清水港荷揚げ施設(テルファー)
所在地:静岡市清水区入船町13
建設年:1928(昭和3)
備考 :登録有形文化財
Photo 1997.5.5
北側から。水辺に張り出した不思議な構築物だ。現在は、エスパルスドリームプラザに隣接する場所に修復されて展示されている。
撮影した1997年当時は忘れ去られたように打ち捨てられていた。
ループ状のレールが水上まで張り出しており、レール上を走行する巻上機で船から荷を吊り上げ、埠頭に降ろしていたらしい。
その後、ここはエスパルスドリームプラザとして再開発されることになったが、敷地内にあったこの施設は幸運にも保存措置がなされ、海側正面の目立つ場所にモニュメントとして残された。現在、周辺はボードウォーク状に整備され、休日はカップルや家族連れが行き交う場所になっている。
しかしいまだにどのように作動して使われていたのか正確にはよく判らない。昔の港湾の仕事ぶりも解るし、社会科見学の教材になったりもするのではないかと思うので、保存するなら動かせるようになっていたらなお良いのだが、さすがにそこまでの復元はされなかった。
余ったテトラポッドが放置され、廃車やゴミが捨てられ、そう長くはないのかと思っていたが、逆に一気に華やかな空間に引っ張り出されたのだからちょっと不思議だ。
草むらの中に放置されていた当時の姿には、寂寥感の漂う美しさがあった。保存措置が講じられたこと自体は喜ばしいことだが、一方で、昔の姿にも修景された現在とは異なる独特の良さがあったように思う。
清水港テルファー 文化遺産オンライン
機械遺産Mechanical Engineering Heritage
景観重要建造物第5号 清水港テルファー:静岡市
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雉子神社
所在地:品川区東五反田1-2 Google Map
設計 :村野・森建築事務所
竣工年:1995年
Photo 2013.9.22
境内の上空に11階建てのビルを建ててしまったのは大胆。
ビルはコの字型になっていて、本殿や拝殿の上空は空いている。
雉子神社拝殿
1995年に建てられたようだが、風雨にあまり曝されないためか、比較的きれい。
拝殿の屋根には雉子ノ宮の由来になった白雉の像が。
#新しい建物 品川区 #神社 #モニュメント
記念碑(大浜麻機線のバス車内から)
所在地:静岡市葵区大岩2-1 Google Map
Photo 2013.9.1
小中学生の頃、通学のために乗っていたバス路線に「記念碑前」というバス停があった。大きな石碑が交差点のそばの一角にあったのだが、子供だったので何を記念する石碑なのかは知らず、さして興味もなかった。
最近になって、静岡市の城北エリアで、1913~34(大正2~昭和9)年に行われた耕地整理を記念した碑であることを知った。十二双川(じゅうにそうがわ)という小河川の流域を碁盤の目状に整理したらしい。静岡には20年ほど住んでいたが、十二双川なんてのは、つい最近まで知らなかった。
そういえば、最近までは気にも留めていなかったのだが、静岡市の城北エリアは意外に用水路が多い。耕地整理のおかげで碁盤の目になった街の道路沿いや、街区の背割り線にそって小さな川があり、今でもかなりの水が流れている。
小学生の頃は社会の歴史の時間はあまり好きではなかったので、大人になってから街の歴史を調べるようになるとは思いもしなかった。だが最近は、川とか地名とか、街の歴史を調べることがなぜか多い。記念碑も改めてちゃんと見に行かなくちゃ。
静岡の街並み
#街並み 静岡県 #モニュメント
やすらぎの塔と広場
所在地:静岡市葵区駿府城公園 Google Map
建設年:1958(昭和33)
解体年:2001(平成13)
Photo 1997.5.4
まちなかの学校に通っていたので、駿府公園(現在は駿府城公園に名称変更)は小さい頃は比較的身近な存在だった。学外授業で駿府公園に行き、やすらぎの塔前の広場で帽子取りをしたりもした。
しかし、やすらぎの塔がどんなものなのか教えられた記憶はない。聞いてなかっただけかもしれないが・・・。
広場を走り回ったりしてばかりだったので、デザインの記憶も曖昧だった。ただ二人の男性が支え合って立っているようなものだった記憶はあった。正直言って、明るく晴れやかなものではなく、やや陰気な気配が漂っていて、なんとなく近づき難い姿形だった。
大人になってから改めて調べてみるとそれもそのはず。やすらぎの塔は、戦没勤労動員学徒の慰霊塔なのだった。
そんな少年時代の記憶をたどりつつ90年代後半に改めて駿府公園を訪れた。そしてその時もやはり学生が放課後に運動をしたりしていたのだった。
1991(平成3)年3月には「駿府公園整備計画」が立案されたが、この計画の中でも、やすらぎの塔は存続することになっていた。祭壇のような部分を中心として、前面の広場は縮小されるようだったが、その他は変わらないはずだった。
しかしやすらぎの塔は、2001年の地震で一部が破損し、このため後日、台座を残して撤去されたという。その後、10年以上が経過しているが、再建はされず現在もそのままらしい。2010年には保全整備と再建の要望書が出されたりもしているが、なにか動きがあったという話は聞かない。
駿府城公園の整備は資金等の面から大幅に遅れてはいるが、現在もその計画に基づく整備が続けられており、現在、坤櫓(ひつじさるやぐら)の建設が行われている。
戦争の記憶を後世に伝える施設はこのまま推移していくのだろうか。
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」 > 風化する戦死者への祈り
いきいき助け合いネット > 戦争の爪痕・駿府公園
静岡の街並み
#公園 #モニュメント
芝丸山古墳
所在地:港区芝公園4-8 Google Map
