都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2007年6月 記事一覧

2007-06-30 | 記事一覧 
06/06 別所坂上から(目黒川左岸の高台からの風景)
06/07 菱進浜離宮ビルヂング(解体された大型オフィスビル)
06/10 清正公前の木造住宅(失われた出桁造り家屋)
06/12 ブリキヤ國嶋(失われたハイカラ商店建築)
06/14 日比谷交差点(東京新旧写真比較-No.9)
06/16 早稲田大学11号館 その1(失われた近代建築)
06/17 早稲田大学11号館 その2(失われた近代建築)
06/18 早稲田ウォール125(早稲田大学C棟建設工事囲い)
06/20 皇居桜田濠(東京新旧写真比較-No.10)
06/24 駿河台・甲賀坂(東京新旧写真比較-No.11)
06/25 明治書院(東京新旧写真比較-No.12)
06/26 赤羽にて1(駅前の街並み採集)
06/28 赤羽にて2(La La ガーデンアーケード)
06/30 赤羽にて3(1番街シルクロード)

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赤羽にて 3

2007-06-30 | 北区   

1番街シルクロード  Photo 2007.6.25

 駅広場の北側から伸びるアーケード商店街は、思いっきり昭和テイスト。2階建ての共同建物の間にテント幕の屋根が架かり、直管型と白熱球型の蛍光灯が無造作にぶら下がっている。でも後で写真をよく見たら、白熱球タイプは3つずつジグザグに並んでいた。一応、計画的に設置されているみたいだが、素っ気なさ過ぎ。まあその殺風景さがここの個性ってことかも。

 お昼過ぎの商店街はまだ静か。ホルモン焼きの飲み屋も開店準備中だった。

 ここのアーケード、屋根を支える柱が最初は見あたらなかったので、両側の建物に載せられてるのかと一瞬思ったが、よく見ると、やはり柱があって自立した構造体だった。ただ上物が軽いらしく、柱が細く、その間隔も長い。トラス型の梁が2階の軒先に長く連なり、アーチ型のパイプとテンションパイプで屋根を支える、かなり簡単な構造の幕屋根。

 いまどきの立派なアーケード商店街とは全く異なるが、庶民的なアーケード商店街にはまた別の魅力がある。

#街並み 北区  #古い建物 北区  #商業系 
#アーケード 
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赤羽にて 2

2007-06-28 | 北区   

赤羽すずらん通り La La ガーデン

Photo 2007.6.25

 ここのアーケードは幅がかなり広くて規模が大きい。アーケード内にも車道と歩道があり、その境目にアーケードを支える柱が立っている。

 御存知の方もいらっしゃるかも知れないが、日本のアーケードは基本的に自立型。沿道の建物に構造体を載せてしまうことは出来ない。再開発建物などの公開空地内のアーケードは別だが、いわゆる商店街のアーケードは、沿道建物とは別に柱を立てて、道路上に架かる屋根を支えている。

 詳しい理由は知らないが、木造建物が多かった時代に、アーケードをそれらに載せると、火事になったときにアーケードも倒壊してしまうから独立構造とすることになったのではないかと思う。路上に余計な柱が立つので、見た目は悪くなるし、沿道建物との一体感もあまりできないというデメリットはあるのだが、逆にアーケードが自立しているので、沿道で建て替えがあったり、駐車場等の空地になってもへっちゃら。

 欧米のアーケードは日本とは違って建物の上に載っていることが多い。建物が煉瓦造や石造なので、もし火事になっても、壁体が残るから気にならないのだろうか。同様に、信号機や街路照明も壁面に取り付けられているし、市内電車の架線も壁面から空中に架設されている。これらは、沿道建物が基本的に建て替えられないことを前提としている。

