都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

西鉄カリテンビル/旧NHK福岡放送会館

2023-10-09 | 福岡県  
西鉄カリテンビル/旧NHK福岡放送会館
所在地:福岡市中央区 天神2-6
構造・階数:RC・4+B2
建設年:1959(昭和34)
解体年:2000〜01(平成12〜13)頃
備考 :1959〜92(昭和34〜平成4)はNHK福岡放送会館
    1996〜99(平成8〜11)は西鉄カリテンビル
Photo 1998.9.12

 1998年に学会で福岡へ行った際に、天神の街を歩いていて見掛けた建物。当時、天神界隈は大規模な建物が既に多く建ち並んでいたので、4階建てでやや地味なこの建物は逆に目立つ存在になっていた。

 当時はなんという建物なのか調べもせずにいたが、最近になってGoogle Mapやストリートビューで調べてみたところ、かなり前に無くなっていたことが判明。そこでこれも国会図書館で当時の住宅地図をあたってみたところ「西鉄カリテンビル」とされていた。「カリヨン」なら鐘楼とか鐘塔の鐘で、施設名などでときどき見掛けるので知っていたが、「カリテン」というのは馴染みがなく、なんだろうな?という感じ。ネットで検索すると、天神の中心部なのにあまりヒットしない。逆に福岡放送会館が一緒に出てくる。そこでもういちどもっと古い住宅地図をあたってみたところ、この建物には1992年まではNHK福岡局があって、福岡放送会館という名だったことが分かった。

 NHK福岡局は、1930(昭和5)年に開局。この福岡放送会館は1959(昭和34)に完成。その後、1992(平成4)年にNHK福岡局は天神から現在地の六本松一丁目に移転したという。昔の写真を見ると、放送会館の西側にかつては送信用の鉄塔も建っていたようだ。

 一方、この近くの西鉄福岡駅北側にあった西鉄旧駅舎には「福岡西鉄名店街」というのがあったそうだが、ビルの建て替えに伴い1996(平成8)年2月末にそこでの営業を終了し、旧福岡放送会館に移転して仮店舗「にしてつカリテン」として1996年3月から営業を始めたそうだ。カタカナで「カリテン」とあったので外国語から採ったのかと思ったが、なんのことはない「仮店」だったのでした。

 私が訪れた頃は、不二家など20軒ほどの店が1階に入居し、2階は天神エフエム、NHK九州メディスが入居。3階は空きで、4階は新名店街準備室となっていた。カリテンの名の通り、仮店舗ビルとして使われていたのは3年ほどで、たまたまそいう時期に私は訪れたのだった。

 住宅地図によれば、その後、2000年にはこの建物は使用されなくなっていて、2002年には既に新しいビルの建設が始まっていた。現在、ここは岩田屋デパートの新館(2004年完成)になっている。

NHK福岡放送局 - Wikipedia
福岡市 教えて!どんなところ?第8回 NHK福岡放送局
アンティーク絵葉書に観る、懐かしの福岡・天神町/岩田屋・松屋/昭和20~40年代の写真絵葉書

日本国内の建物や街並み
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神奈川県警本部 尾上町分庁舎

2023-07-27 | 神奈川県 
神奈川県警本部 尾上町分庁舎
所在地:横浜市中区 尾上町1-1
構造・階数:RC・3
建設年:1952(昭和27)
解体年:2017(平成29)
Photo 2004.2.20

 交差点に面してカーブを描いた姿がモダン。シンプルなファサードデザインはお手本のようなモダニズムデザイン。戦後の建物だそうだが、このような小規模な公共建築が数年前まで残されていたことはある意味驚き。耐震面で使用が継続できなくなったため解体されることになったそうだが、こういうモダニズム系の建物も残す手立てはないものかと思われる。

神奈川県警察本部・尾上町分庁舎
初期モダニズム建築の傑作、解体惜しむ声 | 話題 | カナロコ by 神奈川新聞

日本国内の建物や街並み
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ふしみやビル

2023-07-09 | 静岡県  
ふしみやビル
所在地:静岡市葵区 呉服町
建設年:1970(昭和45)
構造 :SRC
階数 :9+R
Photo 2016.8.18

 「ふしみや」は徳川家康と主従関係にあった初代小山善藏が京都伏見より来静し、1607年に伏見屋を創業したのが始まりなのだそうだ。
 静岡で生まれ育ち高校生まで住んでいたが、当時は中心部の老舗の来歴などにはほとんど興味がなく、ふしみやがそんなに古くからある店だったことは今まで知らなかった。

