都市徘徊blog
徒然まちあるき日記
 




08/02 九段下ビル(街並みを創る震災復興建築)
08/03 築地散策(古い木造建物が残る街)
08/05 築地市場探索1(場外市場と築地本願寺子院)
08/06 占領下の東京
08/07 築地市場探索2(場内市場散策)
08/08 早稲田大学大隈講堂 その5(改修工事始まる)
08/09 夕焼け(中野にて鮮やかな空)
08/10 築地市場探索3(場内市場内部徘徊)
08/11 文化学院(失われゆく近代建築)
08/12 神田女学園(失われゆく近代建築)
08/17 駿河台女坂(キリッとした階段を愛でる)
08/26 麻機の変貌(故郷の風景)
08/27 第二東名ととっくり(土木構築物と自然景観)
08/30 浅草から上野を望む(上野の超高層マンション)



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 浅草通りを渡るときに西の方を見たら、遠くに大きな建物が見えた。

元浅草付近から上野を望む
Photo 2006.8.26

 昔は浅草付近から、上野のお山が見えていたんだそうな。戦後、中高層のビルやマンションが増えたため、高台の全体像が見えることは無くなってしまった。しかし浅草通りのように広い道では、今でも正面奥に上野の台地の緑がちょっとだけ見えている。浅草から上野の丘を望むと、やっぱり上野公園は台地で山の手、浅草は低地で下町なんだということが視覚的に理解できる。また浅草と上野が意外に近いんだなということも分かる。

 横断歩道橋の向こう側にちょっと見えている緑が、上野台地の緑。距離はおよそ1.5km。道路の軸線上にある緑なので、上野駅や上野公園手前に張り付いている低層の店舗群が高層化しない限り、台地の緑が見えなくなることはない。そんなわけで今回も、よしよしまだちゃんと見えているなと思ったわけなのだが、緑の後方に超高層マンションが建ったというのは予想外だった。マンションが不忍池のそばに建ったことは知っていたが、まさかそれが、浅草通りの正面に見えているとは思わなかった。

 見えているマンションは、不忍池のそばの不忍通り沿いに建つルネッサンスタワー。

 地下2階、地上38階、塔屋1階、軒高133.5m、最高高さ136.5m。上野の丘は駅付近では標高15m程度。丘の上に立つ樹木を考慮に入れても、50m以上の建物はどうしても見えてしまう。まあ、130m超だとどこからでも見えるんだけど。

 しかしよりによって何故、この近辺で一番高い建物が通りの真正面に建ってしまったのだろう。前にも書いたが、東京では道路の延長線上に超高層ビルが建つことが多いような気がする。少しずれた所に建ってくれれば気にならなかったのに、そうはならないのが不思議。上野の森と一緒に見えるのが、区のシンボルとなるようなものだったらまだ良いのだが、単なるマンションがまるで丘の上に建ってるみたいに見えているというのががっかり。以前も書いたが、軸線上の景観コントロールをもう少し進めてほしいなぁ。

#街並み 台東区  #ヴィスタ  #眺望  #高層ビル  #道  #住宅系 


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 久々に静岡市清水区を流れる興津川へ行ってみた。Photo 2006.8.20

 国道1号の庵原交差点を左折。庵原川沿いに北上すると、第二東名の建設現場が見えてくる。道路公団が民営化されたので、現在は中日本高速道路株式会社が建設を行っているらしい。新会社のHPではまだあまり第二東名の情報は掲載されてないみたいだが、静岡市建設局道路部のHPで建設計画が大体わかる。

第二東名と東名高速をつなぐ連絡道路の建設現場

 第二東名と東名高速の間には、連絡道路がいくつか作られる。東名高速清水I.C.の少し東側に新設されるジャンクションから北上して、第二東名吉原ジャンクションに至るのが写真の道。第二東名自体がかなり山の中を走る道なので、連絡道路も谷を越え山を抜け空中を行く。建設が凍結されたわけではないので、知らないうちに粛々と建設は進められていた。しかしこの付近の開通は平成24年度なのだとか。大体、海老名より東は路線すら決定していない。ほんとに使われるのかしらと思ってしまうが、ここまで出来てしまっていると、途中で投げ出すのもなんだから、とりあえず作っちゃってねというかんじ。