Photo 2011.2.2
Wikiを見たら、明治期に坪井正五郎という自然人類学者が、丸山と呼ばれたこの丘が自然地形ではなさそうだということに気付いたことから、古墳だったらしいことが明らかになったとあった。
周囲にいろいろな建物が建ってしまって地形の全体像が分かりにくい現在では、風景からこれが自然地形ではないと気付くのは、なかなか難しいことのように思われる。もちろん、現代には詳細な測量地図があるので、それを見ればここが確かに妙な高みになっていることには気付くかもしれない。また、前方後円墳なのだと知っていれば、そのようにも見えないことはない。だが、ふだんなにげなく見ている丘を見て、古墳ではないかと気付くのには、やはりかなりの観察力や知識、洞察力が必要なのだろうなぁと思う。
そういえば、大森貝塚を1877年に発見したエドワード・S・モースのエピソードもこれに似た話かもしれない。モースは1872年に開通した横浜~新橋間の鉄道に乗っていて、車窓風景から貝塚を見つけたのだそうだ。研究者というものには「気づく力」も必要なのであるな・・・。
さて、現地に行ってみると、台地の端の部分に周囲よりもやや高く、盛り土されたと思しき馬の背のような前方部があり、北側には更に一段高い後円部があることが比較的明瞭にわかる。明治時代以前に既に後円部の頂部などは削られてしまっていたと言われ、畿内地方の著名な古墳のようなはっきりした形ではない。だがそれでも、東京都心に長さ100m以上に及ぶ前方後円墳が残っているのは、とても印象深いことだ。
Wikipedia > 芝丸山古墳
#地形 #山 #モニュメント #パノラマ
氷川神社参道 所在地:板橋区赤塚4丁目 Photo 2011.10.17
氷川神社は台地の上、後方に下り斜面を控えるキワに近い部分に位置している。
300m近くもある長い参道は台地の上の平坦な場所に真っ直ぐ延びる。両側にイチョウ、ムクノキ、ケヤキ、サクラなどの大きな木が立ち並ぶ姿が印象的。 地元の人々が犬の散歩をしに来るなど、人々の憩いの場にもなっている。
氷川神社・富士塚 所在地:板橋区赤塚4-22 Google Map Photo 2011.10.17
神社の入口近くには富士塚があった。板橋区にもいくつかの富士塚があるようだが、ここの富士塚も意外にきれいに残っている。
現在の社殿はRC造だが、内部に昔の拝殿や本殿が全て格納されている。拝殿は明治期、本殿は江戸時代後期のものだそうだ。本殿の廻りは外側の社殿がガラス張りになっており、華やかな彫刻が施された江戸期の社殿がガラス越しに垣間見える。
#神社 #モニュメント
東京新旧写真比較(1991/2011) No.45 文京区大塚
教育の森公園・文京スポーツセンター
所在地:文京区大塚3-29
Photo 1991.8.8(マウスオフ)
Photo 2011.10.3(マウスオン)
20年ぶりに写真を撮りに行ったら、様子が大きく変わっていて驚いた。
樹木に隠れてスポーツセンターの建物がほとんど見えなくなり、撮影場所の位置どりが正確には分からなくなったため、撮影位置は微妙にずれている。
東京教育大学が廃校になったのは1978年。その後、跡地は教育の森公園となって、文京スポーツセンターが1986年に建てられた。1991年の写真は、建物ができてから5年ほど経った時のものということになる。その後、20年で、こんなにも樹木が茂って様子が変わっているとは思いもしなかった。
公園の面積は20年前と変わっていないが、これだけ枝葉が茂ればCO2の吸収量は倍増してるんじゃないかとさえ思う。以前に皇居東御苑の写真を比較した時にも感じたが、都市景観は建物の変化だけでなく植栽や樹木の変化でも大きく様子が変わる。どういう姿にしていきたいのか、30年ぐらいの期間を前提に考えなければいけないのだろうな。
文京区 > 教育の森公園
建築作品データベース by きてら > 建築文化1986
> 文京スポーツセンター
Wikipedia > 東京教育大学
大谷幸夫(文京スポーツセンターを設計した建築家)
都市徘徊blog > 平川門付近から
十条富士
十条富士神社・富士塚
所在地:北区中十条2-14
Photo 2011.6.11
もともとは古墳だったらしい。江戸時代後期に、その上に溶岩や石碑が配され富士塚とされたのだそうだ。現在も7月初め(ちょうど今日)に山開きが行われ、「おふじさん」と呼ばれるお祭りは多くの人で賑わうのだという。北区の指定有形民俗文化財にもなっている。
30段の階段を上ると狭い頂上に立つことができる。たかが築山なのだが、登頂するとやっぱりちょっとうれしい。この日は夕方遅くなってから辿り着いたので、ちょっと怪しい写真になってしまった。もういちど明るいうちに訪れなくては・・・。
ところでこの富士塚、都道460号線(日光御成道・岩槻街道)の拡幅事業により、存亡の危機に立たされているという。現在の状況を詳しくは知らないので軽々に言えないが、このまま道路拡幅がされると、富士塚は道路に引っかかってしまうらしい。山を削るのか、移設するのか、それとも道路計画を変更するのか? 文化財保護と道路建設のどちらが優先されるのだろうか。
個人的にはこのままなんとか残してほしい。ただ確かに目の前の道路は歩道がなく、今のままではあまり道路環境的には良くない。それでも車線数を増やすほどの拡幅は必要ない気がする。歩道を両側に確保するぐらいの拡幅なら富士塚は削られないのではないかと思うが、将来を見越してとかなんとか言って広い道を造るのだろうか。壊してしまうのだとしたら、もったいない、もったいない・・・。
十条 冨士 (お富士さん) とまちづくり
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#古い建物 北区 #山 #神社 #モニュメント #旧街道