 「ふしみや」が江戸時代初期に創業したことに触れたサイトや記事は結構あるが、今のビルがいつ頃に建てられたものなのかという情報は案外少ない。Home'sのサイトに建設年が書かれていたので、ここではその情報を転記したが、階数が誤っていたりもするので建設年も確証はない。

 中心部にある松坂屋、伊勢丹などにはエスカレーターがありたいがいは2人幅のものだが、ふしみやのそれは1人幅の狭いものだった(現在の状況は未把握)。

【ホームズ】ふしみやビル(静岡市葵区)の賃貸情報
呉服町老舗探訪記:ふしみや 呉服町本店

静岡の建築・土木構築物
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静岡県庁東館

2023-07-06 | 静岡県  
静岡県庁東館
所在地:静岡市葵区追手町9-6
建設年:1970(昭和45)
構造 :SRC
階数 :18+B1
設計 :日建設計(林昌二・三浦明彦)
Photo 1981.11.1

 手前は静岡県庁西館。奥には新静岡センターがわずかに見えている。


 駿府公園(現 駿府城公園)から  Photo 1981.8.27

 1970年に完成した静岡県庁東館は全国初の高層庁舎建築だそうだ。上写真の時点では静岡市役所の新館(1987年完成)が出来ておらず、この時点でも県庁東館は市街中心部では唯一の高層建築だった。


 駿府公園から県庁東館と、静岡市役所新館  Photo 1989.3.28

 駿府公園では1989年に「SUNPU博'89」が行われた。写真手前は博覧会会場の入口になっていた部分。
 県庁別館がない頃には駿府公園からは東館と市役所の新館が並んで見えていた。


 駿府城外濠・城代橋と県庁東館  Photo 1995.4.15

 上写真の時点でもまだ新しい別館はできておらず、静岡県庁の建物のなかでは東館が最も高い建物だった。


 県庁東館と別館  Photo 2011.9.22

 1996年に別館(21階建て・最高高さ約110m)が竣工したため、東館はいくぶん小さく見えるようになったが、H型の平面をした建物は個性的で、相変わらず存在感のある姿になっている。また、1999年に制震改修を行って、二列の棟の相互を大型のトラス型の制震ブレースで繋いだため、更に独特の外観となった。

静岡県庁舎 - Wikipedia

静岡の建築・土木構築物
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明治安田生命新宿ビル(旧 安田生命本社ビル)

2022-06-12 | 新宿区  
明治安田生命新宿ビル(旧 安田生命本社ビル)
所在地:新宿区 西新宿1-9-1
構造・階数:SRC・9+B3
建設年:1961(昭和36)
解体年:2020(令和2)
備考 :明治安田生命ホールは2017(平成29)に閉館。
Photo 1997.3.3

 新宿駅の西口駅前広場に面して建っていた大きなオフィスビル。南北に長い直方体がベースで、1、2Fが広場側に張り出した形。なんの変哲もない形ではあったが、直方体の縦横奥行きのプロポーションが良かったように思う。各階にルーバー庇を巡らせた姿は繊細さも感じさせた。庇やベランダが巡らされている姿は日本的なモダニズムだったが、RCのベランダではなく金属製のルーバーだったので、軽快な印象だった気がする。一方で1、2Fは柱が道路側に並び、ビルの前を歩くと重厚な印象もあった。

 上写真は安田生命時代のもの。安田生命は2004年に明治生命と合併して明治安田生命となった。


 Photo 2012.5.31

 2枚目写真は合併後の2012年のもの。当初は低層部屋上の緑化はされていなかったようだが、この頃には既に樹木や植栽が見える。


 小田急百貨店から Photo 2018.7.23

 駅西口の南の方はヨドバシカメラなどの電気店が多く、ごちゃごちゃと賑やかな景色だったが、西口の中央は明治安田生命ビルがどんと構えていて、いかにもビジネス街という雰囲気だった。


 ビル東南側から Photo 2010.6.9

 低層部、道路ぎわに店舗などが全くなかったため、その意味ではやや殺風景だった。


 南側面 Photo 2010.6.9

 ルーバーがあるため、近くから見上げると窓ガラスや建物内はあまり見えない。

 建物の解体は既に終了し、跡地では西新宿一丁目地区プロジェクトとして新しいオフィスビルの建設が2021年から行われている。新ビルは、S・RC・SRC造、23F・B4Fで、高さ126m。オフィスの他に店舗、ホール、子育て支援施設を含む建物で、2025年7月末に竣工予定だそうだ。

