都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

旧東京市営真砂町住宅・Y邸

2024-08-03 | 文京区  
旧東京市営真砂町住宅・Y邸
所在地:文京区 本郷4-21-5
構造・階数:木・2
建設年:1923(大正12)
解体年:2022(令和4)
Photo 2014.7.15

 本郷4丁目のこの界隈は江戸期には松平右京亮の中屋敷だった場所。大正期、東京市内の住宅不足を受けて、この一帯には東京市によって1923〜25(大正12〜14)に多くの市営住宅(46棟、75戸)が建てられた。また単身男性向け共同住宅(清和寮、RC造4F、144室)も1930(昭和5)年に建てられた。

 平成の初め頃までは清和寮もあり、当初の市営住宅もいくつか残っていたようだが、私が東京の街を見て歩くようになった90年代後半には、それらはほとんどなくなっており、それとわかるものは3棟ほどになっていた。


 Photo 2014.7.15

 この家は菊坂の谷から南へ丘を上る坂の途中左側にあったもの。ギャンブル屋根とドーマー窓が印象的。妻側など2階壁面はモルタルで、柱を装飾的に見せていた。2階の窓などはアルミサッシに替えられていたが、玄関は木製枠のものが残されていた。


 Photo 2019.7.8

 玄関扉は幅広の観音開きでサイド部にも蝶番があり、さらに広く開けることができる仕様だったらしい。大型の家具の搬入を想定したのだろうか。現在も残る他の一軒は、玄関まわりが改装されており、他の家もそうだったのかどうかは不明。

 下記リンク先「ぼくの近代建築コレクション」の記事では、同様の家屋が建ち並んでいる様子を見ることができる。かつては、このような独特で東京中心部では珍しい街並みだったようだ。この家がなくなったので、現在も残っている真砂町住宅の建物はおそらく一軒だけである。

東京市営真砂町住宅(2)/文京区本郷4丁目 - ぼくの近代建築コレクション
旧東京市営真砂町住宅(東京都文京区): 日常旅行日記
旧町名 本郷區眞砂町 - 歩・探・見・感
旧東京市営真砂町住宅 : レトロな建物を訪ねて

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 文京区  #戸建て住宅  #洋館・洋風住宅 
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旧 大塚アパート

2024-07-12 | 港区   
旧 大塚アパート
所在地 :港区 南麻布4-2-14
構造・階数:木・2
建設年代:?
解体年 :2023(令和5)頃
Photo 1995.5.27

 南麻布にあった、もとはアパートだった洋風建物。最近の住宅地図には個人宅のような形で載っていたが、総2階の姿はやはり集合住宅。建設年代の詳細は未把握だが、1960年代の地図には既に載っているので、それより以前、戦後まもなくもしくは昭和戦前期に建てられたものだったのではないかと思う。


 Photo 2011.3.29

 人通りのある道に直接面しているため、1階の窓には目隠しの板が取り付けられていた。壁は洋風の下見板張りだが、屋根は日本瓦。また、1990年代に見た時は壁が水色だったが、2010年代には薄い小豆色に塗り替えられていた。


 Photo 2011.3.29

 2階の窓外の手摺はアルミ製のようで新しい。雨樋も新しいものが付けられていたし、エアコンもあったが、外観は全体的に昔からの様子を保っていた。


 Photo 2011.3.29

 窓や扉は昔ながらの木製。古い住宅でもアルミサッシになっていない建物は珍しい。

 昨年末に通り掛かったところ、既に無くなっており、跡地には別の新しい建物が建っていた。老朽化している感じだったので、残して行くのは難しかったのだろう。
 昔からの街並みを形作っていた建物はかようにして次第に消えていき、かつての街並みを思い起こす手掛かりも次第に少なくなっていく。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 港区  #洋館・洋風住宅  #集合住宅 
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高輪3丁目の洋館

2024-06-24 | 港区   
高輪3丁目の洋館
所在地:港区 高輪3-4-10
構造・階数:木・2
建設年:?
解体年:2010(平成22)
Photo 2006.3.5

