都市徘徊blog
徒然まちあるき日記
 




10/02 榎町界隈 階段見取り図(手書きで見取り図を描く)
10/07 限りなく「無い」に近い「有る」(解体を待つ喜久屋ビル)
10/08 喜久屋ビル(森田製薬回効散本舗本社ビル)
10/09 第1コスガビル(失われた近代建築・日本橋横山町)
10/20 八ツ山橋(アーチ橋の来歴と京急のトラス橋)
10/22 東品川あたり(運河沿いの集落)
10/26 船溜まりの風景(北品川・天王洲運河から)



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 八ツ山通を少し行くと、天王洲運河の船溜まり。

天王洲運河 船溜まり/品川グランドコモンズ
Photo 2006.3.11

 明治の頃はこのあたりまで海だったのだろうが、埋め立てが進んで海は遠くなった。辛うじて残されたこの水辺が、往時の土地の記憶を伝えている。

 しかしここの風景もこの数年で激変したようだ。運河に架かる北品川橋からの眺めは非常に東京的。品川グランドコモンズの南端に、Vタワーという三角形の超高層マンションができてから、ここからの風景は良くも悪くもフォトジェニックになった。

 東京の都市風景をテーマにした写真Blogをちらちら見ていると、最近はここの景色がしばしば登場する。肯定的にも批判的にも考えられる風景だと、私は漠然と考えていて、とりあえずこの風景については態度保留。

 肯定的というか、批判的ではない視点からの場合、撮影者はこの新しい風景の登場をある意味、楽しんでいる。古めかしい江戸~昭和の建物景観と平成の新建物が調和しながら共存する風景と捉えている。木造建物に住まう生活と、高層マンションに住まう生活の不思議な共存、そして、高層ビルで働く人たちが、休みになると屋形船で遊ぶ。アジアンな都市生活の楽しみが東京には生まれているという楽天的な見方、またバブル期に起こったウォーターフロントブームは一過性だったが、その後十数年を経て、ウォーターフロントは着実に東京の人々の生活の一部にまたなっているという立場からの未来志向の捉え方、捉え方はいろいろあるが、とにかく新しく生じた風景を許容する人、そして更に、この風景の増加を歓迎する人が確かにいる。

 一方、批判的な立場からこれを取り上げる者は、この風景を調和ではなく、混乱と捉えている。以前からの建物がなす景観こそが安定し調和したものであり、背景に現れた新建物は乱入者、景観の破壊者であると考える。まず一つ、建物のギャップが問題なのだろう。素材、大きさ、高さ、新しさ、前景の木造家屋群と、後景の超高層マンションは、様々な面で両極端のように異なる。また、そこに住む人の生活様式のギャップも問題とされる。昔ながらの地域コミュニティが残る街と、核家族でバラバラになった世帯群。海に大きく関連した生活と、海に近くても海とは全く関係のない生活。東京という都市の奇妙な断面が、不釣り合いな断層として表面に現れているという見方もされる。新しく造られた建物の景色に馴染めない一方で、その昔、江戸からの和風の風景にノスタルジーを感じ取る向きもある。木造の苫屋が本物で、超高層マンションなんて生活感がなくて薄っぺらだなんていう、やや観念的かつ感情的な見方も混ざり込んでいる。

 中央区佃島で大川端リバーシティの建物が林立するようになったとき、佃島の古い木造建物群と小舟、佃小橋などの古めかしい風景の背後に、超高層マンションが聳える風景の写真が、しばしばメディアに登場していた。一昔前は佃、最近は品川の船溜まりの風景が、海に近い街・東京をよく表す写真なのかもしれない。

 メディアにこのような写真を載せる時、たいがいその背後には何らかの意図がある。上記のような肯定的もしくは、否定的という見方、もっと直接的に美醜や善悪を語るもの、郷愁や愛着を表現するもの、などなど。様々な意図が、都市に対する写真家のスタンスが、そこからは読み取れる(ハズ)。

 でもシンプルに、好きか嫌いかという視点で表現する人は少ない。そんな個人的な好き嫌いだけの価値判断だと、社会性がないとか、芸術性がないと言われかねないので、少なくとも写真表現をする人たちは、何らかの意図とか価値観を社会に対して発信すべく、無理矢理にでも意図を込めて表現に取り組んでいる(と思う)。