「明治安田生命新宿ビル」他の跡地 地上23階、高さ約126mの「(仮称)西新宿一丁目地区プロジェクト」 建築計画のお知らせ掲示!: 東京・大阪 都心上空ヘリコプター遊覧飛行

Tokyo Lost Architecture
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国立霞ヶ丘陸上競技場

2022-05-23 | 新宿区  
国立霞ヶ丘陸上競技場
所在地:新宿区 霞ヶ丘町10
構造・階数:RC・4F
建設年:1958(昭和33)
解体年:2015(平成27)
備考 :1964(昭和39)の東京オリンピックに合わせて増築。
    2014年5月31日閉場
Photo 1993.11.21

 いわゆる国立競技場、2021年にオリンピック・パラリンピックが行われた競技場の前の代の競技場で、1964年のオリンピックや、サッカーの試合などで多くの人に親しまれた建物。

 江戸時代末期、現在の国立競技場の場所は、幕府の煙硝蔵や寺(寂光寺・立法寺)、御賄方大縄地などだった。明治になり、1886(明治19)年に青山練兵場が造られた後はその一部となった。そして明治天皇が崩御した後、神宮外苑が計画されて練兵場は代々木に移転し、神宮外苑の諸々の施設群が建設された。

 外苑のこの場所に最初に競技場ができたのは、1924(大正13)年のこと。明治神宮外苑競技場と呼ばれたその施設では、1943(昭和18)年10月には学徒出陣壮行会も行われた。
 戦後の一時期(1945〜52)はGHQに接収されて、ナイル・キニック・スタジアムという名で使われたが、接収解除後は再び一般開放された。ここまでで述べた競技場は初代のもので、2014年に解体されたのはいわば二代目。

 写真のその二代目競技場は、アジア競技大会と国体で使うために建設が始まり、1958(昭和33)年に竣工したもの。その後、1964(昭和39)年の東京オリンピックのために主にバックスタンド側が大増築された。この他にも多少の改修はあったようだが、これが2014年まで使われた競技場だった。
 2000年代になり、国際的なサッカー試合や陸上競技会を開催するための条件を満たさなくなってきたため、建替られることとなり、2014(平成26)5月末で閉場、2015年1月から解体が行われた。

 上写真は増築されたバックスタンド側を東南側から見た様子。スタンド上部の左端にはオリンピックの聖火台が見えている。


 同じくバックスタンド側を東側から西南向きに見たもの
 Photo 2006.2.19


 東京都体育館方面からメインスタンドへ至るブリッジ上からスタンド北側
 Photo 2006.2.19


 東京都体育館の側から全景。手前の道は外苑西通り
 Photo 2006.5.1


 メインスタンド正面入口
 Photo 2006.5.1


 正面入口 Photo 2006.5.1

 入口上部には日の丸、五輪と共に優勝者の名が刻まれていた。「The Games of The XVIII Olympiad Winners」「第18回オリンピック競技大会優勝者」の文字が読める。

 アテネの第1回オリンピックスタジアムを訪れた時、大理石に記録が刻まれていたのが印象的だった。旧国立競技場のこのレリーフなどはどこかに保存されているのだろうか?

 残念ながら内部の写真は撮りそびれた。何度か入ったことはあるのだが、そのたびカメラを持っていなかったりして撮っていない。最後の頃の見学会も行きそびれてしまった。

 新しい競技場は、旧競技場の照明塔よりは屋根の高さが低いが、全体のヴォリュームは以前よりもずっと大きい。競技場を今後どのように使っていくのか、また、外苑全体の更新をどうしていくのかも気になるところだ。

国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 - Wikipedia
国立競技場の歴史詳細 | 国立競技場 | JAPAN SPORT COUNCIL
ヒストリー~大成建設と国立競技場~| 大成建設株式会社
国立競技場 - 環境デザインマニアック - 多摩美術大学環境デザイン学科
旧・国立競技場アーカイブ

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日本ワックスマン財団

2022-05-20 | 新宿区  
日本ワックスマン財団
所在地:新宿区 大京町30
構造・階数:CB・1
建設年:1958(昭和33)
解体年:2015.4〜16.2(平成27〜28)
Photo 2010.11.27