 桜田通りから東に入った場所にあった洋館付き住宅。住宅地図等を見ても詳細はよく判らなかったが、1990年代以降は貿易関連の会社として使われていたもののようだった。

 急傾斜の屋根と上げ下げ窓が印象的。洋風なのは写真の部分だけで、左側の奥まった部分は少し新しめの普通の2階屋だった。

 1階の窓は少し張り出したベイウィンドウ。

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旧渡辺甚吉邸

2024-06-18 | 港区   
旧渡辺甚吉邸(旧ラオス大使公邸、旧スリランカ大使公邸ほか)
所在地:港区 白金台4-19-10
構造・階数:木・2+R
設計 :遠藤健三、今和次郎、山本拙郎
建設年:1934(昭和9)
解体年:2018(平成30)
備考 :2022(令和4)に取手市に移築完成。国登録有形文化財
Photo 2017.1.10

 白金台にあった旧渡辺甚吉邸は2018年に解体されたが、その後、取手市内に移築された。もともとの所在地で残せなかったのは残念だが、東京の現状などを考えると移築であっても残らないよりはましで、残ったのは良かったことだ。

 建物は岐阜の名家、渡辺家の当主、甚吉の私邸として建てられたもの。渡辺甚吉は実施設計を行った遠藤健三を伴ってヨーロッパに赴き、その体験からチューダー様式でこの住宅を建てたという。全体計画は洋風住宅を手掛けていた「あめりか屋」の技師長・山本拙郎、また、内部の装飾類は考現学で知られる今和次郎がデザインしたものという。

 戦後は米軍が接収、渡辺家に返還された後はラオス大使公邸やスリランカ大使公邸として利用され、更に2010年からは結婚式場「白金甚夢迎賓館」としても使用されていた。

 塀や1階部分の壁は鉄平石を積んだもので、都内に残る洋館の外壁としては珍しいものだった。2階、屋根小屋部分はハーフティンバーで、チューダー様式の田舎家の雰囲気。

 正門左側の平屋は車庫だったものだそうだ。

 都内に現存していた頃は内部を見学する機会がほぼなかったが、移築後の現在はときどき見学会が行われており、他のサイトには現状や内部の様子も掲載されている。また、移築作業を行った前田建設によるレポートも見ることができる。

旧渡辺甚吉邸主屋 文化遺産オンライン
旧渡辺甚吉邸移築活用プロジェクト|Construction REPORT|実績・事例|前田建設工業株式会社
奇跡の住宅- 旧渡辺甚吉邸と室内装飾- | LIXILギャラリー | LIXIL文化活動 - LIVING CULTURE
旧渡辺甚吉邸(東京) : 洋館探訪ブログ
思いつくまま 第845回・旧渡辺甚吉邸
Anthology -記憶の記録-
 − 取手市のお散歩2023 その3その4その5

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#失われた建物 港区 #移築保存 #洋館・洋風住宅 #国登録有形文化財 
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角田邸

2023-09-30 | 広島県  
角田邸
所在地:竹原市 本町1-6-20
構造・階数:木・3
解体年:2010〜13
Photo 1999.9.18

 竹原は、広島から尾道に移動する途中で下車して駆け足で見た。なので伝建地区を訪れるのも夕方になり、現地を一通り見て駅に戻る頃には暗くなってしまった。ISO感度400のフィルムではスローシャッターになり、この写真は手ブレしてしまっている。

 住宅地図では角田邸と記されているが、詳細は不明。総3階建てで規模が大きく、1階の階高も高い目立つ洋風建物だった。青緑色の瓦の寄棟屋根なのも、竹原の伝建地区に多い蔵や町屋とは異なり印象的。

 2010年頃まではあったようだが、Google ストリートビューには写っておらず、2010〜13年頃に解体されて消失したようだ。

日本国内の建物や街並み
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妻入りの洋館・M邸

2023-05-09 | 宮城県・福島県
妻入りの洋館・M邸
所在地:宮城県亘理郡 亘理町 五日町28
構造・階数:木・2
解体年:2015〜19(平成27〜31)
Photo 1991.9.14