 さて、角地にあるサトウ薬局の建物は、面が取られている(交差点に面したところが斜めにカットされている。)が、アーケードの屋根がそこまでご丁寧に付いている。だが、その下には柱がない。前述のように、建物に寄りかかるわけにはいかないので、ここの緑色のアーケード庇は本体の方から伸ばしているらしい。頑張って伸ばして、薬局の建物までくっつけている。だらーんと下がってしまわないか、ちょと心配。

 で、サトウ薬局の建物。いかにもな昭和30年代系建物なのがよい。ネオンサインは昔から変わってない様子。今でも電気点くのかしら? 上の方には「ご宴会・ご会食・仕出し、いけ増」の広告塔。こちらも年代物。

 と、ここまできて、屋上の手摺が奥の方へ繋がっていることに気づく。角地のサトウ薬局だけ、壁をクリーム色に塗り直したらしいが、どうやら何軒かがまとまった4階建て共同建物らしい。

 赤羽の東口界隈は、戦災復興区画整理が行われた場所(戦災第33地区)。昨日の記事の場所も区画整理地区内で、鰻屋さんは木造で再建したわけだが、こちらでは区画整理で土地を整形した後、そこに不燃共同ビルを建てたようだ。アーケードが付いて見えなくなっているが、よく見ると結構モダーンな建物。この素っ気なさ、意外といけてる。

東京都建設局:道路/震災・戦災復興区画整理

 さて、余計な心配かもしれないが、こういう建物って、老朽化したら建て替えとかはどうなるんだろう。敗戦後60年以上たち、戦災復興からも50年程度が経過すると、そろそろ戦後第一世代の建物の行く末が気になり出す。

#古い建物 北区  #街並み 北区  #商業系  #アーケード 
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赤羽にて 1

2007-06-26 | 北区   

 某講座のまちあるきのため赤羽へ。集合時刻まで少し時間があったので、ちょっとだけ駅周辺をうろうろ。
Photo 2007.6.25

 近代的になった駅のすぐそばには、まだこんなお店も。

 こういうの久しぶりに見た。像の高さ4~5m、夜間照明付。避雷針も兼ねてる。煙突からの煤でネオンサインが真っ黒。で、そんなところが「あかばね」なのかも。

#古い建物 北区  #街並み 北区  #塔  #モニュメント 
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明治書院

2007-06-25 | 千代田区 

東京新旧写真比較(1981/2007) No.12 千代田区神田錦町1-16

明治書院
所在地:千代田区神田錦町1-16
建設年:1932(昭和7)
構造・階数:RC・3F
備考 :2002年解体 建て替え
    2003年エムズスクエア(現 いちご神田錦町ビル)竣工。
Photo 1992.1.15

 明治書院は神田小川町交差点近くの本郷通り沿いに建っていた、付け柱が印象的な建物だったが、築70年で残念ながら解体された。

Photo 1981(ノーマル時)、Photo 2007.1.27(マウスオン

古い建物がなくなって街は退屈になった。

 左端の北日本相互銀行は北日本銀行になっていたが、建物は変化なし。道路沿いの街路樹は伸びて、大きくなっていた。また、電線の地中化が行われ、電柱が無くなる代わりに、道路際にトランスボックスが設置されている。

 しかし、なんというか、つまらない景色だ。現在の建物は、建物に顔がないというか、表情がない。1981年の撮影者は、昭和7年(1932)に建てられた、この様式建築が気になってカメラを向けたのだろうが、今、ここを訪れて誰が現在の建物の写真を撮ろうとするだろうか?

 この景色だけを見ていると、建て替えは経済的には良かったのかもしれないが、景観的、文化的に大切ななにかを失い、後退してしまった気がする。新時代を画する新デザインを生み出しているのならまだしも、お世辞にも新しいデザインとは言えない。これでは完全に、新しい建物を設計した者の負け。

 しかし、これはデザイナーとか施主の精神の問題だけではないのかもしれない。こういう建物しか造ることができない、経済至上主義的な風潮及び仕組みが、施主やデザイナーの前に大きく立ちはだかっている可能性も大きい。その意味では、彼らも負け戦を覚悟で設計をせねばならない、ある種哀しい人々なのかもしれない。