 トンネルで山を越え、吉原地区を経て興津川沿いに辿り着く。和田島というところでは興津川上空に第二東名の橋が架かる。

興津川上空に架かる第二東名

 山間部の自然の中を暴力的に横切る人工構築物という感じでもあるが、意外に美しい橋梁景観だとも言えそうなので、そのへんが微妙。建築や土木が好きな性質なので、単純に橋梁の姿が格好良いなぁと思ってしまうことは事実だ。でも人工は往々にして自然を破壊している。対立ではなく、調和し共生するランドスケープデザインはやはり難しい。確かに昔の高速道路よりは美しいデザインだとは思う。だが、やはりないに越したことはない。必要な道路なら、仕方ないなと思うのだが、その必要性が揺らいでいるので誠に評価しにくい。

和田島浄水場

 視線を右に転ずると田んぼの向こうに、和田島の“とっくり”が見える。初めて見るとギョッとするかもしれないが、なかなか愛嬌のある浄水場のデザインだ。もちろん合理的な形でもあって、それがモダンで存在感のあるカタチに結実している。そして地元の人だけでなく、釣りや川遊びで興津川を訪れる人の記憶に残り、愛着を持たれるランドマークになっている。

 人工のデザインも良いものは良い。第二東名は将来受け容れられるだろうか。

見に行ってみたい方は、静岡市清水区和田島(Google Map)を御覧下さい。

静岡の街並み
#新しい建物 静岡県  #街並み 静岡県  #道  #橋


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 私のHandle Nameは、asabata。時々「asabataって何ですか?」と尋ねられるのだが、実はこれ地名。実家のある静岡市北部地域が麻機(あさばた)と呼ばれることに因んでいる。

 もともとは浅畑(あさはた)だったそうなのだが、それが変化して麻機に。明治以降は、安倍郡麻機村という村だったが、昭和9年10月に静岡市に編入された(静岡市は明治22年4月に成立)。麻機という名称は無くなり、村内の北、東、有永、羽高、南などの字(あざ)のみが残された。だから私の実家は静岡市北。

 更に2005年4月に静岡市が政令指定都市になったのを機に、葵区、駿河区、清水区の3区がつくられたため、現在は、静岡市葵区北とか、葵区有永などになっている。ただ、もともとは麻機村の北であり、東や南だったため、南などは静岡市の中心部からみると北の方であるにも関わらず、葵区南になっている。ややこしいことに、静岡駅のそばには駿河区南町という町もある。これは合併や編入に伴う混乱とも言えるのだが、賤機(しずはた)村が編入された際には、村の上、下という字のみが残り、静岡市葵区下となり、なぜ下なのかさっぱりわからなくなったという例もある。

 地名としては無くなってしまった麻機。だが呼称としては今も生きている。旧麻機村へのバス路線は麻機線で、麻機街道を走り、終点は麻機。地元の小学校は麻機小学校(あさしょー)だし、ちびまるこちゃんでも出てくる巴川(ともえがわ)の上流は麻機川。流域にある麻機遊水池はバードウォッチングのメッカでもある。

 市内の人なら、麻機と言えば、静岡市の北のはずれだということをだいたい知っている。中心部に住む、街っ子に言わせると、麻機=田舎、みたいな意味なんだけど。

 さて、Googleで「麻機」を検索すると、静岡のこの場所に関する記事しかヒットしない。どうやら麻機というものは、地名としてもその他の名称としてもこの地域名しか存在しないらしい。この全国にここしかないというのが気に入ってHNにした。

 そんなわけで、私は麻機にそれなりの愛着を持っているのだが、実は30年ほど前に引っ越して住みついたよそものなので、昔のことはあまり知らない。だがこの30年の間でも麻機はかなりの変化を遂げた。

