都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

K邸

2024-03-21 | 千代田区 
K邸
所在地:千代田区 富士見2-5-4
構造・階数:木・2
建設年:昭和初期
解体年:2010(平成22)
Photo 1994.7.16

 下記「ぼくの近代建築コレクション」の記事では、拙ブログの写真よりさらに前の1986年4月のものが見られるが、このころ既にツタで覆われていて、人の気配があまり感じられない状況ではあったようだ。ただ私の1枚目では手前2階の雨戸がわずかに開いているようでもあり、無人の廃墟ではなかった様子。


 Photo 2008.4.4

 アパートのようにも見える総二階の大型のちょっと洋風な建物として記憶に残るものだった。


 Photo 2008.4.4

 門柱が独特な造形だったのも印象的。このスタイルだからなのか門扉はなし。奥の扉は庭へ通じているもの。


 Photo 2009.2.22

 全体には装飾がほとんどなかったが、道路沿いの側面には半円形の窓があって洒落ていた。道路に近い部分に手間を掛けた設計だったのだろうか。

民家/富士見2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
K邸 千代田区富士見 - 東京ノスタルジア

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上邸

2023-01-21 | 豊島区  
上邸/旧千葉邸
所在地:豊島区 西池袋2-31-3
構造・階数:木・1
設計指導:遠藤新
建設年:1931(昭和6)
解体年:2007〜09(平成19〜21)
Photo 2007.5.20

 自由学園明日館の西側にあった家。玄関とこれに隣接する部屋が洋風になった和洋折衷住宅だった。洋館部分は壁がピンク色、妻壁上部はハーフティンバー(風?)。

 洋館部分は屋根も緑色の洋瓦で葺かれている。隣接して敷地の奥にあった2階建ての方は、和風の2階建てで南側に大きなガラス窓が取られた建物だった。

「帝都」の残映-東京・近代建築撮り歩き-:上邸(旧千葉邸) - livedoor Blog(ブログ)

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H邸

2022-12-30 | 大田区  
H邸
所在地:大田区 山王2-35
構造・階数:木・1
建設年代 :戦中〜戦後まもなく
解体年  :2011(平成23)
Photo 2011.2.15

 山王2丁目を歩いていて、解体中の建物を偶然見つけて撮った写真。
 解体に至るまでに既に長い間無人の廃屋だったのだろうか。かなり傷んでいたのが印象に残る。


 


 

 古そうな建物に見えたが、1938(昭和13)年版の火災保険特殊地図では後年と建物形状が異なるので、もう少し後の時期に建てられたものだったのではないかと思う。戦後版の同地図はこの界隈の版がないので不明だが、1962(昭和37)年発行の「東京都全住宅案内図帳」には掲載されている。

 建物を解体して土地も売却されたのかと思っていたが、現在も元の土地の一部に関係者がお住まいのようだ。ただ土地は分割されておりそこに複数の家屋が建てられている。
 山王エリアは御屋敷町だったが次第に土地が細分化しており、昔に比べると小規模な建物が多くなっているようだ。

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2023.9.12 追記
 下記「ぼくの近代建築コレクション」に、私より約2年前(2019年)の写真が掲載された。
 H邸/山王2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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岡邸

2022-12-06 | 大田区  
岡邸
所在地:大田区 山王2-13-12
構造・階数:木・2
建設年:恐らく戦前
解体年:2013〜14(平成25〜26)
Photo 2011.2.16

 山王の住宅地、闇坂を上った先の尾根道沿いにあった洋館。
 建物は通りに対してやや斜めに建てられており、総2階建てで雁行した各部屋は南面していた。

 屋根はスレート葺き、窓枠も昔のまま木製だった。

 西側、玄関上2階の部屋は和室だったようで、ガラス窓の内側はカーテンではなく障子だった。

 建物北側の谷には大森射的場(射撃場)が東西に長く広がっていた。下記、リンク先の記事では、射的場は1937(昭和12)年に敷地の2/3を分譲しているので、その後、その分譲地に建てられたものかもしれない。だとすると昭和15年頃の建物ではないかと推察している。