 ところで、手前を走り抜ける車はISUZUのジェミニのようだ。ISUZUはいつのまにか小型乗用車の生産をやめ、トラックなどのみの会社になったので、急速に私たちには馴染みのない会社になってしまった。80年代まではジェミニや117クーペなどが、街を走っていたものだが、経済の激しい移り変わりとともに、自動車の風景も変化していく。

Tokyo Lost Architecture  
#東京新旧写真比較 千代田区  #失われた建物 千代田区  #近代建築 
#自動車  #オフィス 
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駿河台・甲賀坂

2007-06-24 | 千代田区 

東京新旧写真比較(1981/2007) No.11 千代田区神田駿河台1丁目

Photo 1981(ノーマル時)、Photo 2007.1.28(マウスオン

 JR御茶ノ水駅から駿河台下へ向かって坂道を下り、明治大学のリバティタワーの角を東向きに左折すると、淡路町方面へ向かう甲賀坂という下り坂。江戸時代に甲賀者の組屋敷があったと云われ、甲賀町という名だったことに由来するのだそうだ。左側にはYWCAや日大の校舎、遠方にも日大の建物が見えている。

 1981年の写真で中央の煉瓦色の建物は日本大学理工学部1号館で、歴史的な外観を持ったものだったが、残念ながら2001年に解体され、ガラス張りの現代的な建物に建て替えられた。外観の一部だけでも残して中を近代的にする方法はいくらでもあったと思うし、個人的にはその方がかなりかっこいいと思うのだが、日大の関係者にはその気がなかったらしい。

 YWCAも80年代の後半に解体され、現在の建物は1990年に建てられたもの。遠方にあった中央大学もなくなり、超高層の大正海上(右側:現三井住友海上)と新日本証券(左側:現三井住友海上別館)になった。

 左方、YWCAの一つ奥の日大の校舎は、壁面の様子が全く変わってしまったので、よく分からなかったのだが、後から写真を見たら、玄関庇の様子が全く変わっていなかった。装飾的な近代建築というわけではなく、地味なモダン建築であり、とりたててなんということはないのだが、辛うじて残っていたことになぜかホッとする。

 建て替わっていない建物を一つチェックしそびれたことと、以前は歩道がなかったことに気づかなかったため、撮影位置はうまく一致しなかった。

 写真では見えていないが、右側は主婦の友社(御茶の水スクエアB・C館)だった。主婦の友社・御茶の水スクエアは、2002年に日大にこの土地建物を売却。日大は再開発をするため、2004年にB・C館の建物を解体し、現在は駐車場として暫定利用している。

 ちなみにA館は大正14年(1925)に建設されたもので、磯崎新氏のデザインにより増改築が行われた建物。現在は日大の大学院法務研究科として利用されており、カザルスホールも管理は変わったが存続している。

関連サイト
日本大学理工学部一号館の記録
#東京新旧写真比較 千代田区  #階段・坂 千代田区
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皇居桜田濠

2007-06-20 | 千代田区 

東京新旧写真比較(1981/2007) No.10

千代田区霞が関2丁目、桜田門交差点付近から桜田濠・半蔵門方面

Photo 1981(ノーマル時)、Photo 2007.1.28(マウスオン

 現場を訪れて、ちょっと困り、かつ笑ってしまった。手前の植栽の木が成長して大きくなり、同一ポジションから撮影しようとしても邪魔になって遠くが見えない。意外な伏兵というかなんというか・・・。仕方がないので「木がおっきくなっちゃったぁ!」とかなんとか独り言を言いながら、ちょっとだけ脇にずれて撮影。なんだかなぁ。

 桜田濠の風景は、想像していたほどには大きくは変化していなかった。もちろん、最高裁判所の後方に建物がちらちら見えるようになったし、半蔵門の方には100mクラスのビルが何棟か建った。一方、左端に見えていた平河町のNHK分室の鉄塔は解体されてなくなっている。しかしやはり、手前に大きな水面があり、撮影ポイントから半蔵門の方までは800m以上あるので、ここからの景色への影響は比較的小さかった。この近辺の空はまだ広い。