賤機山・福成神社付近からの麻機(昭和30年頃?)
賤機山・福成神社付近からの麻機
Photo 2006.8.21

 上の白黒写真は、ある知人からコピーで頂戴したもの。Scanして地名などを加えた。年代はちょっと不明。下は最近、私が撮ったもの。同じように見える場所を探したが、樹木などに遮られて撮れる場所が無かったため、若干構図が異なる。この撮影ポイントのすぐそばまではミカン栽培のための農道が造られており、自動車で上ることが実は可能。

 昔と今で大きく異なるのは二点。一つは、田んぼが耕地整理によって碁盤の目のようになり、麻機川も改修されて直線化したこと。上の写真でも、巴川の文字の右のあたりまでは既に護岸改修がされていて、幾何学的にカーブした堤防が見えているが、上流側はまだ自然のままで、川筋は蛇行している。田んぼは微少な高低差に沿って作られていて、様々な形をしており、あぜ道も蛇行していたが、私が住み始めた昭和40年代には、既に耕地整理は終わっていて、直線化した川に沿って長方形の田んぼが並び、真っ直ぐなあぜ道がその中を通る場所になっていた。

 二つめは、画面中央の漆山が削られて全くなくなり、そこに県立こども病院(煉瓦色の建物群)と国立病院が建設されたこと。漆山という山があったこと自体、最近まで知らなかったため、この写真を見たときは驚いた。まさか山を一つ削って無くしてしまっていたとは。以前、この近辺に漆山荘という施設があったが、その名の由来が実在の山の名前だったことを知り、今頃になって納得。周辺の田んぼが耕地整理で碁盤の目状になっている中、二つの病院が周辺とは関係なく、不整形な敷地形状や建物配置をしていたので、不思議に思っていたのだが、もともと山だった部分だかららしい。

 この他、およそ50年の間の細かい変化は沢山ある。麻機小学校は木造校舎からRCに建て替えられているし、漆山の左後方の田んぼは流通センターとして、野菜その他の市場となった。有永近辺の住宅も増加している。また写真からは判然としないが、最近は山腹のミカン畑が減少し、耕作放棄され竹林化する例も多い。ミカンの価格が下がったこと、跡継ぎがいないことが主な原因らしい。

 更に、こども病院の左後方は全て遊水池になっている。戦後、耕地整理をして、堤防を造り川を直線化し、氾濫原をなくして耕作地を増やしたわけだが、1974年(S49)7月7日の七夕豪雨では、この一帯の大半が浸水し、以降も大雨の度に巴川は氾濫を繰り返した。氾濫原を無くしたことで、水の行き場が無くなったため、結局洪水が起こってしまっていたわけで、その後、巴川流域には遊水池が多数作られることになった(巴川流域総合治水事業)。一度田んぼにした場所を、また氾濫原とする事業なわけで、無理して田んぼにしなければ良かったのに的な感じなのだが、まあ仕方がない。でもって、この遊水池が自然の宝庫となり、バードウォッチングなどに訪れる人も増え、結果的にはリクリエーションゾーンに変わった。

 お米が余って減反政策も行われ、麻機の田んぼも、近年はかなり減っている。その代わり花卉や野菜の温室栽培が増えた。また、農地の宅地化も進んだ。

 数年前に新潟に行ったら、見渡す限り田んぼだった。20年ぐらい前までは麻機もかなり広い範囲が田んぼだったが、今ではそのような場所は無くなってしまった。市街化区域ではないので、急に市街地化することはないはずだが、少しずつ農地や緑が減っているのがちょっと気になる。

静岡の街並み
#街並み 静岡県  #パノラマ  #眺望


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 西神田方面から神田駿河台へと上る駿河台女坂。Photo 2006.8.9

駿河台女坂
千代田区猿楽町2-4と2-8の間
素材/踏面・蹴上:御影石、手摺:コンクリート・鋼管
規模/高低差14.7m、幅員3.8m、82段、蹴上18cm、踏み面33cm
建設年代/大正末期