 私はこの分譲の詳細は把握していない。ただ、戦前の内務省作成の1/1万地形図と戦後の国土地理院の地形図を比較してみると、その頃に宅地化されたのは射的場の北側のエリアであるらしい。また、戦前の1928〜36(昭和3〜11)年に作成された地図、つまり射的場が敷地の一部を分譲するよりも前に作成された地図にも、射的場の南側、尾根道の両側に建物が並んでいるのが見てとれる。

 というわけで、この建物がある尾根道の北側には関東大震災の頃から住宅がある程度建っていたようだ。震災直前の1916〜21(大正5〜10)年の地図にも道沿いにいくつかの建物が描かれている。

 岡邸として判別できるのは、1970年代の住宅地図以降。ただ、戦前版(1938年・昭和13年)の火災保険特殊地図には、名前の記載はないがほぼ同じ場所に同じ形の家屋が描かれている。また1936(昭和11)年頃の空中写真にも似た形の家屋が写っている。
 それ以前については情報がないので分からないが、ここまでのことからすると、この建物は震災後から昭和10年頃までの間に建てられたものではないかと思われる。震災前かどうかは分からない。

年代   状態
1936頃 たぶん○
1938  たぶん○

1950頃  ?
1978以降 ○

2013.07  ○
2014.05  ×
 資料・備考
国土地理院・空中写真 外形がほぼ同じ建物が写っている。
火災保険特殊地図
 居住者の記載はないが外形がほぼ同じ建物が記載されている。
山王地区は火災保険特殊地図の戦後版がない模様
ゼンリン住宅地図 岡邸として記載
 (都立中央図書館では大田区は1978年以降のものが閲覧可能)
Googleストリートビュー
Googleストリートビュー

 

尾根道の洋館/山王2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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江塚眼科

2022-11-06 | 目黒区  
江塚眼科
所在地:目黒区 目黒3-12-1
構造・階数:木・2
設計:江木 佐
建設年:1926(大正15)
解体年:2013(平成25)
Photo 2011.7.22

 診療所付きの併用住宅。診療所の入口と住宅の玄関を別の道に面して設置している。上写真は医院の玄関側(東南側)から。

 下記『東京の近代建築』によれば、関東大震災の半年前に土地を購入し、震災後、親戚の江木佐という人の設計で基礎を頑丈にして建設されたものという。


 北東側から

 塀は後の時代に造ったもので当初は生け垣だったという。


 住宅の入口側(西北側)から

 壁は下見板張りと一部はモルタル塗り。建設時は瓦葺きだったが、1979(昭和54)年に銅板葺きに替えたという。


 住宅入口側

 住宅側の入口は医院側よりもやや小規模で地味。


 住宅入口

 玄関庇などには瓦葺きの部分が残っている。

参考『東京の近代建築』後藤治・三船康道 監修、地人書館、2000年刊

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市島邸 その2

2022-07-10 | 文京区  
市島邸
所在地:文京区 千駄木3-14
構造・階数:木・1
建設年:明治期(大正期に移築)
解体年:2020(令和2).8
備考 :市島邸 その1
Photo 2013.12.10

 その1でも記したように、この住宅は早大図書館の設立に貢献した「早稲田の四尊」故市島謙吉の遠戚にあたる市島宗家、故市島信氏の遺族から早大に寄付されたもの。鶴見にあった市島本家の建物(明治期に建設)の一部を大正時代に千駄木へ移築したもので、最初に建てられた時からだと100年以上、移築後でも80年以上経っていた。
 老朽化のため2020年に解体され、史料や一部の部材等は新潟県新発田市の市島家に寄贈されたという。
 以下の写真も、早大オープンカレッジ講座の巡見で邸内を見学した時のもの。


 Photo 2011.10.18


 Photo 2015.3.5

 修復すればそれなりに美しく立派になるのではないかと思われたが、残念ながら放置状態だった。


 Photo 2010.10.12

 市島家は新発田藩主となった溝口氏に仕えて新潟に移り住み、地域を発展させた豪農という。それもあって床の間の障子には溝口氏の家紋である五階菱があしらわれていた(写真は障子の位置が内外逆になっていて正しくないので五階菱に見えない。)。
 折り畳みの長机やゴミ箱が置かれてしまっていたのもちょっと・・・。


