都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

大日本報徳社 大講堂 2

2023-11-18 | 静岡県  
大日本報徳社 大講堂(遠江国報徳社公会堂)
所在地:掛川市掛川1176
建設年:1903(明治36)
構造・階数:木・2F
備考 :国指定重要文化財(平成21年度指定)
Photo 2023.3.21

 今春、久々に大日本報徳社の大講堂を訪れた。修復等が完了して重要文化財に指定されてからは初めて。前に訪れた時は事務所に寄ってお願いして中を拝見させて貰ったが、重要文化財にもなっているので今回はちゃんと公開されていた。
 また、写真には写っていないが、以前は大講堂の左手にRC造2階の事務所があったが、これは撤去されていた。

 前項で記したように、2007(平成19)年に修復が完了しているので、外壁もきれいになっている。

 玄関は、御殿や立派な家などにあるような造りで、むくり屋根のやや大振りなもの。

 講堂内は畳やカーテン他が新調されて明るくなっていた。

 お金がなくて修復できないと言っていた額もきれいに直されていた。

 入口の両サイドにある2階部分へ上がる階段は新設されたもの。以前は無かったものなので、欠けた形で畳が敷かれている。


 以前は上れなかった二階から

 吹き抜けを囲む二階部分は、壁から張り出す形で下には支柱がない。天井から鉄棒が下がっており、床は吊られてもいるようだ。


 玄関上の部分に祀られている「二宮大先生御神像」

 和洋折衷の擬洋風建築の講堂だが、神棚というか厨子のようなものが玄関上にあるのも印象的。

 木でアーチ型を造っている窓。窓ガラスは上げ下げ型。桟が細くて華奢。窓部分は洋風なのでカーテンが掛けられている。

 2階の奥には和室もあるが、窓はここも洋風。

 1階左奥にある階段。こちらは昔からあったものだろうか。

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大日本報徳社 - 掛川市
旧遠江国報徳社公会堂(大日本報徳社大講堂) - 文化遺産オンライン
大日本報徳社 - Wikipedia

静岡の建築・土木構築物 
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大日本報徳社 大講堂 1

2023-11-16 | 静岡県  
大日本報徳社 大講堂(遠江国報徳社公会堂)
所在地:掛川市掛川1176
建設年:1903(明治36)
構造・階数:木・2F
備考 :国指定重要文化財(平成21指定)
Photo 1989.8.16

 入母屋の屋根を持つことから、一見すると寺院のように見えるが、2階窓はアーチ形で、角の部分は漆喰で付け柱が造られている明治期の擬洋風建築。玄関部分は武家屋敷の式台に似た構え。一方、内部は2層吹き抜けで壁沿いに2階桟敷席があるなど、芝居小屋風でもある。

 2004(平成16)年から修復が行われ、2007(平成19)年に修復が完了した。写真は全て修復前の様子。


 2階壁面の様子  Photo 1989.8.16

 漆喰の壁にアーチ形の窓が開けられガラスが入る。また四隅には漆喰で洋風の付け柱が造られており、明治期の擬洋風建築の苦心の跡が見られる。


 北側側面の様子  Photo 1992.4.11

 2層2階の大型の寺院風建築のように見える。


 中央部の付け柱とアーチ型窓  Photo 1989.8.16

 建物中央の窓の上部にはステンドグラスのように色板ガラスが嵌められている。
 中央の張り出し部分の付け柱は円柱で、怪しい形をした柱頭が付く。漆喰で造られているので、この時点では風化により剥離してしまっていた。


 Photo 2001.7.12

 二階部分には回廊がある。思いのほか広い畳敷きの部屋。三方のガラス窓から光が差し込む。


 Photo 2001.7.12

 講堂なので内部正面には演台がある。


 玄関上の部分  Photo 2001.7.12

 予算が少なく、当時は額の修復もままならないとのことだった(この撮影時点では国の重要文化財には未指定)。

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旧鶴川座

2023-05-27 | 埼玉県  
旧鶴川座
所在地:川越市 連雀町8
構造 :木
建設年:1898(明治31)
解体年:2019(令和元)
Photo 2006.11.3

 明治時代後期に芝居小屋として建てられた建物。大正時代には洋風に改装して活動写真の上映もしたりする劇場となり、戦後は映画館になっていたという。その後は書画店やライブハウスなどになった。老朽化もあって閉鎖され、その後、復原や再生利活用が模索されたが、最終的に復原等に掛かる財政的な問題などから再生は断念され、解体されたという。