 駿河台女坂はキリッとした階段だ。何故そう思うのかと問われても明確な理由は述べられないのだが、来るたびにそういう雰囲気を感じる。少し東には同じく男坂があるのだが、そちらはスキッとしたとか、スパッとしたという印象。あまり違いがないじゃないかと、お思いになるかもしれないが、ちょっと違う。確かに大きな差ではないんですけどね。

 男坂と女坂、神社などではしばしば、直線的に一気に上る男坂と、蛇行して緩やかに上る女坂が造られている。駿河台男坂と女坂は、神社の階段ではないのだが、ここでも一気に上る方を男坂、屈曲する方は女坂と呼ばれている。

 男坂の方が、一直線に階段を上る感じが潔いので、スパッとした印象であるというのは、なんとなく理解して頂けるかと思う。一方の女坂の方は屈折して上るので、どちらかというと柔らかい印象になると、普通は考えるのだが、駿河台女坂の場合、柔和な印象というよりは、女性剣士のような雰囲気が漂っているように思うのだ。なんだか妙なことを書いてるなと思われるかもしれないが・・・。

 CONFORTという雑誌で階段について連載していたときにも、この駿河台女坂はとり上げたことがある(2004年7月号)。その際にも記したのだが、駿河台女坂と隣の男坂は共に、蹴上が18cm、踏み面が33cmであり、実は傾斜が同じなのだ。女坂には途中に二カ所踊り場があるのに対して、男坂には無いという違いはあるが、段々部分の傾斜は同じ。しかも、男坂が73段なのに対して女坂は82段と、女坂の方が9段、段数が多く、全体の高低差も1m以上余計にあるという、妙なことになっている。更に、道幅が男坂より若干狭いため、高低差は視覚的にも強調されているようだ。

 踊り場があるので与しやすいと思って挑んだら、傾斜は男坂と同じで、しかも段数は男坂より多いなんて、なんだかおとこ顔負けの強さを持つ女性剣士みたいじゃないかと思う。

 キリッとした印象は見た目からも来ている。大谷石のような柔らかい石でできた階段は、経年変化で削れて丸くなってしまい、柔らかな印象になるが、ここの階段は比較的硬い石をきっちりと規則正しく並べて造っているので、階段のデザインがとても直線的に感じられる。階段の手摺や縁にも曖昧な部分が少なく、全体に建築的できちんとした形をしている。屈曲した部分も成り行き任せではなく、計画的に屈曲させてあり、傾斜も道幅も一定になっているあたりはとても律儀な印象を与える。

 階段の周辺にやや背の高いビルがいくつか建っていること、屈曲して視線や視野が変化することも、階段を視覚的にも体験的にも、高く感じさせることに寄与している。屈曲して伸び上がるような姿は、下から見上げる人に対して、モデルさんがやや斜めに構えているようにも感じられる。

 そんなわけで、この階段を見ていると、キリッとした階段だなぁと思うのです。結局、あまりうまく説明できてないんだけど・・・。

 でもって、そんなキリッとした駿河台女坂が私は好きです。へへ。

#階段・坂 千代田区


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 駿河台の丘の上の文化学院が取り壊されたが、丘の下の神田女学園の方も、既に完全に足場で囲われ、解体が始められていた。

神田女学園
所在地:千代田区猿楽町 2-3
建設年:1935(昭和10)
構造・階数:RC3(後に4F増築?)
2006.6解体、2008年春までに建て替え
Photo 2005.3.25

 神田女学園のHPには、建て替え後の予想図がある。こちらのほうは文化学院のケースより現状のものに近く、建物をそのまま7階建てに延ばす感じで計画されている。コーナー部が丸く、そこに出入り口が設けられ、時計の下に縦書きで神田女学園と記されるのは現在と同じ。aneppeさんの「秋葉OLの楽しみ探し」でも触れられているとおり、イメージの継承を考慮した跡が見られる。