 慶応大学病院の施設群の間にこじんまりとあった平屋の建物。隣接する建物群の多くは戦前のもので様式的デザインだったが、この建物はモダニズムで南側全面がガラス窓。一方で東側は玄関以外は全て壁という作りだった。

 日本ワックスマン財団は1957(昭和32)年設立だが、同財団のサイトにはこの建物の情報は見当たらない。しかし、慶應義塾百年史に以下の記述と写真があった。

 『昭和33(1958)年10月には日本ワックスマン財団事務所が竣工し、翌年1月19日に同財団から義塾に寄贈された。予防歯科医学研究所跡に建てられたコンクリートブロック造平屋建18坪の建物で、これはストレプトマイシンの発見者ワックスマンの篤志によって、同薬品の製造特許料の一部を毎年わが国における医学研究および奨学助成資金として寄付されるにあたり、その運営機関として設けられたものである。』

 上記のようなわけで、この建物は最初から日本ワックスマン財団のために建てられ、慶応大学に寄贈された小さな建物だった。なお、現在、同財団は東側の大学病院内に事務所を置いている。

日本ワックスマン財団 Dr Selman A. Waksman
慶應義塾百年史: 下巻

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大和呉服橋ビル

2022-02-15 | 千代田区 
大和呉服橋ビル
所在地:千代田区 大手町2-6
構造・階数:SRC・9+B3
建設年:1956(昭和31)
解体年:2017(平成29)
備考 :1966、1970、2009に改築
Photo 2006.1.28

 竣工以来、大和証券の本社ビルとして長い間使われていたビル。Wikipedia等によると2007年に大和証券が転出し、その後2010年からはパソナグループの本部ビルになっていたそうだ。

 容積率制に移行する前の絶対高さ規制時代の建物なので、大和証券の看板が載る塔屋以外の部分の軒高は31m以下になっていたのではないかと思う。開口部が大きくシャープな印象のモダニズムのオフィスビル。ガラスなのかブラインドなどの色なのか分からないが、薄緑色の外観が印象的だった。
 南北2ヶ所に塔屋(EVの上屋)があったが、北側の塔屋上にはロケット状の塔が載せられていた。これがアンテナ的なもので実用のものだったのか、単なる装飾・シンボルタワーだったのかは知らず。パソナのビルになった後もこの塔は屋上に載っていた。


 大和証券の転出後、パソナになる前のようす Photo 2009.1.18

 日曜日だったこともあり灯りも点いておらず、このまま壊されてしまうのかと思ったが、その後、外観は大きく変化することとなった。
 後方の黒っぽい高層ビルはJXビル、左端の超高層ビルは朝日生命大手町ビル。


 パソナの本社になってしばらく経った頃のようす  Photo 2014.5.4

 外壁が大幅に改修され窓割も替えられた。外壁は半分ほどが壁面緑化され、1Fには人工照明を用いた水田も作られた。当時、この水田はしばしばメディアにも採り上げられていた。


 壁面緑化のようす  Photo 2014.5.6

 季節によっては花も咲いていた。当時、壁面緑化を大々的に行った建物は都心では珍しかったので、会社の業務内容はともかく、このような建物が増えていくのも面白いなと考えていたのだが、結局、これは数年で終わってしまい、超巨大な高層ビルがこの一帯には建てられることになり、この建物もあっという間に解体されたのだった。


 屋内での稲の栽培  Photo 2011.1.9

 人工照明で光を当て、温湿度も管理されていたのだろう。1月に通り掛かった際にも青々と稲が育っていた。ただ、人工照明を当てて暖房をして稲作をすることが、エネルギー的に本当に環境に優しいことだったのかどうかは知らない。多分にショールーム的なものだったのかもしれないと、今となっては思う。

 大和呉服橋ビルとJXビルは、東京駅前常盤橋プロジェクト(大手町二丁目常盤橋地区第一種市街地再開発事業)に伴い解体された。西側の朝日生命大手町ビルや日本ビルヂングも近日中に解体されるはずである。丸の内、大手町、八重洲、日本橋、界隈の建物は次々に解体され、跡地では巨大かつ超高層のビルの建設が相次いでいる。

大和呉服橋ビル - Wikipedia

Tokyo Lost Architecture 日本橋界隈 - 都市徘徊blog
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原美術館(原邸)

2022-01-06 | 品川区  
原美術館(原邸)
所在地:品川区 北品川4-7-25
構造・階数:RC・3
設計 :渡辺仁
建設年:1938(昭和13)
解体年:2021(令和3)
備考 :美術館は1979(昭和54)開館
Photo 2017.2.16