 風景を見るときには、好きか嫌いか、という見方と、正しいか正しくないか(良いか悪いか)、という見方があるようだ。言い換えれば、主観的で感情的な見方と、客観的で冷静な見方、とも言えるかもしれない。

 この話はしばしば、物事の判断の仕方の男女の違いとも言い換えられたりする。曰く、前者が女性的で、後者が男性的だという捉え方。 その真偽はともかくとして、都市の風景を考えるとき、ここで言うところの男性的な考え方には限界があるなと、最近私は考えている。正しい景色とか、良い景色とかいう議論には、なんだか虚しさを感じてしまう。議論してもきりがないという感触と、そもそも風景に対して、正しいとか間違ってるとか、良い悪いって評価をすること自体どうなのよ?、という感覚がある。最近はその手の議論には与したくなくなっている。so what?、それで?、という感じ。

 無気力というわけではない。好きな景色はある。嫌いな景色もある。ただそこに、今の私には善悪を断ずる正義感がない。

 さて、天王洲運河、北品川橋からの風景を私は好きか嫌いか?

 答えは・・・・わからん!

 印象的な風景だとは思う。写真に撮っておきたくなる景色だとも思う。でもそこに立つと、先ほどの言いぐさとは裏腹に、なぜか、良い景色とは?とか、悪い景色って・・・という思考が、いつの間にか脳内を駆け巡ってしまって、好き嫌いが判断できなくなってしまう。

 私の中のどこかに、まだ善悪を決めなければとかいう、尊大な気持ちが残っているのかもしれない。

 この時の写真は、晴天で抜けるような青空、穏やかな休日の午後の静かな風景である。黒い雲が流れるどしゃ降りの時とか、曇天でビル群が霞むような写真だったら、その印象は大きく異なるだろう。朝日にビル群が輝く風景、ビル群が夕日に照らされ手前の木造家屋が暗く沈む風景、はたまたキラキラとマンションの灯りが点る夜景、それぞれにフォトジェニックであろうことが想像される。現在の東京を端的に示しているという意味で、やはりとても面白い、興味深い風景だ。

 だが、そこまで考えても、この風景の好き嫌いは分からない。

#古い建物 品川区  #新しい建物 品川区  #街並み 品川区 
#眺望  #高層ビル  #海・川・池  #船  #住宅系 


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 旧東海道からちょっと外れて海の方へ。

銅板張り二階建て
所在地:品川区北品川1-22
Photo 2006.3.11

 旧東海道の街道沿いには、出桁造りの町屋や看板建築といった古い建物がところどころに残るが、一つ裏側の方にも銅板張りの木造建物や、洋室付きのいわゆる文化住宅などが残っていたりする。写真の家屋は、一階が居酒屋か何かの店舗に改装され、まだまだ現役。角地建物でもあり、銅板部分が多いせいもあるのか、結構目立つ。場所の印象を左右するようなランドマーク的な建物には、できるだけ残っていて欲しいなと思う。

天王洲運河そばの路地
所在地:品川区東品川1丁目
Photo 2006.3.11

 天王洲運河の船溜まりに掛かる北品川橋を渡ると東品川1丁目。橋のそばには、釣り船業者や船宿業者の建物が建ち並び、周辺には小さな路地もいくつかあり、木造住宅が建ち並ぶ。

 この密集感の雰囲気は、山の手の密集地には少ない気がする。はっきりした根拠はないのだが、佃・月島、築地、品川など、なぜか下町系の密集地に共通する雰囲気だ。建物が長屋状に同じ向きに並んでいる細長い路地であるためかもしれない。

 左の写真の路地の奥は、以前の記事で紹介した小さな階段。東品川のこの路地のある一角は、北品川橋のたもとの小さな下り坂から、更に階段を下りた先にある。かなり船着き場の水辺に近い高さで、高潮などになったら潮をかぶってしまうのではないかと思うような場所だ。

 釣り船や屋形船のお仕事を通して海と関わっている方はおられるようだが、漁業に携わる方は減ってしまった。それでも東品川の密集地の街並みは、不思議に海辺の印象が強いものだった。

#古い建物 品川区  #街並み 品川区  #路地  #看板建築 


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 JR品川駅から品川宿方面へ向かう。高輪口を出て、第一京浜をとぼとぼ南下。大型トラックが轟音をたてながら行き交い、乗用車も高速で駆け抜けていくので、大きな幹線道路沿いは歩くのがいやになる。それを我慢して500mほど進むと八ツ山橋。

