旧国立公衆衛生院(旧国立保健医療科学院白金庁舎)
所在地:港区白金台4-6-1
建設年:1938(昭和13)
構造・階数:SRC・5F(一部8F)
備考 :2004年 利用停止、閉鎖されて空き家となる。
Photo 1988.5.28
隣接して建つ東京大学医科学研究所と共に、内田祥三の設計による堂々とした研究機関建物。同一設計者による、東京大学本郷キャンパスの建物ともデザインがかなり似ている。シンメトリーで、巨大な翼部を持つことで、国の機関としての重厚さをよく示していた。
Photo 1997.7.19
少し近づいてみると、中央の塔屋がそびえ立つように見え、翼部に囲まれるようになり威圧感がある。東大の本郷、駒場の建物に似たデザインではあるが、一つの建物としてはこちらの方が規模が大きく、高さも高いのではないだろうか。
2010年末に、隣接の東京大学医科学研究所の方に尋ねたところ、既に港区の所有管理下に置かれているとのこと。建物を残しながら別の用途に用いることが検討されているそうだ。港区の関係者も時々視察等で訪れているというが、改装等にお金がかかることもあり、現時点では利用再開の予定日は不明らしい。ともあれ、建物が存続することになったようなのでひとまず安堵した。整備が済んで再オープンしたら、近くまで行ってよく見てみようと思う。
Wikipedia > 国立公衆衛生院
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清久寺門前長屋
所在地:港区三田4-11-8
構造・階数:木2
備考 :写真の通り沿いの一棟は現存
Photo 1994.6.17
三田4丁目寺町の中にある清久寺の門前(寺院西側)にある長屋。寺院裏に隣接した場所に2階建て長屋が3棟建っていて、裏側は寺の墓地である。十数年前までは奥の方の長屋にも居住者がいたが、徐々に空き家が増えて建物も解体され、現在は通り沿いの1棟のみになっている。
Photo 1994.11.20
墓地に近い奥の一棟は早くから無人化していて、窓も破れ、屋根も壊れた廃屋となっていた。数年訪れないうちにこの建物は解体され、墓地が拡張されていた。
Photo 1994.11.20 (手前の一棟は現存)
もともと同寺の境内地だった場所で、近代以降?、門前長屋として賃貸されたようだ。現在の所有関係は不明だが、一棟の跡地が墓地になったところをみると、今でも長屋は賃貸なのかもしれない。近年は都心の墓地が人気で、長屋やアパート経営をするより、墓地にした方が確実に儲かるらしい。従ってこのような門前長屋は建て替えられることなく、墓地に姿を変えている。
Tokyo Lost Architecture
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8/7に記した虎ノ門1-25の1ブロック南側。
こちらの一角は再開発事業の予定地ではない。道を挟んだ北側では空き地が増えているが、こちらにはまだ路地空間が残り、多くの人が住んでいる。
遠くに見えるのは、虎ノ門3丁目に建設中の、パークコート虎ノ門愛宕タワーという30階建てマンション(高さ98.4m・2008.4完成予定)。2004年に江戸川区に移転した長谷院という寺院の跡地に建設されているようだ。お寺も都心の土地をマンションに売り払ってしまうようになったのかなぁ。愛宕の青松寺は境内が広いので、愛宕グリーンヒルズとして再開発してお寺も残ったが、こちらはそうはならなかったようだ。
港区愛宕1-2
Photo 2007.8.6
右後方のビルは真福寺再開発による愛宕東洋ビル。こちらはオフィスビルと一体化して再開発することで都心に残った。低層部にあるお寺はこちらからは見えない。左後方は第9森ビル。このあたりはやはり森ビルが多い。
虎ノ門、愛宕界隈は交通至便で霞が関や丸の内にも近いので、オフィスやマンションが増えているが、その隙間にひっそりと木造住宅地と路地空間が残っている。
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外へ出ると、本館建物の前に小さな3階建ての別館がある。Photo 2007.2.11
実はこれが旧陸軍歩兵第三連隊の庁舎の一部。昭和11年の2.26事件の際、ここから反乱将校らが出撃したことでも知られる建物。
国立新美術館と政策研究大学院大学の敷地は、江戸期には伊予宇和島藩の上屋敷だったところだそうだ。明治になり藩邸が無くなった後、大正、昭和戦前期には、旧日本軍の軍用地となり、昭和3年(1928)に、旧陸軍歩兵第三連隊の庁舎が建てられた。
戦後の一時期は、敷地全体が米軍に接収され、周辺も含めてハーディーバラックスと呼ばれる下士官兵宿舎となる。昭和34年(1959)の接収解除の後は、東大の所有となり、東京大学生産技術研究所となった。