 縁側の廊下 Photo 2015.3.5

 網戸が嵌っているのは生活感のある感じ。

千駄木菜園: 市島邸の解体、高村光雲邸跡地の今
SOPvol.96 東京・林町市島邸に五階菱 | 新発田オレンジプレス

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市島邸 その1

2022-07-01 | 文京区  
市島邸
所在地:文京区 千駄木3-14
構造・階数:木・1
建設年:明治期(大正期に移築)
解体年:2020(令和2).8
Photo 2010.1.10

 早大図書館の設立に貢献した市島謙吉(「早稲田の四尊」と呼ばれる方の一人)の遠戚にあたる市島宗家、故市島信氏の遺族から早大に寄付された住宅。鶴見にあった市島本家の建物(明治期に建設)の一部を大正時代に千駄木へ移築したもので、最初に建てられた時からだと100年以上、移築後でも80年以上経っていた。
 老朽化のため2020年に解体され、史料や一部の部材等は新潟県新発田市の市島家に寄贈されたという。

 千駄木界隈には古くからの邸宅が点在している。そのなかで市島邸は比較的敷地が大きく樹木も多く、昔ながらの雰囲気を残した家だった。また道の反対側には武者小路千家の東京稽古場(邸内の茶室、半床庵は都指定文化財)もあり、落ち着いた静かな一角となっていた。

 邸内は基本的に非公開だったが、早大の研究室がゼミなどの活動でときどき利用していた。以下の写真は、早大オープンカレッジ講座の巡見で邸内を見学した時のもの。


 Photo 2015.3.5

 門を入り、庭木の間を西へ抜けて玄関へ向かう。樹木や草の手入れは多少はされていたが、きれいな庭園とするほどのことはされていなかった。ふだんは無人だったこともあり、若干荒れた感じという方が合っていたかもしれない。


 アプローチの通路から家屋の全景  Photo 2015.3.5


 庭から  Photo 2010.10.12

 縁側の庇はやや傾いていたようだ。


 同じく庭側から  Photo 2010.10.12

 木立がやや鬱蒼とする中、電灯の明かりで照らされた室内が印象的。


 Photo 2013.12.10

 2013年に訪れた時は晩秋で、紅葉がきれいだった。

千駄木菜園: 市島邸の解体、高村光雲邸跡地の今
SOPvol.96 東京・林町市島邸に五階菱 | 新発田オレンジプレス

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高山邸

2022-02-06 | 千代田区 
高山邸/2軒続きの銅板張り看板建築
所在地:千代田区 神田須田町2-13
構造・階数:木・3/2
建設年:1923(大正12)/戦前?
解体年:2014(平成26).5/2014〜15.3
Photo 2005.3.27

 左端は看板建築として有名な海老原商店。その右隣、写真中央が高山邸。写真右手も2軒続きの銅板張り看板建築。

 高山邸は『日本近代建築総覧』では「高山巌宅」として掲載されている銅板張りの3階建て看板建築。2階と3階では戸袋の模様が異なるなど、小規模ながら手が込んだデザインになっている。その右側の銅板張り看板建築の方は、1970年代以降いくつかの店が入れ替わりながら店舗として入っていたようだ。

 海老原商店は現存しているが、高山邸とその右の看板建築は共に2014年後半〜2015年前半までに解体され、現在はコインパーキングになっている。看板建築が並ぶ街並み、とりわけ戦前期の銅板張り看板建築が並ぶ場所は年々少なくなっている。解体後、跡地は中高層マンションかコインパーキングになることが多い。写真に撮っておきたいとはあまり思えない街並み風景が次第に増えているのはやはり残念だ。

黒田栄次郎商店、海老原商店/神田須田町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
【×】高松松蔵宅 - ずぼら堂懐古録

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K邸

2022-01-12 | 渋谷区  
K邸
所在地:渋谷区 神宮前6-33
構造・階数:木・3
建設年:1925(大正14)
解体年:1996(平成8)
Photo 1995.2.1

 25年ほど前に神宮前界隈を歩いていてなにげなく撮った洋館。『日本近代建築総覧』にも掲載されている建物らしかったのだが、撮影時に場所をしっかり記録しなかったため、この建物が同書のリストに載ったものだったのかどうか実は確証がない。ただ、Googleストリートビューで確認したところ、周辺の建物との兼ね合いでこの住所の写真ではないかと考えている。『日本近代建築総覧』には氏名も記されているが、一応K邸としておく。