 八ツ山橋は、1872年(明治5)に、新橋・横浜間の鉄道開通に際して掛けられたもので、日本の跨線橋第一号なんだそうだ。当初は木造だったが、1914年(大正3)にアーチ型の鉄橋に架け替えられ、1930年(昭和5)にもう一つ造られたらしい。

 ところがネットで検索するとそのへんがなんだかよく分からない。一部の記述では「大正3年に架けられて、昭和5年に同じ形で再築」とあったりする。もう一つ造ったという記述も見られる。しかし15年ほどしか経っていない橋を同じ形で架け替えたりするものかしら? その間に関東大震災があるので被害を受けた可能性はあるけれど、大震災で被災したので再築した、とは書かれていない。現在で四代目というが、どうカウントして四代目なのか読んでいてよく分からない記述が多い。

 とあるサイト昭和40年代の八ツ山橋周辺の写真が載っている。

昭和40年代の八ツ山橋周辺
(http://www.pp.iij4u.or.jp/~keiichir/shina-st.htmから引用)

 左側のアーチ橋が八ツ山橋で、右の鉄道橋は京浜急行の八ツ山鉄橋。

 写真からすると、八ツ山橋は昔は複数のアーチが横に並ぶ橋だったようだ。どうやら1つのアーチ橋と、幅が倍で中央にもアーチが立つ橋が並んでいる、ないしはくっついて一つになっている。どちらかが大正で、他方が昭和なのかもしれない。一つでは足りなくなって、追加でもう一つ架けたのなら、同じ形で造られたということと符合する。写真だけでは分からないが、架け直したというよりは、幅は違うが同じ形の橋をもう一つ造って、二つ合わせて改めて八ツ山橋と呼ぶことにしたというあたりなのかも。一枚の写真を元に想像したという域を出ないのですが・・・。

 どなたか正確なことを御存知の方がいらしたらお教え下さいませ〜。

 しかし、無精してネット検索で済ませようとするから分からないのか、検索の仕方がまずいのか、根気が無いからか・・・? そもそもそんなこと気にする人は少ないのか →そんなことは無いはずなんだけど。

 このアーチ型の鉄橋は、昭和60年(1985)に老朽化のために架け替えられたという。あれ、意外に最近まであったんだなぁ。小さい頃に新幹線で上京したときに、私も何度も下をくぐってたんだな。でも残念ながら全く記憶が無い。

 しかし、アーチが並んだ上にトラス橋も並ぶ姿は壮観だ。今ではあまりないこういう景色、一度でも良いから見ておきたかったなー。

 現在の八ツ山橋はなんの変哲もない鋼桁橋なので、現場に行ってもあまり撮る気が起きなかった。一方、相変わらず存在感があるのは、その隣にトラス橋で掛かる京浜急行八ツ山鉄橋。

京浜急行八ツ山鉄橋
所在地:港区港南2丁目
建設年:1933(昭和8)
Photo 2006.3.11

 こちらの方は、昭和初期に架けられてからは変わりがないらしい。だが、京急のHP他をちゃんと調べなければ、分からないことが意外に多くて、このことに辿り着くのには案外難儀してしまったのでした。

 「京浜急行の歴史」によれば、京浜急行は明治31年(1898)に設立された大師電気鉄道(株)が始まりで、翌32年に六郷橋〜大師間の約2kmが開通。その後、京浜電気鉄道(株)となり、路線を伸ばし、明治37年(1904)に品川〜川崎間が開通したという。

 そう聞くと、その時に鉄橋が造られたのかと思ってしまうのだが、そうではない。この時の品川駅は現在の北品川駅付近(八ツ山)で、新橋・横浜間に開通していた鉄道(東海道線)の東側が起点になっていたのだそうだ。だから鉄道を跨ぐ鉄橋はまだ無かった。明治末の国土地理院の1/10,000地形図を見ると、確かに当時の京浜急行線は現在の北品川駅あたりが起点で、鉄橋は無い。

 その後、大正14年(1925)に品川鉄橋(八ツ山橋)〜高輪間が開通し、路線が東京市内へ入ったとある。この時になって京浜急行は、ようやく東海道線を跨いで品川駅の方まで行くようになった。だから現在の鉄橋の完成・利用は大正末(かと思ったらそれも間違いだった。)。

 昭和8年(1933)には、省線品川駅への乗り入れが開始され、八ツ山〜高輪間の軌道が廃止されたとある。大正末にできた路線は今とは異なっていたらしい。えっ、それどういうこと??