 写真では4階建てなのだが、日本近代建築総覧で確認すると、神田女学園は鉄筋コンクリート3階と記されている。写真を見直すと、たしかに壁面のアーチレリーフは3階までだし、窓割りも3階までと4階では全く異なる。壁面も4階はわずかに奥に引っ込んでいて、雨樋は3階から付く。というわけで、今までは気づかなかったが、当初はやはり3階建てで、かなり横長のプロポーションだったらしい。玄関の庇がカーブを描いてスーッと延びるのも、横長の流れるような形を強調するものだったのだろう。玄関のある角の方から見ると、かなりスマートで格好良かったのではないかと思われる。

 資料が正しいのなら、後に4階建てに増築されたわけだが、その窓が横に連なっているので、横長の印象はあまり崩れなかったのではないだろうか。カーブを描いて長く尾を引くような校舎が、訪れる人に流麗な印象を与えていたような気がする。

 今回は従来と似たデザインで、当初の倍以上の7階建てに建て替えられる。建て替えでは、個々のパーツのデザインは大体継承しているのだが、全体のフォルムは、横長から、縦長というかボックス状のものになる。

 建て替えてヴォリュームを増加させるとき、この全体のプロポーションや雰囲気の維持というのはなかなか難しい、というかほとんどの場合、維持することができない。だが神田女学園の場合、パーツのデザインを似せてイメージの継承には配慮をしているようなので、是非、流れるようにスマートな印象も再現して欲しいなと思う。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #学校 


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 雨上がりの夕方、神田駿河台へ行き、解体が進む文化学院を見てきた。

取り壊し中の文化学院
Photo 2006.8.10

 マロニエ通りに辿り着いたのは、台風が去った後の夕方で、解体工事関係者も一日の仕事を終えて帰った後だった。

 構内の建物は既に大半が解体されて、瓦礫もあまり残されていないようだった。引き続き新築工事に向けて整地がされ、基礎工事が始まるのかもしれない。

 しかし、何故かアーチ型の玄関部分だけが3階まで残されている。全面的に解体するならこの部分も早い段階で壊されてしまうだろうに、他の大半が壊されたにもかかわらずご丁寧にこの部分だけが残っている。

 建て替え後の建物がどんな建物になるか、私は詳細は知らないのだが、文化学院のHPを見てみると、新校舎完成予想CGが掲載されている。設計は坂倉建築研究所。代表取締役の坂倉竹之助という方は、文化学院創立者の西村伊作という人の孫にあたるそうだ。

 CGムービーを見ると、新校舎は15階建てぐらいだろうか。玄関部分が現在と同じようなアーチ型になっているので、そっくりそのままあれを残して使うのかなと思ったが、よく見ると前面に公開空地を取って建物自体はセットバックしている。アーチを潜った先も大階段になっていて、ちょっと様子が違う。CGしか公開されていなくて、建築概要は示されていないので、即断はできないが、もしかするとアーチ部分を部分的に残して、新しい校舎のパーツとして復元利用するのかもしれないなと思った。イメージの部分保存というあたりではないだろうか。

 いま残されている部分が、そっくり新建物の一部になるんだったらもっと面白いとは思うのだけれど、建築家はどういう解決をするんでしょうか?。各方面から保存要望が出たりしていた旧校舎があっさり取り壊されてしまったのは残念だが、どういう形で、記憶を継承することになるのか、ちょっと楽しみ。

文化学院
所在地:千代田区神田駿河台2-5
建設年:1937(昭和12)
構造・階数:RC4
Photo 2005.3.25

 改めて、約70年前に建てられた文化学院の写真を見てみる。御茶の水近辺を知っている人の多くが、記憶している建物。文化学院といえば、やはりこの玄関アーチがシンボルだった。薄暗いアーチの途中に建物への入口があるのも印象的。

 表現派的な玄関アーチはデザイン上の大きな特色だが、実はその他には装飾的なものはあまりない。表通り側では3階にバルコニーがあるのがちょっと目立つ程度で、これとて夏場になれば街路樹の緑に隠れて気づく人も少ない。確かにクラシックなカレッジの雰囲気を持つ建物なのだが、建築デザインとしては、一部に放物線も使ったアーチ玄関が目立つこと以外にはさしたる特徴が無いように見える。