 建物の経過については下記「鶴川座の歴史」に年表が示されているので、ここでは以下に少し端折って記す。またこのサイトにはかつての建物の復原図なども掲載されている。

 1894(明治27)
 1898(明治31)
 1922(大正11)
  戦後〜1998(平成10)
 1998〜2003(平成10〜15)
 2005〜06(平成17〜18)
 2007(平成19)〜
 2019(令和元)7月
 2020(令和2)7月
 
川越座として開場
新築。鶴川座に改称
外観を洋風に改装
映画館
中国製書画店
ライブハウス
建物調査、再生・利活用調査
「鶴川座」解体
立門前第一ビル完成。ゲストハウス「旅籠小江戸や」と飲食横丁になる。

 年表からすると、1枚目の写真はライブハウス時代のもの。
 また、写真は撮っていないが中国製書画店だった時代にちょっと中を覗いたこともある。たまたま通り掛かっただけで、当時は建物の来歴などを全く知らず、店内の床が奥に向かって下がっていて奇妙に感じた記憶がある。それでお店の人に映画館だったことを教えて貰い納得したのだった。

 以下は全て閉鎖後の写真。かなり改装されていたので見た目がいまひとつだったのが残念。閉鎖されてから時間が経って廃墟のようにもなっていた。ただ、構造体や一部の舞台機構などは昔のものが残っていたそうで、明治期の劇場遺構としては貴重なものだったはず。明治、大正、昭和と何度も改装されたようだが、どこかの段階の様子に復原できればひとつの名所になっただろうにと思う。


 閉鎖後の状況  Photo 2017.6.16


 Photo 2019.6.21

 解体が決まった頃に訪れたところ、地元の学生が解体のお知らせ看板を眺めていた。彼らと直接話した訳ではないが、様子を見るに、解体後に新しい建物が建てられることに期待しているというよりは、120年の歴史のある建物が解体されることを惜しんでいるようだった。


 解体直前の状況  Photo 2019.6.21

 右側の小窓は映画館時代の発券窓口。玄関はアルミサッシのガラス扉になっていたし、窓口周りはタイル張り。前面部分は比較的新しい時代のもののようだった。

 下記「全国町並み保存連盟」の記事には、結局のところ、残して利活用したいという気持ちがあまりないから、解体・建て替えという安易な選択をするのだ、というような手厳しい指摘がされている。
 川越の場合、旧川越織物市場などはいちど全てを解体して復原に取り組んでいるし、旧鏡山酒造の蔵などは小江戸蔵里として活用されていて、古いものを残して活用することには比較的前向きな感じではある。ただ民間の建物全てを対象にして、自治体が保全や復原を行うのには限界があるのかもしれない。となると民間の側がもっと保存や復原に意欲的にならねばならないということ。最近では保全することで価値が向上することも多いので、それに投資する人や組織がもっと増えることが期待される。そしてまた、国や自治体が補助などでそれをサポートする仕組みを更に整備することが必要なのかもしれない。

 現地には既に新しい建物ができている。宿泊、飲食施設としては利益が出ているのだろうが、観光地としての集客力は鶴川座を復原する方が遙かにあったのではないかと思われる。建築系の立場から見ると、現在の建物には残念ながら全く訪問意欲が湧かない。銀行や投資家は、新築物件から資金を回収することだけを考えず、復原再生されたものに投資をする枠組みの可能性を前向きに検討すべきなのではないだろうか。

鶴川座の歴史 - kawagoetatumonzen ページ!
埼玉)サヨナラ 川越の「旧鶴川座」:朝日新聞デジタル
川越旧鶴川座の経過 - 全国町並み保存連盟

日本国内の建物や街並み
#失われた建物 埼玉県  #映画館・ホール 
#明治期  #大正期  ブログ内タグ一覧
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中野センター・中野光座

2023-01-09 | 中野区  
中野センター・中野光座
所在地:中野区 中央4-61
構造・階数:RC・2F(一部3F?)
建設年:1960(昭和35)頃
解体年:2010(平成22).6
備考 :中野光座(映画館)は1994年頃に閉館
Photo 1997.3.30

 中野センター・中野光座は、戦後このあたりにできていた小規模店舗群(マーケット)をひとつの建物にまとめて、更に映画館を併設したもの。中野五差路交差点に面していて赤いトタンで覆われた外観が印象的だった。