 とりあえず、よく分からないまま、10/20の早朝にこの記事は一度アップしたのだが、半日後にもう少し検索をしてみたら、土木学会の「土木デジタルアーカイブス」というページを発見。そのなかに「歴史的鋼橋集覧」というページがあり、ここに現在の京浜急行八ツ山鉄橋(八ツ山跨線線路橋というらしい)が載っていた。しかもこれには開通年月日が1933.4.1と明記されていた。うわっ! やっぱり調査不足だったー。

 ということで、現在の京浜急行八ツ山鉄橋は大正末期のものではなく、昭和8年4月に開通したものでした!。品川駅乗り入れの時に路線のすじが変わったので改めて橋を架けたのかな。結局、しかるべききちんとしたデータベースサイトで調べれば案外簡単に分かったことなのでした。ふぅ。やっぱり調べ方が下手なんだな。ちゃんと調べてから書けば良かった・・・。

 ところで、鉄道の鉄橋も現場であちこち見回してみれば、竣工年とかがちゃんと書いてあるのかもしれないな。現場でそういう作業を端折ると後で面倒なことになるってことを、今回は痛感いたしましたです。はい。

 しかし、昔の鉄道路線は小さな会社が合併しながら、線路を延長したり、付け替えたりを頻繁にやっていることが多いので、鉄道のある風景の変化を推定するのが難しいことが結構多い。もちろん鉄道ファンの方なら、そのあたりかなり詳しい方もおられるのだろうが。

京浜急行八ツ山鉄橋そばの踏切
Photo 2006.3.11

 品川駅の方から八ツ山橋を渡ると、そのすぐ先に京浜急行の踏切がある。ここの風景は印象的なので、鉄道写真を撮っているファンがしばしば居る。以前から、ここの景色は、どうも不思議というか奇妙で面白いなと思っていた。道路と並ぶようにしてJRを跨ぐ京浜急行が、直後に急カーブを描いて斜めに道と交差する。

 京浜急行の線路が蛇行することになった理由は、結局よくわからなかった。でも昔の1/10,000地形図を見ると、なんとなく当時の様子と蛇行の理由が想像される。つまり、

・品川宿の街を邪魔しないようにしながら、省線を跨げる高さに至る緩く長い坂道を造ろうとすると、省線に沿って上る以外には場所がなかった。
・長い跨線橋は技術的にも予算的にも大変なので、跨線橋のスパンを短くするため、できるだけ直角に近い角度で省線とクロスさせようとした。

 この二つの条件を満たそうとすると、ルートは蛇行せざるを得なくなる。

 若干線路のカーブが変わった今でも、京浜急行の電車は品川駅を出た後、しばらくの間あまりスピードが出せない。急カーブで車輪を軋ませながらやや大儀そうに進んでゆく。

 一方、明治末の時点ではまだなかった、現在の国道15号線(第一京浜)は、大正〜昭和初期に建設された。こちらの方も鉄道敷設と条件がほぼ同じだったのか、同じようなルートで建設されている。更に橋の袂からの坂道では、道路内に線路が造られ、京浜急行の電車は車などと一緒に坂を上り下りしていたようだ。道路内を電車が走る状態は、戦後に新八ツ山橋が架けられるまで、続いていたらしい。

八ツ山橋親柱         八ツ山通から下りる階段
Photo 2006.3.11                 

 昭和60年に取り壊されたアーチ型の鉄橋に付いていた親柱は、保存されて橋詰に立っている。装飾スタイルの細かいことは知らないので即断できないが、セセッション的な装飾であるように思う。20世紀の初め頃に流行ったセセッションデザインの採用は、大正から昭和にかけての時期に架けられた橋ならでは。

 さて、踏切を越えた後、品川宿の方に向かう八ツ山通は下りのスロープになるが、その片隅に坂上から低地へ一気に下る階段がある。八ツ山橋は高輪の台地と品川宿付近の低地を結ぶ橋でもあるので、その橋の袂から下る階段も、ある意味、地形と関連を持つ階段ということになる。だが、新しく人工的な感じの階段には少々グッタリ。いくら階段巡りが好きでも、こういうのはあまり多く歩きたくないし、地形に関連する階段としてカウントするのもあまり気が進まない。

