬とか こひ渡るらむ
道興准皇「廻国雑記」(文明18年(1484)6月より3月までの
北陸、関東、奥州諸国の遊歴見記)より。

とも記されている。坂下の小石川(千川)は、室町時代には船でも渡りにくい大きな河だったようなのだ。

網干坂(あみほしざか)と簸川神社
所在地:文京区千石2丁目と白山3丁目の間   Google Map
Photo 2011.10.3

 網干坂の方も、昔は坂下の谷地が入江になっていて舟の出入りがあり、漁師が網を干していたという話から付いた名だという。大きな川だったから舟で漁をする漁師もいたということだろうか。小石川の方には旧戸崎町という町があるが、この町名も岬の地形から付いたとか、船が舳先を並べて泊まったことから舳先町になり、それが変化して戸崎になったという話があるそうで、なにかと川や海に関連のある場所である。

 約6,000年前の縄文時代前期には、気候変動により現在より海面が数m高かったそうだが(縄文海進)、坂下の共同印刷通りとの交差点付近の現在の標高は9.5mなので、やはりその頃でも海ではなかっただろう。だが小石川植物園内では貝塚が発掘されているとのことなので、海に近かったことは事実らしい。また、現在と縄文海進時の海面の差については、2~10m程度まで諸説あるそうなので、縄文期に坂下の谷地が海中だった可能性も無くはない。

 もちろん室町時代は当然それよりずっと後なので、海水面が高く海だったなどということはない。ただ、谷地はほとんどが湿地や水田で、川の水量もかなりあって、船で往き来するような場所だったようだ。水郷のような場所をイメージすれば良いのだろうか? 徳川家康が江戸に来た頃でも現在の大手町のあたりまでは日比谷入江が入り込んでいたというので、それより前の室町時代なら、小石川近辺が川の入江近くだったというのも分からなくはない。でもやはり、今の街並みを見ていると、大河の入江だったなどということは俄には想像できない。

 大正期に宅地化が進み、洪水がたびたび起こるようになったため、千川(小石川)は1934年(昭和9)に暗渠とされ、千川通りになったという。今では川の痕跡を示すものもほとんどなくなっているが、水辺の記憶が相対する二つの坂名に残されて生き続けているのが興味深い。

東京23区の坂道
   > 文京区の坂(13)~大塚・千石方面 網干坂・湯立坂
坂学会のページ全国・坂のプロフィール
   > 東京23区の坂(文京区)網干坂湯立坂

#階段・坂 文京区

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小石川5丁目あたり

2011-10-10 | 文京区  
小石川5丁目の坂
所在地:文京区小石川5-25と26の間
Photo 2011.9.27

 小石川5丁目界隈では、春日通りが尾根道で、共同印刷通りが谷道になっている。従って住宅地は北東方向に向かって下る斜面になっている。

 春日通り付近では傾斜はさほどきつくないのだが、中盤から北側は傾斜がやや急になっている。竹早公園の脇には団平坂という坂があるが、実はその付近はあまり急傾斜ではない。むしろ、写真の無名の坂の方がずっと急で、小石川植物園の緑を望むものになっており印象的だ。

小石川5丁目の坂
所在地:文京区小石川5-27と28の間
Photo 2011.9.27

 少し西側の別の坂。急坂でしばしば見られるコンクリート舗装で、滑り止めの丸い輪っか模様が刻み込まれている。

小石川5丁目のL字型階段
所在地:文京区小石川5-29と30の間  Google Map
Photo 2011.9.27

 更に西側へ行くとL字型をした階段がある。区画整理を行った地区では、自動車交通が考えられて階段などはあまりないことが多いが、ここには2ヶ所、階段がある。昔の地図と比較すると周辺の道筋はあまり変更されていない。主に道幅を広げて交差点の見通しを良くし、傾斜を少し緩くしたりする作業が行われたようで、高低差がやや大きいこの場所では、上下をつなぐために階段が整備されたようだ。しっかり整備された階段なので、無茶な急勾配になっていたり、ステップの奥行きが乱れることなどはなく、比較的緩やかでゆったりと上れる階段になっている。

#階段・坂 文京区
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御殿坂・小石川植物園・播磨坂

2011-10-08 | 文京区  
御殿坂
所在地:文京区白山2丁目と3丁目の間   Google Map
Photo 2011.9.27

 小石川植物園の東側を北向きに上るやや長い坂。小石川植物園の樹木が鬱蒼と繁り、万年塀が続く坂道になっている。

 現在の小石川植物園の場所には当初、白山神社があったそうで、その後、後の5代将軍徳川綱吉の御殿になったという。白山神社があった場所にできた御殿というわけで、屋敷は白山御殿と呼ばれ、屋敷の脇の坂は御殿坂となったのだそうだ。界隈の旧町名は白山御殿町。白山御殿は綱吉が将軍になった後、廃止されて幕府の薬草園となり、更に小石川養生所となり、明治以後は小石川植物園になった。

小石川植物園  Photo 2011.9.27

 御殿坂のすぐ脇が小石川植物園の入口。久しぶりに園内を見学しようと思ったら、台風15号の影響で樹木が倒れたりしたらしく臨時閉園になっていた。再開は10月6日とのこと。ついてない・・・。

播磨坂
所在地:文京区小石川4丁目と5丁目の間   Google Map
Photo 2011.9.27

 播磨坂界隈は戦後の戦災復興土地区画整理事業によって宅地が整理された場所。もともとの道筋も多少生かしながら、吹上坂を共同印刷通りから春日通りまで貫通させ、播磨坂を新設し、竹早小学校と竹早公園を組み合わせて確保し、湯立坂に沿って伸びる窪町東公園も確保した。

 区画整理を利用して播磨坂は環状3号線の一部となるべく広幅員で建設されたが、他の場所ではそのような手法による用地確保がされなかったため、結局、環状3号線はあまりできていない。港区と新宿区内で徐々に建設が進んでいる外苑東通りも環状3号線の一部を成しているそうだが、これが播磨坂につながる見込は立っていない。江戸川橋あたりから小日向の丘の住宅地を横切って播磨坂につながる道なんて、現時点ではちょっと想像できない。

 結果的に、素晴らしい桜並木がある緑地帯を持つゆったりした坂道がここでは確保され、地域住民にとって大切な財産ともなっている。

東京23区の坂道
   文京区の坂(7)~ 西片・白山方面御殿坂(文京区)
   文京区の坂(8)~ 小石川・春日方面(播磨坂)
坂学会のページ全国・坂のプロフィール
   東京23区の坂(文京区)御殿坂播磨坂
#階段・坂 文京区  #公園  #海・川・池 
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