 しかしその壁面には一面に蔦が絡まっている。今回、写真を引っ張り出してみて、蔦が想像以上に全面に取り付いていたことに改めて気が付き驚いた。この年期の入り具合が存在感に繋がっていたんだなぁと再確認。

 建物の下を潜り抜けると四角い中庭に出る。周囲の校舎から声をかければ話ができるぐらいの手頃なサイズの中庭は、学生の溜まり場であり、小さいながらもキャンパスというものを感じさせる重要な空間だったに違いない。周辺の建物が次第に大きくなっていく中で、ボリュームとしては埋もれがちだったが、それにも関わらず一定の存在感を保ち続けてきた。個性的な卒業生を多く輩出したという伝統から来る存在感も勿論あるのだが、そういう個性を育んだ建物、空間だったのだろう。

 CGを見る限り、新校舎はビルなので中庭はちょっと期待できなさそう。でも低層部の上に屋上庭園みたいな部分があって、その上に高層部が載るCG画像だったので、中庭ではなくて今度は屋上広場になるのかな?

 建て替えの理由が、耐震性の低下とか経営上の問題だといわれると、それをクリアできる対案はなかなか出せない。だが、安易な建て替えはアイデンティティの喪失に繋がり、却ってリスクを伴う。学校などの場合、拠り所、アイデンティティは重要なものだ。面積や設備、収容人数といった数値では把握できない無形の価値、すなわち伝統とか校風とかアイデンティティが、校舎という有形の空間に保持されている。設備が良くなって、校舎が新しくなっても、学校の雰囲気が変わってしまうと、そこで育つ学生の質が良くなるとは限らない。下手すると、以前からあった長所が消し去られてしまう可能性すらある。

 新校舎の完成は2008年春だという。2年後、いままでの建物の記憶を少しでも継承した建物が現れて、伝統を保持しつつ、将来的にも魅力的な学校ができればいいなと思う。そして、御茶の水がこれからも学生街として、落ち着いた雰囲気のある街であり続けると良いのだがなと思う。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #学校 


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 二日ほど別記事でしたが、築地市場探索のつづき。Photo 2006.7.23

 誰もいないのをいいことに、次第に内部へ。でも侵入ではなく見学なので念のため。

大屋根の下の仲卸店舗群

 実は過去二度ほど、市場には来たことがある。初めて訪れたのは10年ほど前で、その時は早朝4時頃に入り込んだ。トラックが列をなして次から次に到着し、ターレットが場内を所狭しと駆け回っていた。日が昇り、5時頃になると、あちこちで競りが始まりかけ声が響く。6時頃になると仲卸業者が忙しく運び出しをする。そして午前中に、卸業者や大口の小売などが買い付けにやってくる。

 築地の場合、大まかに言えば、大きな通路の外側・海側が搬入と競りのエリアで、通路の内側は仲卸業者の店が並ぶエリア。競り落とした品物は内側のエリアに運ばれ、外部からはここに買い付けにやってくる。

大屋根外側の競りエリア

 大通路の外側は品物を並べて競る場所なので、広々としている。休日などはほとんど何も置かれていない。一方、大通路の内側には店舗が沢山建ち並んでいる。一応、通路には番号が振ってあるのだが、大屋根の下に小さな店が沢山あるので、初めてだと迷ってしまう。一つ一つの店も概して狭いので、二階をこしらえて物置にしているところも多い。

仲卸店舗・物置にはハシゴで上る
2F 事務所(建物に沿ってカーブした廊下)

 ところどころに大型の製氷機(ブロックの氷を細かく砕く機械)があり、これが大きな音を立てて大量の氷を吐き出しているのだが、今日はそれも止まっていて本当に静かだ。建屋内の何カ所かに階段があり、これを上ると二階は事務所になっている。またそこからは屋上の駐車場にも出られる。

屋上駐車場
#古い建物 中央区


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 昨日の夕焼けはびっくりするほど鮮やかだった。

中野駅前にて
Photo 2006.8.8 18:48

 地下鉄東西線で中野に到着して駅を出ると、街全体が赤く染まるような夕暮れだった。道行く人が皆、空を振り仰ぐ。駅前の広場では、沢山の人が携帯やデジカメで一斉に空の写真を撮っていた。

#夕景・夜景  #高層ビル


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 早稲田にクリストの作品現る?