 「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の中に、F.ベアト撮影の「海に面した品川の街」というものがある。現在の八ツ山橋付近から撮影したと思われているこの写真を見ると、周辺の地形の高低差がよく分かる。高輪の台地の下に細長く低地が広がり、そのすぐそばまで海が迫る。

 現在、八ツ山橋付近に立ってみても当時の面影は全くない。鉄道が出来て、道路が建設され、海は埋め立てられ、建物が林立し、街の景色は激変した。だが、どのようにして今のような景色が造られてきたのか、その過程をあれこれ考えるのはとても興味深く面白い。

#鉄道  #橋  #モニュメント 


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 最近トラックバックを頂戴した、「「帝都」の残映-東京・近代建築撮り歩き-」というBlogを訪ねてみたら、日本橋横山町にある第一コスガビルの解体が、9月から始まるという記事を発見。→「第1コスガビル

第1コスガビル
所在地:中央区日本橋横山町 9-9
建設年:1930(昭和5)
構造・階数:RC5
Photo 1996.10.10

 あーあ、またか。多くの人が知っているような建物ではなくて、街角に建つ、街並みを構成している、平均的だが良質な近代建築が取り壊されることが、最近多いような気がする。ちゃんと数えたわけではないので正確ではないのだが、バブル期よりも最近の方が近代建築の解体数が多いのではないかとさえ思う。

 バブル期の後、更に15年程度が経過し、建物の老朽化は以前より進んだし、IT化によって、建物にはより高度な性能が求められるようになった。関東大震災の後、昭和初期に建てられた都心の近代建築は、皆、築80年程度。コンクリートの劣化、タイルの剥離、電気、水道設備の老朽化、雨漏り・・・。傷みはあちこちに出ているだろうし、関東大震災級の地震に対する心配も当然ある。

 でもなんだか駆け込むように建て替えが進められているような気がしてならない。景気が比較的良い今を逃したら、建て替えのチャンスはなくなるとばかりに、次々と建て替え計画が発表される。

Photo 2005.3.27

 第1コスガビルは、繊維問屋街の北の方にある、鋭角になった交差点に面して三角形の敷地に建っていた。鋭角三角形の建物なので、角から見ると細くスマートで、遠近感も強調され、聳えるような姿はとても印象的だった。丸くなったコーナー部分(階段室+塔屋)も優美で格好良く、絵になる角地建築だった。外観上、特に痛んでおらず、まだまだ現役みたいだなと思っていただけに残念だ。

 日本橋横山町界隈を訪れる際には、いつもこのビルを見に行った。急速に開発が進む街というわけではなく、街の雰囲気も10年前とさほど変わらないようだったので、とりあえず安心していたのだが、界隈のランドマークとも言うべきこの建物が無くなるとは・・・。拠り所になるようなランドマーク的建物が無くなると、まちあるきの楽しみはまた一つ減ってしまう。

Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 中央区  #オフィス 


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 中央区新富にたたずむ喜久屋ビルは興味深い過去を持つ建物だった。

喜久屋ビル(森田製薬回効散本舗本社ビル)
所在地:中央区新富 2-4
建設年:1928(昭和3)
構造・階数:RC5
Photo 2006.10.3

 喜久屋ビル関係の記事を辿っていったら、この建物を建てた会社の創業者のお孫さんが書いている「ヒーリングタイム」というBlogに辿り着いた。

 近年「喜久屋ビル」という名前だったこの建物は、森田製薬回効散本舗 本社ビルとして、1928年(昭和3)に竣工したという。同Blog内の「旧回効散ビル近況」という記事には、建設当時の写真が掲載されている。「京橋区新富町回効散ビルヂング昭和三年落成」とあるこの写真を見ると、1Fがコンビニになり、屋上に小屋が増築された以外は、外観は現在とほとんど変わっていないことが分かる。

 また、交差点に面した部分は、車一台分程度の駐車スペースになっていたが、建設当時の写真を見るとそこには平屋の小さな建物(交番か?)があったことも分かる。角地に面しているのに、角を空けて変則的なL字型をしているのが、以前から不思議だったのだが、角地に別の建物が建っていたからこうなったのだと分かり、すっきり納得。