 車のそばの屋根は門だったのだろうか? 屋根が主屋と繋がっているように見える。或いは主屋の玄関庇の下に潜り込んだ、車寄せもしくは車寄せを兼ねた門だったのかもしれない。そう考えるとなんだかおもしろいつくりだ。

 主屋の方は大きな切妻屋根が架かった屋根裏3階。間口は大きいわけではないが高さのある住宅だった。

 写真の壁は1枚目の付近で撮ったものだが、撮影時の記憶が曖昧でK邸のものだったかどうかは不明。漆喰もしくはモルタルで青海波のような模様を付けている。

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原美術館(原邸)

2022-01-06 | 品川区  
原美術館(原邸)
所在地:品川区 北品川4-7-25
構造・階数:RC・3
設計 :渡辺仁
建設年:1938(昭和13)
解体年:2021(令和3)
備考 :美術館は1979(昭和54)開館
Photo 2017.2.16

 原美術館一帯は明治・大正期の実業家の原六郎が購入した土地。その一角に養子の原邦造が1938(昭和13)に自邸として建設したのが、後に原美術館となった建物。設計の渡辺仁(1887〜1973)は、銀座の和光、有楽町の第一生命館、横浜のホテルニューグランドなどの設計でも知られる建築家。
 戦後の一時期はGHQに接収され米軍将校の宿舎となった。接収解除後は外務省公館、フィリピン大使館、セイロン(現 スリランカ)大使館になったが、その後は10年以上使われなかったという。
 そして原邦造の孫である原俊夫が、1979年にこの私邸を現代美術専門の原美術館とした。

 L字型平面の建物は、最初からそうするつもりだったのではないかと思うぐらい美術館に合ったデザインだったように思う。門を入ってアプローチの道を行くと車寄せ。水平なスラブが突き出しているだけの比較的シンプルな姿がモダン。先端側の支柱は板状で縞々の石材?の模様がきれい。

 西側は平屋、弧を描いた南側は2階建てで、部分的に3階建てになっている。屋上の一部にはコンクリート製のフレームもあり、玄関付近から見るとそれらが立体的に重なり、さまざまな様相を見せている。


 Photo 2013.9.29

 玄関南側の壁面には細めの柵が付いた小窓が田の字型に並ぶ。


 弧を描いた南側壁面 Photo 1989.4.7

 やや大きな四角い窓が並ぶ姿もモダン。奥の方で張り出しているのはサンルームとかだったのだろうか。


 中庭側の様子  Photo 1989.4.7

 当初はカフェテラスも小さく、写真右手の壁面には撤去された部分の痕跡も見えていたりした。その後、カフェテラスは増築され右手の壁面もきれいにされた。閉館直前の頃の様子は下記リンク先の記事で見ることができる。


 屋上から Photo 1989.4.7

 2階の屋上に出られるのも魅力的だった。なにかができるわけではない。現代美術の作品がなにげなく展示されているだけだったが、普通とは異なる視点から建物や庭を眺められ、開放感を味わえるのはシンプルに楽しかった。


 玄関 Photo 2013.9.29

 玄関扉は鉄製。立派な建物だったが過剰な装飾はなくモダンそのもの。


 階段室 Photo 1989.4.7

 滑らかな曲面の白壁に黒い石材の側壁がコントラストを成しており、緩やかな曲線を描いて上に伸びる手摺や間接照明が美しい。


 敷地入口の門 Photo 2017.2.16

 門も比較的簡素な造り。塀は日本瓦が載った白壁で、ここは和風の雰囲気だった。


 敷地外周の塀 Photo 2013.9.29

 原六郎邸は戦後は分割されて縮小したようだが、原美術館の敷地はそれでもかなり広く、西側の道には塀が長く連なっていた。

 約40年間現代美術の拠点となっていた原美術館だったが、建物の老朽化とバリアフリーへの対応が困難だったため、2021年1月に閉館。その後、残念ながら解体された。

惜しまれつつ閉館した原美術館 その知られざる歴史とこれから - TOKION
原美術館 - Wikipedia原六郎 - Wikipedia原俊夫 - Wikipedia
渡辺仁 - Wikipedia

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