昔の様子 → 東大生産技術研究所(旧歩兵第三連隊兵舎)
そして数年前にこの東大生産研が移転し、跡地に国立新美術館と政策研究大学院大学が造られた。
その際、戦前からあった建物は、一部が保存され、別館として再利用されることになった。
もともとは、環状の平面形をしたかなり大きな建物だったが、現在残るのは、西南角近くの部分のみ。この部分だけは、新美術館と大学院大学の、どちらともあまり関係がない場所だったから辛うじて残されたのかもしれない。残された部分でも、北側は更に削られてガラス張りになっており、新美術館側から見ると、旧建物の雰囲気は一掃されている。往時を思い起こさせるのは、南側の外壁で小さな入口が一つあるところ。まあ記憶を継承したっていうあたりで、これをもって、残ったとはとても言えない。
もとの建物をそのまま美術館にして、中庭をアトリウムか何かにしてるのだったら、残したと言えるけど、一切れだけ残ったカステラというか、ホントに欠片が残った感じで、これでもって昔を想像しろというのは無理な話だ。
だが、たとえ外観全部を残そうとしても、多くの人が訪れる美術館の空間にするには、相当の改修が必要で、どのみち残せる部分はほとんどなかったかもしれない。
パリのルーブル美術館とか、オルセー美術館とか、昔の建物を転用した美術館が欧米にはある。日本でも上野の国立国際こども図書館は、国会図書館の上野分館を安藤忠雄氏が改築した例。やろうとしてやれないことはないが、どちらかというと地味な歩兵第三連隊の建物は、新美術館には向いてなかったかもしれないなとは思う。
設計の過程で旧建物を残すことにしたことに、黒川氏が激怒したという話も、どこかで見た。建築家というものは、やはり真っ新なキャンバスに絵筆をふるいたい人たちなんだろうな。
ところで、国立新美術館の目の前に、やけに細くて背が高いマンションが建っていてかなり気になった。あれは何?、なぜあそこに建ってるのかしら?
(参考:「図説・占領下の東京」佐藤洋一、河出書房新社、2006)
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二本榎通りから泉岳寺門前への抜け道をたどる。Photo 2006.3.5
堀江歯科
所在地:港区高輪2-2
二本榎通りに面した堀江歯科は大正末期に建てられたかわいらしい洋館。青い瓦屋根は軒先だけちょっと傾斜が変わるおもしろい形。となりの保安寺の参道階段側には小さな出窓がある。この階段とセットになって小さな洋館はこの場所を印象的なものにしている。さて、その保安寺への階段を下りる。
保安寺参道の階段
保安寺の参道は下り階段だ。神社仏閣はどちらかというと、丘の上か、高台を背にして建つことが多く、参道も上り坂が多いのだが、高輪の二本榎通りに面した寺院のいくつかは参道が下り坂になっている。参道の両側になぜか棕櫚の木が立ち、大谷石の石垣と木造住宅がそびえる。
階段を下りきったところを左に曲がり、小さな階段を上ると、泉岳寺への抜け道に出る。この抜け道は、高輪の街歩きには欠かせないルート。知る人ぞ知る道なのだが、意外にこれ有名で、学生やOLさんまで実に様々な人が使っている。
正源寺わきの小道
坂を下り、正源寺の門前を今度は右へ。お寺の塀沿いの小道はくねくねと曲がりながら下っていく。
正源寺西側を高輪学園へ向かう
つづら折りに続く抜け道
角を曲がると、小さな住宅地。たぶんお寺が境内を貸地にしたために生じた住宅群だろう。木造住宅が建ち並ぶ中を小道は続く。数年前までは敷石が敷き詰められておらず、飛び石状態だったが、改良?されて、雨でも歩きやすくなった。部分的に側溝もできて、それなりにちゃんとした道になってきている。
途中にある木造住宅もなかなか丁寧なつくり。引き戸の玄関上部には、模様の入った磨りガラスが嵌っている。昔はこのようなものはそれほど高くなかったのかもしれない。最近は模様入りのガラスを使うことはほとんど無いが、昔の住宅にはいろんな柄のガラスがあって、これを見るのも楽しい。
高輪学園裏、通路をくぐる
高輪学園のグラウンドを囲む塀沿いに回り込み、学校の通用路の下をくぐる。学校のフェンスは以前はコンクリートの万年塀だったが、数年前にアルミ製の黒い柵に替えられた。右側のコンクリート擁壁も昔は石垣だった。きれいに改築されて、それなりに安全な道にはなったのだが、一昔前までの怪しさは丁寧に除外され、ちょっとつまらなくなってしまったのは残念。
大谷石でできた泉岳寺の塀
だが最後の泉岳寺の塀は昔風で、汚れて風化しつつある大谷石には、エイジング=経年変化を見ることができる。
つづら折りに続く長い抜け道は、都心とは思えない静けさ。歩いて楽しい街は、こんなところにもある。
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