 古めかしい外観を持ち、角地に立つL字型の建物は、以前から不思議な迫力を発散していた。現在の建物と違って階高が高いので、5階建てといっても隣のマンションと見較べると7階建て相当で、意外にスリムで背が高く目立つ。古い建物とコンビニのややミスマッチな取り合わせもあって、一度見ると記憶に残る印象的な建物だった。

 近年は10階建て以上のマンションやオフィスが増えた新富町界隈だが、古い建物は木造の2、3階建てが多く、その中ではRC5階は背が高い。現在は比較的静かな新富町という界隈に、昭和初期に製薬会社の本社ビルが建てられたこともやや不思議だった。だが古い地図を見ると、このビルが建つ交差点がある通りには市電が通っていたことが記されており、この付近には新富町の電停があったようだ。往時は市電が通る賑やかな場所で、交通の便もかなり良かったのだろう。そう考えると回効散ビルがここに建てられたのも納得できる。

5F窓まわり、軒先の意匠
Photo 2006.1.28

 回効散ビルは、第二次世界大戦中は食肉会社の所有となり、戦後は日本海運所有で海運ビルと呼ばれ、更に昭和28年(1953)~47年(1972)の約20年間は、全国石油会館と称されたという。「Web新富座」というHP内の記事には、現在、千代田区永田町にある、全国石油業協同組合連合会(全石連)という組織が、以前にこの建物を所有していたと、書かれている。全石連が移転して、その後、現在の喜久屋ビルとなったのだそうだ。

 全国石油会館という、これまたなんだかたいそうな組織の建物だったことも有るというのも、ちょっと不思議だった。全国と名の付くものは、たいがい虎ノ門とか京橋とか、オフィス街的な場所にあるような気がするのだが、それがなぜか新富町。もちろん新富町は東京都中央区なので、全国の本部があっても悪くはないのだけれど、現在の新富町はマンションや小規模な会社、会社の支店などが多く、本社とか全国本部はあまりない。

 新富町という街の位置づけは、昔と今では少々違うのかもしれない。

1Fにコンビニが有った頃の様子
Photo 2001.6.17
1F東南角:ビル入口付近の様子
Photo 2006.1.28

 ところで、肝心の回効散というお薬、昭和40年代生まれの私は今まで全然知らなかった。だが私の母は、そういえば以前そんな解熱鎮痛薬があったと言い、ちゃんと記憶していた。確かに現在でも薬の本などを見ると回効散という薬は載っている。街の薬屋さんなどでは見かけることは無くなったが、昔は割合にメジャーなお薬だったのね。

 現在の製造・販売元は「龍角散本舗」なんだそうな。龍角散なら知ってるんだけどな・・。なんでも、私の小さい頃に商標権が龍角散に譲渡されたらしい。

 薬の製造会社と聞くと、大きな工場やビルを想像してしまうが、回効散ビルヂングは、なんだか愛すべき街角の本社ビルだった。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #オフィス 


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 夕暮れに新富町に行ってきた。日没後の薄暗がりの中、その建物はまだ有った。

喜久屋ビル(森田製薬回効散本舗本社ビル)
所在地:中央区新富 2-4
建設年:1928(昭和3)
構造・階数:RC5
Photo 2006.9.23

 ちょこちょこ拝見しているBlog「喫茶店で瞑想して、 銭湯で元気になる」で8月初めに載せられた「会いに行ってきた」という記事を見てから気になっていた建物。

 以前から何度か見て知っていた建物だったが、9月にも解体されてしまうことになったようだとあった。私的にはなんだか突然の情報で、あーっ、これもかーと、至極残念だった。

 なくなる前にもう一度見ておきたいなと思いつつ2ヶ月近くが経過。もう解体されて無くなってしまったかもしれないと思いながら、ダメもとで有楽町から歩いて新富町へ向かう。

 有楽町に着いたときは、まだ空が茜色だったが、新富町に辿り着いた頃には空は明るさを失って、ほとんど夜。

Photo 2006.9.23

 土曜の夜の新富町は人通りも少なく静かだった。往来する車も少ない。マンションやオフィスの灯りがちらほら見える静かな下町の街角に、建物はひっそりとまだ残されていた。

 周囲には白い囲いが巡らされ立ち入りができない。囲われたということは解体がいつかは始まるのだろうが、まだ建物本体には手が付けられてはいなかった。解体工事のお知らせ看板もまだ付けられていない。ひょっとすると解体するかどうか、作業がストップしたのかも知れないと淡い期待を持つ。