 下記リンク先の「消えた映画館の記憶」によれば、1958年の映画館名簿には掲載がなく、1960年のそれには「中野光座」として掲載されているという。1961年発行の「東京都全住宅案内図帳」では「中野センター食品街」とだけ記されているが、このとき既に中野光座も存在していたようだ。その後、1968年発行の「東京都全住宅案内地図帳」には、「中野光座・中野センター食品街」と記されている。


 北西側・大久保通り側 Photo 2006.6.4

 中野光座の入口は北側の角にあった。外壁には「中野光座」のネオンサインが残されていたが、「中野光座」「中野ひかり座」「中野ヒカリ座」と、映画館名簿や住宅地図では表記が一定ではなかったようだ。160席だったそうなので映画館としては小規模。途中からはピンク映画の上映館になっていたという。映画館としては1990年代中頃に閉館したそうだ。私が上京してからもしばらくはやっていたわけだが、残念ながら入ってはいない。またその後も小劇場として2000年代中頃までは利用されていたようだ。写真の時点でも演劇開催の告知が掲出されている。
 航空写真で見たところでは、映画館は2階北側に前室(ホワイエなど)があり、中野通り側(1枚目の右半分側)に劇場スペースがあったのではないかと思われる(あくまで外観などからの想像ですが)。


 東南側 Photo 2006.6.4

 東南側は一方通行の小路に面して飲食店などが店を開いていた。上階の全てを映画館が占めていたわけではなかったようで、写真中央の居酒屋などには2階席もあったように見える。


 隣接したビルとの間に設けられた通路  Photo 1997.3.30

 写真左側は北東側の石森ビル。構造的には別々のビルだったが、こちらのビルの店舗も合わせて中野センターと呼んでいたようだ。


 西側入口付近から  Photo 1997.3.30

 1階には通り抜け可能な変形した丁字型の通路があり、中野五差路交差点に面した角と、東南側の小路側から入れるようになっていた。建物全体は長方形の1つの角を斜めに切ったような平面型をしており、基本的にその長方形の四辺に平行してグリッド状に柱梁が造られていた。交差点に面した角はその斜めに切った部分なので、そこから入ると天井の梁が通路を斜めに横切っていた。そして少し奥へ進むと通路はくの字型に折れていた。この頃はまだ営業している店舗がいくつかあったので、通路にも物が置かれたりしていた。
 店舗は2階建てだったが、通路上部にガッチリした梁が入っていることから考えると、この上に映画館の客席や設備が載っていて部分的には3階建てだったのではないかと思われる。


 丁字型交差部からくの字に曲がった通路  Photo 2006.6.4

 2000年代、解体の数年前の段階になると、営業している店もわずかになりひっそりとしていた。


 丁字型交差部。右へ進むと南側に出られる。  Photo 2006.6.4

 くの字型の部分は上部に劇場があったためかRCの梁とスラブがあったが、丁字型交差部付近から東と南にはスラブがなく、梁だけになっていて、角材と塩ビ版で造られた屋根が載せられたアーケードになっていた。


 丁字型の交差部  Photo 2006.6.4

 2階には店主などが住んでいたのだろう。蛍光灯の灯りが点いている部屋もところどころあった。


 南側の入口付近から  Photo 2006.6.4

 90年代に訪れた時には、通路のところどころに蛍光灯が付けられていたが、2000年代に訪れたらそれはなくなっていて、裸電球がぶら下がった状態になっていた。


 Photo 2006.6.4

 隣接する石森ビルは2009年末に解体。中野光座・中野センターも翌2010年に解体された。

 なお、その後に新築されたビルは、北側を通る大久保通りの拡幅と中野五差路交差点の改良もあり、以前よりかなり下がった位置に建てられている。

中野区の映画館 - 消えた映画館の記憶
ついに終焉。中野の闇市ゾーン [中野光座] : 日本ボロ宿紀行
中野光座 02 ← 中野光座の内部写真あり

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中野区  #映画館・ホール  #マーケット  #飲食店 
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新宿東宝会館・新宿プラザ劇場

2022-06-09 | 新宿区  
新宿東宝会館/新宿プラザ劇場
所在地:新宿区 歌舞伎町1-19
階数 :9(12?)+B3
建設年:1969(昭和44)
解体年:2011(平成23)
Photo 2009.2.25

 新宿コマ劇場の北側に隣接してあった複合商業施設。

 住宅地図等で確認したところ、1〜3階が新宿プラザ劇場、4・5階は飲食店、6階はビリヤード、7階がボウリング場、8・9階は歌舞伎町クラブハイツというキャバレー(1973(昭和48)年オープン)、地下1階は飲食店、地下2階はクリーニング、理髪店、サウナ、そして地下3階にも店舗があったという。