 すぐそばのお濠端の内堀通りをたくさんの自動車が疾走し、周囲にセカセカした気分をふりまいているのにはややグッタリさせられるが、皇居のまわりをジョギングする人たちは、結構良い風景を楽しみながら走っているのだなぁと思う。

 変化が少ないということで言えば、ここからの風景の基本的構造は、幕末・明治の頃からそれほど変わっていないのではないかと思う。もちろん、お堀端に建つ建物は替わっているのだが、最高裁や国立劇場などの建物群は全体に低層だし、お濠が埋め立てられてしまったというわけでもない。皇居周辺でも丸の内や大手町、霞ヶ関のように大きく変貌した街もあるが、三宅坂・桜田濠周辺の変化は比較的小さかった。

 右方の吹上御所などは、樹木が鬱蒼として、江戸期よりむしろ自然に帰っているのかもしれない。幕末・明治期の江戸城の写真を本で見たりしたときに、現在の場所が比較的容易に判ることから考えても、皇居一帯は、東京の都心では珍しく風景の変化が少ない場所なのではないかと思う。旧華族などの邸宅跡が軒並み開発されて大きな変化を遂げたなか、極めて特殊な形ではあるが、場所の風景が保全されたというのは、ある意味では微妙な側面をもつのだが、一つの問題提起をしているようにも思う。

Back To Tokyo 1981(東京新旧写真比較(1981/2007))
Cityscape of Tokyo 変化していく東京の都市風景
#東京新旧写真比較 千代田区  #公園  #海・川・池 
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早稲田ウォール125

2007-06-18 | 新宿区  

工事現場の囲いも手を掛ければ面白いものになる。

早稲田ウォール125
早稲田大学西早稲田キャンパス 仮称C棟建設現場 工事囲い
早稲田大学芸術学校制作

 早稲田大学11号館(商学部)の跡地に建設されている仮称C棟の建設現場の工事用囲いには、たくさんのスケッチが描かれている。早稲田大学芸術学校教授である藪野 健 先生のスケッチをもとに作られたもので、創立期から現在に至るまでの様々な校舎の姿や、昔の西早稲田界隈の街の様子などが、工事囲いいっぱいに描かれ、見ていて飽きない。

 先生が囲い板に壁画のように直接描いたわけではなく、先生が描かれた沢山のスケッチを、スタッフがスキャンしてレイアウトし、これをシートに印刷して鉄板に貼っているのだが、無粋になりがちな工事囲いに、色鮮やかな水彩スケッチが並ぶのは新鮮な感じ。たかが工事囲いに、これだけの手間を掛けたというのも珍しいことかも知れない。

 大隈重信候が人生125年説を唱えたことから、早稲田では125周年が一つの区切りと考えられている。創立125周年の今年は記念の年でもあり、それにちなんで工事囲いも「早稲田ウォール125」と名付けられ、延長も125mなのだそうだ。

早稲田大学芸術学校 空間映像科
早稲田ウォール125について その1
早稲田ウォール125について その2
早稲田大学11号館 その1
早稲田大学11号館 その2
#新しい建物 新宿区  #早稲田大学  #大学
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早稲田大学11号館 その2

2007-06-17 | 新宿区  

 昨年解体された11号館。つづいては建物内の様子など。

左:玄関ホール、右:内部正面の吹き抜け階段室
(Cllick:360*480(2枚とも))

 玄関を内側から見ると、アーチ型の吹き抜けになっていて、丸い窓が開いていた。吹き抜け階段室の手摺子はどちらかというと武骨。

脇の方の階段室

 ワックスなどで床はテカテカ。壁は沢山の貼り紙の跡で薄汚れていた。これこそが昔ながらの大学の校舎の雰囲気かもしれない。踊り場には足下の位置にも小窓がある。

左:背面(北側)、右:1F廊下にあった色ガラスの窓
(Cllick:450*600(2枚とも))