 だが帰宅してから上記のBlogをまた見てみると、11月に解体することになったとのこと。残念ながらやはり、解体建て替えという方針は変わっていないようだ。

 1階には夏前までコンビニ(ampm)が入居していたようだが、それもなくなり、その部分の外壁は大半が無くなっている。もちろん建物は無人で灯りも全く無い。まわりのお店に灯りが点っているのに、そこだけが暗く沈み込んだ感じ。

 もう無くなったかと諦めていた建物は、まだ有った。しかしそれは既に無人で、今後も使われるわけではなく、およそ2ヶ月後の解体を待つのみ。ビルの外観は辛うじて有るが、その機能は全く無い。

 2006年9月末、新富町喜久屋ビルは、限りなく「無い」に近い「有る」という状況に置かれていた。

Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 中央区  #夕景・夜景 


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 九月末に取り上げていた一連の道は、宗柏寺の周りをぐるっと回っている。この前の擁壁と墓地の間の道から、今回の小階段を通ると、墓地の西側に回り込んだ末にやはり早稲田通りに出る。

 文言でいろいろ書いても、この道の様子はうまく説明できない。言葉でうまく表現できず苦労するより地図を描いてしまった方が簡単。先日紹介したサイト「地図Z」でまた地図を描いてみたのだが、残念ながらこれでは細かなことが描ききれない。

 さてどうしたものか? Illustratorとかで描いてもよいのだが、ピーッと直線が描けちゃうとなんだか気分が違う。でもって結局、手書きにしてみました。

 住宅地図を見ながらペンで描いた見取り図を、スキャンしてフォトショップで彩色。これで位置関係とか向きとかがだいたいわかるかな?。でもどっちが上の方か書き込むのを忘れちゃった。断面方向も載せるので、擁壁のマークと合わせて判断して下さい。

 さて、何故このようにお寺の周りをグルッと回る道ができてしまったのか?。ごらんの通り南方向には抜けられません。でも江戸時代の切り絵図と比較してみると、決定的な回答ではないが、周回道路の発生と関わりのありそうな事柄が少し分かる。

 幕末期の地図によれば、高台側は酒井若狭守の屋敷地。宗柏寺の敷地は現在とほとんど同じ模様。宗柏寺と酒井若狭守の屋敷地の境界線がどこにあったかは、御府内備考などを丹念に見れば判るのだろうが、手元の資料では不明。酒井家屋敷の敷地は宗柏寺に比して4~5m高い場所にあった。現在は二段になった擁壁で区切られているが、江戸期の敷地境界は、恐らく斜面で樹林地になっていたと想像される。あくまでも推測だが、宗柏寺の墓地が高台に近い斜面上部まであったとはちょっと考えにくい。酒井家屋敷の外れの樹林地が斜面下の墓地近くまであり、そこまでが酒井家屋敷だったのではないかと思われる。(やはり正確には御府内備考や土地宝典などによる確認が必要なのだが。)

 明治以降、屋敷が無くなり細分化し宅地化する際に、細かな街路が造られた。その過程で宗柏寺の墓地東側の小径や、高台側から下りる階段が造られたのではないだろうか。

 さて一方、宗柏寺の西側と南側には、妙照寺、大法寺という寺院があった。妙照寺は手元の資料では行方不明。移転したか、合併したり廃寺となったか分からない。とにかく現存しない。大法寺の方は1909(明治42)に移転して、現在は杉並区松ノ木3-33にある。

 宗柏寺の西側にはこの二つの寺院へ至る参道状の道が江戸期から存在していた。そして明治末に大法寺が転出し、跡地が宅地化された際、もとの大法寺境内に道が追加延長された。

 肝心な部分、つまり宗柏寺の南側で、二つの小径が小階段を介して接続するに至った経緯、これは手持ちの資料だけではやはり分からない。両方の道が宅地化に伴って延長されていき、最終的に近接したために接続したのではないかと、勝手に想像しているのだが、本当のところは不明のまま。

 でもこのように、江戸期の土地所有や土地利用、道路の状況が、明治以降、現在に至るまで、街の姿に影響を及ぼし続けているということは事実である。今回のお寺の周囲を回る道も、敷地をそのつど区画して小さな街路を作っていった結果できたということなのではないかと考えている。

#階段・坂 新宿区  #地形  #寺院


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