 Photo 2011.2.4

 ただ、この写真では、建物は11階ないしは12階建てだったように見える。住宅地図では9階までの商業施設がリストアップされていたため取り敢えず9階建てとしたが、上部に関連のオフィスなどがあったのかもしれない。

 新宿プラザ劇場も2008年末に閉館。コマ劇場同様、2011年春頃まではそのまま残されていたが、その後解体された。そしてこの新宿東宝会館と新宿コマ劇場の跡地には、シネコンとホテルを併設した新宿東宝ビルが2015年に完成している。

新宿プラザ劇場 - Wikipedia
新宿東宝ビル - Wikipedia
新宿プラザ劇場 (港町キネマ通り)
歌舞伎町「新宿プラザ劇場」、10月31日閉館へ-39年の歴史に幕 - 新宿経済新聞

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新宿コマ劇場

2022-06-06 | 新宿区  
新宿コマ劇場 
所在地:新宿区 歌舞伎町1-19
建設年:1956(昭和31)
解体年:2011(平成23)
備考 :2008(平成20)末閉館。新宿東宝会館と合わせて再開発。
Photo 1996.11.10

 歌舞伎町の名は、戦後、区画整理を行った際に老若男女が楽しめる「道義的繁華街」の創設を目標として歌舞伎劇場の誘致を目指し、東京都の石川栄耀(当時都市計画課長)の助言も得て命名されたもの。歌舞伎劇場の誘致はできなかったが、1956(昭和31)年にコマ劇場が開場。周辺の映画館と併せて一大興行街となった。

 2000年頃までは、当初からの外観で営業していたが、その頃の全景は撮っていなかった。上写真は、西側、コマ劇場の入口側の様子。おそらく演歌歌手のショーの開場直前で、多くの観客が開場を待っている。


 Photo 2005.7.13

 2005年頃はクイーンのトリビュートミュージカル「We Will Rock You」が行われていた。この時には全体が黒く塗られ、ロゴも KOMA になっていた。西南側から。


 Photo 2005.7.13

 歌舞伎町の広場、シネシティ広場から。 このときの改修で壁面には大型ビジョンが設置された。


 Photo 2011.2.4

 コマ劇場とシアターアプルは2008年末に閉館したが、建物は2011年春頃までは閉鎖された状態でそのまま残されていた。


 Photo 2011.2.4

 歌舞伎町、センター通り側、南側正面


 Photo 2009.2.25

 1階にあった飲食店街。再開発後のビルにも、店は違うが飲食店街が設けられている。

新宿コマ劇場 - Wikipedia
新宿歴史博物館 データベース 写真で見る新宿
演劇・映画文化を発信し続ける新宿の街のシンボル「新宿コマ劇場」と、そのDNAを継ぐ「新宿東宝ビル」<前編>

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静岡ピカデリー(静活文化会館)

2021-06-20 | 静岡県  
静岡ピカデリー1・2・静岡小劇場
所在地:静岡市葵区七間町14
建設年:1957(昭和32)
閉館年:2011(平成23)
備考 :ピカデリー1:463席/ピカデリー2:315席/静岡小劇場:90席
Photo 1992.4.9

 1957(昭和32) 静活文化会館として開館。映画館(静岡大映劇場)、アイススケート場(地下)、プラネタリウム(屋上)が入った静岡で初めての複合文化施設だった。
 1965(昭和40) 最上階にあった喫茶店が改修され、静岡小劇場が開業。
 1967(昭和42) アイススケート場「静岡アイスパレス」の跡地に静岡名画座(後の静岡ピカデリー2)が開業。
 1970年代に静岡大映劇場は大映の倒産を機に静岡松竹となり、その後、静岡ピカデリー1となった。

 上写真の時点では静岡松竹と静岡ピカデリーという看板が見える。また写真左上の屋上には、鉄製の階段のある塔状の構造体があったが、なんのための施設・設備だったのかは知らない。ネットで検索した限りでは分からなかった。

 建物上部が引っ込んでいてベランダ状になっており、その軒裏にツバメがコロニーを作っていたことでも知られる建物だった。


 Photo 2011.9.22

 静岡ピカデリーは、静活のシネシティザートへの移行に伴い、2011.10.2に閉館。2枚目、3枚目の写真は閉館直前のようす。屋上の南端に見えるドームは当初、プラネタリウムだったもの。プラネタリウムとしては短期間で営業を止めてしまったようで、その後はイベントスペース等として断続的に使われていたようだ。