 北側中央の2階建て部分は後年の増築だという。当初は北側の12号館もコの字型にして、近くにある3号館のように、連結してロの字型にする構想があったものと思われるが、そうはならなかった。

 贅沢な装飾があまりない中、斜め格子の色ガラス窓は、数少ない装飾。こういう部分だけでも残されると良いのだが、どうなっただろうか。

増築部分へ至る小階段?  Photo 2006.1.19

 撮影時の記憶が曖昧で、どういう目的の階段だったかよく覚えていない。しかし妙な段差を繋ぐ階段だ。

早稲田大学11号館 その1
Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 新宿区  #早稲田大学  #大学 
#近代建築  #屋内階段  #桐山均一 
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早稲田大学11号館 その1

2007-06-16 | 新宿区  

 昭和の面影を残す校舎も解体され、早稲田でも徐々に再開発が進む。

10号館テラスから 早稲田大学11号館(商学部)
所在地:新宿区西早稲田 1-6
建設年:1938(昭和13)
構造・階数:RC4+屋根裏
設計 :桐山均一
備考 :1951増築、2006解体・建て替え
Photo 2006.1.19

 早稲田大学の正門から大隈重信候の銅像へ向かって緩やかに上る坂道の突き当たり右側にあった校舎。

 早大西早稲田キャンパス内には、1932年の大学創立50周年を機に記念事業として建設された建物がいくつか残っている。正門~大隈像を軸とした直交座標系に建物が配置されるキャンパスプランもこの頃に完成したもの。11号館も50周年記念事業を機に建設された建物で、当初はコの字型の平面をしていた。

 商学部の校舎として使われてきたが、老朽化したことと、研究環境を高機能化するために建て替えが行われることになり、昨年、後方の12号館(RC5・1951完成)とともに解体された。現在、跡地では仮称C棟の建設が進む。このC棟は創立125周年記念事業の一環で建設されるもの。詰まるところ、何十周年とかの記念事業と称して、寄付金を集めて、キャンパスを広げたり建物を建て替えたりしながら今まで来ているわけ。私学っていうのはそういうものなのさ。

10号館テラスから、左:11号館、右:8号館、正面奥:大隈講堂
Photo 2006.1.19

 早稲田大学西早稲田キャンパスでは、残す建物と建て替える建物の選別が行われ、大隈講堂や旧図書館などのある正門付近の建物は歴史的景観として残し、そこから離れるに従って、建て替えをして高層化、大型化を進める方針になっている。11号館は正門から見たとき、キャンパスの奥の方にあり、高機能化ゾーンにあたるため、建て替えの運びとなった。昨年完成した8号館は仮称B棟、1998年にできた14号館は仮称A棟と、それぞれ呼ばれていた。一気に建て替えると教室が足りなくなるので、パズルのように順次校舎の建て替えが行われている。

 建物が建てられた70年前とは、研究の内容も変わったし、学生の数も増えた。パソコンを使ったりプロジェクターを使ったり、授業のやり方もかなり変わっている。それが良いのか悪いのかは分からないところがあるが、大学間競争のなかで、変わらないわけに行かないのもまた事実。むしろ、よくぞ今まで古い校舎でやりくりしてきたなぁという感じがしないでもない。

14号館から、手前:12号館、中奥:11号館
Photo 2001.12.10
正面ファサード  Photo 2006.1.19

 ベース部分は御影石、ボディ部分は角柱の付柱が並び、トップ部分は3連のアーチ型窓。中央2階部分に、1階玄関ホール上部の円形の窓が少し見えている。

4Fのディテール  Photo 2006.1.19
早稲田大学11号館 その2
Tokyo Lost Architecture 
#失われた建物 新宿区  #早稲田大学  #大学 
#近代建築  #桐山均一 
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