 宮城県南部の亘理町にある五日町商店街にあった妻入りの洋館。いつ頃の建物か知らないままに終わったが、そこそこ古かったのではないかと思う。

 亘理町を訪れたのは、都市計画系研究室に在籍していたときに研究室が五日町商店街の街並み調査などを受託したため。写真に写っているのは大学院時代の研究室の同級生で、一緒に図面作成をした友人。ただ、この写真は調査時ではなく報告書作成の半年ほど後で、しかも私も同級生も亘理町を訪れたのはこの時が初めて。報告書には街並みの連続立面図が載っているが、私たちはその図面を実は町を訪れずに描いてしまった。

 90年代初めは、所属していた研究室への委託調査研究が多かった。ひとつ上の先輩達が現地調査を行って街並みの連続写真を撮影したが、その先輩達は別の調査でも忙しく、連続立面図などを作成する時間が無かった。そのため後輩の私たちが現地へ行ってないのに資料を元に連続立面図を作成した。

 そんなわけなので、機会があったら実際に訪れてみたいと考えていたところ、たまたまその年の建築学会の大会が仙台市で行われたので、学会参加のついでに見に行ったのだった。

 初めて訪れる商店街なのに、通り沿いの建物立面についてはデザインの詳細まで知っているので、既視感の強い妙な体験だった。写真には、図面作成担当者が「私がこの建物の立面図を描きました」という体で記念に写っている。

 1991年に撮影した時はM邸だったが、その後、空き家になったようだ。建物としては存続していたが2015年の住宅地図には住人の名がない。Google ストリートビューでは2019年6月時点で更地になっている。

日本国内の建物や街並み
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旧佐藤武夫邸

2023-02-27 | 東京都下 
旧佐藤武夫邸
所在地:西東京市 東伏見1-18
建設年:1930(昭和5)
構造・階数:木・2F
解体年:2019(令和元)
Photo 2010.1.8

 早稲田大学教授だった佐藤武夫(1899−1972)の自邸。西武新宿線に乗っていると車窓に一瞬見えて気になっていた洋館だったが、当初は詳細を知らなかった。しかし下記「★近代建築探訪★」の記事やFacebookで流れてきた情報などから、佐藤武夫邸だったことを知ることとなった。写真の時は既に他の方の住宅だったようだが、同ブログ記事などによると、住所が一致しており外観も同じとのこと。

 佐藤武夫は早大大隈講堂(1927)を、佐藤功一、内藤多仲と共に設計したことでも知られる。そのような方の住宅がひっそり現存していたのには少々びっくり。

 いつも川越へ行く電車の車窓から見るだけだったのでいつか下車して見に行こうと思っていたのだが、最近になって既に解体されていたことに気付いた。Google ストリートビューで確認したところ、2019年6月の写真に解体作業の様子が写っていた。残念。
 結局、近くへ行って写真を撮らないうちになくなってしまった。この写真は電車の車内から撮ったもの。

佐藤武夫 - Wikipedia
udf weblog 佐藤武夫 自邸
佐藤武夫自邸: ★近代建築探訪★

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上邸

2023-01-21 | 豊島区  
上邸/旧千葉邸
所在地:豊島区 西池袋2-31-3
構造・階数:木・1
設計指導:遠藤新
建設年:1931(昭和6)
解体年:2007〜09(平成19〜21)
Photo 2007.5.20

 自由学園明日館の西側にあった家。玄関とこれに隣接する部屋が洋風になった和洋折衷住宅だった。洋館部分は壁がピンク色、妻壁上部はハーフティンバー(風?)。

 洋館部分は屋根も緑色の洋瓦で葺かれている。隣接して敷地の奥にあった2階建ての方は、和風の2階建てで南側に大きなガラス窓が取られた建物だった。

「帝都」の残映-東京・近代建築撮り歩き-:上邸(旧千葉邸) - livedoor Blog(ブログ)