 Photo 2011.9.22

 写真右端はミラノ座の建物。静岡ピカデリーの建物とは屋上の渡り廊下で繋がっていた。この渡り廊下がどのように使われていたかも知らない。観客などの行き来に使われていたのか、従業員のためだったのか、非常用通路だったのかなど、諸々知らないまま、ミラノ座とピカデリーの建物は同時期に解体された。

静岡ピカデリー1・2 (港町キネマ通り)
静岡市の映画館 - 消えた映画館の記憶
静活 - Wikipedia

備忘録に代えて:静岡ピカデリー屋上のプラネタリウム跡

静岡の建築
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静岡東映

2021-06-17 | 静岡県  
静岡東映
所在地:静岡市葵区 七間町12
構造・階数:RC・3F
開館年:1956(昭和31)
建替年:2002(平成14)
閉館年:2008(平成20)
備考 :静岡東映劇場、静岡東映パラスの2館
Photo 1992.4.9

 映画館で映画を観る習慣があまりないので、静岡在住時に映画館で観たのは数えるほどしかない。だからこの建物で映画を観た記憶もほぼない。ただ、静岡市民で映画をよく見ていた人には懐かしい建物かもしれない。

 この建物は2002年にシーウェーブ七間町という住居付きの複合ビルに建て替えられた。なので、写真の建物は1999〜2000年頃には解体されたのではないかと思う。建て替え後の時期の映画館名簿では静岡東映劇場のみになっているそうなので、東映パラスの方は建て替え時に閉館となったのかもしれない。

 全景写真はブログ掲載用に解像度を低くしたが、元写真では軒先の看板の文字も読める。

 静岡東映劇場では92年春の東映アニメフェアをしていて、ドラゴンボールZ、ドラゴンクエスト、まじかる☆タルるートくんの3本立てだったようだ。また静岡東映パラスの方は、ダイハード2とターミネーター2が掛かっていたようだ。

 奇妙なのは「ターミネーター」ではなく、「ターミネイター」と書かれていること。上映当時はターミネイター表記だったのだろうか? ネットで検索しても「当初はターミネイターだった」などという記述はない。看板を描くときに間違った、そんなことがあったのか、今となっては謎である。

静岡市の映画館 - 消えた映画館の記憶

静岡の建築
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東京宝塚劇場

2019-12-06 | 千代田区 
東京宝塚劇場
所在地:千代田区有楽町 1-1
建設年:1933(昭和8)
構造・階数:SRC・5F
解体年:1998(平成10)
Photo 1998.1.5

 コーナー部が丸いストリームラインを持ち、表現派的でモダンな姿。内部には宝塚劇場、日比谷スカラ座があった。第二次大戦後占領軍に接収され、アーニーパイル劇場と呼ばれていた時期もあった建物。老朽化していたため、舞台設備の一新を図り新劇場に建て替えられた。


 併設されていた映画館・日比谷スカラ座 Photo 1996.10.10

 劇場としての詳細はWikiなどで。

Wikipedia > 東京宝塚劇場TOHOシネマズスカラ座

ぼくの近代建築コレクション東京宝塚劇場

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #映画館・ホール  #近代建築 

2014.9.13
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一橋大学一橋講堂

2019-11-02 | 千代田区 
一橋大学一橋講堂
所在地:千代田区一ツ橋 2-1
構造・階数:RC・2
建設年:1932(昭和7)
解体年:1995〜96(平成7〜8)
Photo 1987.11.1

 撮影時、既に廃墟化していた。いつまで使われていたのか判らないが、前庭には草が繁茂し、ファサードは蔦で覆い尽くされ、まさにお化け屋敷状態。都心にこんな状況の建物があったこと自体がある意味おどろき。

 この建物を見たのは写真の時だけ。いつ頃まで残っていたのか分からないが、ネットなどで検索したところでは1995年頃までは存在していたようだ。跡地には学術総合センターが1999(平成12)年12月に竣工しているので、1995〜96年頃に解体されたものと思われる。

 また、現在はこの学術総合センターの建物内に一橋講堂はある。

 なお、当時の地図などを見ると「一ツ橋講堂」と記されていたりするのだが、下記「ぼくの近代建築コレクション」掲載の門の画像で「一橋大学一橋講堂」と読めるので、ここではこの表記を用いる。

ぼくの近代建築コレクション一橋講堂
建築士から見たマンションについての本音を公開します旧一ツ橋講堂

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2022.8.25 一部修正
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