 原美術館一帯は明治・大正期の実業家の原六郎が購入した土地。その一角に養子の原邦造が1938(昭和13)に自邸として建設したのが、後に原美術館となった建物。設計の渡辺仁(1887〜1973)は、銀座の和光、有楽町の第一生命館、横浜のホテルニューグランドなどの設計でも知られる建築家。
 戦後の一時期はGHQに接収され米軍将校の宿舎となった。接収解除後は外務省公館、フィリピン大使館、セイロン(現 スリランカ)大使館になったが、その後は10年以上使われなかったという。
 そして原邦造の孫である原俊夫が、1979年にこの私邸を現代美術専門の原美術館とした。

 L字型平面の建物は、最初からそうするつもりだったのではないかと思うぐらい美術館に合ったデザインだったように思う。門を入ってアプローチの道を行くと車寄せ。水平なスラブが突き出しているだけの比較的シンプルな姿がモダン。先端側の支柱は板状で縞々の石材?の模様がきれい。

 西側は平屋、弧を描いた南側は2階建てで、部分的に3階建てになっている。屋上の一部にはコンクリート製のフレームもあり、玄関付近から見るとそれらが立体的に重なり、さまざまな様相を見せている。


 Photo 2013.9.29

 玄関南側の壁面には細めの柵が付いた小窓が田の字型に並ぶ。


 弧を描いた南側壁面 Photo 1989.4.7

 やや大きな四角い窓が並ぶ姿もモダン。奥の方で張り出しているのはサンルームとかだったのだろうか。


 中庭側の様子  Photo 1989.4.7

 当初はカフェテラスも小さく、写真右手の壁面には撤去された部分の痕跡も見えていたりした。その後、カフェテラスは増築され右手の壁面もきれいにされた。閉館直前の頃の様子は下記リンク先の記事で見ることができる。


 屋上から Photo 1989.4.7

 2階の屋上に出られるのも魅力的だった。なにかができるわけではない。現代美術の作品がなにげなく展示されているだけだったが、普通とは異なる視点から建物や庭を眺められ、開放感を味わえるのはシンプルに楽しかった。


 玄関 Photo 2013.9.29

 玄関扉は鉄製。立派な建物だったが過剰な装飾はなくモダンそのもの。


 階段室 Photo 1989.4.7

 滑らかな曲面の白壁に黒い石材の側壁がコントラストを成しており、緩やかな曲線を描いて上に伸びる手摺や間接照明が美しい。


 敷地入口の門 Photo 2017.2.16

 門も比較的簡素な造り。塀は日本瓦が載った白壁で、ここは和風の雰囲気だった。


 敷地外周の塀 Photo 2013.9.29

 原六郎邸は戦後は分割されて縮小したようだが、原美術館の敷地はそれでもかなり広く、西側の道には塀が長く連なっていた。

 約40年間現代美術の拠点となっていた原美術館だったが、建物の老朽化とバリアフリーへの対応が困難だったため、2021年1月に閉館。その後、残念ながら解体された。

惜しまれつつ閉館した原美術館 その知られざる歴史とこれから - TOKION
原美術館 - Wikipedia原六郎 - Wikipedia原俊夫 - Wikipedia
渡辺仁 - Wikipedia

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第一三共(株)品川研究開発センター(旧 三共品川工場)本館

2021-12-27 | 品川区  
第一三共(株)品川研究開発センター(旧 三共品川工場)本館
所在地:品川区 広町1-2
構造・階数:RC・3
建設年:1932(昭和7)
解体年:2016(平成28)
Photo 2013.9.29

 三共株式会社の品川工場本館だった建物(品川工場じたいは1908(明治41)年に開設)。
 住宅地図で見ると、ロの字型をした建物だったようだ。シンメトリーなデザインで中央に玄関があり、そこだけは縦長窓と角形の細い付柱が並んで少し象徴的になっていた。しかし全体としては装飾はなく、軒庇が出て窓台も少し出ているだけの、モダニズムデザインの工場建築だった。

 東海道新幹線の車窓から古そうな工場建築がちらっと見えて気になっていたので、歩いて近くまで行ったこともある。だが、目黒川越しに見ると桜並木があり、歩道橋から見ても全景はあまり見えなかった。結局、新幹線から撮ったこの写真が、最もよく全景が納まったものだった。

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