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#失われた建物 豊島区  #戸建て住宅  #洋館・洋風住宅  #近代建築 
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H邸

2022-12-30 | 大田区  
H邸
所在地:大田区 山王2-35
構造・階数:木・1
建設年代 :戦中〜戦後まもなく
解体年  :2011(平成23)
Photo 2011.2.15

 山王2丁目を歩いていて、解体中の建物を偶然見つけて撮った写真。
 解体に至るまでに既に長い間無人の廃屋だったのだろうか。かなり傷んでいたのが印象に残る。


 


 

 古そうな建物に見えたが、1938(昭和13)年版の火災保険特殊地図では後年と建物形状が異なるので、もう少し後の時期に建てられたものだったのではないかと思う。戦後版の同地図はこの界隈の版がないので不明だが、1962(昭和37)年発行の「東京都全住宅案内図帳」には掲載されている。

 建物を解体して土地も売却されたのかと思っていたが、現在も元の土地の一部に関係者がお住まいのようだ。ただ土地は分割されておりそこに複数の家屋が建てられている。
 山王エリアは御屋敷町だったが次第に土地が細分化しており、昔に比べると小規模な建物が多くなっているようだ。

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2023.9.12 追記
 下記「ぼくの近代建築コレクション」に、私より約2年前(2019年)の写真が掲載された。
 H邸/山王2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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岡邸

2022-12-06 | 大田区  
岡邸
所在地:大田区 山王2-13-12
構造・階数:木・2
建設年:恐らく戦前
解体年:2013〜14(平成25〜26)
Photo 2011.2.16

 山王の住宅地、闇坂を上った先の尾根道沿いにあった洋館。
 建物は通りに対してやや斜めに建てられており、総2階建てで雁行した各部屋は南面していた。

 屋根はスレート葺き、窓枠も昔のまま木製だった。

 西側、玄関上2階の部屋は和室だったようで、ガラス窓の内側はカーテンではなく障子だった。

 建物北側の谷には大森射的場(射撃場)が東西に長く広がっていた。下記、リンク先の記事では、射的場は1937(昭和12)年に敷地の2/3を分譲しているので、その後、その分譲地に建てられたものかもしれない。だとすると昭和15年頃の建物ではないかと推察している。

 私はこの分譲の詳細は把握していない。ただ、戦前の内務省作成の1/1万地形図と戦後の国土地理院の地形図を比較してみると、その頃に宅地化されたのは射的場の北側のエリアであるらしい。また、戦前の1928〜36(昭和3〜11)年に作成された地図、つまり射的場が敷地の一部を分譲するよりも前に作成された地図にも、射的場の南側、尾根道の両側に建物が並んでいるのが見てとれる。

 というわけで、この建物がある尾根道の北側には関東大震災の頃から住宅がある程度建っていたようだ。震災直前の1916〜21(大正5〜10)年の地図にも道沿いにいくつかの建物が描かれている。

 岡邸として判別できるのは、1970年代の住宅地図以降。ただ、戦前版(1938年・昭和13年)の火災保険特殊地図には、名前の記載はないがほぼ同じ場所に同じ形の家屋が描かれている。また1936(昭和11)年頃の空中写真にも似た形の家屋が写っている。
 それ以前については情報がないので分からないが、ここまでのことからすると、この建物は震災後から昭和10年頃までの間に建てられたものではないかと思われる。震災前かどうかは分からない。

年代   状態
1936頃 たぶん○
1938  たぶん○

1950頃  ?
1978以降 ○

2013.07  ○
2014.05  ×
 資料・備考
国土地理院・空中写真 外形がほぼ同じ建物が写っている。
火災保険特殊地図
 居住者の記載はないが外形がほぼ同じ建物が記載されている。
山王地区は火災保険特殊地図の戦後版がない模様
ゼンリン住宅地図 岡邸として記載
 (都立中央図書館では大田区は1978年以降のものが閲覧可能)
Googleストリートビュー
Googleストリートビュー

 

尾根道の洋館/山王2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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