 というのはもちろん全くのウソです。でも建物がこうしてきれいにすっぽり覆われてしまうと不思議な感じ。丁寧に塔の部分を囲っているので、まるで梱包されているよう。

 六月頃から早稲田大学のシンボルである大隈講堂の改修工事が始まった。

改修が始まり足場で囲まれた大隈講堂
Photo 2006.8.7

 大隈講堂は1927(昭和2)年完成で、以来約80年が経過している。

 古い建物が比較的多い早稲田大学だが、戦前に建てられた建物は次第に老朽化し、耐震性に不安のあるものも多い。地震が起これば学生や教職員に被害が及ぶ可能性もある。歴史的な建物が建ち並ぶキャンパス環境は、大学のアイデンティティでもあり非常に重要なのだが、災害時の安全確保も必要不可欠なこと。そこで大隈講堂では外観をほぼそのままにしながら、耐震性を強化する工事が行われることになった。ただ今回の改修工事では、講堂としての設備強化も目的とされている。

 改修工事の概要は、大学HP内のこちらで。

 早稲田大学は2007年に創立125周年を迎える。創設者の大隈重信候が人生125年説を唱えていたことにちなんで、創立125周年が早稲田の最初の世紀と考え、次の世紀へ向けて進んでゆくという意味が込められているそうで、その125周年に間に合わせるべく、改修工事が始められたというわけ。

関連記事

早稲田大学大隈講堂 その1  早稲田大学大隈講堂 その2
早稲田大学大隈講堂 その3  早稲田大学大隈講堂 その4

 ところで、西早稲田キャンパスでは、14号館(A棟)、8号館(B棟)など、この数年のうちで一部建物の建て替えが行われた。この春からは11、12号館の解体が進められ、跡地にはC棟(仮称)が建設される予定である。

 この他、正門前に、昨年春には小野梓記念館(27号館・β棟)が、また今春には第二学生会館跡地に大隈記念タワー(26号館・α棟)が竣工した。更に大久保の理工学部では、テニスコート跡地に63号館の建設が始まり、東京メトロ13号線の新駅との地下での接続工事も進められている。

 次々に建て替えが行われるので、OBなどからは早稲田はお金持ちだと言われるが、実際はそのOB達からの寄付なしにはできない事業らしい。安全性の問題だけでなく、教育研究環境の向上、少子化の中での優秀な学生の獲得、という大学経営上の課題もあって、建て替えは進められている。

 その一方で、大隈講堂とその周辺の建物(大隈講堂、會津八一記念博物館(旧図書館)、一号館(本館)、演劇博物館)については、先にも述べたアイデンティティに関わるものであるとして、保存の方針が決まっている。

 個人的には、以前の11号館や、8号館もなかなか良い建物だと思っていたが、次の125年を考えると、全面的な保存は難しいのかなとも思う。都心にキャンパスを残し続けるために、建物の高層化が進められ、ややキャンパス内の空間がせせこましい感じになってしまったのが残念だが、何かを残すには、何かを変えていくしかないのかもしれない。8号館では部分的に外観が復元保存された。また他の建物とタイルやテラコッタなどのパーツのイメージを合わせるような努力もされたため、新しい建物だが、あまり違和感なくキャンパスに熔け込んでいる。

 国立の大学の方が、コストや大学経営面では私立大よりやはりおおらかなようで、保存面では有利なような気がする。東京大学の本郷キャンパスなどを訪れると、早稲田などよりも建物密度がかなり低い。キャンパスが早稲田より広いのに学生数は全然少ない。一人あたりの空間がゆったりしているのが羨ましい。

 学生の授業料をもとに経営している都心の私立が狭いのは仕方ないんだろうけど。

関連記事 > 早稲田大学・大隈講堂へのコメント
#古い建物 新宿区  #早稲田大学  #大学  #ホール・体育館 


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